命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
宮本慎也選手に学ぶ「超二流牧師のススメ」
 先日は、ヤクルトの宮本選手が2000本安打を達成。ここまでの活躍ができたのは、野村監督の指導あってのことと、当人も周囲も認めているようです。特に宮本選手の野球人生を変えたのは、この言葉だそうです。

 「超一流でなく、超二流になれ

 宮本選手は守備が評価されて入団された選手、決して、ドラフトの目玉と言われるような選手ではありませんでした。しかし、入団後のノムさんのアドバイスに従っての意識変化と努力によって、今回の偉業を達成したようです。

 「超二流選手」の名球会入り。私は日ハムの稲葉選手や中日の山本昌投手も「超二流の名球会選手」だと思います。彼らを上回る能力を持つ四番打者やエースら一流選手の多くは、名球会選手になることなく、現役を引退しています。競争に生き残り長く球界で活躍し、数字を重ねていけるのは「普通の一流」より、「超二流」なのでしょう。

 そこで、考えたこと、それは、

牧師は一流でなく、超二流がいいのでは?」ということ。

 もちろんここでの「一流」「二流」という言葉は、神様の目からの評価ではありません。世俗的な業績主義や産業的発想からの評価として使っている言葉です。

 今どきの選手はいくら優れていても、かつての偉大な選手のようにはなれません。打者なら、王、長島、張本、野村、投手なら金田や稲尾のようにはなれないのです。そうした偉大な選手は、ある時代の産物だからです。現代は、イチローやダルビッシュになれば、超一流なのです。

 同じように、戦後のキリスト教会をリードされてきた大御所のようになることを、神様は今日の牧師に期待をされているでしょうか?野球のルールや本質は変りませんが、野球が大きく変化しているように、牧師の使命や本質は変らないでしょうが、あり方は大きく変化を強いられています。

 モーセの後継者であるヨシュアも、エリヤの後継者エリシャも、師と比較するなら、「超二流」と言えるのでは?ヨシュアとエリシャを超二流リーダーと評したら、聖書的反論も続出でしょうか?いずれにせよ、21世紀の牧師が、戦後のリーダーをモデルとして、機械的に超一流を目指すのはどうかと思います。
 
 また、すべての牧師がイチローやダルビッシュのような活躍をすることを、神様から期待されているとは私は思えません。しかし、多くの牧師に対して神様は、「宮本選手のように長く忠実に仕えて欲しい」と願っておられるのでは?と私は聖書的根拠もなく勝手に考えています。

 一世代で数百人規模の教会にした、優れた説教者として著名、神学面での優れた実績などが、世俗的な評価基準で言えば、一流と評価されるのでしょう。野球で言えば、イチロー、ダルビシュであります。しかし、ほとんどの牧師は神様からそうした期待をされていないし、そのような賜物も付与されていないのでは?と考えているのです。スタメン二番のつなぎ役、先発四番手や試合を作る中継ぎ投手を期待されていることも多いのでは?それは残念なことでしょうか?いいえ、そうした選手こそ、神様にとっては、なくてはならない戦力なのです。

 たとえば、都市部で50人程度、地方で数十人規模の教会で、自立した信徒を育て、着実で健全な教会形成と地域宣教を長年忠実に継続できたなら、どうでしょう?

 それは「人の目には超二流、神の目には超一流」ではないかと私は思うのです。

 「人に一流と評価され、成功者と見られることを願わず、神様が願うように仕えていく」

 それが伝道者として歩み出した献身であったはず。だとしたら、この世を後にして、再臨の主の前で、宮本選手や稲葉選手のように、表彰していただければ、それが本望のはず。

 世俗的な業績主義、産業的思考、成功者志向などが、教職者を本来の献身から逸脱させ、教会形成を不健全なものとしているとの指摘、見解をよく耳にします。教団や団体の中でも、そうした基準で教職者の力関係や心理的優劣が決まっているとの批判も多々お聞きします。

 決して縮み志向敗者の論理、安易な現状肯定、同業者内の慰労目的などで、この記事を書いているのではありません。献身者たる牧師が、長年の働きの中で、忘れてしまいがちなものを、私自身、宮本選手に対しての野村監督の言葉から、再確認させていただきました。余計なお世話でしょうが、お分かちさせていただきました。

超一流でなく、超二流になれ

 これは今日の宮本選手を作り上げた決定的な言葉。

 そして、多くの牧師にとっては、本来の献身を想起させる言葉でもあるのでは?

 (信徒の方もご自分の使命や職業に当てはめてお読みいただければ感謝.また、所属教会の牧師に画一的に一流を要求されませんよう願います)
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 13:35 | - | - | - | - |
「万人祭司」ならぬ「万人リーダー」?の効用
 またまた、愛読するブログからというか、そのブログが紹介するブログ記事から教えられました。
それは謂わば、「万人祭司」ならぬ「万人リーダー」?の効用であります。

ブログ「のらくら者の日記」より「リーダーシップを求める理由
http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/

なるほど、イテロのモーセに対する助言は単なる分業による効率化ではなかったのかも。

 ここで紹介されているブログ記事は以下のもの。
chikirinの日記」より
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110927

 「全員がリーダーになるわけではない。全員の中から何名かのリーダーを育てれば成功」「教会の役割は次世代のリーダーを育てること」などと言われるのが日本の社会。でも、欧米社会では全員にリーダーシップを要求するのですね。「全員がリーダーになるわけではない現実は同様でも、どうしてそうなのか?」はブログ記事の通り。

