命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「キリスト者として”原発”をどう考えるか」を読む
 先週は同著を何度か読み返しておりました。この書物、たちまち重刷とのことですが、当然でしょう。クリスチャンたちの正しいニーズに的確に応答しておりますから。しかも「いのちのことば社」ですから、特定の教派の方々は、「偏りのない健全な内容」として信頼してお求めになれるのでしょう。

 私自身は読んで本当によかったと思っています。ほとんどは既に聞いてきたことですが、抜群に有意義でした。それは、知識や情報ではなく、「聖書はどう語っているか?」「だから原発の何が問題か?」が、明確に記されている点です。

 私自身は原発問題は、人類の罪が生み出した人権差別問題の一形態としてとらえて、以前の記事で少し触れております。

「弱者犠牲の上に生きながら、その事実を見ないで済むシステム」
http://blog.chiisana.org/?eid=1407777

「いのちのことば」4月号の書評も同様の趣旨かと思います。
http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002871

同著のオンラインでの購入はこちらから。
http://www.gospelshop.jp/catalog/product_info.php/products_id/60847?osCsid=b4095dc7099b14723277829a8d386b62

 原発も、基地問題も、部落問題も、中絶も形態が異なるだけで、「弱者犠牲の上に成り立つ強者の利便性」という罪の組織的構造は同じだろうと理解しています。同著でも原発労働者の悲惨な労働状況や原発への経済的依存から抜け出せぬ地域などの問題が記されています。

 この書物の優れている点は、「原発をどう考えるか」の聖書的視点を示しているだけでなく、「社会問題に対して教会がどうあるべきか?」というさらに本質的な問い掛けに読者を向き合わせることでしょう。それは、読まないほうが楽だったと思わせる程です。

 「社会問題やそれに苦しむ人々のことは、教会や信仰の守備範囲外、教会の使命は直接的な福音宣教、多くの人が救われて教会が大きくなることを目指しましょう」

 「社会問題に関わる暇があったら、伝道!伝道!」

 そんな声について同著は問いかけているようです。

 「聖書は、本当にそれが神様の御心だと記しているでしょうか?」
 「それについて聖書が何と言っているか受け止めて応答しましょう」

 この書物は実は、「クリスチャンにとって都合の悪い事実と聖書の記述」を当のクリスチャンに突きつけているかのように思います。私にとっては有意義であると共に痛い良書でもありました。原発の是非、内容の賛否は別にして、必読レベルの著書でありましょう。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 12:42 | - | - | - | - |
人権神授説から考えるあれこれ(3) 「主の御名による人権放棄要求名目の人権侵害」
  昨日のテーマは、「人権侵害ならざる人権放棄要求」で、今回のテーマはその逆。つまり、人権侵害に相当するような人権放棄要求、言い換えるなら、「主の御名による人権放棄要求名目の人権侵害」となるでしょうか?

 神様は人権の付与者ですから、人権の停止も放棄要求も正当であります。また、その目的もよいもの。しかし、教会組織も牧師などのリーダーも、人権の付与者ではありません。ですから、間違った動機や間違った方法で、人権放棄を要求すると、(特に強制すると)それは人権侵害に相当するケースもあると私は考えるのです。

 たとえば、モーセの燃える芝の箇所から、牧師が、「私たちを愛し、すすんで神権放棄して下さった主に、応答として、私たちもすべての権利を放棄して従いましょう」と説教をします。それは、正しい説教であり、適切なアピール、チャレンジでありましょう。

 しかし、「進路、職業選択、伴侶選択、財産管理などはすべて牧師に一任しましょう。牧師の指示に従いましょう」となると完全に危ないわけです。権利を放棄して、委ねるのは神様に対してであって、牧師に対してではないからです。しかし、人権の付与者である神様に、霊的指導者ではあっても他者の人権を尊重すべき牧師が、とって替わることは、なきにしもあらずです。

