小さないのちを守る会

命と性の日記〜日々是命、日々是性

小さないのちを守る会代表 水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象を論じます。
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ブログお休みのご報告
 突然ですが、しばらく静まって神様の前に出るように迫りをいただきました。真に勝手ながら、当分の間ブログの更新をお休みさせていただきます。これを期に今後のブログのあり方も根本的に再検討するつもりでおります。きっとご心配をおかけするでしょうが、しばらく間この者のためにもお祈り下さい。

 (休業中はコメント、トラックバックをいただいても公表しません。ご了承をお願いします)

                         水谷 潔
恒例の四つのお願い
 しまった!気がついたら7月でした。6月中にすべきこと忘れておりました。それは恒例の四つのお願いです。具体的には、ご入会、サイト本体通過、リンク、ご支援のご案内。4月より新年度です。どうか、これを機に、新たな形で本会の働きに加わっていただければ感謝です。

(1)ぜひともご入会を 
 恐縮ですが、入会のおすすめ。「小さないのちを守る会」の働きは、経済的には主に会員の方々のご支援によって支えられています。本ブログもキリスト教会と日本社会に広くいのちと性の大切さを発信するための「小さないのちを守る会」の働きの一環とご理解下さい。よろしければ、会員となって支えていただければと願います。年会費は一口3000円からです。(複数の口数での分割も歓迎)。
  こちらをクリックしてメールにてお申し込み下さい。


(2)サイト本体へアクセスを
 まずは、サイト通過のお願いです。何度もお願いして申し訳ないのですが、読者の皆さんはどうか、
サイト本体に一度アクセスして後、ブログにお出でいただけないでしょうか?そのほんの一手間の愛が、尊いいのちを守ることにつながるのです。実際に、サイト本体のアクセス増加に連れて、予期せぬ妊娠に悩む全く教会と無関係の方からも、連絡をいただくようになってきました。どうか、ご協力をお願いします。

(3)よろしければ、リンクを
次は、リンクのお願い。読者の皆様のサイトやブログから、守る会サイトにリンクをはって下さることで、検索の上位化につながり、一般の方との接点がいよいよ増えてゆきます。私たちは超教派団体なので、特定の教会や個人にリンクはできませんが、こちらに対してのリンクは大歓迎です。どうかこうした面でもご協力をお願いします。


(4)広くご支援をお願いします
 また、入会希望でなく、一ブログ読者としてのご支援も感謝です。本会は会員でない方々や教会からのご支援も多く頂いており、時々振込先の問い合わせをいただきますので、以下にご案内申し上げます。

振替口座 00150-1-131450 「小さないのちを守る会」 


 以上、ご協力お願いいたします。新規読者の皆様にはとりわけ、今後もご愛読をよろしくお願いします。
君は「みこころ症候群」治療対象者ではないか?
 先日の記事に対して、ペンギンさんから、充実のコメントをいただきました。丁寧な文体、無駄のない文章、鋭い視点や深い考察など、どうも、先輩牧師のようなのでビビルのですが、今回は記事に取り上げたく以下に転載。


 脱!「みこころの人」伝説 有り難う御座いました。人生の伴侶と出会う、あるういは決定することへの私たちの基本的な心構えをご教示戴いたと理解しております。
 さて、ふと思ったのですが、この(不適切な)「みこころの●●」は仕事とか他の人生の重大事でも当てはまる症状なのではないでしょうか?

「みこころ症候群」とでも言いましょうか・・・。

 自信を持って人生のすべての局面を「聖書的」に乗り越えてゆく指導が必要なのではないか?と思わされました。

 以上がいただいたコメントです。
「みこころの人」「みこころの仕事」「みこころの教会」・・・・。確かに今回長々と論じてきたような問題点は共通。確かにペンギンさんのご指摘の通り「みこころ症候群」は蔓延しており、多くのクリスチャンが自覚症状もないまま、その「みこころ」を追求していたり、祈って待っていたり。自覚症状がないので、治療の必要性も覚えないわけです。また、みこころを求めているように見えるので、むしろ信仰的と評価されてしまい、周囲のクリスチャンも指導者たちも、その人が治療対象であるとは考えないのでは?