 忠実なよいが成長して、後によきリーダーになるのは聖書的でしょう。同時に、特定分野や特定時期にリーダーを経験してこそ、リーダーを活かし、尊重し、全体に益するよき僕となるのでしょう。聖書的リーダーが「サーバントリーダー」であり、支配するためでなく仕えるための権威であることを考えるなら、リーダーと僕は、正反対のようで表裏一体。これも聖書的なのでしょう。

 教会でのリーダー研修や信徒訓練に活かせる内容ですね。

 本ブログも過去記事にはリーダーシップ論があります。以下の三つなどは、手前味噌ですが、参考になれば感謝。信徒教育や教会教育に少しは役立つでしょうし、リーダーシップで悩む牧師先生方にも、一助になるかも。

日本的リーダー像>聖書的リーダー像(1)
http://blog.chiisana.org/?eid=1263877

日本的リーダー像>聖書的リーダー像(2)
http://blog.chiisana.org/?eid=1263984

日本的リーダー像>聖書的リーダー像(3)
 http://blog.chiisana.org/?eid=1263998


サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
 「小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉

| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:09 | - | - | - | - |
KARA事務所契約解除事件から考える?牧師と信徒の関係
 この件はあまり詳しくないのですが、東方神起などの件を見ても、「奴隷労働」と批判されるほど、韓国におけるタレントの扱いや不当な契約は時に著しく人権感覚に欠けるもののようであります。KARAの契約解除も、金銭問題よりは「一方的」「人格否定」が理由らしいです。

 あるテレビ番組ではこの件について 一人の女性タレントがこんな意見を訴えていました。

 「事務所とタレントの関係はパートナーシップのはず、事務所がタレントを支配しようとするから問題になる」

 なるほどと思います。しかし、同時にこれはタレント側からの正論や理想論に過ぎないのかもしれません。事務所側からすれば、タレントを芸能というビジネスにおける商品扱いするのか?一人の人格としてビジネスパートナーと考えるのかは大きな違いでありましょう。

 事務所側としては莫大な金と人をかけて資本投資したのですから、売れたら、資本回収するのは当たり前でしょう。そういう発想一辺倒ですとタレントはまさに商品でしょうし、行き過ぎれば奴隷労働、搾取、人権侵害も起こりかねません。

 逆にタレントを育ててチャンスを与えて優れた芸能活動をさせて人気者にすること、それ自体に大きな意味や喜び、使命感を持っており、なおかつ、それをビジネスとして成立させようとするなら、タレントはビジネスパートナーとなるでしょう。

 そこで、考えてしまったのが、牧師と信徒のパートナーシップであります。読者の皆さんは「牧師と信徒はパートナーだ」と考えたことがあるでしょうか?いいえ、むしろ、牧師先生に同じ質問をしてみると面白そうですね。


 聖書が示す牧師と信徒の関係はあえて選ぶとすれば、次のどれに近いでしょうね?

ー膺佑氾枸譟⊃栃と子分
経営者と労働者 上司と部下
6技佞叛古漫〇嫋△板鏤
ご篤弔帆手 コーチと選手
ダ治家と有権者 村長と村人
κ慷屋と顧客 サービス業と顧客
族議員と圧力団体 雇われ店長と店のオーナー

 一部、,里茲Δ世筏磴い討い信徒の方もいれば、Г両況で辞表を懐に、ストレスを溜めている牧師先生もいらっしゃることでしょう。△鉢Δ両態の教会も少なくないのでは?

 健全な牧師と信徒の関係にピッタリのものは一つもないでしょうが、それでも私なりにあえて、選ぶなら、、ぁ↓あたりでしょうか?牧師は教師ですからでしょうが、もちろん牧師と信徒は相互に教え学ぶ関係でしょう。ですから、よい教師と生徒の関係に似ているように思うのです。い離魁璽舛帆手も似ているのでは?「聖徒を整え奉仕の働きをさせる」のが牧師の役割の一つとすれば、選手を鍛えて、共にチームの勝利を目指す関係は、教会形成のためのパートナーシップに多少、似ているのでは?イ両豺腓蓮⊃由粉愀犬龍い村長と村人は、近いのでは?善良な村長は村人の立場に立って村人の幸せの実現を願い、指導をします。サーバントリーダーであるはずの牧師も、信徒の立場にたち、その成長と祝福を願って、リーダーシップを行使します。

 きイ△燭蠅痢◆峩Δよいクラス作り」、「共に強いチーム作り」、「共に幸せな村作り」などは、健全な教会における牧師と信徒の関係に近いのでは?そう考えますと、やはり、健全な牧師と信徒の関係には、「共に教会形成をするパートナー」という面があるのではないかと考えるわけです。

 信徒が牧師をパートナーとして考えないと、自分は教会形成に参与しない牧師依存となります。
主体的に聖書を読んで考えずに、牧師の言いなりとなるか、牧師に感情的反発を覚えるかの両極端に走ったり。
 
 牧師の側も信徒をパートナーとしての一面を否定するなら、信徒を思い通りに支配し、誘導し、キリストに代わって自らが教会の頭になったり、逆に、神の御心ではなく、信徒の要求実現やご機嫌伺いに走りかねません。

 もちろんパートナーシップだけが信徒と牧師の関係のすべてではないでしょう。しかし、共に教会を建て上げるパートナーシップ、共に生き生きとした礼拝を作り上げるパートナーシップ、共に熱意をもって宣教を進めていくパートナーシップ。そうしたパートナーシップの関係性を認めない、教えられない、聖書に書いてあると考えない、あるいは知っていても、都合が悪いので採用しない、現実化できそうにないので目指そうとしないなどの態度が、教会に不健全さを生み出す要因の一つではないかと危惧してしまいます。

 「事務所とタレントの関係はパートナーシップのはず、事務所がタレントを支配しようとするから問題になる」

 この言葉の、「事務所」を「牧師」に、「タレント」を「信徒」に置き換えても、一定の真理を示しているように思えるのですが、どうでしょう?