 信徒に人権を放棄させることのできる言葉が聖書にはあります。教会には時に、信徒を権利放棄に誘導できるシステムや権威関係が成立している場合もあります。聖書的な人権放棄要求をもって、信徒を意図どおりに誘導したり、支配し、権利を委ねる対象を神様から祭司職である牧師に変更させることも可能なのです。これを悪用するなら、熱心で純粋で献身的な信徒ほど(冷静さや客観性、聖書的判断を欠けば)、牧師は意図通りにコントロールすることができてしまいます。極端な場合は、進路、職業、結婚、財産などを「主のためにささげる」という名目で、放棄させ自分に益するように誘導できてしまうわけです。

 もちろん大多数の愛をもって信徒に仕える良心的な牧師やしっかりとした聖書的教職観をもっている牧師は、まず、そうした誘惑に負ける事はないでしょう。しかし、それらが著しく欠けた極一部の牧師は、誘惑に負けてしまい、信徒に様々な権利放棄を要求し、意図どおりにコントロールしてしまうことが、なきにしもあらずのようです。さらには、それが「主のため」であるからと人権侵害とは思わないようです。

 「主の御名による人権放棄要求」、それはある意味、聖書的で正しいことでしょう。しかし、「人権神授説」に立って考えると、それが悪用される時、主の御名は名目に過ぎず、実質上は「人権侵害」に他なりません。

 牧師が人権の付与者である神様に取って代わる時、
 牧師が人権の委譲先である神に取って代わる時、
 牧師が愛をもって信徒に仕えず、信徒を支配し、利用する時、 
 牧師が、神と信徒自身の益でなく、自らの益を目的とする時、

 信徒側の献身的な人権放棄は、客観的には、いいえ、神様の目から見ての「人権侵害」になってしまいかねません。カルト教会や不健全で権威主義的な教会には、こうした「主の御名を名目とした人権侵害」現象が起こっているように思えてなりません。

 三回のシリーズが読者の皆さんにとって「何が人権であって、何が人権ではないか?」「何が人権侵害に相当し、何が相当しないか?」の聖書的判断基準を考える参考になればと願ってやみません。それを通じて聖書的な意味で人権が尊重される交わりに生きるお互いに成長できれば感謝です。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 21:56 | - | - | - | - |
人権神授説から考えるあれこれ(2) 「人権侵害ならざる人権放棄要求」
 最近、所属教会の牧師は、モーセの歩みを連続してメッセージしてくださっています。外部奉仕で所属教会の礼拝を休みがちの私は、録音で聴かせて頂いております。先日のメッセージはあの「燃える柴」の箇所。ポイントの一つは、モーセへの「靴を脱ぎなさい」との命令。私は、靴を脱ぐとは聖なる方に対する畏敬の念故の表現だと思っていたのですが、それだけではないというメッセージ。聖書では靴を脱ぐとは「権利の譲渡」を意味するわけです。たとえば、ルツ記などはそれが明確に記されています。

 牧師は「現代は人権が尊重され、権利主張が当然となっているが、神様は時に、神の民に権利の委譲を命じられる」という趣旨の解き明かしをされました。これには現代的適用としても、深く教えられました。

 神様は時にご自身に従うものに、「権利の委譲」、極論すれば「人権放棄」を命じられることも。では、これが不当な人権侵害かと言えばそうではありません。神様が、従うものに要求する人権放棄は、決して人権侵害ではありません。「靴を脱げ」とは「生殺与奪の権利を神に譲ること」であり、「まな板の上の鯉になること」でしょう。しかし、それは、不当なものではありません。その理由をいくつか考えてみました。

 そもそも、神の似姿を与えてくださった神様が人権の付与者ですから、神様には人間の人権を制限したり、奪う権利があるはずです。生殺与奪の権利は神にあるのですから、いつどのようにその権利を神様が行使しても人間には文句のいいようがありません。そう、神様が人権の付与者ですから、その人権を放棄するように求める事は、人権侵害には相当しません。それは「自分のものを返せ」という要求ですから正当なのです。「人権神授説」に立てば、神による人権侵害はありえないのです。

 また、神様が神の民に権利の放棄を命ずるのは、ご自身に従い本当の自由を得させるためです。決して、不自由にして苦しめるためではありません。これは人間を不自由にし、苦しめるための人権侵害ではなく、本物の自由に至らせるための権利放棄要求です。神様の権利放棄を要求は、人間を活かすためでもあります。人権の根拠の一つは神のかたち。神から離れた自己中心の故に神のかたちを失った人間は、神に従う時に、神のかたちを回復し活かされます。その回復のプロセスとして、権利放棄は命じられているのでは?