 ペンギンさんの提唱される治療法は、「自信を持って人生のすべての局面を「聖書的」に乗り越えてゆく指導」。なるほど、その通りです。でも、それって難しそう。とは言え、私なりに以前の記事を引用して、治療方針にしたいと思います。以下は、昨年の3月23日掲載の「みこころは普遍先行・個別後続」というタイトルの記事です。

J+Passion Tokyoは、学ぶことばかりでした。永井先生と安藤主事からは教えられることも、ブログネタもてんこ盛り状態。本ブログ的には、性についても語ってくださった安藤主事の奉仕から教えられたことを、おわかち。

 神様の御心ということで、語られた内容の一部を私なりに要約すると以下のようになります。

 クリスチャンはよく「誰と結婚」「どこに就職」「何をするか」「いつするか」などについてばかり、御心を求めます。しかし、まず、求めるべき御心は「誰」「どこ」「なに」「いつ」ではなく、もっと普遍的な御心のはず。 

 聖書には誰と結婚するか、どんな職業に付くべきかについては具体的に書いてありません。しかし、どう生きるべきか何を大切にすべきか、祝福されるライフスタイルなどは、明確に書いてあります。ですから「どのように神様を喜ばせるべきか」「何を第一にするか」などの御心を知って、それに生きていればいいのです。その中で、自由に結婚相手や職業を選べば、それが御心になるのです。

 かなり脚色も入っていますが、こうした趣旨のお話が一部ありまして、私も深く納得。

 確かルターが「神を愛せよ、あとはあなたのしたいことをしなさい」と一見極論とも思える発言をしていたように記憶します。確かに神様を愛して、聖書が示す人生の目的、優先順位、ライフスタイルに生きているなら、その人は正しい動機で正しい結婚相手や職業を願い、結果的には御心にかなってそれを見つけるでしょう。

 前著「チョット聞けない・・・」のコントでも記しましたが、神様を除外したライフスタイルを送っているクリスチャンに具体的な御心など分かりません。ヤンキー牧師が「あの人が御心の結婚相手」だと主張するクリスチャン男性に「おまえの信仰生活を見ていたら、とても御心が分かるとは思えんぞ」とズバリ語ったとおりです。少なくとも私は(特別な理由もない)礼拝遅刻常習者や礼拝に来たり来なかったりのクリスチャンが結婚相手や就職など具体的なことについての「御心だと思います」とか「御言葉に示されました」などは全く信用しません。聖書が明らかに示す普遍的な御心を知らなかったり、知っていて従おうとしないのですから。

 結婚や就職で「御心は?」と悩む読者の皆さん。人生の目標や優先順位、ライフスタイルなどについてもっと「御心」を求めましょう。そして聖書に明らかに示されている御心に従って生きる決断と努力をしましょう。そうした歩みの中で、願い求める時、個別的具体的な一つ一つに御心が為されるのでは?

 御心については、以下のような公式を思いつきました。

 聖書が明示する普遍的御心 > 聖書が明示しない個別的御心

 普遍的御心への従順 → 個別的な御心の実現


 「御心の人は誰?」「御心の職場は?」と悩む前に、聖書をしっかり読んで、神様の御心を知り、それに、つまり聖書の言葉に従う人生の決断と実行を!その中で自由に選択すれば、それは決して自分中心でも肉でもなく、御心の相手や職業は付いてくるはず。

 これが、名づけて「普遍先行、個別後続」の原則。

 以上が、昨年の記事。これが私なりの「みこころ症候群」の患者さんへの治療方針であります。

 イエス様が来られた時、律法は形式化されその本質を失っていました。律法を守ろうとするあまり、その表面上の言葉や形式に固執して、かえってその本質や律法を与えた方のみこころを失っていました。そこでイエス様は、山上の説教の中でその病状を指摘し、治療をされました。(マタイ5:17−37)。イエス様が来られた時と同じ状況が、「みこころの○○」という言葉について今、私たちの周囲にもあるのでは?
 
 そこで最後に私なりに「山上の説教」ならぬ、「ネット上の説教」を。

 「いまどきの人々に『みこころの人と結婚すべき』『みこころの仕事に就きましょう』『みこころの道を歩みなさい』と言われたのをあなたがたは聞いています。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。『あなたがみこころの人になりなさい』『あなたが神の御心を知って行う者になりなさい』と。あなたが聖書の示す普遍的みこころに生きるなら、あなたは個別的な事例や場面にあって、みこころにかなった判断と選択をできるものへと成長するのです。」

 自覚症状の芽生えた方は、「良薬は口に苦し」と逃げないで、病気?に向き合い、治療を始めてみては?
「嫁」ってどうよ?
 ここ数年テレビに登場するお笑い芸人たちから耳にする古くて新しい言葉が「嫁」。「ウチの嫁が・・・」などと使うわけです。従来なら「ウチの奥さん」とか「家内が」「ウチの妻が」「かみさんが」と表現したのに取って代わっています。さすがにキリスト教界ではあまり耳にしませんが、テレビ文化に影響されやすい日本社会やある世代には広まったり、普及しているのでしょうか?