 逆に言えば「事務所とタレントの関係はパートナーシップのはず、タレントが事務所に依存するから問題になる」というのも一面の真理でありましょう。

 どうも、牧師が疲弊して働きを退いてしまったり、信徒が疲れて教会生活を離れてしまう要因の一つは、日本の教会に見られる 「共に〇〇する」という牧師と信徒のパートナーシップ意識の欠如にあるのかもしれません。

 読者の皆様におかれましては、KARAと芸能事務所の決裂のごとき悲劇を起こさないためにも、「牧師と信徒はパートナーか?」「聖書はそのように記しているのか?」を一度考えてみてはどうでしょう?
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 08:30 | - | - | - | - |
牧師:信徒≠飼い主:飼い犬
  牧師の多くは、愛を注いできた信徒が、教会を去ることになり、別れ際に(事実か誤解かは別として)手厳しい批判をされたり、今までにないような罵詈雑言を浴びせられたりすることがあります。牧師夫妻や家族は、それで傷ついたりします。そうした時に、牧師がその心情や出来事を表現する時に使用される諺の一つは・・・。

 「後足で砂をかける」というもの。

 それは、犬や猫が自分の糞に後ろ足で砂をかける動作に由来する諺で、「お世話になった人のを忘れるばかりか、去る時にさらに迷惑をかけること」の意味。牧師と信徒のどちらに非が大きいかとは無関係に、その時の牧師の心情や牧師なりの出来事の解釈を示すときにこのたとえが用いられます。私は多分、数十人もの牧師から、この諺をお聞きしていると思います。

 同様の状況の中で、別の諺が用いられることがあります。私自身はほんの数例だけ、牧師の発言として直接間接お聞きしたにこういうのがあります。

 それは「飼い犬に手を噛まれる」という諺。

 「後足で砂をかける」も「飼い犬に手を噛まれる」も共に、動物の飼い主に対しての忘恩と迷惑行動に由来し、ほぼ同じ意味のたとえであります。

 しかし、私は前者の「後足で砂をかけられた」と発言する牧師には、是非の判断は保留しても、一定、その心情には同情や理解を示したいと思います。しかし、「飼い犬に手を噛まれる」というたとえを使用する牧師には、正直、疑いを感じてしまいます。(事実としてその比喩がピッタリの極端な事実があれば話しは別ですが)

 どちらのことわざを使用するかで、牧師の意識はかなり異なると私は推察します。。

 
 前者は「自分なりに愛を注いだつもりだが、応答してもらえず悲しい」というニュアンスかと思います。それに対して後者は「こんなにも面倒を見てきたのに、恩を仇で返すのか?」というニュアンスかと思います。どうも後者の方が、より主観的で、上から目線で、自分の側の非を考える姿勢に欠けるのように思えるのですが、どうでしょう。そうした牧師の発想には「信徒が自分のような牧師を忍耐してくれて、支えてくれている」という意識がないのかもしれません。

 前者は、犬の行動のたとえとは言え、「」が意識されていませんが、後者は、かなり「犬」が意識されているように思います。どこか「牧師が飼い主で信徒が飼い犬」というような発想があるとしたら心配です。「哀れな野良犬を拾ってやって、牧師の自分が飼い主になってやった」かのような意識があるとしたら、とんでもないことでしょう。ご自分だって神様に拾われ育てられた元野良犬なのですから。

 そう、「牧師:信徒=飼い主:飼い犬」というような発想は、微塵たりとも、あってはならないと私は考えています。そのことは、牧師は当然のこと、信徒もでありましょう。「自分のような野良犬を拾ってくれて、愛し受け止め育ててくださった先生に一生ついて行きます!」、それは間違いです。拾ったのも育てたのも、イエス様ですから。牧師は種を蒔き、水をやりをしただけ、拾ったのも育てたのもイエス様。ですから従っていくのもイエス様。本当の恩人とその補助者を取り間違えてはなりません。牧師は補助者として、尊敬し、信頼しましょう。キリストに従う文脈で指導者に従いましょう。

 もし、どうしてもたとえる必要があるなら、「牧師:信徒=牧者:羊」が聖書的正解でありましょう。
「犬」は聖書の文化では「蔑称」でもあるので、信徒を犬呼ばわりするのは、たとえ問題信徒であったとしても、(異端者でもない限り)聖書的に正しくないでしょう。

 やはり、「犬」ではなく「羊」でしょう。冒頭のような事例があった場合、牧師はそれをどのように形容すべきでしょうか?ケースによるのでしょうが、「わがままな羊が群れから逃げてしまった」「一匹、群れを迷い出た」「逃亡した羊に蹴られた」という表現が適切な場合もあるでしょうし、「牧者側の力量不足です」とか「自分の牧会があの羊には適切でなかったようです」などの自己評価が正解の場合もあるでしょう。