 決定的なのは、神様の「靴を脱げ」との人権放棄要求が、何より正当な理由は、神様ご自身が、すすんで神権放棄をされたからです。私たちへの愛の故にです。神である権利放棄、天に住む居住権の放棄、天で所有していた財産放棄、最後は、最優先の神権である生存権まで、私たちのために放棄して下さいました。神が人となられ、死なれたとは、そういうこと。

 そして、歴史上最悪の「人権侵害」は、人類がイエス様にした「神権侵害」であります。


 「あなたの靴を脱ぎなさい」。

 それは私たちのために究極の権利放棄をして下さった方から、最悪の人権侵害をした私たちへの愛故の命令。神がすすんで権利放棄をされた!その愛に、私たち人間が、その応答としてすすんで権利放棄をすることは、極めて理に適ったことか思うのですが、どうでしょう?

 神権放棄に対しての応答としての自主的人権放棄。それを愛の故に命じられる神様。

 聖書によれば、神様は、この献身の招きをすべてのクリスチャンにしていると思いますし、すべてのクリスチャンが受け止めるべきチャレンジであるとも思うのです。すべてのクリスチャンは、神のしもべ、言い換えるなら「志願奴隷」であるはずでは?

 「神様ご自身は、絶対に人権侵害をしない!」。その前提の確信の上で、応答するお互いでありたいと願います。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 22:41 | - | - | - | - |
人権神授説から考えるあれこれ(1) 「人権ならざる人権」

 胎児の人権を使命としている私ですが、神学的聖書的に深く幅広く人権を考えてきたかと問われると、かなり恥ずかしいわけです。そんな浅学の私が、人権の聖書的根拠としているのは「神の似姿」。これを所有するが故に他の動物とは異なる尊厳があり、絶対的な生存権があり、あいまいな表現ではありますが「聖書的な意味で人間らしく生きる権利」「聖書的自由の保障」などがあると考えております。創造主より「神の似姿」が与えられている被造物であるが故に、人間には人権があると考えているわけです。ですから私はいわば「人権神授説」の信奉者なのであります。

 一方、教会の交わりやキリスト教界の中でも、「人権の取り違え」「非聖書的人権意識」などはなきにしもあらず。さらに稀に、「信仰を名目とした人権侵害」も起こりうるわけです。そこで、「人権神授説」の立場からそうした事象にについて論じようというのが、このシリーズの趣旨。

 そこで、ひとつ優れたブログを紹介します。多少専門的ではありますが、ポイントをよくおさえており、なおかつ、整理されているということで推薦します。このブログ記事のおかげで、私自身も聖書的人権意識をより深め、幅広くすることができました。

 ブログ「伊那谷牧師の雑考2.0」より「人権とキリスト教#1」
http://inadaniboxi.blog.so-net.ne.jp/2010-08-17
 「人権とキリスト教#2」
http://inadaniboxi.blog.so-net.ne.jp/2010-09-09

 「人権とキリスト教#3」
http://inadaniboxi.blog.so-net.ne.jp/2010-10-21


 #2などを読み、自分人権意識の聖書的根拠が、ローザンヌ誓約に由来していることが、分かりました。ちょっと自分の人権理解を相対視、そして客観視。#3からは、人権をより幅広く学ぶことの必要性、アプローチの多様性を教えられました。

 今回、記したい事は、聖書的でない人権について。上に紹介したブログ記事の#2の記事中で触れられている「人権と人間の欲望の混同」について少し記してみます。

 たとえば、日本国憲法は、「幸福追求権」を認めています。これも大切な人権でしょうが、人権神授説から言えば、「人権の与え主抜きの幸福追求権」なわけです。これは言い換えますなら、「神を除外して自分が幸福と考える幸福を追及する権利」なのです。人権を与えた方の意図や目的を無視して、あるいはそれとは異なる偽の幸福像実現に向かって権利を行使するなら、それは、人権の誤用、乱用であります。