 興味深いことには、どうも「嫁」という言葉に、女性蔑視や差別、あるいは封建的な思想、家制度の名残などが込められてはいないようです。懐古趣味でも、保守反動思想でもないようには思えます。お笑い芸人達の話し振りを見ていると、以下のように感じています。

「嫁」という言葉にある程度の愛情や時には敬意を込めているらしい。
「嫁」は、真面目で照れくさい「家内」に代わって用いられている可能性がある。
「嫁」は「妻」という機能的で客観的な呼称より、人情味があるように思われる。

 「嫁」=「女」+「家」→封建的、女性蔑視

 そんな連想は既に過去のものでしょうか?文化は言葉を生みますが、しかし、一旦普及した言葉は思想や文化を形成します。「嫁」という言葉にはどんな思いやニュアンスが込められているのでしょうか?それは現在の日本の結婚観を表現しているのでしょうか?それとも今後の結婚観を形成するのでしょうか?

 それはもしかしたら「専業主婦」だけを指しているのでしょうか?フルタイムの労働をしていても、専門職でも、やはり「嫁」と呼ばれるのでしょうか?「うちの母ちゃん」や「ウチのママ」よりは、好ましい表現なのでしょうか?考え始めるとキリがありません。

 男性側の主観としては、あまり悪意や蔑視傾向はなく、むしろ善意として使っているように思うのですが、「嫁」と言われる女性たちはどうなのでしょう?特に既婚者女性の意見は、お聞きしてみたいものです。

 どう思います?あの「嫁」って言葉?
脱!「みこころの人」伝説(5)
 今日は、みこころ伝説が捨てきれない方のために、あるいは伝説崩壊が始まらない方のために補足とフォローをして最終回とさせていただきます。

 伝説保持と未崩壊の方の中には、聖書的に正しい根拠があり、自分なりの深い信仰体験から、あるいは尊敬する先輩の証しから、一連の記事に対して的確な反論をお持ちの方もあるでしょう。私自身今回の私見が唯一絶対聖書的だとは思っていません。聖書的であることは画一的ではなく多様で豊かな考え方をもたらすことでもあるでしょうから。

 ただ、現実問題として二つのことは記しておきたいと願います。それは二つの責任です。具体的には「相手への責任」と「自分に対しての責任」

 まずは相手への責任から。マレ先生は以前東海青年宣教大会で御奉仕された際、結婚についてはクリスチャンの「みこころの人」くらい迷惑なものはないとの主旨の発言をされました。「みこころだと言っても相手もいるんだから?相手はどうなるの?お構いなしで決めてしまっては困るよねー。」というような内容だったと記憶します。

 「みこころの人」伝説を保持し続けて、ある時、「みこころの人」に出会ったとします。しかし、そのみこころの人が自分に対して「みこころと思えない」「タイプじゃない」「ごめんなさい」「考えられない」「いい人だけと異性として見れない」「嫌いじゃないけど生理的に無理」という応答であった場合、伝説信奉者はどうするのでしょう。

 即時「みこころの人でない」と判断するか、しばらく「みこころなら相手にも示して」と祈り待ち、ある時点でやはり、「みこころの人でない」と判断して諦めるならそれは自立した大人のあり方。

 ところが「みこころの人」伝説信奉者の中には、主観絶対主義者の方もちらほら。「祈って確信を得ている」「み言葉の裏づけもいただいた」との個人的主観的確信に満ちて、相手にお構いなしのアプローチが継続。これはほとんどストーカーです。自己愛的行為です。
 世界はあなた中心でまわってはいないのです。神とあなたの個人的関係はもちろん大切ですが、信仰とは「あなたの隣人を愛せよ」とあるように人間相互の交わりでもあります。つまり社会的な事柄です。主観絶対主義信仰では通用しません。祈りと御言葉の確信によるストーカー的アプローチは、相手への愛に反する行為です。