 どうか「飼い犬状態」や「飼い犬意識」になっている信徒の方は、この記事を、お読みになって意識改革を。聖書や信仰とは別の義理や人情中心で、教会につながり、ドッグフード並みの説教や教会教育にも忍耐し、鎖と首輪でつながれているかのようにキリストではなく牧師個人につながっているというのはどうでしょう?それはまさに飼育・ペット状態。しっかりキリストにつながって、まずはご自分が聖書を通じて、しっかりと栄養吸収し、自立に向けて成長愛し仕えあう関係を教会で形成していただきたいもの。

 一方、牧師の側も「牧会」ならぬ「飼育」によって、飼い犬が、自分になつくかのように、教会をまとめていくような牧会手法もどうかと思うわけです。賢明な信徒は「一見、うまく行ってるように見えるけど、実はキリストの体ではなく、牧師のファンクラブ?支援会?組?」と疑問を持ちます。中には、牧師個人への義理人情が求心力となって形成された大規模教会、名づけて「101匹ワンちゃん大集合教会」もあるとかないとか?(牧師の愛を通じて神の愛を知り、それに応答している場合は健全なのでしょうが・・・)

 というわけで「『飼い犬に手を噛まれた』という諺はどうよ?」と思う私です。信徒は牧師の飼い犬ではないし、牧師も信徒の飼い主ではないのです。まずは、当たり前のことを、確認したいです。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:30 | - | - | - | - |
エコも神の愛も3R
 土曜日は名古屋は金城学院大学でのWATOTO公演へ。今年は実行委員長ではなく、一人のお客としてお気楽モードで楽しみ、そして考えさせられました。

 WATOTOのポリシーは三つのRです。それは
 
 ”Rescue”(助け) ”Raise”(育て) ”Rebuild”(建て直す)

 つまり、貧困、エイズ、内戦などで見捨てられた子ども救済し、ワトト村の家庭と学校で育てられ、訓練されます。子どもたちが新たな家族を得て、その人生は、再構築され、やがてウガンダ社会を建て直すリーダーとなって送り出されていくのです。この3Rはまさに神の愛の働きだと思うわけです。

 エコは"Reduce", "Reuse", "Recycle"の3R。
そして神の愛は"Rescue","Raise","Rebuild"の3R。

 神の愛は一人子を犠牲にしてまでも、私たちは滅び行く罪の世からRescueして下さいました。その愛は私たちの成長を願い私たちをRaiseします。そして、神なき土台、間違った価値観の上に築き上げてきた生活やライフスタイルを"Rebuild"し、祝福の人生を歩ませてくださいます。

 神様は私たちをあるがままで愛してRescueして下さいました。同時にその愛は愛する者の成長を願い実現します。ですから「あるがままで」愛された者は、その愛によってあるがままではいられません。Raiseされることがみこころです。それを通じて、救われた者の土台(価値観、生活習慣)は、取り替えられ、新たな人生がRebuildされていくのであります。

 「あるがままで愛された、だからずっとこのままでよい」というのは聖書的には正しくないと私は思います。少なくともその信仰姿勢は神様の御心ではありません。確かに「あるがままで愛された。今のままでも神様ずっと愛して下さる」というのは事実でしょう。

 しかし、聖書が示す神様の御心は、明らかに教えられ、訓練されての価値転換、生活転換であります。大宣教命令は「バプテスマを授け」→「教えなさい」であります。Rescue→Raiseなのです。さらにローマ12:2などは「心の一新によって自分を変えなさい」と明確な自己変革を命じています。

 「あるがままで愛されている、このままでも愛してもらえる」は「愛されたがりクリスチャン」や「自己愛性クリスチャン」には都合のよい真理でありましょう。しかし、「神を愛し、隣人を愛せよ」とのみ言葉に従う事を願う、「正統派クリスチャン」、「神愛・他者愛性クリスチャン」は、自らが教えられ、訓練され、御心に適う人格と実生活へと変えられるを願うわけです。

 「あるがままで愛されている、このままでも愛してもらえるから成長も自己変革もお断り」という信仰姿勢は実は、恐ろしいまでの自己矛盾ではないでしょうか?それは「"Rescue”の愛は欲しいけど、"Raise”と”Rebuild”の愛は要りません」というようなもの。つまり、より深い愛、より発展的な愛、これから注がれるはずの神の愛を拒否していることになるのでは?育児にたとえれば、「一生、授乳とオムツ替えの愛だけで結構です。立てば歩めの親心などお断りです。ましてや神の子らしく成人になり自立させようなどという愛などまっぴらごめんです。」と宣言しているようなもの。

 そうです。愛されたがりのクリスチャンの問題は、「愛せよ」との命令に従わず、豊かな愛に満ちた人生を生きられないことだけではないのです。私は、愛されたがりクリスチャンの本当の問題は「愛されたい」と願いながら「深く愛されることを拒否していること」だと思います。愛する者を成長させ、その人格と生活を造り変え祝福しようと願う神の愛を自ら拒否していることなのです。

 つまり「ありのままで愛されているからこのままでよい」とは皮肉にも「愛されたがりクリスチャンによる愛されない側の選択」となっているのだと私は考えます。

 ”Rescue”(助け) ”Raise”(育て) ”Rebuild”(建て直す) この三つの”R”、まさにそれは、神の愛の具現化であります。クリスチャンの成長、教会の働き、牧師教師の使命でもあるでしょう。

 これは逆転の発想なのでしょう。この三つの”R”は、「愛されたがりクリスチャン」や「自己愛性クリスチャン」にとって、さらに深く、豊かに愛されていく世界を展望させるものではないでしょうか?

