命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう、健全信徒(22)〜手間取り姉妹
 今日のテーマは「手間取り姉妹」。えっ!何のパロディーか分からないって?そんなの「こまどり姉妹」に決まってるでしょー。何?「こまどり姉妹って誰?」だって?

 「こまどり姉妹」っていうのは、「ザ・ピーナッツ」の演歌版だと思えば、いいでしょう。えっ!「ザ・ピーナッツが分からない」って?じゃあ、あの「リリーズ」の浅草版ですがな。「リリーズって誰?」だって?「好きよ、キャプテン」は定番でしょう。じゃあ、「リンリンランラン」の日本人版だと言えば分かるかな?「よけいに分からんって?」、「インディアン人形」は社会常識でしょう。

 もう、いいわ。とにかく、双子姉妹の演歌歌手ですがな。分からない読者は、お父さんやお母さん、いいえ、おじいちゃんやおばあちゃんに聞いて下さいな。聞くのが面倒だという方は以下のwikiphediaをご参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A9%E3%82%8A%E5%A7%89%E5%A6%B9

 というわけで、「手間取り姉妹」であります。それは、特に教会奉仕などで手間取る女性クリスチャンのことであります。言い換えれば、要領が悪い、手際が悪い、作業効率が低いなどの理由で、他の姉妹より時間がかかり、自分を責めがちな姉妹のこと。

 誰でも得意と苦手はあるもの。ですから、苦手は避けて、得意分野で教会奉仕をすればよいです。でも、そうは行かない現実もありがち。そもそも教会奉仕の担い手が限られてしまう場合も。事の良し悪しは別として、食事作り、キッチンワーカーなどの奉仕は女性が期待されてしまうもの。そうなれば、料理苦手手際が悪いと自覚する姉妹も参加せざるを得ないことも。その結果、自分の「手間取り」で周囲に迷惑をかけて、他の姉妹からきつい言葉や態度を取られて傷つくなどの事例も耳にします。

 手間取り姉妹には、ご無理をいただかなくても、賜物に応じて、適切なご奉仕をしていただければいいのです。そこで、主に仕え、用いられ、実を結ぶ経験をされたらと願うのです。「適材適所の奉仕」は、聖書的で、教会形成上大切な原則であるはず。

 また、こうした手間取り姉妹が、安心して喜んで教会に仕えておられる姿こそが、教会の交わりにおけるキリストの愛を証しするのでしょう。生産性や貢献度で自分も他者も評価せず、キリストの命の代償で、自他の存在価値を確認するのが、教会の交わりのあるべき姿。

 現実と乖離した理想論なのでしょうが、私は思います。手間取り姉妹が平安な心で喜んで過ごせる交わりが、より本物であると。要領の悪さや作業効率の低さが問題とならない交わりこそ、教会本来の交わりであると。

 教会奉仕が、教会の交わりより、著しく優先してしまうとき、教会奉仕は、「活動」、「作業」となり、作業効率、貢献度、競争原理による評価が教会の交わりに侵入してしまうのでしょう。

 「手間取り姉妹が、教会内で、どう過ごしているか?」

 それは、教会の奉仕と交わりの健全度を示す指標になるのでは?成長すべき、自己変革を必要とするのは、手間取り姉妹自身でないでしょう。もし、そういうことがあるなら、成長すべき変るべきは彼女の心から平安を奪っている周囲の兄弟姉妹、指導者なのかも知れません。

| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 12:19 | - | - | - | - |
育てよう、健全信徒(21)〜不可能姉妹
 日本人離れした美貌とプロポーション、財産とファッション芸能界での地位もあるのでしょうか?美と富と地位を兼ね備えたゴージャスな姉妹。それは「可能姉妹」ならぬ「叶姉妹」であります。

 一方、教会で時にお会いするのが、「美」や「富」や「地位」などの有無と無関係に、「私はだめ」「私はできない」「私は変らない」と確信してしまっている「不可能姉妹」であります。「主にあっても不可能」「祈っても不可能」「聖書にそう書いてあっても自分だけはダメ」と聖書以上に自分に対しての思い込み信仰の基盤を置いておられる姉妹であります。