 これはクリスチャンも気をつけないとやってしまいかねません。たとえばクリスチャンが自分のなりたい自分になるという意味での自己実現を目指し、「教会にも牧師にも兄弟姉妹それを妨げる権利はにもない!」と人権を主張すれば、それはまさにクリスチャンによる人権の誤用乱用。なぜなら、人権の与え主は、私たちに神の似姿を回復して人間らしく生きて欲しいと願い、つまり「神の願うような自分になるため」に人権を与えておられるのです。

 ましてや、「誰と結婚しようが、どの職業に就こうが、どこに住もうが、どの教会に行こうが自分の勝手、個人の自由、教会や牧師や兄弟姉妹にどうこう言われる筋合いはない」というのは、人権の誤用乱用としては重症でありましょう。自分の人生を私物化し、神と無関係な人生を歩ませるために、神は人間に人権に伴う様々な自由を与えているわけではないのです。

 幸福追求権であれ、個人の自由であれ、人権の授与者である神を離れたら、それは「人間の欲望の肥大化」、あるいは、「欲望の無限肯定」に至りかねません。聖書はそれを「むさぼりの罪」とか「おのが腹を神とする偶像礼拝」と評価しています。私たち愚かな罪人は、時にクリスチャンであっても、神を離れた発想で人権を主張し、何と、人権によってむさぼりの罪や偶像礼拝を正当化しかねないのです。

 幸福追求権や個人の自由の尊重、そうしたことが神話のように、当然の前提となっている日本社会です。クリスチャンであっても、神や聖書より、それらを根拠に物事の判断や選択をしかねない私たちです。

 「人権神話」を「聖書」より、「個人の自由」を「神の御心」に優先させる時、クリスチャンが、むさぼりの罪と偶像礼拝を正当化しかねないのでは?人権の授与者を忘れるなら、人権と人間の欲望の混同は避けがたいもの。人権神授説に立つなら、まさに、その時、そこで主張される人権とは、「人権ならざる人権」なのでしょう。

| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 17:07 | - | - | - | - |
米ダラスで「反感感情」、発端は韓国人店主の黒人牧師への差別発言?
 なんとも釈然としないニュースであります。しかし、結構、心配なニュースでもあります。ガソリンの値段について不満を伝えた黒人牧師に、韓国人店主が、「アフリカへ帰れ」と言ったというお話し。それに対して、黒人牧師が火に油を注ぐような対応をしたかのように読める記事であります。ガソリンスタンドで、人種差別問題の火に油を注ぐなど、シャレになりません。爆発ならぬ暴動の心配さえあったようです。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120130-00000038-scn-kr

 朝鮮日報などは、先に黒人牧師が「自分の国に帰れ」と発言したように記しています。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2012/01/30/2012013001209.html

 「嫌なら自分の国に帰れ」と移民や在留外国人を差別、排除するのは、どこの国でも同じこと。でも、通常、これはマジョリティーがマイノリティーに対して発する言葉。ところが、これは、差別されるマイノリティー同士の争い。その点が、残念でなりません。

 背景には黒人社会におけるアジア系民族への反感があるようです。また、何が事実であるかも明白ではありません。そうだとしても、「平和をつくる者」「隔ての壁を打ち壊す者」であるはずのキリスト者が、どうなんだろう、差別発言への抗議は正当だとしても・・・と思ってしまいます。

 でも、これは他人事ではないでしょう。お店にクレームをつけるとき、モノを買い不当な扱いを受けたときの反応、そんなことの中に、私たちのキリスト者としての本当の姿が暴露されるでは?単に売買契約についての訴えだけではない、その人物の品性や奥底に隠されたマイナス面がこうした場で出てくるように思えてなりません。その代表はこうした他者の人権否定、あるいは内なる差別心でありましょう。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 15:14 | - | - | - | - |
クリスマス前は人権週間(5)ミシェル・ンデゲオチェロが訴える黒人差別

 昨日に続いてミシェル・ンデゲオチェロには二作目に”Peace beyond passion”からキリスト教と差別問題の関係を鋭く訴えている楽曲を。今回ご紹介するのは、「ニガーマン〜申命記」であります。特に”The Way”の歌詞などは、痛烈です。