 この拙い記事が愛されたがりや自己愛性クリスチャン克服のヒントや一助になれば感謝です。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 07:00 | - | - | - | - |
牧会ジャーナル掲載「弱くて強いリーダー」
 私の小学生時代の得意科目は給食と休み時間、苦手科目は全教科で、通知表は3と2ばかりでした。その延長線上にあるのか、未だに、得意科目は芸能とスポーツ、苦手科目は聖書と神学という劣等生牧師の私です。

 ブログの愛読者の中には私の事をよく勉強していると美しい誤解をしている方も多いようです。実際は、ほとんど神学書は読みません。その代わりにと言っては何ですが、つじつまあわせのように読んでいるのが「牧会ジャーナル」と「Ministry」。ためになって、かなり深くて、しかも短時間で実利があって毎号必読状態であります。

 最近出たばかりのその牧会ジャーナル48号は、もう大絶賛記事の満載であります。その中でも最近の本ブログの流れから取り上げたいのが、大塚寿郎先生執筆の「弱くて強いリーダー」なる記事。ダン・アレンダー著「脚を引きずるリーダー」の内容を伝えて下さっています。出てくる言葉が、痛い、痛い、痛すぎます。

 「人はリーダーに強さを求める
 「しかし、隠れた弱さがある・・・」
 「弱さを隠すため、人と状況をコントロールし、強く見せようという思い・・・・」

 リーダーシップが非聖書的に変質する典型的パターンを見事に言語化、体系化しています。私も身に覚えがあって、恥ずかしいやら、激しく悔改めるやらです。これは冒頭の箇所からの引用。本論に入るともっと痛烈なご指摘が。

 「突然の危機に能力のなさを明らかにされたように感じ、として受け止める・・・」
 「これを回避するため必死で人と状況をコントロールしようとする」
 「他人を非難することで恥をカバーしようとさえする」

 立派な牧師先生には、なさそうでありそうなこの記述。

 「こうしたリーダーは表向きには強く見えるが、内側には臆病が潜んでいる

 これ以上引用すると、営業妨害でしょう。この後にはさらに深い考察、様々な危機の類型、こうした課題の克服の秘訣などが記されています。この記事は、痛いほどリーダーとしての牧師が持つ課題を指摘し、それへの聖書的対処を示しています。

この記事、信徒がリーダーに強さを求めること、リーダー自身も求めらる強さを演じようとすることが、いかに危険な落とし穴であり、教会全体を不健全なものにしかねないかを見せてくれます。

 牧師はもちろんのこと、役員さんも必読、牧師を理解したいと願う方には是非ともお読みいただきたい内容です。これが多くの牧師の弱さであり、現実の姿と課題だと思うのです。

 牧会ジャーナル最新号についての詳細はこちら。
http://jpnews.org/bokkai/tokusyuu.html
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 21:41 | - | - | - | - |
キリストが選挙に出馬したら?
 クリスチャンたちの多くが如何に聖書的でないリーダー像を持ち、それを牧師に要求しているかを考える材料として、とんでもないSFを考えてみました。もし、キリストが21世紀の日本人に姿を変え、国政選挙に出馬したらどうなるか?という仮想ストーリー。

 まず、選挙公報に掲載される候補者の経歴がまずいです。学歴は中卒。卒業後の職業経験は、大工。貧しい家庭に育ち、父を失い、母と弟妹たちを支え続けて30歳になっての出馬。苦労人であることは評価されるものの、やはり、有権者にはこの学歴と職歴には「ショボイ」と一言で、不支持。

 また、選挙演説が不評。イザヤ42章の通り「叫ばず、声を上げず、ちまたにその声を聞かせない」のです。「痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すことなく」と弱者への思いやり中心の選挙運動。「まことをもって公義をもたらそう」という意図は有権者に通じません。選挙民からは「インパクトが弱い」「アピール度が低い」「選挙戦略がありえない」などと酷評

 また、リーダーとしてその容貌が不評となります。イザヤ53章のごとく「見とれるような姿」も「輝き」も「慕うような見栄え」もないのです。小泉さんのようなカリスマ性もなく、麻生さんのような突出したキャラもなく、鳩山さんのような育ちのよさもなく、小沢さんのような凄みもなく、ひたすら「キャラが弱い」と言われるばかり。


 結局、インパクト弱い、アピール度低い、キャラが立たない、カリスマ性ない、リーダーシップが感じられないという理由で、完敗と言えるまでの得票で落選であります。

 さて、クリスチャンの有権者達はこの候補者の中に、キリストとの共通項を見出し、一票を投じるでしょうか?それとも、一般大衆同様の理由で、別の候補に票を投じるでしょうか?