 日本人女性のセルフイメージは、国際的に見ても極めて低いと言われます。自己価値について中高生に質問すると「自分には価値がない」と答える数は、日本の中高生がダントツの一位だそうです。どうも、日本の社会には、子どもに自己肯定感を与えない言葉、自己価値を否定するような言葉ばかりが、氾濫しているようです。とりわけ女性は今でも、「他者の意に沿うことが女性の自己価値」との価値観が根強くあるようです。

 周囲が、健全な聖書的セルフイメージを持つように助けて差し上げること、聖書的な言葉で、正しい自己肯定感が持てるよう語りかけていく交わりが大切かと思います。とりわけ、クリスチャンの親が、子どもの言動を基準に、その子の価値を判定し告げることなく、「生まれてきてよかった」「いてくれるだけで感謝」と伝えることかと思うのです。

 また、私見ですが、「不可能姉妹」には、二通りあるように思います。一つは「可能姉妹になりたいと願う不可能姉妹」であります。この場合は上記のような愛の支援が不可欠かつ有効でありましょう。しかし、もう一つは「可能姉妹にはならないと決めている不可能姉妹」であります。不可能状態にある意味の心地よさや都合の良さを覚え、この不健全・不信仰状態の継続を願っているのです。

 この場合はかなり手ごわいことを覚悟しなくてはならないでしょう。しかし、あのベテスダの男を立ち上がらせ、歩ませたキリストは今日も、不可能の寝床から、不可能姉妹を起き上がらせると期待すべきでしょう。

 日本の多く姉妹たちが、可能姉妹になるために必要なのは、美でも、富でも、地位でも、能力でもないでしょう。「あの姉妹のようならいいのに」と願う他の姉妹のようになっても、そこには問題解決はありません。必要なのは、自己肯定感を与える愛の語りかけ、そして正しい自己像形成を助ける聖書のみことばに違いありません。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 16:13 | - | - | - | - |
育てよう、健全信徒(20)〜宇宙兄弟
 「宇宙兄弟」という映画が話題のようであります。原作は漫画で、子どもの頃兄弟で夢見た兄弟一緒の宇宙飛行を実現するという感動のストーリーらしいです。

 一方、教会でもその生息が時に確認されておりますのが、「宇宙兄弟」。この男性クリスチャン、もちろんNASA所属ではありませんし、宇宙規模の大志を抱き、大きな働きをするわけでもございません。

 この男性クリスチャンまず、目つきが宇宙です。視線が宙に浮いております。表情も宇宙的で、浮遊感に満ちています。足どりも宇宙的で、無重力状態であるかのようです。「人の顔見て話せ」「ふらふらせずしっかり立て」と言いたくなることも。

 それで、考えや実生活が堅実なら別に問題はないのですが、「宇宙兄弟」は、考え方も浮遊感いっぱい生活も無重力状態なので、どうかと思うのです。出てくる言葉は、聖書的正論で、信仰的。でも、現実感がありません。その価値観や信仰的姿勢をもって「実社会でどう生きるか?」についての言及はありません。あっても理想論であって、具体論は当然のこと、体験談は皆無。どうも脳内の観念宇宙信仰生活が完結している様子。

 実際の信仰生活も、教会には集いますが、教会外の世界でキリスト者市民として、堅実な社会参加をしているか言えば、これが、どうも怪しいわけです。どうも、地に足の着いた職業生活を目指すことなく、地に足の着かない実生活なのであります。

 「あなたの考えを体現する実生活を社会に出て行き、証ししては?」と勧めれば、理屈をつけて、現状の信仰生活スタイルを変えようとはしません。たぶん、自分が語るように実際に生きることや、その生きかたを社会に証しする必然性や責任などは、宇宙空間にはないのでしょう。あるいは、無意識にも、社会でキリスト者として生きることから逃避して、頭脳内の宇宙空間から出ようとしないのかも。