 こちらのブログでは、PV視聴可能で、英語の歌詞も読むことができます。
http://ameblo.jp/tkms63/entry-10427743236.html

 「黒人が呪われた民族である」とか「白人の奴隷となるべき存在」という論拠として、残念ながら聖書が用いられてきたことをご存知の方も多いことでしょう。創世記におけるノアの物語の記述から、「黒人はハムの子孫で、故に呪われた民族」との見解によって、白人主導社会では、黒人蔑視が合理化されてきました。同じように申命記20:10−15からは、イスラエル民族(白人キリスト教徒)がカナン人(黒人非キリスト教徒)を奴隷とすることが正当化されたようです。

 歴史を見るときに、聖書の言葉は、奴隷制度と黒人差別を正当化する根拠ともなり、逆に奴隷解放と差別克服の根拠ともされてきました。聖書を正しく読み、適切に適用しなければ、聖書は、罪と悪と不正を正当化する最強の論拠とさえなりえるのです。特に強者や支配者層が自己の利益を守ることを優先に聖書を読むなら、聖書は「損をしてでも従うべき神の言葉」ではなく、「自分の利益を守る守護神のお守り」になるわけです。

 よく考えてみれば、悪魔は自己利益のために聖書の言葉を用いました。聖書の言葉を根拠に、イエス様が救い主にならぬよう、聖書の言葉を用いて、石をパンに変えさせ、頂から投身させようとしました。しかし、イエス様は別の聖書の言葉で反論をしました。

 強者である支配者層が、被支配者層を聖書の言葉によって、抑圧すること。強者であるキリスト者の夫が、妻を聖書言葉を根拠に自らに隷属させること。強者である親が聖書の言葉の権威を用いて、子どもを神の願いではなく自分の思い通りにコントロールすること。

 つまり、自らは聖書の言葉に従わず、弱者を聖書の言葉を根拠に、自分の利益のために願望通りに支配、コントロールしようとすること。それは、単なる「みことばの誤用」であるだけでなく「悪魔の業」だと私は思います。

 しかし、恐ろしいことですが、こうした悪魔の業が、教会の歴史の中で、堂々と行われてきたのでしょうし、今日も、キリスト者の結婚関係、親子関係、教会生活、教団内部などで、意外と恒常的にまかり通っているケースも。

 キリスト者が、キリスト教会が過去に犯してきた過ちと現在の過ちを、自らを安全地帯において、対象化し、批判する姿勢はどうかと私は思います。あくまで、教会内部の一人として、、自らの過ちとして受け止めるべきでしょう。

 むしろ、キリスト者である自らが「無自覚のうちに、悪魔の業に手を染めていないか」の自己検証から、始めるべきでありましょう。まず、自らの結婚生活、親子関係、教会生活、職業生活、社会生活などにおいて、強者である自分が聖書の言葉や神からの委託である権威を利用して弱者の人権侵害をしていないか?そからの自己検証。自らの内に潜む弱者の人権侵害に及んでしまう強者としての罪を直視すること。それがクリスマス前の人権週間の過ごし方かと思います。

| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 14:44 | - | - | - | - |
クリスマス前は人権週間(4)ミシェル・ンデゲオチェロが訴える同性愛者差別
 ミシェル・ンデゲオチェロというミュージシャンをご存知でしょうか?トータルに優れたアーチストですが、とりわけベーシストとして評価が高い女性ミュージシャンであります。ジャズ以外の黒人音楽は、スティービーワンダーさえ、あまり好きでない私ですが、彼女が、恐ろしく優れたアーチストであることは間違いないと思います。

 最近購入したMUSIC MAGAZINEの増刊で「プロテスト・ソング・クロニカル〜反原発から反差別まで」で知ったのですが、ミシェル・ンデゲオチェロには二作目に”Peace beyond passion”というアルバムがあり、これはキリスト教と差別問題の関係を鋭く訴えております。特に”The Way”の歌詞などは、痛烈です。

 こちらのブログでは、PV視聴可能で、英語の歌詞も読むことができます。
http://ameblo.jp/tkms63/entry-10427743236.html