 「みこころの人」と確信するなら、相手には「みこころの人」らしく対する責任があると思うのです。それは相手の人格と意志を尊重することです。
 

 もう一つは、自分への責任。「たった一人の素敵なみこころの人」を願うなら、自分もそれにふさわしい者へと成長する責任が生じます。「どうしてもボアズ」と願うなら、それもいいでしょう。でも祈り続けるだけで、神様がボアズ与えると思ったら大間違い。祈りの中で、ボアズにふさわしいルツに成長することなくしては、神様はボアズとの出会いを与えることもないのでは?
 飢え死に覚悟で神に従う信仰、神のために生活困難も厭わぬ献身的姿勢、そんなルツに魅力を感じたのがボアズ。そうです。あなたが「ボアズにとってのみこころの人」になる責任を負うのです。

 イサクと摂理的な出会いをしたリベカも同様です。アブラハムの最年長のしもべが、「お見合いおじさん」としてやってきます。最年長ですから「お見合いおじいさん」だったかも。
 そんなしもべの依頼で、リベカは水を差し出しました。旅人や高齢者をもてなすのは当時の常識。ここまでなら、多くの女性は合格ラインでしょう。

 しかし、リベカは「ラクダのためにも」自らすすんで水を汲みにいきました。水汲みは大変な重労働。しかし、聖書は「井戸野ところまで走って行き」と記しています。しかもらくだは複数いたようです。きっとラクダはかなりの量の水を飲むでしょう。大変な重労働です。リベカが何かの報酬を期待していたとも思えません。

 報いを望まないで、愛の配慮をもって、人に仕える女性、それがリベカです。あの根性の曲がったラバンの妹とは思えぬ性格のよさ!もし、紹介やお見合いで、摂理的にイサクに出会うことを願うなら、まずは、ご自分がリベカになる努力を惜しんではならないでしょう。

 何?イサクの前ならリベカになるけど、見知らぬおじさんの前なら、そうはならないって?だめだよーそれじゃー。誰に対してもリベカでなければ、イサクもお見合いおじさんもやってこないでしょう。

 そうです。ある特定の条件を満たす人物を「みこころの人」と特定し、その方との出会いを信じるのは自由かもしれません。しかし、「そのみこころの人にとってのみこころの人、ふさわしい人」に自分が成長する責任を忘れてはならないでしょう。

 以上が私なりに提唱する二つの責任です。伝説信奉者の方、あるいは修正しつつも維持される方には、そのご判断を尊重しつつも、失礼ながら二つの責任があるのでは?と付け加えさせていただきました。

 一連のこのシリーズはある一面的な真理を伝えているに過ぎないかもしれません。ただ、「みこころの人」が伝説化していないかは検証していただきたく願っての連載でした。
脱!「みこころの人」伝説(4)
 今日は一定の結論を出して、明日は補足やフォローをするとしましょう。

 ある集会でのこと。公の質疑応答の場で、一人のクリスチャン女性から質問をいただきました。

運命の人って、本当にいるんでしょうか?」

 まずは「運命」という言葉に驚きました。クリスチャンが「運命」という言葉を使うこと自体に違和感を覚えたのです。でも、今、振り返ってみれば、きっとマレ先生の著書で定義されている「運命の人」だったのでしょう。決して、神様が全ての台本を書き終えておられるかのような運命論を信じているわけではなかったのでしょう。

 この質問者だけではなく、「みこころの人」伝説に生きている方も多いだろうと思い、おおよそ次のように返答しました。

「運命という言葉で多分、導きとか摂理を意味しておられると思います。もし、神様がご計画しておられるたった一人の異性が世界のどこかにいて、その方との出会いを待ち続けるべきとお考えなら、それは違うと思います。聖書はそういう運命論的な考え方は示していないと思います。」

 それをフォローするように、普段から若者を指導しておられる方が以下のような内容の事をお話しくださいました。

 私たちが常に御言葉に生きて、みこころに従いたいと願って歩んでいるなら、自分が選んだその人が、「みこころの人」なのです。

 そして、詩篇の1篇を引用してこんな説明をされました。

主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」人は「何をしても栄える」と約束されています。(極論すれば)御言葉に喜んで従い生きる人は、何を選んでも、誰を選んでも、神様はその人を栄えさせてくださるのです。

なるほど、最高のフォローというか、こちらが正解ですね。

 「神を愛せよ、あとは汝の欲するところをせよ
 確か、ルターがそんな言葉を残していたと記憶します。心情的に愛するのでなく、神を第一として、神の御心が示されている聖書の言葉に従って生活する中にあっては、あらゆる行為や判断、選択の動機や目的が神中心となっていきます。そうなりますと自分のしたいと願うことがいよいよ、みこころと合致してくるわけです。(もちろん、過ちや判断ミスがないわけではありません)