 パウロは「上にあるものを求めなさい」とか「上に召してくださる方の栄冠」など、ゴールを天上に見ていました。しかし、現実の地上の歩みは、殺されかけたり、犯罪被害者になったり、生々しく壮絶なものでした。つまり、パウロは非地上的ゴールを想定しながら、超地上的歩みをしていたわけです。目は天に向けながら、その脚は地にしっかりと着いていたのです。 

 教会内で、時に生存確認される「宇宙兄弟」には、パウロを模範として、歩まれるよう、徐々に社会参加や具体的歩みを勧められることかと思います。断固、そうした変化を拒否するようなら、そこには恐れや劣等感のような根深い要因があるのでしょうから、別のアプローチが必要となるのでしょう。

 また、当人や周囲が何を勘違いしたか、稀にこうした宇宙兄弟が、神学校入学を願い、教職の道を目指すことがあるようです。教会と学校組織に中では、優れた学業成績を残すこともあり、教職の道に入ることが、あるとかないとか・・・。こういうのだけは、送り出す側の教会と受け入れ神学校のと送り出される就任団体の方でトリプルチェックしていただき、ご勘弁をと願います。

 宇宙兄弟が生じやすい時代と社会だと思います。クリスチャンホームにも宇宙兄弟を生み出しやすい土壌があるように観察します。いかに教えの世界、観念論に終始しない信仰を、家庭や教会学校の中で、植え付けていくか?個人的には「教理の伝達」「道徳教育」に終始しない「生活を伴う信仰教育」の大切さを思います。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 14:35 | - | - | - | - |
育てよう、健全信徒(19)〜河本兄弟
 夜遅くに、ジャニーズの二人組みが中心となり、ミュージシャン系のタレントを集めて、トークあり、音楽ありのバラエティー番組があるそうです。その番組名は「堂本兄弟」であります。

 そんな楽しく笑って歌っている場合でないのが、河本兄弟。では、河本兄弟とは、どのようなクリスチャン男性でありましょうか?それは 「年収5千万で、母親が生活保護」との見出しで、週刊誌にスクープされ、問題視され始め、過剰と思われるバッシングを受けながら、謝罪会見まで開き、結果的には生活保護不正受給問題の深刻さを国民に啓発することとなったお笑いタレントのごとく、親の扶養義務を軽んじる兄弟(男性クリスチャン)のことであります。

 クリスチャンたるもの、親の扶養義務を怠るなど、もっての他であります。十戒の「父と母を敬え」とは、単に親への敬愛を命ずる精神論にとどまりません。また、エペソの6章1節で、引用されているように未成年の子どもが、主にあって親に従うことのみを意味しているのでもはありません。あの出エジプトの旅の中で、命じられた十戒の「父と母を敬え」の意味は、大人である者が年老いた両親の扶養義務を果たすことでした。もっとリアルに言えば、荒野に捨て去らないことだったようです。

 イエス様ご自身も、あの十字架の苦しみの中で、年老いた母マリヤの扶養義務を、弟子ヨハネに託し、果たされました。父母を敬い、扶養義務を果たすことは、それ程、重要で本質的な神様のみこころなのでしょう。

 聖書が明確に示し、イエス様も模範を示されたのですから、高齢化社会にあってクリスチャン達が親の扶養義務を果たすことは神様の御心であります。そして、それはこの時代と社会にあって大きな証しともなるでしょう。

 というわけで、話題となってしまった某お笑いタレントのごとく、クリスチャンでありながら、親の扶養義務を軽んじたり、扶養可能なのに義務を怠るような「河本兄弟」には、十戒の真意とイエス様の模範を示し、悔改めていただきたいものであります。

 今回の事件を期に、教会では、生活保護不正受給だけでなく、クリスチャンとしての両親扶養義務も確認され、「河本兄弟」がもし、いたなら、悔改めの結実をと願います。やはり、クリスチャンたる者、次長や課長レベルでなく、社長レベルの忠実さで、親の扶養義務を果たしたいものです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 21:44 | - | - | - | - |
育てよう、健全信徒(18)〜山本リンダクリスチャン
 山本リンダ・クリスチャンとは、山本リンダさんのヒット曲を体現したクリスチャン。「高飛車肉食系女子」を描いたと思われる斬新な歌詞とそれに合致したへそ出しファッションと楽曲は社会現象となり、ちびまる子ちゃんのような小学生までが歌って踊った程でありました。