 今回取り上げたいのが、このCD収録の「ファゴット〜レビ記」なる楽曲。「ファゴット」とは男性同性愛者への蔑称だとか。男性同性愛者が、信仰深い両親から責められ、自死を試みるという内容の歌詞。同性愛者である限りは、まるで信心深いクリスチャン両親から、息子として愛されないかのように受け止めてしまったのかと思える歌詞です。「男がもし女と寝るように男と寝るなら・・・彼らは必ず殺されなければならない」というレビ記20:13が同性愛差別の聖書的根拠とされてきたことに抗議をしているのでしょう。このことは、ミシェル自身が、黒人であり、女性であり、バイセクシャルであり、三重の意味で差別される立場にあること無関係ではないでしょう。

 同性愛行為を聖書的な視点から正当な性愛と認めず逸脱と評価することと、同性愛者の人権を認めないこととは別です。「同性愛反対=差別」ではないはず。特に同性愛者を非難するのに、レビ記を持ち出すのは、聖書の引用としては単純すぎるでしょう。この律法が語られた時代と状況や語られた目的と無関係に杓子定規に現代の問題に適用するのは、無謀すぎます。

 日本でも昔、ある同性愛者団体が某施設を借りて研修の際、同じ施設を利用するクリスチャンの団体の一メンバーから、レビ記20:13の言葉を告げられたそうです。それは日本の同性愛者の中では、よく知られた事件となっています。

 もし、こうした聖書の言葉の適用が正しいなら、その人は、同じレビ記の20章を根拠に、不倫したカップルにも、占い師や霊媒にも死刑を主張すべきです。さらには、旧約の記述を単純に現代に適用することが、正当なら、異教の神を信じる者は戦争で殺してよいことにもなりかねません。

 人権週間の中、人権を尊重される人々の中には、同性愛者や性同一性障碍者なども含まれています。「人権を認めること=その性愛行為を認めること」ではないし、「その性愛行為を認めないこと=人権否定」でもない。それが、聖書的だと私は考えています。少なくとも、クリスチャンが性的少数者を福音の恵みや神の愛と救いの対象として、最初から排除してしまうのは大間違いでありましょう。

 悪いのは聖書でもキリスト教でもありません。それを誤用、乱用、悪用した人類です。罪深い私たち人類は、こともあろうに本当の自由と平等を与えるはずの聖書の言葉を、差別や抑圧や搾取の正当化の根拠としてきました。そのためでしょうが、世界中にはキリストを賞賛しつつも、キリスト教会を敵視し、クリスチャンには失望している人々は少なくありません。この現実をどう受け止めればよいのでしょう。そして、今日の日本のクリスチャンは主の前に、どこまでの責任が問われるのでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 17:50 | - | - | - | - |
クリスマス前は人権週間(3)黒人教会のクリスマス(6回目掲載)
   いよいよクリスマス。私がブラックゴスペル関係や教会のクリスマスなどで時々お話することで、6年連続で掲載。これは、私の伝道者としての転機となったクリスマスメッセージでもあるからです。


「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を生んだ。それで、布にくるんで、飼い葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカ2:6、7)

 イエス・キリストという方は家畜小屋でお生まれになりました。実は、私自身ある書物を読んで、このことの持つ深い意味に目が開かれた経験あります。それは、以前、金城学院大学文学部のチャプレンであった藤井創先生の著書「世紀末のアメリカとキリスト教」(新教出版社)

 冒頭の聖書箇所からの白人教会での典型的メッセージは「イエス様は救い主としてお生まれになったのに、誰からも受け入れられなかった。だから、今、私たちはイエス様を救い主として受け入れましょう。」というもの。

 一方、黒人教会でのメッセージは「イエス様は救い主として来られたのに、誰からも受け入れられなかった。イエス様は受け入れられない者の痛みと悲しみを知っておられる。それはなんと大きな慰めだろう。」ちうもの。

 藤井先生はこうまとめておられます。「行き場のないイエスを自分たちの側に受け入れる方向のメッセージは白人教会のものであり、自らの拒絶される経験をイエスに重ね合わせるのが黒人教会のメッセージである。」(同著17ページ)