 私も思います。神様を第一として、御言葉に従うことを真実に願う人なら、その人が伴侶として選んだ人がみこころの人だろうと。普段から御言葉を読みみこころを悟り、聖書に示された御言葉に従う生活をしていれば、「いつものように」「これまでと同様に」「日常のごとく」、結婚相手を判断すれば、みこころの相手となるでしょう。

 「いつもしていること」は、「いざという時」にもできるし、「いつもしないこと」は「いざという時」にはできません。ですから、みこころの人を判別し、みこころの人と結婚したいなら、普段からみこころを知り、みこころに生きる生活をすることです。何より聖書が普遍的に示すみこころに生きることです。具体的には、礼拝、証し、労働、社会的責任などを忠実に果たすことです。(最後はお説教かよー!)

 神様は個人に対して確かにご計画をお持ちで、一人一人を導き、摂理の中で人と人を出会わせてくださる方でしょう。でも、普段からみこころに生きていないと、出会っているのに「みこころの人」の一人と認識できず「みこころの人でない」と誤審しているのかも。ましてや「神様が私のために供えておられるたった一人の人」の存在を信じている伝説信奉者の方は、簡単に「この人は違う」と除外しやすいのでは?

 もし、以下の細木氏のコメントが正しいとすれば、いかに多くのクリスチャン女性たちが、みこころの人を見失い、見過ごし、貴重な出会いのチャンスを逃していることでしょうか?

 〈細木氏コメント〉
 主にあって、共に成長する準備ができている異性は、誰であっても「みこころの人」のカテゴリーに入るということをはっきりさせることが大事だと思います。

 「その人は何をしても栄える」「その人は誰を選んでも結婚生活が栄える」「その人が選んだ相手は結果的にみこころの人

 「そういう人に私はなりたい」と願うあなたであって欲しいです。
脱!「みこころの人」伝説(3)
 一昨日の記事、脱!「みこころの人」伝説(1)にアクセスが殺到。今月で初めての人気記事となっている模様。やはり、中心的な読者のニーズはここですか。

 というわけで、聖書が支持する「みこころの人」は死守しつつ、そこから発生し、異教的な言い伝えと化した「みこころの人伝説」の方は、徹底的に崩壊させたいといよいよ決意を新たにしております。

 政界の壊し屋と呼ばれたかつての小沢一郎のごとく、あるいはプロレス界の破壊王、橋本真也のごとく、いやいや、悪魔の牢獄を打ち壊された解放者イエス様に倣って、この「みこころの人」伝説を破壊し、伝説の囚われ人たちを解放したく願う私であります。

 マレ先生には「運命の人と出会うその日まで・・・」というタイトルの著書があります。タイトルだけを見れば「運命の人」という言葉自体が疑問視されます。しかし、冒頭から、運命の人とは、既に定められた宿命の人ではなく、ベストパートナーのこと、という旨の定義が為されています。背景にはもちろん聖書的な価値観があるのでしょうが、この著書での「運命の人」が「神様が定めたたった一人の異性」とは、私には読めませんでした。背景には神の導きや摂理を想定しながらも、固定的ではないダイナミックな人格的な出会いを記しているように思いました。

 JTJの岸先生もかつて、クリスチャン青年たちの結婚問題に対して「みこころなんて言っているからだめなんです」という大胆発言をしておられました。誤解を招くような発言ですが、もちろん「結婚問題から神様の意志を排除すること」を勧めているのではありません。多分、「みこころ」という観念が、逆に神様の導きや自分の選択責任などを見えなくしたり、現実の異性との出会いを実り乏しいものにしている現実があったのではないかと想像しています。

 「みこころ」と言いながらもそこに「おこころ」を混入し、条件を満たさない相手を最初から「みこころ」外に排除。これは「おこころ」>「みこころ」の典型。

 紹介やお見合いの場合、自分のタイプではないのを、祈りもせず「みこころとは思えない」という理由でお断り。これは、神様への責任転嫁、自己責任放棄なのでは?