 山本リンダクリスチャンの第一の特徴は、「どうにもとまらない」の歌詞どおり。その基本姿勢は、「いつでも楽しい夢を見て生きているのが好きなのさ」と歌詞の主人公の如し。それは、主からの夢でなく、自己実現の夢。神様が喜ぶ夢でなく、自分を楽しませるための夢

 その夢を見ながら、「蝶になり、花になり、もうどうにもとまらない」状態です。周囲は何とか止めて、自分と神の関係を見つめて欲しいと願っているですが、当人の衝動的性格もあって止められないのです。御霊の実である自制の実も結実しておらず、御言葉に従うという基本姿勢も欠如しており、聖書の言葉による静止もが効きません。それどころから、衝動的な自己実現の夢のため、御心を従わせ、都合のよい聖書の言葉を引用する本末転倒。

 この状態が継続して、症状が悪化すると、次は、ヒット曲「狙い撃ち」の歌詞の如しであります。「この世はわたしのためにある」という恐るべき自己中心。この世どころか、神様さえも自分ためにあると思っているのではないかと心配になるほどのトホホな信仰姿勢

 「磨きかけたこの体そうなる値打ちがあるはずよ」の歌詞のように「自分の賜物は素晴らしく用いられ、、自分の夢は実現し、自分の生涯は祝福される」との仮想優越感に浸ってしまいます。自分の罪や神と人とに対しての過ちなど「自分に値打ちがない」と思える事実は、あっさりスルーして、
「自分に値打ちがある」と思える事実ばかりに目を向けます。もはや、本当の自分から目を逸らし、自らを偽るかなりの重症。

 こうなると、周囲のクリスチャンも、三つ目のヒット曲のごとく、「きりきり舞い」であります。

 「どうにもとまらない」衝動と自己実現の夢、「狙い撃ち」の自己中心と仮想優越感、「きりきり舞」となる周囲のクリスチャン達・・・・。

 願わくは、「リンダ困っちゃう」のように当人が困っていただき、行き詰まりの中で、自己変革の必要性を悟り、神様からのお取り扱いを願っていただきたいもの。周囲ができる援助は、それを祈り続け、手伝っていくことくらいでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 17:19 | - | - | - | - |
育てよう、健全信徒(17)〜ダチョウ倶楽部クリスチャン
 今や、バラエティー番組には欠かせぬ存在となっているのがダチョウ倶楽部の三人組。一方、教会に生息が確認されているのが、「ダチョウ倶楽部クリスチャン」であります。それは、ダチョウ倶楽部のお約束のギャクを教会内で体現するクリスチャンのこと。

 まずは、奉仕をお願いすると、「どうぞ、どうぞ」とばかりに、右手を差し出しお辞儀をしてのご辞退。奉仕や労苦は自分以外の方にお譲りしますという基本姿勢。

 次には、「〇〇しましょう」と勧めたり、アピールすれば「今、やろうと思ったのに〜」と、ダチョウ倶楽部のように、為すべき事をしない責任を他者に転化。チャレンジ、お勧めに応答するのでなく、即座にそれをした人物に責任転嫁しての拒否的態度。「明日からしようと思っていた」「来年から始めるつもりだった」「いつか、やらなくてはと考えていた」と言いながら、「いつまでもしないという現実」だけが続くわけです。

 終始、そうした自己中な信仰姿勢でいれば、教会生活に限界が訪れるもの。牧師に向かい「先生に一生ついていきます!」と宣言したのに、「先生には失望しました」と決別宣言。当初は「この教会でいのちをかけて仕えます」と誓ったはずが、「この教会では自分が活かされない」と離脱宣言。この変わり身の速さはダチョウ倶楽部のギャグ「くるりんぱ!」の如しであります。

 「どうぞどうぞ」で神と教会に仕えようとせず、「今、やろうと思ったのに」で為すべきことを先送りにし続け、自ら教会生活に限界を招いおきながら、挙句の果てには「くるりんぱ!」で、離脱、教会転会であります。

