命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう健全信徒(12)ウイークリーどんぐりころころクリスチャン
 今回のシリーズは童謡をネタということで第12回目は「ウイークリー・どんぐりころころクリスチャン」であります。つまり、前回の「どんぐりころころクリスチャン」の別バージョン。

 教会では主日礼拝がささげられ、クリスチャン達は祝福の基として世に遣わされていきます。どんぐりの木を離れて、「どんぐりゾロゾロ」と教会から証しの生活への派遣されるわけです。しかし、残念ながらどんぐりの中には、「礼拝から世に派遣されている」という意識ではなく、「世から礼拝に遣わされている」との「逆派遣意識」で信仰生活を送るどんぐりも。

 そうしたどんぐりは、一週間単位で、「どんぐりころころ発・お山が恋しい着」のローテーション生活に。派遣意識があれば、ころころとお池に遣わされても、大丈夫。戦いや葛藤を経て、たとえ敗北や挫折があっても悔改めて、恋しいお山に帰ってくるのです。

 しかし、逆派遣意識に基づくライフスタイルですと、「どんぶりこ」と、恐れも躊躇もなく、すっかりお池にはまってしまいます。これは「お池にはまってさあ大変」なのです。お池という神なき人間中心ワールドで、ドジョウ距離を置いたり、戦うことがありません。ドジョウと共に泥水に浸かり、世と調子をあわせまくりで、ドジョウと遊んでしまいます。

 派遣意識のあるどんぐりならば、そこで、悔改め、立ち返りますが、逆派遣意識のどんぐりは、それが「定番の平日生活モード」なのです。およそ悔改めの必要を感じません。そのような使い分けダブルスタンダードが、自分のクリスチャンとしてのライフスタイルなのです。

 では、すっかり、神様のことを忘れて、教会から離れてしまうかと言えば、週末になると「やっぱりお山が恋しい」のです。神様や教会の交わりからの離脱に至ることは、ありそうでないのです。

 こうして、「どんぐりころころお池にはまってさあ大変→ドジョウと遊んでも悔改めず→やっぱりお山が恋しくて→主日礼拝出席→また、どんぐりころころ」というパターンを一年52回ほど繰返す、それが、「ウイークリー・どんぐりころころクリスチャン」。その根底にあるのは、逆派遣意識やダブルスタンダードの正当化

 神様の派遣命令とは言え、どんぐりの木を離れて、お池に遣わされるのは、怖いです。辛いです。そこには葛藤や戦いがあるのですから。パウロでさえ、こころの片隅には恐れや恥を持っていたようです。ですから、お互い「どんぐりオロオロ」や「どんぐりソロソロ」あるいは「どんぐりトロトロ」でも良いので、正直に恐れや恥を認めながらも、どんぐりの木からお池に遣わされたいと願います。

 そう、たとえ、「どんぐりボロボロ」になっても、悔改めるなら、恋しいお山に受け入れられ、神様は再派遣して下さる!その恵みに生かされていることがクリスチャンであることの喜びであり特権なのでしょう。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 22:17 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(46)〜西城秀樹牧師
 主に立てられた牧師を「西城秀樹牧師」にしてはなりません。西城秀樹牧師とはどのような牧師か?ワイルドな魅力をもったイケメン牧師ではありません。そうではなく、その献身生涯が西城秀樹のヒット曲を体現するかのような牧師であります。

 まずは、「情熱の嵐」であります。「君が望むなら命を捨ててもいい」と、キリストへの命がけの思いをもって献身をするのです。その献身の思いは奉仕の姿勢や生き様にも、反映され、信徒の信頼や尊敬を集めます。

 しかし、晩年には残念ながら、「激しい恋」の歌詞のように。「やめろと言われても今では遅すぎた」となってしまいます。「お元気なうちに後継準備を」との周囲や先輩のアドバイスを軽んじてしまうのが、西城秀樹牧師。信徒たちも、これまでの献身的な歩みと貢献度を思うあまり、引退勧告ができなくなります。その結果、「今では遅すぎた」となるわけです。

 さらには、「後継者がいないから辞められない」と本末転倒?と思えるを理由を主張する場合も。「ヤングマン、さあ、立ち上がれよ」とアピールされるのですが、実際は、後継者となるヤングマンを、育てることも、指名することも、任せることもされません。

 生涯、現役牧師を貫かれ、ご本人は「秀樹感激!」でしょうが、成熟した冷静な信徒にとっては「秀樹」ならぬ「悲劇」でありましょう。この問題、この時代のキリスト教界全体の問題でしょうが、なかなか克服しがたいもののようですね。

 というわけで、信徒の皆さん。「情熱の嵐」路線を尊敬し、評価しつつも、晩年において「激しい恋」に至る前に、「ヤングマン」を育成し、後継準備を始められますよう強くお勧め申し上げます。


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 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 10:14 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(45)〜小川淳司牧師
 小川淳司って誰かご存知ですか?今や首位独走状態のヤクルト・スワローズの監督ですがなー。プロ野球ファンでも、フルネームが言えないほど、目立ちませんな。でも、球史に名を残す名監督になるのでは?との声もあちこちに。