 このように「みこころ」は「おこころ」すなわち自己中心の最高の隠れ蓑にもなりうるのです。

 逆に、祈り、聖書を読み、教会の先輩などにも相談し、自分の責任と決断でお断りしたのに、「もしかしたら、自分は、みこころの人を退けたのでは?」と不安になるパターン。お気持ちは分かりますが、それが本当に主にある決定なら、自己責任。神様も基本的に支持して下さると思います。

 そもそも、あなたは「みこころかどうか?」が分かる人なのか?今までの人生、不徹底ながらも、みこころを知り、みこころに従って生きてきたのか?そして、みこころに従うことが祝福だとの実体験を積み上げてきたのか?それとも結婚に際してだけ、まるで一夜漬けのように「みこころの人」を求めているのか?それも問われてしまいますね。

 そのように「みこころの人」という観念が、自己中心の隠れ蓑になったり、主にある自己責任からの逃避、神様への責任転嫁などに、用いられることは珍しくないのでは?特に「神様が私のために供えておられるたった一人の異性がいる」という伝説は、まさに「この人は違う」「この人がそう」と、相手の意志に関係なく、自分と神様の個人的な合議が決定権を持ってしまいます。相手も神様と相談しているでしょうに、それってどうよ?の世界になりかねません。

 クリスチャンであっても、私たち人間は恐ろしいほど罪深いもの。無意識、無自覚の内に、「みこころの人」といういかにも信仰的な言葉に、自己中心や勝手、がわまま、甘え、依存心などを、混入させ、都合よく立ち回ってしまうのでは?

 いいえ、むしろ、そうした混入物があることが、問題なのではなく、それを自覚していないことが本当の問題なのでしょう。そうした混入物を持ちながらも、自分が発する「みこころの人」なる言葉を聞き、自らが信仰的になったような気分で自己満足状態に陥ることもあるのでは?私たちはこうした自らの偽善性、闇の深さ、肉性などを認め、悔い改めることなしに、この「みこころご都合主義」を克服することはなくならないでしょう。

 みこころは大切です。しかし、人間側の主にあっての決断、選択とその責任(種まきと刈り取りの原則など)についても聖書は私たちに教えます。前者を強調し、前者ばかりが信仰的とされやすい日本のキリスト教界。後者を強調するとまるで、不信仰か実存主義者のように言われかねない場合も。

 きっと神学的には深遠な問題なのでしょうが、単純な私は両者の整合性のなかで結婚も考えるべきだと思っています。自己責任も主体性もない奴隷的従順でもなく、神を除外した自己決定や自己責任でもない、聖書的なあり方を模索し、実行すべきだと思うのです。

 では、それはどういうものなのか?その一例を明日は結論代わりに記したいと願います。 
脱!「みこころの人」伝説(2)
 昨日の記事に対する細木氏のコメントはすごいものがあります。脱!「御心の人」伝説というより「御心の人」伝説崩壊!という感じです。強烈なインパクトですね。以下が、そのコメント。

 主にあって、共に成長する準備ができている異性は、誰であっても「みこころの人」のカテゴリーに入るということをはっきりさせることが大事だと思います。

 あるクリスチャンはこれで、御心の人伝説崩壊が開始したことでしょう。心から申し上げたいです。「おめでとうございます。結婚にまた一歩近づいたようですね」と。また、ある方は聖書的な根拠をもって、疑問視、反論をしたくなっているでしょう。また、聖書的根拠とは別に反発や不快感を覚えた方もおられるのでは?

 私自身も結婚前、いいえ、結婚5年後までは、とても細木氏の主張は受け入れられなかったでしょう。少なくとも実感を伴って同意はできなかったと思います。私自身もやはり「御心の人」伝説の信奉者だったのです。

 自分自身を振り返っても思います。「御心の人」という観念は独り歩きして、その根拠である聖書から離脱しやすいのです。そして、信仰者の妄想の世界で自己肥大や増殖を開始してしまい、ありもしない理想像を形成したりするもの。

 その一方で「御心の人」という発想や教理を聖書的に個人的に検証することもあまりないようです。ルツと ボアズ、イサクとリベカなどの摂理的な出会いを、自動的、機械的に自らに当てはめて、あたかも「神様が定めた特定の誰かがいる」という教理を確立してしまうようです。聖書が示す範囲での「御心の人」という教理は見失っていたり、不明確なままなのです。

 かくして結婚を願うクリスチャンたちの一部は「御心の人劇場」を展開。神様が脚本家で、自分が素敵な異性と出会うドラマを想像するのです。伴侶について自分の願いやこだわりを持って祈るのが悪いわけではありません。むしろ、具体的な条件を挙げて祈ることは好ましいことだとさえ思います。

