命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
拝啓、橋下徹大阪市長様
 拝啓、橋下徹大阪市長様、このブログをお読みいただいておりますでしょうか?(絶対、読んどらんやろーなー)。大変、ご無沙汰しております。2004年の7月に「たかじんのそこまで言って委員会」で、ご一緒させていただいたキリスト教の牧師でございます。あの時は、中絶問題に対して当時弁護士であった市長からは法律家らしからぬコメントをいただき、本質とは別の面で番組を盛り上げて下さりありがとうございました。

 この度は、大阪市職員の刺青を調査され、110名の職員が刺青をしているとの結果を得られ、市民の目に触れぬよう配置転換を考えおられるとのこと。かつて茶髪の弁護士であられた市長が今や、職員の刺青についてご指導しておられる姿には、隔世の感がございます。確かに民間や一般社会に比して割合が多く感じますし、社会通念上問題視されるべきかもしれません。市長が、公務員としての意識や姿勢の改革を求めておられるも理解できることでございます。

 しかし、「ちゃんと仕事やってくれたら、そんなんかまへんわー」とおっしゃる市民も多く、刺青のデザインによっても市民の受ける印象は異なるように思います。大阪市民の視点からも、配置転換の必要があるかどうかは、意見の分かれるところかと存じます。名古屋の河村市長も、「昔に刺青入れとっても、その後、回心して真面目に勤めてくれたら、ワシはええと思うがや」と「刺青=暴力団」との時代錯誤が混入している心配はあるとは言え、「人生やり直し重視」の趣旨のコメントを出しておられます。全国的には、もっと別の面での組織改革や職員の意識変革の必要性を訴える声、市民の支持を得るためのパフォーマンスとの声も起こっております。

 それはさておき、本件に際し、市長は、「刺青で個性を発揮したければ民間に転職すべき」と発言されたようですが、民間でも一般市民の目に触れるところでは刺青が問題となる職場が多いかと存じます。日本社会においては、刺青を入れた方々は、大阪市役所も民間企業も、銭湯、プールなども、受け入れは、困難なのが現状かと思います。

 そこで、市長にお願いなのですが、刺青を入れた職員には、是非、地域のキリスト教会に集うようお勧めいただきたいのです。大阪には、刺青を入れておられる牧師も何名かおられるようです。刺青牧師が代表役員を務め、一部、刺青信徒が集っているのですから、、刺青公務員が来会され、入信、洗礼の後、教会員となられることは、何ら問題はございません。とりわけそうした教会では、市長が問題視される職員の方々も活かされるかと存じます。

 そうでなくても、多くの教会は、看板やホームページ上で「どなたでもいらして下さい」とすべての方を歓迎しておりますから、刺青をしておられる大阪市職員を近隣キリスト教会にお送りいただいても、きっと受け入れられるはず・・・・でございます。

 お送りいただきました職員は、教会にて信仰教育をさせていただき、立派なキリスト者市民として、大阪市役所に教会より派遣させていただきます。このことは大阪市民にとって多大な益をもたらすことと確信しております。ただ、市長様にとっての益となるかどうかは、神のみぞ知るとなることでしょう。地域を愛する日本のキリスト教会の一員として、拙い内容ではありますが、ご提案申し上げました。ご多忙のこととは存じますが、御一考いただければ幸いでございます。


 ※教会の「どなたでもいらしてください」には、「ホンマかいな?」「建前とちゃうんか?」との心のツッコミは教会内外にあるようです。理想論はそうでも、現実にはそれを可能とする成熟した主にある交わりと受容力を持っているかが問われます。取税人、遊女と食事をされた「キリストの体」、それが教会のはずですから、「刺青公務員」は初歩的なチャレンジだと思うのですが、どうなんでしょうね?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 13:44 | - | - | - | ログピに投稿する |
マルタ依存体質からマリヤ体質へ
  昨日の記事の続編を少しばかり。マルタは牧師や教会員にとっては、よく言えば、頼もしいのですが、悪く言えば都合がよく、便利であります。教会の奉仕は率先してして下さり、行事や活動は次々と予定通りに進みます。