 プロ野球の監督には二種類あります。かつてのスター選手が、球団の監督になるパターンです。もう一つは、 選手時代には平凡な成績であっても指導者として優れた実績を残すパターンであります。西本監督や上田監督、そして古葉監督などはその典型でしょう。きっと後世、そこに小川淳司監督も加わるのでしょう。既に名将と評価されている「オレ流監督」を上回る選手起用と采配を見せ付けてくれています。最近は勝てる気がしない程の名将ぶり。

 適材適所に配置された選手が、ありえないほどの大活躍で、実に投打のバランスがよく、チーム力アップが結果につながっております。それなのに、監督のキャラが前面にでないこの地味さ。いいですね。「選手が活躍し、チームが賞賛され、監督は脚光を浴びない」。これは優れたリーダーの一形態だと思うのです。

 そこで、最近、私が理想的であると考えているのが、「小川淳司牧師」なのであります。リーダーとして適材適所にスタッフや信徒を配置して、信徒が大活躍、教会形成や宣教の働きは充実し、実を結んでいく、こうしたヤクルト的なあり方は健全でいいのでは?信徒は乳酸菌のごとくよく働きながらも、リーダーである牧師は前面に出てきません。

 「あの教会、健全で堅実に実を結んでいるね」 
 「信徒が一致して、よく教会を建てあげているね」
 「あそこの信徒は教会の外でもいい証しをしているらしいよ」
 「でも、牧師誰だっけ?何て名前でしたっけ?」
 「そういえば、失礼ながら、知らないなー」

 私は、たとえばこういう牧師が、理想的なあり方の一形態だと思います。優れた教会形成や宣教をされ、結果的に牧師が著名になってしまうのは仕方ありません。しかし、教会や信徒たちの働きを以上に牧師個人が評価されすぎてしまうのは、場合によっては、どうかと思うのです。

 日本文化はどうも、カリスマ性のあるリーダーを好み、依存的になり、リーダー個人の求心力で人が集っていく傾向があるようです。その結果、リーダーにはつながっているがキリストにはつながっていないという残念な教会形成がなされることもなきにしもあらず。

 その点、小川淳司牧師は健全です。キャラは立たないし、カリスマ性もありません。でも、その地味なキャラと誠実さを評価できる信徒が、牧師依存にならず、成長し組み合わされていくのです。教会が評価されてきても、牧師はあまり目立ちません。「牧師誰だっけ?」と言われてしまいます。それでいいのです。キリストがオーナーで、信徒が選手、監督は地味でもチームが強ければいいのです。

 「うちの牧師、地味でつまらん」とか思っている信徒の皆さん。牧師は政治家でも芸能人でもありません。聖書が描くリーダー像に合致していれば、いいのです。あなたの願う牧師像を、牧師に押し付けてはなりませんぞ。顧客満足度ではなく神様満足度。聖書が示す神の御心の牧師像を牧師に願い、実現を祈りましょうよ。

 そういうわけで、「うちの牧師、地味でつまらん」とお思いの信徒の皆さんは、再度、聖書的基準でご自身の所属教会の牧師を評価されますように。そして、小川淳司タイプと判明したなら、適材適所に配置していただき、乳酸菌のごとく忠実に働き、メイクミルミル教会を建てあげていただければと願うばかり。

 P.S.そういえば、マジで、なでしこJAPANの監督の名前知らんぞー!

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| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 11:06 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(44)はばかり牧師
 凝りもせず、またこのシリーズであります。「はばかり牧師」とは誰か?「はばかり」だからと言って、遠慮ばかりしている牧師、障害になっている牧師ではございません。もちろん「はばかり」と言っても、トイレにこもって祈っている牧師でもありません。

 実は「はばかり」とは「葉ばかり」という意味。でも、「葉ばかりで実を結ばない牧師」という意味ではありません。そう、「はばかり牧師」とは「全身葉ばかりの牧師」のこと。何の葉かと言えば、いちじくの葉なのです。つまり、いちじくの葉で全身を隠しつつ交わりに生きている牧師のことであります。

 このネタを思いついたのは、知人牧師がメールで牧する教会の週報掲載の記事を送ってくださったから。大変優れた記事ですので、執筆者のご許可をいただき、ここに転載します。(太字は私の編集によるものです)


まだいちじくの葉が必要ですか?
 最近つくづく思うことがあります。それは私たちが見聞きすること、表に表れることはほんの一部であって、隠されていて見えないことが少なくないといういうことです。表向きには体面を保っていること、あるいは体裁を繕っていることがあっても、現実はまったく違うということはどこでも聞きます。政治の世界も、報道されるできごともしかり、私たちが接する人の中にも、「知らなかった」ということもしばしば。

 アダムとエバが神に逆らい、木の実を食べたとき、彼らは互いが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆いました。この出来事は非常に象徴的です。罪の結果、人と人との間にはができて、あなたには見せられない。あなたには見せたくない。という思いが互いに生じたということです。その裏にはどうせわかってくれない。受け止めてもらえないという相手に対する不信があるのです。

 私たちがそれを乗り越えていくために必要なことはどんなことでしょうか。
「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」エペソ4:25