私はこれを読み悔い改めました。誰からも受け入れられぬ者の痛みや苦しみに立つことなしに聖書を読んでいたからです。イエス様自身が疎外差別される側に生き、そうした人々の側に立った「宣教のモデル」を身を持って示しておられるというのに・・・。

 この経験は私がブラックゴスペルのチャプレンとして奉仕していく神学的支えとなってきました。また、この社会から拒絶される胎児の立場にわが身をおいて、福音に生きようとする今の使命にも大きな示唆を与えてくださいました。

 こんなに豊かで平和な社会に生きながらも、居場所のなさを感じ、拒絶感を覚えなければならない私たちです。これが高度産業化と世俗化がもたらした人間疎外社会なのでしょう。そこに生きる私たちが今日、耳を傾けるべきメッセージは白人教会以上に黒人教会のものなのかもしれません。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 14:19 | - | - | - | - |
クリスマス前は人権週間(2)強制連行と奴隷労働
 最近MUSIC MAGAZINEの増刊で「プロテスト・ソング・クロニカル〜反原発から反差別まで」という書物を中古で購入。今年の夏、つまり3.11以降の発売なので、原発関係はとりわけ充実しております。

 プロテストソングが紹介されているのがその一つが何と!先日「いのり☆フェス」でお会いした沢知恵さんの弾き語りの曲が!沢知恵さんは日韓ハーフで両親とも牧師。私もこの方を十分存じ上げなかったのです。詳しくはwikipediaをがご参照下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%A2%E7%9F%A5%E6%81%B5

 プロテストソングとして取り上げられているのは、「りゅうりぇんれんの物語」。これは同名の詩を、沢さんがピアノの伴奏にのせて、70分にわたり、朗読するとうもの。主人公のりゅうりぇんれんにいても詳細は、wikipediaで。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E9%80%A3%E4%BB%81

 こちらにはCDの紹介と詳しい物語の内容が記されています。
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/notice/sawa-tomoe.htm

 雑誌Ministryでご一緒させていただいている某牧師先生は沢さんのファンだそうで、ブログ記事のなかで、この作品に触れておられます。
http://megumiboxy.exblog.jp/10011145/

 私は大人になってある時期まで、日本には奴隷制度やそうした事実があるとは思っていませんでした。しかし、ある時に日本が他国でその国の人を拉致したり、騙して連れてきて、奴隷労働させた事実があることを知り、大変なショックを受けました。

 朝鮮半島からの強制連行については歴史的事実としての有無が議論されるようですが、少なくとも、この詩が扱う内容となった中国からの強制連行と奴隷労働は事実であります。

 1944年に労働力として強制連行された一中国人。彼は新婚で身重の妻がいたのにです。北海道での炭鉱労働は、奴隷状態で、逃亡すれば、リンチという状況。四名で逃亡するも、彼一人のみ逃げ続け、14年間を北海道の原野で過ごします。戦後となったことも知らぬまま・・・・。

 先に紹介したブログにもあったのですが、私も思いました。横井さんや小野田さんは知っているのに、どうして自分は知らなかったのか?恥ずかしいと。自国人なら、報道し、他国人なら隠そうとするのか?敗戦者としての被害者意識を共有できるなら、共感できて、自国が加害者の立場なら黙殺しようとするのか?いろいろ考えさせられました。北朝鮮による拉致は批判されて当然でしょうが、まるで自国がそのようなことをしたことがないかのような、認識で批判することがあってはならないでしょう。

 強制連行の有無とは関係なく、朝鮮半島から来た人々や被差別部落出身者、アイヌ民族などが、炭鉱やトンネル工事等で、奴隷労働を強いられ、死ねばその場に埋められていくような現実があったのです。こうした目を被いたくなるような罪や悪の現実を認めることから、本当の意味での人権尊重や国際交流が始まるのだろうと思います。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 17:25 | - | - | - | - |
クリスマス前は人権週間(1)橋本徹氏出自報道の正当性
 毎年、クリスマス前は「人権週間」であります。本ブログで、アクセストップは、今年の3.11の時の8000アクセス越え。第二位は、テレビ番組「たかじんのそこまで言って委員会」村崎太郎さんが、被差別部落出身者であることの出自をカミングアウトした時の7000越え。というわけで、胎児の人権を使命とする限りは他の人権問題についても一定知識や意識を持っていたいと願いますし、発信していくことの意義を覚えるわけです。