 たとえば、教会の中心がマルタ多数派で、牧師もマルタモード歓迎なら、きっと活発な教会になることでしょう。人も集まり、礼拝人数も増えるかも。でも、教会が建て上げられているかどうかは疑問な場合も。活動主義の教会が陥り易い落とし穴でもあります。活発な活動は、仮想充実感を与えますが、それは実際の結実とは別のことなのです。「何をもって結実とするか?」「何をもって教会が建てあがっていると判断するか?」の基準を明確にして、立ち止まって評価をする必要は常にあるでしょう。マルタモードの一つの問題は、立ち止まることも、自己検証もせず、活動まっしぐらになってしまう危険性。

 マルタ系教会員にマルタモードを継続させると、その多くは、どこかの時点で目的喪失し、自分の信仰や他者の問題でつまづき、三年で離脱。「期間限定マルタ」で終わるようです。そうです。頼もしいから、都合よいからで、マルタモードを継続させると多くが三年の寿命の「期間限定マルタ」となるのでしょう。

 そうなれば、期間限定マルタを、大量消費材のごとく何人もつなぎなら当面の活動を継続するという状態に陥りかねません。「教会の活動は存続するのだけれど、それってどうよ?」との厳しい声はあちらこちらでお聞きします。「とりあえずのマルタ」に、一旦、教会が依存してしまうと、原発地域や沖縄の基地問題のように、そこからの脱却が困難となるのでは?マルタの持つ即効性、依存性の誘惑に教会がどのような態度を取るか?が教会のあり方を決める一要素なのでは?

 現場無視の理想主義的な正論と言われるのは覚悟の上で記しましょう。長い目で見れば、あるいは本来の教会形成を目指すなら、やはり信徒にマルタをさせず、マリヤに育てていくことでありましょう。いわば、マリヤモードの信仰生活の教育であります。

 神様が最優先に求めておられるのは、熱心な教会奉仕者ではなく、真実の礼拝者、器用な実務係より忠実な祈り手、世の知恵に富んだ実用的な人材より、聖書の基準に立って思索判断ができる霊的成熟者でありましょう。本当の意味で教会を建て上げるのはそうしたマリヤモードの信徒ではないでしょうか?

  ここでは、物事をわかりやすくするため、単純化して、対立的に「マルタモード」「マリヤモード」としておりますが、マリヤモードというのは、みことばに聞き入って奉仕をしないあり方ではありません。むしろ、みことばに聞き入った上で積極的に主の奉仕に参与するキリストの者のあり方です。言い方を替えれば、「みことばに聞き入って、心を騒がすことなく奉仕できるマルタ」のあり方とも言えるでしょう。

 一番深刻な問題は、牧師自身がマルタモードに陥ってしまうこと。これは困難な課題です。祈りとみことばに専念するどころか、それを後回しにしてまで活動を優先せざるを得ない状況は深刻な問題でありましょう。確かにマルタかマリヤかは選択の問題ですが、マリヤの選択をすることの困難さは、牧師も同様のこと。

 こうした課題の克服のため、あるいはリアルに高齢化や人材不足で奉仕の担い手がいなくなり、教会行事や奉仕の「事業仕分け」を断行した教会のこともお聞きします。それによって、礼拝の充実、みことばと祈りへの専心が実現したのなら、マルタ依存体質からマリヤ体質への「体質改善成功」と言えるでしょう。

 一方で「事業仕分け」を提案しただけで、各方面から抵抗勢力の攻撃に合い、頓挫したというケースもお聞きします。マルタ依存体質克服の困難さを思います。

 マルタモードの持つ即効性の誘惑、その依存性、一旦依存体質となれば、その克服の困難さ、クリスチャン個人の内にも、教会全体の中にも、根強くはびこるこの課題。まずは自覚したいもの、個人レベルで克服したいもの、さらには教会で共有の課題としたいものではないでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 13:41 | - | - | - | ログピに投稿する |
言葉だけの「寄り添う」、「共に生きる」よりリアルな「精いっぱい出会うこと」
 クリスチャン新聞5月20日号のオピニオン松田牧人師が執筆。タイトルは「寄り沿うことはできなくても」。被災地現場からの真実な声であり、教会が陥りがちな課題を指摘しつつ、それを超える現実的で聖書的なあり方を示しています。私の問題意識と共感する内容なのですが、ありそうでなかった論点であることが素晴らしいと思いました。