 そう、私たちも、キリストが示したリーダーシップとは異なるリーダーシップを牧師に求めてはいないでしょうか?カリスマ性、キャラ、アピール度、インパクト・・・どれも牧師のリーダーシップに必要のないものばかりでしょうに。

 2000年前の十字架はある意味、衆愚による落選だったのかも知れません。いいえ、あの件は自分勝手なメシア観をもった大衆の圧倒的多数票による不信任投票の結果としての不信任成立だったかも知れませんね。

 「うちの牧師がイエス様のようならいいのにー」と牧師のリーダーシップにご不満のクリスチャンの皆さん。もしかすると、牧師のリーダーシップに不満を感じる理由は、皮肉にもその牧師がキリストのようなリーダーだからなのかもしれませんぞ。

 逆に、牧師のリーダーシップに満足し、心酔しているクリスチャンの皆さん、大丈夫ですか?その牧師先生はキリストとは正反対のリーダーシップを発揮しておられませんか?

 牧師のリーダーシップについて云々評する前にすべきことがお互いにはあるのでしょう。それは「自分のリーダーシップ観は本当に聖書的か?」「自分は二千年前のあの場所にいたら不信任に一票を投じていなかったか?」。そうした自己チェックこそが、牧師のリーダーシップを評価する前の必須のプロセスでありましょう。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 07:41 | - | - | - | - |
「牧師絶対服従理論」は聖書的か?
 聖書的リーダーシップの形態はきっと多様なのでしょうが、一つ考えて見たいのがタイトルの内容。一例を挙げてみましょう。

 A「牧師の言葉には、間違っていると思っても従うべきです
 B「本当に間違ってもですか?信徒は修正をお願いすべきでは?」
 A「牧師が間違っていたら、神様ご自身が牧師を正し、罰します信徒は責任がないのですから黙って従えばいいのです。」
 B「なるほど、よく、わかりました。そうします。」

 日本のキリスト教界では、「なさそうでありそうな会話」ではないでしょうか?目に見える指導者に従うことを通じて、私たちは神に従うことを学び訓練されます。これは大切なことでしょう。しかし、それは指導者の権威の行使が神にあって正しい範囲においてのみと考えるのが聖書的でしょう。すべての権威の付与者である神が許容しない権威の行使は、それ自体が不当なのです。

 私もかつて信徒であった一時期は、これに準じたことを聞かされかなり本気で信じていました。そう信じることで自分の献身度を確認していたほどです。間違った命令に従っても自分に責任はないと無責任にも考えていたのです。何と不健全な!今考えると恐ろしいです。

 これを「牧師絶対服従理論」と名づけましょう。これは「神→牧師→信徒」という極めて単純化された権威のヒエラルキーによって、「下の者は上の権威者に絶対服従。上の権威者(牧師)が間違っていれば、さらに上の権威(神)によって罰せられる。神は完全で過ちがないから、牧師の過ちはすべて適正に神によって罰せられる」という理論でしょう。

 まず、このヒエラルキー自体が聖書的かどうか疑問です。確かに牧師は神が立てた権威でしょうが、「神→牧師→信徒」という序列は単純化しすぎでは?これは聖書の権威論を単純化、再構築し、非聖書的な従順を信徒に強いる結果になりかねないのでは?

 さらに言えば、牧師の権威の乱用による悪を神が直接裁くというのは何を意味するのでしょう?牧師にが落ちたり、病気で倒れたり、不祥事で失脚するのでしょうか?そうした直接介入的「天罰」でも下るのでしょうか?

 そもそも権力の不当行使による悪を神が直接罰するのなら、警察はいりませんし、国家権力も不要です。ですから、こうした「牧師絶対服従理論」は「教会における無政府主義」「チャーチ・アナキズム」と呼ばれるべきだと思います。自分の権威を主張しながら、教会の権威を否定しているようなものです。牧師自身による教会の権威と秩序の否定、あるいは乗っ取りであります。

 神様は国家権力や警察を用いて、悪の抑制をされます。同じように、牧師の不当な権力行使が生み出す悪への罰も、神様は教会を用いられるはず、教会に付与された権威を用いられるはず。それは教会や団体の規則に定められている場合がほとんどでしょう。

 実際にどうでしょう。こうした単純化したヒエラルキーによって「牧師絶対服従」理論を展開するリーダー達はその大きな不祥事を直接、神様から罰せられて、悔改めているでしょうか?

 まず、教会が正しく裁けません。あるいは正しく戒めても、それを拒否します。団体からの指導を拒否する場合や団体が除名をしてしまい指導ができないことも。つまり、教会の権威が機能しなかったり、機能しても、その権威に服する事を拒否したりです。最終的には仕方なく、裁判になったり、マスコミに取り上げられたりとなるのではないでしょうか?

 「神が裁くから信徒は黙って・・・」の結果は、最悪の場合罪の放置です。教会の権威が重んじられないのですから、神様も適正に裁けない結果になっているではありませんか。これは論より証拠です。牧師不祥事とそれに対しての自浄作用喪失の根底には、こうした「牧師絶対服従理論」が潜んでいることも多いのでは?