 それは、新しい人、新しいからだという理解が必要です。古い人、古いからだはいつまでもいちじくの葉を必要とします。罪を知られることへの恐れ、人から責められることへの恐れ、だから人を信じられないという思いをいつまでも持ち続けるのです。私たちは、恵みによって赦された者たちです。互いの交わりにおいて、赦された者でたちであるゆえに、互いを赦します。決して捨てません。そこから、真実な交わりを築くことができるのです。それを信じて歩む者とさせていただこうではありませんか。

 こちらの教会のサイトの7月3日のブログでもお読みいただけます。
http://matsumura.jpn.ch/church/

 
 この記述は、キリストの体であるすべてのキリスト者に当てはまることでしょう。しかし、「教会で最も多くいちじくの葉をまとっているのが牧師」という現象は珍しくないのでは?牧師が、自分の本当の姿を見せることを最も恐れ、不都合に思えるのは、信徒を躓かせないためには、ある意味、当然のことでしょう。また、自分が思い描く完璧な牧師像を演じようとするあまりに、隠れた罪、過ち、失敗、逸脱、弱さなどを悟られぬようにし、、それについて責められることを恐れます。

 ありもしない批判を恐れたりする予期不安に縛られている牧師も珍しくないようです。過去には信頼を裏切られたり小さな失敗を過大に非難されたトラウマもあるでしょう。そうした積み上げの末に、信徒に牧師独自の課題や葛藤や戦いを伝え、理解を求めることもせずに「信徒にはわからないから」「牧師は孤独なもの」と勝手に判断し、自己開示をしないことも。

 そうなると、教会の中で、牧師が「最多いちじくの葉所持者」となりかねません。つまり、牧師が最も不真実な交わりに生きているわけです。信徒に模範を示すために神様は牧師に権威を与えているというのに、これでは全く交わりの模範になっていませんね。

 牧師の側が、エペソ4:25に生きる意識変革や実践が求められるのは当然でしょう。牧師自身が、自らを信徒同様キリストの体の一部と位置づけて、偽りを棄て真実を語るのです。体の各機関が、別の器官に偽りを言ったら、体は機能しませんから。熱いのに冷たいと言えば火傷します。痛いのに心地よいと言えば、体のどこかが傷つきます。「牧師自らがキリストの体を傷つけてどうすんの?」ということになります。

 とは言え、交わりは相互の努力が大切。信徒の側も、牧師の本質的でない過ちや失敗には、寛容であっていただきたいもの。本質的なものについては、責めるのではなく、愛をもって真実を語り、訂正や謝罪や戒めを通じて、赦しや回復のプロセスを歩んでいくことかと思います。

「牧師のいちじくの葉、20%削減目標」などの自己目標スローガン
「先生、いちじくの葉、多すぎ!そんなに責めたりしませんから・・・」との信徒の優しい言葉
「そんなにいちじくの葉が多いと、信徒と真実な交わりができませんよ」との牧師夫人からのお叱り。

 そうしたことが、「はばかり牧師」に葉っぱを捨てさせる勇気を与えてくれるのでしょう。育てよう健全牧師、「はばかり牧師」に葉っぱを捨てさせる信徒でありたいものです。

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| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 11:11 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(43)「原発牧師」
 時節がら「原発牧師」には要注意と言えるでしょう。原発牧師とは、非常に大きなエネルギーを持っており、宣教や専門分野などで目をひく働きをして、高い評価を受けます。しかし、そのエネルギーの性質は、一部の専門家ら(判断力のある教職など)は、危険要素(特に強行突型や自己愛の強さ)を指摘されています。

ところが、一般的な信徒はその強大なエネルギーを評価し、カリスマ性を感じたりして、心酔し、危険性を見抜けないで過ごしているわけです。

 地震多発国の国土の上に位置するのですから、「絶対安全」と言えるはずがないのに、絶対安全という前提がまかりとおる不思議な世界があります。これがいわゆる「安全神話」。同様に、牧師といえども、罪人という事実や原罪の上に、位置する生身の人間。絶対安全なはずがありません。にもかかわらず「先生がそんなことするはずがない」との事実誤認で非聖書的な「牧師安全神話」に生きる信徒たち。

 安全神話に立たなければ、会計面は複数信徒がチェック、牧師室で異性と二人にしないとか、密室にしないなどの防御策で、牧師を守る対策も講じたであろうに・・・。牧師安全神話信奉者であるが故に、そうした防御策も怠ってしまい、無防備にも牧師を多大な誘惑にさらしてしまいます。

 一定の業績を上げ、周囲からの評価もいただき、ある程度の権力を手中にすれば、高慢の誘惑が訪れます。多忙の中でストレスが強ければ、そのバランスを取るための逸脱行為への誘惑も強まります。

 そして、誘惑の津波がやってきます。弱いものは、退けることもできますが、強力なものには、太刀打ちず、たちまち「メルトダウン」であります。「炉心溶解」ならぬ「良心溶解」となり、信仰的良心も、牧師としての良心もメルトダウンしての逸脱行為