 私が持っていた問題意識。それは「寄りそう」「共に生きる」という言葉が世間だけでなく、キリスト教界でも、軽くなっていること。オピニオンはそのことを冒頭で指摘。師自身がその言葉の重みを理解せず安易に口にしていたことを記しています。

 「寄り沿う」「共に生きる」とは何と美しい言葉でしょう。しかし、その言葉の実行は生易しいものではありません。事実として、寄り添い共に生きることのない「思い込み寄り添い」や「なんちゃって共生」が、実質90%以上を締めているのではないかと私は思います。

 それは、残念ながらキリスト教界も同様のようです。オピニオンは、「言いにくいことと」断りながらも、「被災地の教会に寄り添う」と言いながら、被災地教会を利用しているとしか見えない支援活動に傷つくこともあったことを記しています。

 被災者支援のグループを立ち上げ活動している松田牧師自身も他者は「寄り添う働き」と評価してくださっても、自己評価はそうではありません。私自身も「小さないのちに寄り添う」とか「予期せぬ妊娠に悩む女性の寄り添う」などの言葉をいただいたことがありますが、「そんな実質はない」というのが、私の自己評価。教会に支えられ、教会と共にできる限りの支援をさせていただいたのであって、決して、「寄り添ったり、共に生きたり」などしてはきませんでした。

 どうして、私たちは、、こうも、事実と異なる言葉で、主にある働きを、事実以上に美化してしまうのでしょう?そこには自己満足や自己宣伝さえ混入していることもあるのでは?「寄り添う」「共に生きる」が言葉の重みや責任を失い、「思い込み寄り添い」や「なんちゃって共生」に変質しがちな中、松田師は、実態に沿った別の言葉を示します。

 それは「精いっぱい出会う」との表現。

 私が思うに、「寄り添う」、「共に生きる」は、多くの場合、自分の生活を捨てたり、ライフスタイルを大きく変えて継続的な関係のなかでこそ、可能なこと。しかし、「精いっぱい出会う」は、出会いの場と出合った期間のなかで、できること。私自身も、教会の手足となり、小さないのちや苦悩する女性たちと「精いっぱい出会うこと」なら、少しはさせていただけたかな?と自己評価しています。

 オピニオンは、イエス様の実例や被災支援の具体例を提示しながら、そのことの聖書的根拠と現実性を私たちに教えてくれています。

 「寄り添う」「共に生きる」・・・。その言葉の重みも責任も失った「思い込み寄り添い」や「なんちゃって共生」は神様にも隣人にも本当の意味において喜んではいただけないでしょう。

 結論部分では、その「精いっぱいの出会い」について聖書的事例と被災地での具体的実践を提示し、最後に希望を与えます。「キリストが弱者、疎外者に寄り添い、共に生きようとされたのに、教会やクリスチャンがその程度でいいのか?」との自問や反論も起こるでしょう。そんな方こそ、このオピニオンを一読されることをお勧めします。

 最後の二文には、被災者でありながら、被災者を支援する経験から、導き出された正直で、聖書的な結論が記されています。それは聖書的な希望に満ちたもの。

 誇張表現であり、自己満足や自己宣伝の匂いさえただよう多くの「寄り添う」や「共に生きる」より、「精いっぱい出会うこと」!3・11以来、個人的に抱いてきた違和感や胡散臭さに、聖書的解決を与えられたようで、感謝するばかりの「オピニオン」であります。是非、ご一読を。
 
 
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:29 | - | - | - | ログピに投稿する |
マリヤは一時の恥、マルタは一生の恥?
 ルカの福音書10章の38節以下には、マルタとマリヤのお話しが記されています。結局、このお話しを通じて神様は聖書読者に何を伝えておられるのでしょう。確か、作家の亀井勝一郎氏は「マルタは世話女房タイプで、マリヤは恋女房タイプ」と評したと記憶します。それは見事かつ適切な性格分析でしょうが、神様は「あなたはマルタタイプ?それともマリヤタイプ?」と性格分析を為さりたいわけではありません。