 しかし、自分が脚本家になってはなりません。脚本家から、「役者であるおまえが勝手に脚本書くなよ」とお叱りを受けてしまいます。祈りとは一方的に神様に注文を突きつけることではありません。祈りは人格的対話、神様からの軌道修正や撤退命令に耳を閉ざしてはなりません。こちらの願いを素直に伝えることと、御心にかなった祈りをすることは、本来、相反することではないはず。

 考えて見ましょう。そもそも「脚本:神様」「主人公A:自分」「相手役B:素敵な誰か」なのでしょうか?聖書はそうした固定的、運命論的、決定論的な「恋愛・結婚劇場」を私たちに示しているでしょうか?

 ともすれば、私たちは自分が脚本:神様であるドラマの主人公になったかのように恋愛しやすいのも。何かロールプレイングゲームをしているような感覚のクリスチャンもいるのでは?

 私たちの人生はバーチャルでもフィクションでもない、現実です。神様は私たちを導くし、一人一人にご計画をお持ちの摂理の神。ただ、それは、固定的な脚本を既に書き終えておられることを意味するわけではないでしょう。また、私たちも神様の書き終えた脚本を演ずるだけの役者ではないはず。また、神様がプログラムしたロールプレイングゲームの中をフローチャートのように生きるゲーマーではないはず。

 聖書が描く神様の導きや摂理(特に対個人のもの)はもっと、ダイナミックな神と人間との人格関係の中にあるように私は考えています。(もっともこのことは大変深遠な神学的問題でしょうが)。お互いが思い描く、結婚への導きや出会いが、聖書から来ているのか?それともそこから派生しつつも人々の心の中で、世のドラマなどと混合され伝説化され、言い伝えとなった物語、ファンタジーなのか?そのことを今回の記事から自己検証していただければと願います。
脱!「みこころの人」伝説(1)
三回ほど、困った?伝説に縛られているクリスチャン女性の解放を願ってのシリーズ。何も、「みこころの人」という考え自体が間違っていて、捨て去るべきと言っているのではありません。むしろ、捨て去ってはならない、死守すべき理念ですらあるでしょう。

 しかし、この「みこころの人」という理念が、聖書を離れて、多様な言い伝えとなり、それが時には聖書以上に信奉されているケースもなきにしもあらず。


 そこで日本のキリスト教会に伝わる、いいえ、クリスチャン個人が勝手に思い込んでいる様々な「みこころの人」伝説による束縛から解放を願うわけです。思うにそうした伝説が結婚を願うクリスチャン女性たちを現実から目を背けさせ、聖書が示すものとは異なる信仰姿勢に向けさせているように感じているからです。

 今回は一つの事例を取り上げてみましょう。以前、ある団体の学生・青年集会で奉仕。スタッフ紹介がされたのですが、リーダーである女子大生(本ブログの愛読者)の理想の男性は、聖書の登場人物で言えば、「ボアズ」。この女子大生、時折「私のボアズはどこ?」と口癖のように発言するとのこと。

 さすがだと思います。昨日の記事の通り、聖書には信仰面で優れており、なおかつ女性に対して誠実な男性はめったにいないと思われる中、例外的とも言える「ボアズ」を理想像としたことは実に賞賛すべきこと。そして、ボアズのような男性を願い、そうした男性との結婚を願うことも、まさに模範的と言えるでしょう。


 講演後の質疑応答の時間には、彼女から質問。「ボアズが理想なのですが、どこにいるのでしょう?いつか会えるのでしょうか?」というような質問だったように思います。

 質問は正確に記憶していないのですが、返答の方はかなり正確に覚えています。「あなたのボアズは多分、世界の中のどこにもいません。いたとしてもボアズの卵か将来のボアズでしょう。あなたが結婚後に夫をボアズに育てるのです。」

 集会後、「よく言って下さいました」と、集会に集っていた牧師の一人からお礼をいただきました。将来あるクリスチャン女性の美しい夢をぶち壊すような残酷なことは一教会の牧師にはできないもの。そういうむごい仕打ちは、外部の者がすること、それで教会の徳を高める?のも超教派の意義の一つ。(ほんとかよ?)