 こうした自己中、独りよがり、自己完結型の「ダチョウ倶楽部クリスチャン」は、何とかご聖霊の働きによって、みことばを通じて、神様のあふれる恵みが分かって、上島竜平さんのごとく、その恵みに見事なリアクションをしていただきたいと願うばかりです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 19:56 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(16)〜ギリシャ風クリスチャン
 「ギリシャ風クリスチャン」と言いましても、ギリシャ彫刻のような均整の取れた肉体とお顔をお持ちの美男美女クリスチャンのことではありません。また、ギリシャ哲学者のごとく、思索的なクリスチャンのことでもありません。では、「ギリシャ風クリスチャン」とは、どのようなクリスチャンでしょうか?それは今日のギリシャ国内の経済状況のようなクリスチャンであります。

 膨大な借金を隠してのEU加盟。それが明らかになってもEU諸国の寛容さに支えられ、莫大な援助をいただきながらの再生の途上。にもかかわらず国民の皆様は、財政緊縮策に反対しておられる様子。実際の生活の厳しさが予想され、当事者である国民の心情は分からんでもありません。しかし、EU諸国やグローバルな経済の立場からは、こうしたギリシャの状況は、「おい、おい」となるでしょう。

 同じようにギリシャ風クリスチャンは、膨大な借金ならぬ膨大な罪を隠したままで、教会の一員となります。少なくとも指導者にだけは、お知らせすべき重大な罪を知らせず、悔い改めもなく、洗礼を受けての教会生活継続。やがて、その膨大な罪の借金が明らかになります。しかし、教会は、愛と赦しの共同体。その罪の事実を受け止めて、その方を決して排除せず回復に向かわせようと、悔改めを願い労します。

 しかし、財政緊縮策は御免とばかりに、悔改めや謝罪、悔改めに専念するための奉仕や交わりの制限も、受け入れたくないとのわがままぶり。それどころか、愛の故に悔い改めを願う周囲に「教会は愛がない」「あるがままで受け入れるのが愛」との逆切れ悔改めなき赦しの脅迫であります。。残念な罪の事実に心痛めながら、深い愛をもって受け止め、回復のために祈り、労している周囲のクリスチャン達にとっては「おい、おい」であります。

 ギリシャが今後EU脱退するかどうかは不明ですが、こうしたギリシャ風クリスチャンが、その愛と義に満ちた聖書的対処をする教会を脱退してしまうのは、残念ながら、よくあること。罪の無自覚やどうしようもない自己中心、それらに由来する教会の混乱、よく考えてみれば、これは古代ギリシャのコリント教会以来のギリシャ風。古代ギリシャ人はコスモポリタンだったようですから、21世紀の日本にギリシャ風クリスチャンがいても不思議はありません。

 こうしたギリシャ風は時空を超えた普遍的な課題であることを覚えて、聖書が記す使徒たちの葛藤や対処を読み取りながら、そこから指針を得て、向き合って行きたいものです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 15:03 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(15)てるてる坊主クリスチャン
 明日が晴れるように願って、天候をも支配しておられる創造主なる神様ではなく、てるてる坊主に願いを託す・・・・そんなクリスチャンのことではありません。それは、てるてる坊主クリスチャン、それは童謡「てるてる坊主」の如き信仰姿勢のクリスチャンのことであります。

 皆様ご存知の一番の歌詞は以下の通り。

,討襪討詼啓 てる坊主
あした天気に しておくれ
いつかの夢の 空のよに 晴れたら
金の鈴あげよ

 願いを叶えてくれたら、褒美を与える神様、どっちが「主」でどっちが「従」なのでしょう。願いを託し、実現したら、褒美をつかわすのは、王様と家来の関係。これはどう見ても、人間が上でてるてる坊主が下です。そのように自分の願いを実現してくれたら、忠実に信仰生活を送るというのが、てるてる坊主クリスチャンの基本姿勢。