 第一回目は、選挙も終わったので、橋下徹氏です。個人的には「たかじんのそこまで言って委員会」で共演?さていただいたので、特別関心を持っておりました。当時は弁護士で、まさか国政を動かすような政治家になるとは夢にも思っていませんでした。

 その橋下氏が選挙前に随分なバッシングに会いました。その政治理念や政策、手法が非難されるなら、分かります。そうではないのです。差別的と思えるバッシングを、それなりのメディアがしたのです。

 ことの発端は、週刊新潮と週刊文春でありました。新潮の見出しは「同和、暴力団の渦に呑まれた独裁者橋下知事出生の秘密」、新潮の方は、「暴力団組員だった父はガス管をくわえて自殺 橋下徹42歳 書かれなかった血脈

 橋下氏の実父(小2で死別)が、同和地区出身の暴力団員で自殺した云々と橋下出自を記してのバッシングであります。部落解放同盟は差別を助長するとして、両社に抗議文を送ったそうです。特に暴力団と同和地区を結びつける差別的イメージの助長を問題としています。「新潮45」などは、さらに橋下批判を続け、やはり出自について記しました。

 当の橋下氏は、報道内容を正々堂々事実として認めた上で、新潮と文春をツイッター上で激しく非難しております。
 
 「今回の報道で俺のことをどう言おうと構わんが、お前らの論法でいけば、俺の子供にまでその血脈は流れるという論法だ。これは許さん」

 これは、私も同感です。血脈を根拠にしていると受け取られる非難は、差別的であります。七人の子沢山で知られる橋下さんのお子さん達にも、この報道の影響はあるし、子ども達にも何らかの悪が引き継がれるかのような誤解を産むでしょう。これは聖書的でも現実的でもないまさに偏見でしょう。

 このことは村崎太郎さんのケースとは大きく異なります。村崎さんは、お子さんへの影響を覚悟で、自らの意思でカミングアウトしています。しかし、橋下さんの場合は、(以前からメディアは知っていたはずですが)選挙にあわせて、当人の意志に関係なく出自を公にされたのです。

 また野中広務氏のケースとも異なると考えます。野中氏は著名ジャーナリストによって、その出自を公にされます。彼の政治活動や政治姿勢は、被差別部落と強い関係があるからです。賛否はあるでしょうが、公人である野中氏を深く正しく理解するためには、出自を報道することは、一定の必然性があるといえないこともありません。

 しかし、今回の橋下徹氏の件は、お話にならない、差別報道なのではないかと私は怒っております。野中氏とは違い、橋下氏の政治活動は、同和問題と大きく関係しているとは言えないからです。どう考えても、批判材料はそれ以外の目に見える政策や手法などです。

 新潮と文春は「公人」ということで、差別報道にあたらない範囲だと反論しているのだとか。私は購読部数を伸ばしたいがために、あるいは何らかの政治的圧力があり、わざわざ、このタイミングで、報道の良心を捨てたのだと評価しています。

 もっとも、こうした一連のバッシングも、マイナスにはならなかったようです。「貧しさと差別を身を持って知っている政治家」「不遇な生い立ちから、世に出た大阪の誇り」などと、有権者にはかえってプラス材料に作用したとの意見もあるのだとか。結果は衆知のように大勝。

 橋下氏のことを一方的に共演者だと思っている私は、政治家としてではなく、一人間としての彼のために怒りたいし、報道の不当性を主張したく願い、今回の記事となりました。

 とりあえず、小さな抵抗と抗議をしようと決めました。「週刊新潮」は年に1回、「週刊文春」は年に3、4回は、新幹線や飛行機を利用する際に購読しておりました。しかし、当分は、購読をしないことにしました。これは私なりの聖書的な人権論に立ってのほんの小さな抵抗です。人権週間を迎えてのささやかな決意でもあります。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 14:39 | - | - | - | - |
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