 もし、今付け加えるなら、「ボアズ候補やボアズの卵を識別して、結婚後はボアズを育てられる女性に、まず、あなたが自身が成長してください。ボアズを願うなら、まず、あなたがボアズの心をとらえるようなルツ的女性になることです。」とウザくて、説教がましい言葉を追加するでしょうか。

 「神様が導くたった一人の男性がいて、神様の導きによって、その人と出会いいつか結ばれる」それは伝説です!神話です!幻想です!「ありえねー」お話しです。私は、それは聖書が支持する考え方とは思いません。

 確かに結婚相手との出会いには神様の導きもあれば、主の摂理の中で起こることでしょう。ルツとボアズの出会いもそうだったのでしょう。しかし、それは「神様が定めた一人の男性がいる」という教理を成立させるわけではありません。

「神様は自分のために、たった一人の男性を備えておられる」
「お互いは(神の摂理によって)出会って結ばれるために生まれてきた」
「二人は神様の赤い糸で結ばれている」

 そうした言い伝え、異教的伝説、世のロマンス、それに基づく妄想、それを支持する先輩の証し、あるいはその混合物が、一番の基本である聖書が示す教理より先行していないでしょうか?
理想の伴侶、ぼんやり系男子ときっちり系女子
 先々週の金曜は世の光ジェネレーションXの収録でした。今回からはKGK東海の学生たちへのインタビューが素材。

 番組の素材となるのは、春季学校に参加した学生たちに対しての一時間を超えるインタビュー。番組の台本を書くために聞き返したのですが、特に「理想の結婚相手」については、クリスチャン学生たちの男女の違いが実に明確で興味深いのです。

 理想の結婚相手について男子学生に尋ねるとあがってくるのは、まずは、「クリスチャンであること」次に「やさしい」か「かわいい」、その後が「善悪の区別ができる、自分の生き方を持っている、ちゃらちゃらモノをつけてない」など。まとめて言えば、以下のようになるでしょう。

1にクリスチャン
2にかわいくてやさしい
3に強い、賢い、堅実

 2についてはいかにも日本の男性ですね。と言いながらも、3が来るところはさすがです。やはり一定聖書的な価値観があるのでしょう。20歳前後でこれなら立派なものでは?きっと今後は2と3が逆転することでしょう。

 まだまだ焦点が定まりきっていないので、失礼ながら「ぼんやり系男子」と呼ばせていただきますが、「いつまでもぼんやり系とは呼ばせない」という成長を感じさせる学生たちでした。自分の学生時代と比べれば、年齢以上に成熟しているのは認めざるを得ません。

 一方の女子学生はすごいです。すごすぎます。1に「クリスチャンであること」、そして2に「誠実さ」、「しっかり」、「優しさ」などがくるのです。大正解だと思います。驚きをもって「きっちり系女子」と呼ばせていただきましょう。

 しかし、焦点が定まっているだけに、ストライクゾーンも狭まりがちなのでは?たとえば「誠実さ」は大正解ですが、「誠実そのもの」という男性はめったにいませんぞ。男性の多くには弱さ、ずるさ、卑劣さなどの誠実に反する罪深さがあり、なかなかそうした女性の要求水準には達しないのでは?

 ですから、誠実な男性というより、「基本的に誠実な男性」「誠実さの可能性を秘めている男性」「誠実な夫に成長しそうな男性」あたりをストライクゾーンにしてみては?と思うのです。要求水準に達するような「誠実な男性」になるのは結婚後の成長次第くらいに考えるのも聖書的で現実的なのでは?

 なぜ、それが現実的で聖書的ですかって?妻を王に差し出し自己保身を図った信仰の父アブラハムと人妻に手を出し証拠隠滅を図った信仰の勇者ダビデ。旧約聖書を代表する信仰者二名は、およそ誠実とは言いがたい男性であったわけです。
 神に対しての献身、優れた信仰をもちながらも、いざ、女性や妻のことになると不誠実なのは、この二人も、現代日本の多くのクリスチャンも同じなのでは?時代に関係なく「信仰的かつ誠実」と言い切れる男性がそうはいないことを聖書は私たちに教えているのでは?

 ぼんやりの男子学生は今後焦点がきっちりとなるように。きっちり焦点が定まっている女子学生は、現実の男性理解を深めた上で要求水準を緩和して少しぼんやりしてみては?

 意外にも、理想の結婚相手については、「ぼんやり系男子」は、きっちりすることが成長で、「きっちり系女子」は、ぼんやりすることが成長なのかも?

 この怪しげな仮説を、「男女・ぼんやり・きっちり、逆転理論」と名づけよう。やっぱり、誰も支持しないかな?

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