 この同様の怖いのは三番です。人間の本性というか、偶像礼拝の本質が描かれていて怖いです。

てるてる坊主 てる坊主
あした天気に しておくれ
それでも曇って 泣いてたら
そなたの首を チョンと切るぞ

 人の願いの実現のための手段、それが偶像礼拝です。自分の願いを祈っても、それが実現しなければ、信仰を離れる、教会を変る・・・。それは、偶像礼拝と本質的に大差ないでしょう。

 クリスチャンですから、信仰対象は正しいのです。しかし、信仰姿勢が間違っているのでしょう。いいえ、きっと正反対、主と従逆転であります。一見正しい信仰対象と信仰姿勢の逆転、それが、てるてる坊主クリスチャンの特徴。

 偶像礼拝とは、仏像や神棚に手を合わせ拝むことだけではないのは、聖書をお読みの皆様はご存知の通り。自分の願い通りに働いてくださる神だけを神とし、そうでない神を認めないければ、それは立派な偶像礼拝。聖書が「おのが腹を神とする」と表現している通りです。

 この繁栄指向の時代と社会にあっては、自己実現が神実現にとって代わり、おのが腹を神とし、神に仕えず神を自己実現のサポーターとし、人に仕えず、人を自己実現の召使としかねない、そうした誘惑は絶えずあり、誰もがその危険に面している自覚を持ちたいと思うのです。

 軒下やベランダにてるてる坊主を目撃したら、ノンクリスチャンの偶像礼拝として、受け止めるだけでなく、自らの信仰姿勢のチェックとするよいチャンスにもなるのでは?
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 22:18 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(14)蝶々クリ?
 蝶々夫人は有名ですが、今回考えたいのは、蝶々クリスチャン、失礼ながら略せば「蝶々クリ」であります。蝶々クリスチャンとは、童謡、「ちょうちょう」のごとき信仰姿勢のクリスチャンであります。

ちょうちょう ちょうちょう菜の葉にとまれ菜の葉に飽(あ)いたら桜にとまれ桜の花の 花から花へ とまれよ あそべあそべよ とまれ」

 この歌詞、真偽の程は明らかではありませんが、浮気常習犯の父親のことを母親の立場から子ども伝えているのだという説があります。当然、「花」は女性をたとえているのでしょう。

 ちょうちょうが菜の葉にとまるように、ある教会にとまります。しかし、菜の葉に飽くように、そこでの教会生活に飽きてしまい、桜のように魅力的に見える教会に移動。では、その桜教会で忠実に歩むかと言えば、桜の花から花へと、目新しい魅力を求めて、教会を移動し続けるのです。

 教会を移動することが一概に悪いというわけではありません。移動の動機やその信仰の本質に問題があるのです。また、この「蝶々クリスチャン」は、一昔前の「ジプシークリスチャン」とも異なります。ちなみに近年は「ジプシー」なる呼称も差別語とされるのが一般的で、「ロマ」と訂正されるようになっております。ただ、帰属意識が薄いことが原因ではないのです。当人に、人間関係形成が苦手であったり適応力の欠如などの欠点があるわけではないのです。

 蝶々クリスチャンは、まさに蜜を吸いに教会に来ているのです。「自分にとってのおいしい蜜」をいただくこと、それが、蝶々クリスチャンの教会生活のモチベーション。自分が教会を通じて神様に仕えるとか、教会を建て上げるために自らを与えるなどの発想はございません。

 教会は「霊的サービス業」で自分はそのサービスを受ける「顧客」であるかのような信仰理解、教会論、自己中発想であります。こういう発想であれば、当然、おいしい蜜に飽きれば、別の花に移ります。別の教会から目新しいおいしそうな蜜の香りがすれば、そちらに移動して蜜を吸うわけです。やがて、それも飽きて、さらに新たなおいしさを求めて移動を繰返します。これではグルメの食べ歩きと大差ありません。

 こうした教会生活においては、神の家族の形成はできません。家族なら嫌なこと不都合なこと、不満があっても簡単にはその場を去りません。しかし、蝶々クリスチャンにとっては教会の交わりは神の家族でなく、神のサービス業とその従業員なのですから、サービスに不満があれば、別の店に移動は、顧客、つまり信徒としての当然の権利となるわけです。