 イエス様ははっきりと「どうしても必要な事は一つ、マリヤはよい方を選んだ、取り上げてはいけない」とおっしゃっています。これが結論で間違いないでしょう。つまり、この話の目的は、性格の類型化ではなく、どちらを選ぶかという選択の大切さを示すことでしょう。静まり主の語り掛けを聞くという最重要行為として、主のための活動に優先して選択するようにと命じているのです。

 そこで思いついたのが、今回のタイトル。

マリヤは一時の恥、マルタは一生の恥

 私たちがマリヤのようだと、教会生活で、マリヤのように「奉仕しない」とか「協調性がない」とか、誰かに叱られたり、悪く言われるかもしれません。でも、それは一時の恥。地上の生涯での期間限定の恥。一方、地上の生涯をマルタモードで過ごしたらどうでしょう?イエス様に再びお会いした時、休みなく主のために働いてきたと自他共に認めるクリスチャンは、再臨の主の前に立っとき、こんな会話になるかも・・・・

再臨のイエス 「あなた一生マルタでしたね」
一クリスチャン「はい、あなたのために休みもないほどに働きました」
再臨のイエス 「その気持ちは、うれしいんだけどねー」
一クリスチャン「厚かましいとは思いますが、忠実な僕だと、褒めていただけないんですか?」
再臨のイエス 「あのねー、あなた、聖書のマルタとマリヤの話、読んだことあるの?」
一クリスチャン「はい、何十回と読んで、メッセージも何度も聞きました」
再臨のイエス 「じゃあ、何で、ずっとマルタしてたの?」
一クリスチャン「・・・・・」
再臨のイエス 「しかも、御言葉を聞いて恵まれても、奉仕しない兄弟姉妹を心の中でずっとさばいていたでしょう」
一クリスチャン「・・・・・全部、お見通しだったのですね」
再臨のイエス 「マリヤの選択をして欲しいと、はっきり聖書で示したのに、私は悲しいです。」
一クリスチャン「少しは、分かっていたのですが・・・」
再臨のイエス 「やっぱり、実行してくれなくちゃーねー」
一クリスチャン「申し訳ありませんでした」

 この妄想の通りの事実が起こるとは思いませんが、少なくとも真理のある一面を表現しているとしたら、やはり、「マリヤは一時の恥、マルタは一生の恥」でありましょう。

 人に悪く思われたくなくて、マリヤに徹しきれず、マルタ化しやすい私たち。
 マルタのように活動に追われ、焦点が定まらず、他者をさばきかねない私たち。
 マリヤであることを主が望んでいると知りなら、時にマリヤになろうとせず、マルタを選ぶ私たち。

 常にみことばを心に主の御心を確認し、正しい選択をしなければと思います。たとえ、一時の恥をかいても、主の御心であるマリヤモードで地上生涯を過ごしたいもの。間違っても、マルタモードで生涯を終えて、主の前で一生の恥をかかないお互いでありたいと願います。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 15:05 | - | - | - | ログピに投稿する |
「大きな事を言う小さな男」より「小さな事が実行できる大きな男」

 猫ひろしさんのことではありません。猫さんは大きな事をする小さな男でしょう。一般論として、大いなる夢や希望を語るのですが、実は、自分を大きく見せようとする動機の小さな男がおります。ありのままの自分、等身大の自分で勝負できず、語る内容で自分を肥大化させ、相手に、自分をひるませたいのでしょうか?それとも、自分の劣等感の裏返しとして、相手に劣等感を与えようとしているのでしょうか?