 こうした場合は初期対応が大切。にもかかわらず、メルトダウンの可能性を想定しながらも、知らせようとしない役員の東電的対応によって、最初の対処がずれます。廃炉になることを、惜しんで、働きを続けられる方向へ持って行こうとします。これが極端になると隠蔽工作となってしまいます。

 やがて、信徒たちも事故であることを認識し、不安を覚えます。きちんと事実説明をするように要求する信徒もいれば、神話崩壊を認めたくないがために事実すら見ようとせず、感情的反応に終始する信徒も。危険と判断して、他教会に避難する信徒も出始めます。

 その後、放射能物質の除去など事態収拾に、役員や残された信徒、後任牧師が多年を費やすことも。最終的には、火力や水力などのエネルギーによって、働きを進め、回復へ向かえば感謝でしょう。

  一旦事故を起こした原発牧師が、働きを継続する場合は、しっかりと悔改めの期間を経て、その結実の末に「火力牧師」「水力牧師」として、新たな働きを開始していただきたいもの。間違っても、原子力燃料を持ったまま、旧教会の信徒を引き連れて、近隣で「原発教会」を始めるのだけは、おやめいただきたいもの。

 そもそもこうした問題は、「牧師安全神話」に問題があるわけです。教会や団体の規則・規約までもが、こうした牧師安全神話に立ち、教職への戒めが実行可能なように規定されていなければ、「原発事故は起こりえないから対策をしなかった、想定外でした」とのトホホな言い訳と大差ないでしょう。「聖書信仰者が、神話にたってどうすんの?」とのツッコミの声も聞こえてきそうです。

 牧師のカリスマ性や極端なリーダーシップ、強烈で魅力的な個性、卓越した能力や異常なまでの熱心などは、場合によっては、美徳ではなく、原子力エネルギーである場合も・・・。水力発電も火力発電も危険性がないわけではありません。でも「火力牧師」「水力牧師」はやっぱり安心。被害が少ないです。

 最近つくづく思うのですが、所属教会の牧師を「地味でつまらないなー」などと思っている信徒さんは、「安全性が高くて感謝」と悔改めて、評価逆転していただきたいです。カリスマ性のある牧師に魅力を感じたり、ある魅力に心酔したがるといった「聖書とは異なり、聖霊とは無関係の肉性の克服」が、教会健全化の鍵かなーなどとも思うのです。もしかすると「脱原発牧師」が健全な教会の最優先項目なのかもしれません。

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| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 09:23 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(42)「高学歴・低学力牧師」
 高校の教師であった頃、大変、考えさせられたケースがありました。ある男子生徒が、勉学の意欲を失い2生年で退学。一年後に聞こえてきた情報では、彼は、運送会社に勤務し、一年で社内業績トップでかなりの高給取り状態。若い高校教師に勝ってたりするわけです。しかも地元名門公立大学の彼女までいるというのです。

 片や、聞こえてくるのは、いわゆる優等生男子生徒にまつわる残念な情報。希望通りの大学に入りながらの不登校状態。有名大学に入りながらの人間関係での深刻な悩みなど。勉強はできても、現実の人間社会に適応できなかったりするわけです。

 一般的な学習塾なら、希望通りや有名大学に生徒を入れたら、成功です。勉強力、受験力、試験解答力をつけて、希望進路に進ませたら、塾の責任は果たしていると言えるでしょう。しかし、学校が生徒に与えたり、伸ばしてやるべきは、勉強力、受験力、試験回答力ではありません。「学力」です。

 本ブログでは繰り返し紹介しますが、国際的な定義では「学力」とは「市民社会に参与する力」であります。勉強力、受験力、試験解答力ではありません。学校などの準備期間を終えて、最終的に市民社会に参与する力を学校は育てるのです。

 そう考えますと、退学した前者の生徒は、高校を卒業せずとも十分な学力を既に持っていたと言えるのかもしれません。後者のような優等生は学校の成績は抜群でも、持つべき学力は乏しかったのではないかと心配になります。こうした現実があるので、真面目で意識の高い教師ほど、「自分は本当の教育をしているのか?」と自問しますし、「勉強だけさせて学力を与えていないような現実」があれば、それに疑問を持ち葛藤するものです。

 このことは、かなりの教育機関に起こりうることでしょう。そう、牧師養成を目指す神学校も例外ではないでしょう。私は「クリスチャンの学力」とは「神の民として生きる力」や「キリスト者として市民社会に参与する力」だと考えています。

 思うに、そういうわけで、多くの神学校は寮生活があったり、既婚者であれば家族寮などがあるのでしょう。独身は寮生活で、こうした学力を訓練されます。ルターが「結婚生活は修道院以上の訓練」との趣旨の発言をしている通り、既婚者には結婚生活が学力の向上の現場であります。

 しかし、どうしたわけか、宣教、牧会の現場には、「高学歴・低学力牧師」が存在します。牧師も「時代の子」だからです。時代の制約からは逃げられません。

 携帯やゲームだけではないでしょう。家庭生活や学校生活においても、人格と人格が真剣に向き合わず、表面的な関係だけで生きてしまう時代です。対人関係で錬られて、「学力」をつける機会がすくないのが現実。もちろん神学校生活で、学力を付ける者も多いでしょうが、それだけは、遣わされた現場によって厳しいことも多々あるでしょう。