 はたから見れば、問題は明らかなのですが、当人はそれが、正常だと思っていることが多いようです。悲しいことに自己充足と顧客満足度の追求が、信仰の成長に置き換えられていることも。「自分を喜ばせることは中心としたおいしい蜜を求め続ける信仰生活」、それは信仰の中心である神を愛し、隣人を愛する歩みとは、正反対のように思えてなりません。

 どうもこうした教会生活は、「とまれよ あそべあそべよ とまれ」との歌詞の通り、遊び、レジャーの類ではないかと心配です。それは、目指しているのが、「神に従う生活」でなく、「神の恵みを利用して自らが楽しむレジャー」であるかのように観察するからです。
 
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 16:45 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(11)どんぐりころころクリスチャン
 久しぶりのこのシリーズ、過去を振り返れば、こんなクリスチャンたちの課題を扱ってきました。

(1)押尾クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?day=20090820

(2)ゴミ屋敷クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?day=20090821

(3)子泣き爺クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?day=20090822

(4)ゆっていクリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1322767

(5)ムーディークリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1322839

(6)ニンニク醤油だれクリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1322840

(7)結論先行型クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1325103

(8)旗本退屈クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1407895

(9)鑑定士・予想屋クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1407897

(10)ブツブツ・ベッタリ・クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1407898


 そして、今回から数回は、童謡をネタに、お送りすることとしました!第11回目として扱いますのが、「どんぐりころころクリスチャン」であります。

 教会というどんぐりの木が一人の宣教の実を結びます。それはどんぐりの実。しかし、木を離れて地面へ落下。何かの理由やきっかけで、教会生活を離れてしまいます。落ちた地面が平地だと思ったら大間違い。木の下の地面には傾斜があります。それは、罪と堕落への斜面なのです。

 教会の交わりを離れ、祈りと聖書からも離れれば、その傾斜に負けてしまい「どんぐりころころ」が始まります。「どんぐりころころ」の次は「どんぶりこ」。ついには「お池にはまってさあ大変」となるわけです。お池とは神なき人間中心ワールドであります。そこで、出てくるのがドジョウです。ドジョウといっても某国の総理大臣ではございません。水清ければ魚住まずで、罪汚れという泥の中で生きるドジョウ、つまり罪への誘惑者であります。

 ドジョウは甘い言葉で誘います。「坊ちゃん、一緒に遊びましょ」と。ドジョウは神の家族の坊ちゃんやお穣ちゃん罪の楽しみの享受と共有へと誘うのです。そして、2番の歌詞との通り残念ながら「しばらく一緒に遊んだら」という段階に。

 しかし、神の救いの恵みは一方的です。人が神を捨てて離れても、神様は見捨てません。どんぐりころころクリスチャンも、「しばらく一緒に遊んだら」に続く、次のステップを神は備えておられたのです。罪の喜びに心満たされぬことを自覚し、「やっぱりお山が恋しいと、泣いてはドジョウを困らせた」となるのです。

 クリスチャンたるもの、どんぐりころころで、お池にはまりドジョウと遊ぶまで堕落しても、神様はその者を我に変えらせ「やっぱりお山が恋しい」と神様のところ、教会の交わりへの帰還を願って泣くのです。

 泣かれたドジョウはいい迷惑。「なんだ、おまえクリスチャンだったのかよ?だめだろ、クリスチャンがこんなことしてちゃー」とノンクリスチャンにごもっともなお説教をされて、山へ帰っていく思いを募らせます。

 こんなとき、山の方から「帰って来いよ」との声やお便りがあれば、帰りやすいですね。教会生活を離れたどんぐりころころクリスチャンのために祈りがささげられたり、訪問がなされたり、手紙やメールがあったりすると、お山が恋しいと泣いているどんぐりころころクリスチャンは、お山に帰りやすいのでは?

 どんぐりころころクリスチャンの発生は、ある程度、避けられないかもしれません。しかし大切なことの一つは、「やっぱりお山が恋しいと泣いてはドジョウを困らせ」ているクリスチャンに、「お山はいつでも大歓迎」とのメッセージが届いていることかと思います。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 13:07 | - | - | - | - |
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