 さらに教会論に考えれば、「牧師絶対服従説」は、牧師を教会の交わりの外に位置づけることになると思うのです。牧師は牧師である前に一クリスチャンであり、教会の一員です。教会の交わりに生きるべき一人です。教会の交わりの機能の一つは「戒め合い」「罪を告白し合う」ことです。もし、「牧師は信徒から戒められる必要も罪を認めて告白する必要もない」と主張するなら、それは「牧師は教会の交わりに生きなくて良い」「信徒も牧師との交わりに生きなくて良い」と言っているも同然。

 まさに牧師は特権階級であり、安全地帯にいることになります。信徒から戒められず、罪や過ちを指摘されなければ、牧師はけっこう簡単に自分を見失います。「聖書を読んで神様の前に生きれば、大丈夫」というのは交わりに生きない非聖書的考えです。

 「教会で最も悔改めるべきは牧師なのでは?」
 「教会で最も戒められるべきは牧師なのでは?」
 「教会で最も交わりに生きていないのは牧師なのでは?」

 私は、そうした指摘をどれだけ賢明で謙遜な牧師たちから聞いてきたことでしょう。

 「牧師が間違っていても黙って従うべき」
 「牧師が間違っていたら神様がさばくから
 「信徒は黙って従っていればよい

 強いリーダーシップやカリスマ性を願う信徒と、そのニーズに応答してしまう牧師たち。あるいはリーダーシップの本質を強さと信じ、それを演じる牧師とその牧師の姿に心酔する信徒たち。相互のニーズを満たしつつ逸脱していく教会。「天皇ごっこ」と「臣民ごっこ」の如き「牧師絶対服従理論」。

 多分こういうのは、日本伝統美学、国家神道的美学、軍人美学、儒教的美学、任侠道的美学などであって、「聖書が示す従順の美学」ではないでしょう。これは、よくある福音が福音以前の価値観を転換させるどころか、支持材料とされ、福音が福音以外の価値観に従属するという構造のように思えるのです。でも、イスラエルの民がイエス様に願って拒否され続けたのも、こうしたリーダー像だったのでしょうね。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 08:39 | - | - | - | - |
聖書的リーダーシップについてもう一言
 昨日のリバジャパで紹介された教会の件とそれに関連した記事は大変な反響であったようで、猛烈にアクセスが来ました。多分、多くの牧師とクリスチャンにとって普段から感じていた課題なのでしょう。

昨日の記事はこちら。

http://blog.chiisana.org/?eid=1403890


 リーダーシップは単一ではない多様性のあるもの。しかし、聖書が示す原則はあると思うのです。また、福音理解によって指導者への従順がかなり強調されることがあるもの。それ自体を、私は決して否定はしませんが、それが聖書の原則に明らかに反したり、極端に逸脱をしていたら、修正訂正されるべきであり、放置されてはならないと考えています。


 以前、「簡単・便利、健全権威育成セミナー」と称して三回の記事を掲載したことがあります。

3回のアウトラインは以下の通り。
(1)権威、本質は、でなく(ローマ13:1)
(2)権威、動機は、でなく(ルカ22:26)
(3)権威、目的は、支配でなく模範(汽撻藤機В魁

簡単・便利、健全権威育成セミナー(1)
http://blog.chiisana.org/?eid=1166769

簡単・便利、健全権威育成セミナー(2)
http://blog.chiisana.org/?eid=1167978

簡単・便利、健全権威育成セミナー(3)
http://blog.chiisana.org/?eid=1168136

 リーダーが愛でなく欲の動機で、模範を示すことなく信徒を支配するために与えられた権威を行使するなら、その権威は悪以外の何物でもありません。そうならないために、リーダーは常に神の前に自己チェックが必要です。しかし、それは自己責任、自己申告であり、いくらでもごまかせます。教会や信徒を願う方向でコントロールしたいという誘惑は多くの牧師にあり、不当な権威行使の可能性は決して少なくはありません。だからこそ、役員会、教会の交わり、規則などによってチェックされる必要があると私は思いますし、だからこそ聖書は交わりの機能として「戒めあう」「罪を告白しあう」を明示していると思うのです。

 牧師が明確なヴィジョンを示しつつ、その説明や共有のプロセスを必ず通過する某牧師・某教会のあり方は、健全なリーダーシップを保証する一つのあり方だと私は評価しています。

 リバジャパの記事の最後、「役員や信徒との良好な関係」について尋ねられ、某牧師はこう返答しています。

「この教会には、私が間違ったときにはっきりと指摘してくれる信徒が何人かいます。それは本当にありがたいことです。(後略)

 イエスマンばかりになってしまう役員会ほど恐ろしいものはありません。いざという時、牧師の逸脱暴走を止められないからです。

 間違いを指摘する信徒を喜べる牧師が、健全なリーダーだと私は思います。同時に(愛の動機から)、牧師の過ちをはっきり指摘する信徒こそ、自己保身から解放された真に牧師と教会と神を愛し、牧師のリーダーシップを健全に保つ不可欠の存在でしょう。
 どうも健全なリーダーシップは牧師と信徒の両者で育てられるのではないかと思えるのです。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 21:48 | - | - | - | - |
本ブログ紹介の教会が「リバジャパ」に掲載
 「リバジャパ」の最新号で本ブログで紹介した某教会が取り上げられています。そもそもなぜ、この教会をブログで紹介したかといえば、「牧師と信徒の関係が聖書的で理想的と評価したから」です。そしてリバジャパさんも本ブログを通じて某教会を知り、取材されたようです。

 以下の記事がそれらです。某教会の信徒は「褒めすぎ」「褒め殺し」との感想のようですが、私は自信をもって賞賛します。以前に取り上げた際の記事は以下の通り。

 牧師と信徒これが見本かも(1)
http://blog.chiisana.org/?eid=1273208
 牧師と信徒これが見本かも(2)
http://blog.chiisana.org/?eid=1273224
 牧師と信徒これが見本かも(3)
http://blog.chiisana.org/?eid=1273225