 最もまずいと思うのは、そうしたことから逃げて、逃避的に勉強をして、自分の本当の課題に向き合わず、神学校を卒業してしまうことでしょう。そういう卒業者は、現場に出て破綻したり、教団の教職審査等で、他の道を勧められたりすることも。

 牧会・宣教現場に出る前に一定の学力をつけるのは、召された者として当然の責任だと思います。それを逃げてしまうようでは、お話しにならないと私は厳しい見解を持つ者です。しかし、ある程度、学力をつけていても、現場に対応できない若い教職も多くいます。私はこうした教職には同情的です。自分自身も程度は軽くてもそうした要素を持つと自覚しているからです。

 時代の子である若い牧師は、やはり濃密な人間関係に耐えられません。教会内で対立的な人間関係になってしまうと克服する気力や知恵がありません。信徒からの愛ゆえのアドバイスさえ、自分の人格否定へと自動翻訳して受け止めて、恐れに支配され、自己保身的になり、悪循環に陥ります。人間関係を構築し信頼を結ぶ学力に欠けています。先輩世代にすれば、こうしたことは、あまりに未熟で、お粗末に見えてしまうことでしょう。

 しかし、先輩牧師は「時代の子」のメンタリティーを理解して、励まし導いていただきたいですし、年上の信徒の皆さんには、世代の違いを受け止め、かなり忍耐が必要かとも思うのです。そして、そのシリーズのタイトルのように「信徒が牧師を育てる」あるいは「牧師と信徒が共に成長する」という視点のそれに立った実践があれば、30代教職の破綻や逸脱や残念な転任、どうかと思う留学などは、かなり防げるのではと考えています。もっとも、そうした成熟した信徒でないことが、多くの教会の問題なのでしょうが。
 
 日本の社会は勉強さえできれば、他の事柄はあまり注意されずに過ごせてしまいます。特に男性の場合はそうでしょう。ですから、「高学歴者に低学力者が多くなる」という皮肉な現象も珍しくありません。私がお聞きするクリスチャンの結婚問題に、夫がクリスチャンホーム育ちの大学院卒業男性というケースが多いのには驚いています。

 若い世代の牧師にも「のび太君よりのびしろ君」の原則は当てはまるように思います。「高学歴低学力」の現実に信徒が失望する心情は理解できます。しかし、あまりに完成品を望みすぎてはいけないと思うのです。特に牧師依存的な心情から、若い牧師に過度な要求や期待をすることは、最終的に牧師の成長の芽を摘んでしまうことになりかねません。やはり、のびしろを期待して、「信徒と牧師が共に成長する」という聖書的あり方が求めれると思ったりします。

 ちょうど、クリスチャン新聞の最新号(5月29日号)のオピニオンは、この件を扱っています。「若い伝道者を育てる温かい眼差し」と題して、同盟教団の嵐時雄先生が、聖書的な視点から、貴重な提言をしてくださっています。

 若い伝道者の課題は十分認識しつつも、上の世代から苦言として聞かれる「スピリット」や「ハングリー精神」については吟味の必要を訴えておられます。21世紀の伝道者に備えられたよきものにも目を向けさせて下さっています。ある課題を持ったテモテにパウロが接したあの姿勢を模範として「パウロのような暖かな眼差し」と必要性を提案しておられます。読者にとっては、若い伝道者に対しての自らの態度が聖書的かどうかのよき検証にもなるかと思います。この件に関心と重荷のある方にはぜひ、ご一読いただきたい優れた論説だと感じています。

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育てよう健全牧師(41)「多言天牧師」
 このシリーズもついに41回目。教会教育とは、牧師が信徒を教える一方通行ではなく、信徒が牧師を育てるという面も。そして、それは教会教育プログラムの中ではなく、教会生活という生活の場で行われることでしょう。「教会生活即教育の場」。それが牧師が信徒から受けるべき教会教育なのだろうなとか思っているわけです。

 そこで今回取り上げたいのが、「多言天牧師」であります。そもそも仏教には「多聞天」という神様がいます。七福神の毘沙門天と同一とのこと。元来はインド神話の神で、その名前の意味が「よく聞く者」との意味があるので、「多聞天」と訳されたようです。

 ある牧師が「牧会は膝のお仕事ですよ」とおっしゃったのを覚えています。膝とは祈りの膝のこと。つまり、牧会の本質、あるには基本は信徒を執り成し祈ること。確かに、直接信徒と触れ合わない場面で、信徒を愛し、労しているかどうかが、実際に信徒に対している時の言動などを決定するだろうなーと思います。

 「多聞天」なる偶像の名称から思うことは、「牧会は耳のお仕事」でもあるということ。信徒の相談では、話を傾聴すること。教会の中での信徒の言葉には謙虚に耳を傾けるべきでしょうし、信徒からの苦情やお叱りなどにも耳を閉ざしてはならないでしょう。そうかんがえるとよい牧師は「多聞天」牧師かなーと思いながら、自らを反省。

 そこで、信徒の皆さんに提案。大切な牧師を「多言天牧師」にしてはなりません。また、既に「多言天」である牧師を放置してはなりません。10%でもよいので、発言削減を試みましょう。

 多くの悩みは聞いてもらうだけで、大きく解決に向かうもの。自分で言語化するうちに、悩みが明確化したり、自分が客観視できます。しっかりと心を込めて、聴いてもらうだけで、心が軽くなり、信仰的に考えられるようになります。既に聖書的正解を持っていながら、従えずに苦悩している場合などは、聴いていただくだけで、聖書の言葉に従った決断実行ができることも。牧会の現場などでは、多聞天でいるだけで、信徒が聖書に従い、試練を克服し、成長していく場合もしばしば。

 それなのに、話を半分も聞けば、全容が予想でき、模範解答も準備できてしまう牧師は、多聞天どころか、「半聞天」状態。そこで起こるのは、「半聞天事件」。さっそく、聖書に立脚した正論を信徒に伝え、その見解に従うように指示を出し、さらにそこから、発展して、論理が展開し、説教になったりするのが、「多言天牧師」。発言がエコでないのです。聖書的に正しいとは言え、必要も効果もない無駄な言葉があふれ出しています。言葉数が多ければ効果があると思っているのか?聖書に立脚した的確で簡潔な言葉が持つ絶大な力をご存じないのか?信徒の中に御言葉と共に働くご聖霊の働きを信頼していないのか?心配になるほどの多言ぶり。

 聴かされた方は、何がポイントか結論か分からず、単に圧倒された気分や意味のない仮想充実感疲れを覚えるだけのことも。信徒が相談に来なくなったり、牧師との交わりを避けるようになっても、まだ、気づかないようだと重症なのかも。

 私は男性牧師の場合は、牧師夫人が愛を込めてはっきりと指摘するのが一番かと思っています。
万が一、夫婦の会話まで男性牧師が多言天になっているとすると、末期症状でありましょう。
 
 「目にあまる」ならぬ「耳にあまる」ような場合については勇気と愛のある信徒さんは、「先生、多聞天って知ってます?」「先生、多言天入ってますよ」などと、切り出して上手に指摘するのも、いいかもしれません。

 というわけで、育てよう健全牧師、育てよう多聞天牧師
 

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育てよう健全牧師(40)
 今回取り上げたいのは、「祭司おひとり様牧師」であります。「牧師とは何か?」と問われる時、「預言者的役割を持つ」とか「祭司的役割」とか説明されます。私も基本的にこれには賛成します。しかし、あくまで「」ですから、旧約そのままではないわけです。神の言葉を取り次ぐ意味では預言者的職務でしょうし、神と民の間を仲介する意味では、祭司的職務でしょう。

 そこで、考えたいのが、「牧師は祭司職とは具体的に何の職務を意味するのか?」であります。牧師は祭司職だから、神と人との間を執り成すのは牧師の職務というのは分かります。でも、祭司職を特権化してしまうとどうかと思うのです。祝祷は牧師の職務。聖礼典は牧師の職務。ここまでは多くの教会で認められているでしょう。しかし賛美の選曲は牧師の職務、礼拝形式の決定は牧師の職務、牧会に関することは牧師の職務・・・・・。これは多様でありましょう。逆に「牧師は祭司だから伝道は牧師の職務」と牧師こそ伝道の先頭に立つべきとお考えの信徒も。

 でも、よく考えてみると、プロテスタント教会は「万人祭司」ですよね。牧師の「牧師は祭司職だから・・・・」は正当でしょうが、「信徒も祭司なのですが・・・・」も正しいのです。ですから、祭司職の特権化はどうかと思うのです。間違っても、牧師一人が祭司職なのではありません。もし、そうなら、そのプロテスタント教会は、教会を宗教改革前にタイムスリップさせる「バック・トゥ・ザ・カトリック教会」でありましょう。「どこがプロテスタント教会やねん!」と神様が関西人なら突っ込みが入るかも。

 万人祭司とは「牧師も信徒も祭司」ということ。でも、この意識って、意外と牧師と信徒に入っていないのでは?自分だけが祭司であるかのような「祭司おひとり様牧師」や牧師だけが祭司と考える「祭司他人事信徒」という状態に、日本の教会は陥りやすいのでは?などと余計な心配をしてしまうわけです。

 そこで、「同じ祭司なら、牧師と信徒は何が違うんじゃ?!」という問いかけが起こるわけです。榎本保郎先生は「万人祭司だが、万人牧師ではない」と「一日一章」に記しておられます。「信徒でなく、牧師だけが召されているある職務」が存在するわけです。

 さらにまた、「では、それは具体的に何か?」となれば、いよいよ難しいわけです。牧師独自の職務、その線引きが不明瞭であるために、牧師と信徒の両者が、困惑したり、越権行為疑惑をおこしたりすることも。私自身は、教会政治に応じて、杓子定規ではなく一定柔軟な線引きをして、明文化し、牧師と信徒で共有するのがよいかと考える一人です。でも、その一方でそうした合意と共有の困難さも一定理解しているつもりです。

 改めて考えてみると、「祭司おひとり様牧師」と「祭司他人事信徒」では、プロテスタント教会の実質を失っていると言われかねないと思ったりしてしまいます。「万人祭司意識の信徒」と「万人祭司主義だけど万人牧師でない意識の牧師」というのが基本中の基本のように思うのですが、これが、そう簡単に実現化できないのが、日本のキリスト教界の課題なのでしょうか?

 もちろん、牧師が「祭司おひとり様」状態でない健全牧師として歩む最高の方法は、信徒が「万人祭司」意識をもって宣教に励んだり、教会を建て上げることでしょう。そこで信徒の皆様には、大切な牧師を「祭司おひとり様」にしないためにも、どうか「祭司お連れ様」レベルにはなっていただければと願うばかりであります。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。


 

 
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 21:11 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(39)

 一字違いで大違い」と言います。 「アメイジング・グレイス」の「ア」を「ダ」に代えれば「ダメイジング・グレイス」となり、その意味は正反対に。そこで、今回取り上げたいのは時に、アメイジング・グレイス牧師が、ダメイジング・グレイス牧師になることもあるという残念なお話。

 たとえば、救霊の情熱に燃える牧師が自らの賜物を活かし、効果的な伝道。その結果、開拓教会として急成長。ここまでは「アメイジン・ググレイス」。しかし、牧会・教育面は苦手、一定、信徒に任せることもできず、教会形成が進んでいきません。教会が一定規模になっても、開拓教会体質を抜けて、成熟に向かいません。いつまでも伝道団体のような教会です。牧師個人の限界や力量が今度は教会の成長をとどめてしまいます。こうなってしまうと、功労者であるはずのこの牧師の存在は一転、「ダメイジング・グレイス」となるわけです。

 あるいは、優れたみことばの取次ぎ、卓越した教育力や教育システム、キリストを体現するような牧師の品性、神の愛を体現するような愛に満ちた交わりの形成、強力なリーダーシップ、何であれ、牧師の賜物が大いに用いられ、教会は成長、そして成熟。

 しかし、30年や40年を経過すれば、年齢を重ねた牧師にも変化が。かつて有していた何かを失うことも。そうでなくても、社会や時代、信徒の現状も大きく変化し、かつて機能していた何かが機能をしないことに。次の世代を担う牧師と二人体制なら、まだ、よいのでしょうが、そうでないとどうしても牧師とともに教会が老齢化してしまうことも。しかし、功労者である牧師を、教会の現状に照らし合わせて、冷静に評価することは、信徒心情としてはきついわけです。

 場合によっては、「過去アメイジング・グレイス」が「現在のダメイジング・グレイス」となることも。「ア」が「ダ」にならないためには、当人がご自分を客観視され、献身者として教会の益を優先されることでしょうが、これがなかなか困難な様子。最高のパートナーである牧師婦人が、それを示してくださればよいのですが、そうした夫婦関係ではないことも。既にそのことに気がついている中心信徒も、忠告は出来ても説得や実現はなかなかです。

  「アメイジング・グレイス牧師」が「ダメイジング・グレイス牧師」に変容していくのを、観察しながらも、過去の幻影を教会の求心力として歩んでいく教会も少なくないのかもしれません。 たとえ「アメイジング・グレイス牧師」が「ダメイジング・グレイス牧師」に変容してしまった事実があったとしても、それを事実として提示し、教会や団体の中で考察検討し、再発防止対策を実行することなど、とてもできそうにない雰囲気や体質の場合もあるでしょう。戦後60年を経て、一定そのことを成し遂げて、新たな歩みをしておられる団体もあれば、まさに現在そのことで葛藤の中を通っておられる団体、さらにはそうした発言自体がタブーとなっている団体もあるように、私個人は観察しております。

 聖書に登場するリーダー達の中にはアメイジング・グレイスな人物が、晩年にはダメイジング・グレイスで終わっていったケースがかなり多いのではないでしょうか?聖書が描くそうした人間の限界、経験豊かであることからの罪、実績者の過ち、高齢者の独自の逸脱などから目をそらさず、この課題に勇気をもって取り組むことは、いわゆる「聖書信仰」で教会や団体が歩むことの一つだと思うのですが、どうなんでしょうね。

 過去のアメイジングな面は、評価し感謝し、その牧師を尊敬するのは当然のこと。その上で現在のダメイジングを直視することは決して、先輩への「不敬罪」には相当しないと私は思うのですが・・・・。それとも、これって「現実を知らなすぎる理想論」とか「現場と乖離した観念論」という評価を日本のキリスト教界では受けてしまうのでしょうか?

〈追記〉
コメント王子UGOUGOから以下のようなコメントをいただきました。
笑いとしては座布団3枚、まとめとしては、最高かと思います。

教会が受けた主からの恩を「ア」「ダ」で返してはいけないなぁと思いました。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。

 
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| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 10:38 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(38)
 主に立てられた尊い牧師を「城南教会の宮路牧師」にしてはなりません。「城南教会の宮路牧師」と言ってもこれは、普通名詞であります。決して固有名詞ではございません。ですから、日本に数箇所あると思われる「城南教会」や多くいらっしゃるであろう「宮路姓の牧師」の皆様など、実在の教会と牧師とは一切何の関係もございません。どうか、お気を悪く為さいませんように。

 「城南教会の宮路牧師」と言われても何のパロディーか分からないという読者もおられるのでは?そこで説明いたしましょう。もとネタは「城南電機の宮路社長」であります。それでも、「誰それ?」とか「知らない」という方はこちらをご覧下さい。

wikiphedia「宮路年雄」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%B7%AF%E5%B9%B4%E9%9B%84

 突出した商売人根性とユニークで明るいキャラで、タレントとしても大活躍の社長でありました。しかし、wikiphediaの「略歴」の最後にあるように、社長の没後、ご子息が急遽、後継者となったものの、たったの一ヶ月で全店閉鎖という記録的?衰退となったわけであります。

 このことから予想されるのは、宮路社長の超ワンマン経営体質、世代交代と後継者育成の先送り、社長個人の人脈に依存しすぎた経営体質などでありましょう。

 そこでキリスト教界で、時にお見かけするのが普通名詞としての「城南教会の宮路牧師」であります。それは、戦後、開拓から始めて何百名が集う大教会にまで成長を導いた有名牧師であったりします。あるいは、礼拝者数、数十名の教会に就任し、その教会の礼拝者を数百名にまで、増やした有力牧師である場合も。ここまではいわゆる「成功したと言われる牧師」であります。そうです、これだけでは、「城南教会の宮路牧師」ではありません。

 では、何をもって「城南教会の宮路牧師」と呼ばれるのか?その牧師の退任後、あるいは召天後に、教会の礼拝人数が急減したり、人数には反映せずとも、著しい実質的衰退をする時に、この牧師は「城南教会の宮路牧師」だと推定されるのです。つまり、一世代で隆盛を極めながらも、次世代に著しい衰退を招く、それが城南教会の宮路牧師であります。

 牧師の働きは信徒をキリストにつなげるはず。ところがどういうわけか、ご自分につなげてしまうのが、宮路牧師。キリストの弟子となるための訓練が牧師の弟子を育成してしまうのも、宮路牧師の特徴。所属団体や他教会、超教派団体との関係も、教会の代表としてよりは、牧師個人としての関係になってしまいます。こうなると教会員にとって信仰のアイデンティティーは、キリストでなく一牧師となります。そして、教会の働きも、キリストの体としてではなく、牧師個人の働きと同一化してしまいます。

 牧師個人が突出した求心力によって教会形成をした場合、それを、どこかでシフトチェンジして後継者を育成し、責任委譲をしませんと、なかなか大変なことに。当然「自分でなければ」という思いが牧師にはあり、信徒にも「先生でなければ」という思いがあるでしょう。それが「いつまでも自分であってはいけない」という牧師の意識、「先生のご活躍は感謝だが、後継責任を果たしていただければ」との信徒の思いへ必要な時期に、変化すればいいのですが、なかなかそうはいかないのが現実のようです。

 なぜなら、既に牧師が教会のアイデンティティーになっているからです。「クリープを入れないコーヒーなんて」のように「〇〇先生のいない教会なんて」になってしまいます。「〇〇先生がいなくてもキリストがいるのだから立派な教会だ」などと聖書的正論さえ言ってはいけないムードが教会に蔓延してしまいます。

 というわけで、宮路牧師の退任あるいは召天後は、城南電機のような末路になることも。もちろん、一ヶ月で教会が閉鎖になるわけではありません。しかし、偽りの求心力やアイデンティティーを失った信徒は、本物の教会の一致や信仰のアイデンティティーに容易には立ち返れません。立ち返りたくても、どうすればいいのか分かりません。なぜなら、それまで、教えも実践もなかったからです。
 
 ですから、新たな体制になっても、信徒たちはどう教会形成をしていけばよいのか分かりません。前任牧師時代のあり方が全てだからです。たとえ、新たに就任した牧師が優秀で健全であっても、残念なことに正当に評価されません。教会は数の減少とは限りませんが、実質的な衰退に向かうわけです。そこに一見活発に見える活動があったとして、それは単なる過去の機械的継続に過ぎないことも。
 
 この記事を読まれ、「うちの教会、城南教会体質だよなー」、「うちの牧師宮路牧師かもね」と思われたら、どうしたらよいのでしょう?対立的にならずに、教会を健全化することはあまりに深い知恵を要します。愛をもって牧師にお話しをしても、認めて受け入れられることが困難なことも。一旦、教会が城南体質に陥ったり、牧師が宮路化してしまい、さらにそれに、礼拝人数増加というお墨付き?が加わると、これはいよいよどんどん肯定され固定化されていきます。それに異論を唱える健全な信徒が、教会に留まることができなくなり、離れていけば、健全化はますます困難になっていくわけです。こうしたところに、大規模教会が不健全化した場合のどうしようもない困難さがあるように思えてなりません。

 超教派団体で仕える者としていつも願っているのは、教会が健全であること。特にどうしても他教会への影響力が強い大規模教会が健全であることを願っています。「城南教会の宮路牧師」という表現は、もしかすると、日本のキリスト教界のある課題を、明確化する一つの切り口なのかもしれません。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。

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