 いずれにせよ、大きな事を言う男性が大きな男とは限りません。小さな男だからこそ、大きな事を言うケースも珍しくありません。小さな男の場合は、大抵その大きなことに達する為の小さなステップをスルーしているもの。夢や野望を語りつつも地道な努力や訓練あるいは準備をないがしろにしていることが多いように思います。

 一方、為すべき小さな事日常的な義務や責任を忠実に果たす男性がおります。大きなことはしませんし、言いません。しかし、地道に小さなことを忠実に果たし続けます。人から評価も注目もされませんが、為すべき小事に忠実であること。これができる人物が、本当の意味での大きな男のように思うのです。「評価や注目もされないような大事」を成し遂げるからです。

 というわけで、クリスチャン男性たるもの、後者でありたいと願います。聖書の「小さい事に忠実な人は大きい事にも忠実」とは、現実的な真理であります。委託された事柄の大小は、本質ではなく、委託された人物の忠実さの有無が決定的なのであります。

 婚活系女子の皆さんは既に経験的にご存知でしょう。大きな夢や野望を語るだけの男性は、やめときましょう。夢を語る男性に恋してしまった場合は交際前にしっかりと観察、チェックが必要。結婚は現実生活です。大事を語るより小事への忠実が優先です。祝福された結婚生活を築き上げるのは、大きな夢やビジョンより、日々の小さな愛の努力の積み上げです。

 「小さなことからコツコツと」の名言は偉大な漫才師によるもの。小事への忠実さの積み上げこそが、真の偉大さに至るのでは?

 男性読者の皆様は余計なお世話でしょうが、ご自身が「大きな事を言う小さな男」か「小さな事が実行できる大きな男」か自己検証されてみてはどうでしょう。

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 15:18 | - | - | - | ログピに投稿する |
育てよう、健全信徒(18)〜山本リンダクリスチャン
 山本リンダ・クリスチャンとは、山本リンダさんのヒット曲を体現したクリスチャン。「高飛車肉食系女子」を描いたと思われる斬新な歌詞とそれに合致したへそ出しファッションと楽曲は社会現象となり、ちびまる子ちゃんのような小学生までが歌って踊った程でありました。

 山本リンダクリスチャンの第一の特徴は、「どうにもとまらない」の歌詞どおり。その基本姿勢は、「いつでも楽しい夢を見て生きているのが好きなのさ」と歌詞の主人公の如し。それは、主からの夢でなく、自己実現の夢。神様が喜ぶ夢でなく、自分を楽しませるための夢

 その夢を見ながら、「蝶になり、花になり、もうどうにもとまらない」状態です。周囲は何とか止めて、自分と神の関係を見つめて欲しいと願っているですが、当人の衝動的性格もあって止められないのです。御霊の実である自制の実も結実しておらず、御言葉に従うという基本姿勢も欠如しており、聖書の言葉による静止もが効きません。それどころから、衝動的な自己実現の夢のため、御心を従わせ、都合のよい聖書の言葉を引用する本末転倒。

 この状態が継続して、症状が悪化すると、次は、ヒット曲「狙い撃ち」の歌詞の如しであります。「この世はわたしのためにある」という恐るべき自己中心。この世どころか、神様さえも自分ためにあると思っているのではないかと心配になるほどのトホホな信仰姿勢

 「磨きかけたこの体そうなる値打ちがあるはずよ」の歌詞のように「自分の賜物は素晴らしく用いられ、、自分の夢は実現し、自分の生涯は祝福される」との仮想優越感に浸ってしまいます。自分の罪や神と人とに対しての過ちなど「自分に値打ちがない」と思える事実は、あっさりスルーして、
「自分に値打ちがある」と思える事実ばかりに目を向けます。もはや、本当の自分から目を逸らし、自らを偽るかなりの重症。

 こうなると、周囲のクリスチャンも、三つ目のヒット曲のごとく、「きりきり舞い」であります。

 「どうにもとまらない」衝動と自己実現の夢、「狙い撃ち」の自己中心と仮想優越感、「きりきり舞」となる周囲のクリスチャン達・・・・。

 願わくは、「リンダ困っちゃう」のように当人が困っていただき、行き詰まりの中で、自己変革の必要性を悟り、神様からのお取り扱いを願っていただきたいもの。周囲ができる援助は、それを祈り続け、手伝っていくことくらいでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 17:19 | - | - | - | ログピに投稿する |
ビックリ!この記事が歴代最多「いいね!」記録を更新中
 ここ数日で、この記事に「いいね!」が集中。遂に歴代記録を更新してしまいました。30に届こうかという勢いに、びっくり状態。多分、某ブログで紹介されたのが、発火点となり、過分なご評価をいただいたのでしょう。私としては予想外の「いいね」の多さに驚くばかり。

 婚活ネタで、「萌え」を考察したから?「教会内萌え」との視点の新鮮さ?教会内萌えへの一般的萌えの混入の指摘?「教会内萌え注意報」の常時発令のリアリティー?どうも、若年クリスチャン男性からの強いご支持をいただいたように思えてなりません。いいや、もしかすると教会内萌えで痛い目にあった経験のあるクリスチャン男性からの共感によるものかも。一方、女性がこの記事を理解し、指示して下るかどうかも読めない私です。

 というわけで、未読の方はぜひ、ご一読を。ご賛同いただける方は、さらなる「いいね」を。また、私同様、こうした記事が強く支持される理由が分からぬ方は、当世クリスチャン男性の思考や恋愛傾向を学ぶ材料になれば感謝なことです。

婚活系クリスチャン男子への「教会内萌え注意報」
http://blog.chiisana.org/?eid=1408342
| ヤンキー牧師 | 婚活と伴侶選択のために | 11:05 | - | - | - | ログピに投稿する |
育てよう、健全信徒(17)〜ダチョウ倶楽部クリスチャン
 今や、バラエティー番組には欠かせぬ存在となっているのがダチョウ倶楽部の三人組。一方、教会に生息が確認されているのが、「ダチョウ倶楽部クリスチャン」であります。それは、ダチョウ倶楽部のお約束のギャクを教会内で体現するクリスチャンのこと。

 まずは、奉仕をお願いすると、「どうぞ、どうぞ」とばかりに、右手を差し出しお辞儀をしてのご辞退。奉仕や労苦は自分以外の方にお譲りしますという基本姿勢。

 次には、「〇〇しましょう」と勧めたり、アピールすれば「今、やろうと思ったのに〜」と、ダチョウ倶楽部のように、為すべき事をしない責任を他者に転化。チャレンジ、お勧めに応答するのでなく、即座にそれをした人物に責任転嫁しての拒否的態度。「明日からしようと思っていた」「来年から始めるつもりだった」「いつか、やらなくてはと考えていた」と言いながら、「いつまでもしないという現実」だけが続くわけです。

 終始、そうした自己中な信仰姿勢でいれば、教会生活に限界が訪れるもの。牧師に向かい「先生に一生ついていきます!」と宣言したのに、「先生には失望しました」と決別宣言。当初は「この教会でいのちをかけて仕えます」と誓ったはずが、「この教会では自分が活かされない」と離脱宣言。この変わり身の速さはダチョウ倶楽部のギャグ「くるりんぱ!」の如しであります。

 「どうぞどうぞ」で神と教会に仕えようとせず、「今、やろうと思ったのに」で為すべきことを先送りにし続け、自ら教会生活に限界を招いおきながら、挙句の果てには「くるりんぱ!」で、離脱、教会転会であります。

 こうした自己中、独りよがり、自己完結型の「ダチョウ倶楽部クリスチャン」は、何とかご聖霊の働きによって、みことばを通じて、神様のあふれる恵みが分かって、上島竜平さんのごとく、その恵みに見事なリアクションをしていただきたいと願うばかりです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 19:56 | - | - | - | ログピに投稿する |
育てよう健全信徒(16)〜ギリシャ風クリスチャン
 「ギリシャ風クリスチャン」と言いましても、ギリシャ彫刻のような均整の取れた肉体とお顔をお持ちの美男美女クリスチャンのことではありません。また、ギリシャ哲学者のごとく、思索的なクリスチャンのことでもありません。では、「ギリシャ風クリスチャン」とは、どのようなクリスチャンでしょうか?それは今日のギリシャ国内の経済状況のようなクリスチャンであります。

 膨大な借金を隠してのEU加盟。それが明らかになってもEU諸国の寛容さに支えられ、莫大な援助をいただきながらの再生の途上。にもかかわらず国民の皆様は、財政緊縮策に反対しておられる様子。実際の生活の厳しさが予想され、当事者である国民の心情は分からんでもありません。しかし、EU諸国やグローバルな経済の立場からは、こうしたギリシャの状況は、「おい、おい」となるでしょう。

 同じようにギリシャ風クリスチャンは、膨大な借金ならぬ膨大な罪を隠したままで、教会の一員となります。少なくとも指導者にだけは、お知らせすべき重大な罪を知らせず、悔い改めもなく、洗礼を受けての教会生活継続。やがて、その膨大な罪の借金が明らかになります。しかし、教会は、愛と赦しの共同体。その罪の事実を受け止めて、その方を決して排除せず回復に向かわせようと、悔改めを願い労します。

 しかし、財政緊縮策は御免とばかりに、悔改めや謝罪、悔改めに専念するための奉仕や交わりの制限も、受け入れたくないとのわがままぶり。それどころか、愛の故に悔い改めを願う周囲に「教会は愛がない」「あるがままで受け入れるのが愛」との逆切れ悔改めなき赦しの脅迫であります。。残念な罪の事実に心痛めながら、深い愛をもって受け止め、回復のために祈り、労している周囲のクリスチャン達にとっては「おい、おい」であります。

 ギリシャが今後EU脱退するかどうかは不明ですが、こうしたギリシャ風クリスチャンが、その愛と義に満ちた聖書的対処をする教会を脱退してしまうのは、残念ながら、よくあること。罪の無自覚やどうしようもない自己中心、それらに由来する教会の混乱、よく考えてみれば、これは古代ギリシャのコリント教会以来のギリシャ風。古代ギリシャ人はコスモポリタンだったようですから、21世紀の日本にギリシャ風クリスチャンがいても不思議はありません。

 こうしたギリシャ風は時空を超えた普遍的な課題であることを覚えて、聖書が記す使徒たちの葛藤や対処を読み取りながら、そこから指針を得て、向き合って行きたいものです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 15:03 | - | - | - | ログピに投稿する |
塩谷瞬関連で絶賛のブログ記事紹介

 クリスチャン関連のブログ記事で、すでに「いいね」が30を超えています。これは本ブログではありえない数。私同様、多くのクリスチャンが絶賛しているのでしょう。塩谷瞬関連で、あくまで一般論として「演技性人格」と「未熟型自立女性」の二つの心理を解説してくださっています。

 ブログ「おふぃすふじかけ」より「塩谷瞬の涙、二股騒動の二つの心理
http://fujikake.jugem.jp/?day=20120502


 牧会事例キリスト教界にもこれに該当するケースがあるのでは?逸脱行為や著しい罪など「よほどのこと」を通じて、こうした病理が露呈されたと思われるケースが時にあるのでしょう。私自身が直接関与したケースはもちろん、見聞きしてきた困難な事例の中に該当するのでは?と思えるものも。大量の「いいね」は、教会外だけでなく、教会内で、同じように感じた読者の存在を暗示しているのでしょうか。

 それにしても記事中のこの記述には考えさせられました

演技性性格の人はよほどのことがない限り、その病理性は露呈しないし、むしろ高い評価を得て成功する。やっかいである。」
 牧会や交わりの中で実にやっかいな体験をされた読者もおられ、この記事で合点がいったというクリスチャン読者も少なくないのではと思うのです。

 また、教会では、自立的に見える女性が、「どうしてそんな男性と?」「まさか、彼女がそんなことを」というケースが時に起こります。この記事を拝読し、私はかなり深い納得がいきました。「未熟型自立女性だったと考えると彼女のことは理解ができる」と過去を振り返り思います。真面目ゆえに高学歴で社会進出をして自立的に見える一方で親からの心理的自立ができていないクリスチャン女性というパターンは決して少なくありません。そうした女性がどうかと思える男性にぞっこんになってしまいクリスチャンらしからぬ問題行動に走るケースがあるのも、これで理解ができました。

 この記事は教会内で起こるちょっと理解不可能な事例や、把握しきれないタイプの信仰者の心理を理解するための大きな指針になるのでしょう。私にとっては、過去の事例の納得につながりましたが、むしろ、未来の事例の深い理解やそれに基づく愛の対処のために役立てたいと願う極めて優れたブログ記事だと感激し、ご紹介申し上げました。
 

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 08:46 | - | - | - | ログピに投稿する |
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