 記事の冒頭がスゴイです。
 「北海道は十勝地方・帯広市に、「牧師にさほどカリスマ性が無いのに、教会員がビジョンを共有して成長を続ける教会」があるとの噂を聞きつけ、取材に行って来た。」

 この「さほどカリスマ性が無いのに」というのが、かなり失礼(笑)ですね。でも、私は申し上げたい。某教会の牧師は「さほど」どころではありません。「全く」カリスマ性がありません!これは最高の褒め言葉です。実に聖書的なリーダーシップの一類型を体現している牧師として私は尊敬しています。

逆に言えば「成長している教会の牧師はカリスマ性がある」という固定観念が日本の教会に定着していることの方が、大問題だと思うのです。そういうリーダーを願い、そうした指導者に心酔する体質こそ、日本のクリスチャンが悔改めるべき一つだろうと常々感じています。

 実は牧会ジャーナル最新号にはリーダー自身も信徒も「強いリーダーシップ」を願うことの問題点や落とし穴を扱った記事があります。この記事については後日、是非とも取り上げたいです。

 リバジャパの記事は、ビジョンを明確に示しつつも、忍耐と時間をかけて教会全体で共有し、具体化していく、実に聖書的かつ教会論的なリーダーシップが示されています。

 私は一部の牧師や信徒は、「神が選んだリーダーにヴィジョンが示され、神の民はそれに従う」という旧約時代の単純なパターンをそのまま移し変えたようなリーダーシップ論を聖書的と信じているのでは?と心配になります。教会の時代の牧師のリーダーシップは、教会政治によるでしょうが、そうした単純なパターンではないと思います。

 牧師に与えられたヴィジョンは尊重されるべきでしょうが、共同体の中で吟味され、修正や延期や取捨選択されるべきかと考えています。なぜなら、牧師も罪人であり、牧師自身も「みこころ」と「おこころ」を混同しやすく、旧約時代のように個々の事例についての具体的なみこころを伝え聞くことがないからです。何より牧師は教会の頭ではなく、一器官であり、交わりに生きる一人だからです。

 個人的に祈って思いついた事を、神からのヴィジョンと称して、尊い献金をつぎ込んでまで実現する牧師。ヴィジョンなる言葉を使い、自己実現をこともあろうに教会の場で献金用いて具現化する牧師。いないと信じたいのですが、極一部おられるようなお話しもちらほら。それは教会私物化。信徒迷惑、神様悲劇です。

 あるヴィジョンを発表し、「教会が賛同しなければ辞任する」というのも、考え物。その言葉どおりでないこともあるので、真に受けてはなりません。信徒を意のままにコントロールするためにその言葉を使う誘惑は多くの牧師にあるようです。

 また、「牧師である自分が最終的に責任を負うから、認めて欲しい」というのもおかしいです。責任は教会全体にありますから。これでは牧師が教会論的でありません。ひとりよがりはやめましょう。野田秀先生の「牧師の責任、信徒の責任」読んでください。

 また、ヴィジョンが実際に神様からのものであっても、教会全体で共有する努力をしなくては、ヴィジョンが教会形成にマイナスになることも。つまり「やりたい教会員だけやる」ことになり「教会全体のヴィジョン実現」にはならないのです。こうしたヴィジョンを進め方をすると、願い通りに実現しても、教会は牧師賛同派と牧師批判派に二極化し、牧師自らがヴィジョンを実現を通じて教会を分裂の危機に導くこともなきにしもあらず。

 さらにはこうして大量の信徒が教会を出てもなお、ご自分の非に気がつかぬ牧師先生もおられるように、一部の信徒さんからリポートをいただくことも。

 ワンマンな牧師が与えられたヴィジョンを丁寧に時間をかけて教会全体に説明もせず、共有しようともせず、「黙って俺について来い」は聖書的とは私は思いません。それでついていく信徒も「牧師に心酔しているだけ」で「本当にキリストにつながっているのか?」心配です。逆に、信徒がはっきりと異を唱えることなく、いやいや承認し、やがて教会を去っていくのもキリストの体の一部としては無責任な態度かと思うのです。

 しかし、私が一番問題だと思うのはこうした非聖書的なリーダーシップによって、教会が量的に大きくなる場合があることです。もちろん、それは本当の意味での教会成長ではありません。「不健全な肥満」でしかありません。しかし、残念ながら、そうした教会形成をした牧師が評価されたり、そのリーダーシップが聖書的かどうかの吟味も無く、模倣されてきた面もあるように思うのです。

 私は「黙らずオレについて来い」で牧師と信徒が与えられたヴィジョンが御心であるかどうか共に祈り求め、語り合うことが聖書的で教会論的なリーダーシップかと思います。

 その意味で某教会の牧師と信徒の関係、ヴィジョンの共有と具現化は、参考なると思います。著名牧師や名門教会や大規模教会ではない「誰もが手の届くモデル」として、現地(遠くて寒い!)に視察に行かれることもよいでしょう。この教会での二泊三日の奉仕と交わりは、私にとって日本の教会の未来への希望を与える体験となりました。

 何と、太っ腹!この貴重な記事の全文が「リバジャパ」のサイトでお読みいただけますぞ。他の記事も今回は充実ですから、このサービス精神に応答して「リバジャパ」購読しましょう。
http://www.revival.co.jp/2010/09/post-115.php
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 18:09 | - | - | - | - |
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>
+ RECOMMEND
+ RECOMMEND
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ RECENT TRACKBACK
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE