命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
脳死移植、自己の延命と他者の脳死を願うことの葛藤
 脳死臓器移植の問題が話題になるたびに、テレビに登場する一人の理学療法士。脳死肺移植を待ちながら31歳の若さで亡くなった池田真一さん。彼が生きる事を願い綴った携帯小説が話題となり、マスコミに取り上げられるようになりました。彼の死後も遺族やミュージシャンである仲間達が彼の意志を引き継いで、臓器移植の啓蒙などをしておられます。

 あるテレビ報道で知ったのですが、池田さんが脳死臓器移植を願いながら常に葛藤してきたことがあります。それは、脳死臓器移植を願うということの意味することに伴う矛盾です。「自分は延命を願い、同時に他者の死を願う」という矛盾です。脳死移植での延命を願うことは、臓器提供意志を持つ誰かの死を願うことと表裏一体なのです。池田さんはこのことの矛盾に葛藤したようです。

 臓器提供者は自主的な善意をもっているのだし、臓器提供のために他者を殺したり死期を早めているわけでもないのだから、葛藤し悩むのは間違っているという見解もあるでしょう。むしろ、多くの移植希望者はそう考えることでしょう。

 しかし、池田さんは自らの延命のために他者の死を願う自己中心性のような内面的問題に葛藤されたのかと思います。池田さんはある意味、医療人らしいいのちに対する真摯な思いを持っておられたとも考えられるでしょう。

 脳死臓器移植というシステムを「他者の善意と犠牲によって自分の延命が可能となるシステム」とは受け止めきれず、「自主的善意に基づくとは言え、自分の延命のために他者の死を願わざるを得ないシステム」しての面を意識せざるを得なかったのでしょう。

 ですから池田さんが存命中、訴えたことは、「ドナー登録しましょう」ではなかったのです。「脳死臓器移植の事を知って欲しい、もっと考えて欲しい」。それが池田さんの願いだったようです。このことはきっと、単なるドナー増加を超えて、一人でも多くの人がいのちについて真剣に考えるチャンスを与えてくれることでしょう。

 記憶は定かではありませんが、脳死問題に関するある書物に次のようなSF物語が紹介され、脳死問題の倫理的是非にかかわる本質を示唆していました。ストーリーはこうです。

 未来の人類は、医療の発展により、半永久的に生きるようになるのです。死に至るような病気もすべて、臓器移植等の移植医療によって治療をされます。まるで、故障した部品を正常な部品に交換することで、機械が機能し続けるように、移植医療によってすべての人が半永久的な生命を得ることなったのです。

 では、臓器提供者は誰かといえば、奴隷や下層階級や貧しい人々ではありません。そんな不平等や搾取理想の未来社会にはありません。その社会では抽選で10人に一人が臓器提供者となるのです。選ばれた人は、他者のいのちのために、喜んで、わが身を犠牲にして、臓器を提供します。つまり10人に一人は臓器提供のために自主的に死を選ぶのです。理想の未来社会においては、そのような自己犠牲が賞賛され、社会全体が臓器提供者を尊敬し、当人も栄誉と考え決して死を厭わないのです。

 医療の恐るべき発展、不平等も搾取もない社会、自己犠牲を惜しまぬ高い倫理性、「技術」、「社会」、「倫理」のすべてにおいて、好ましいものを獲得した人類です。そして、このシステムでは誰一人、意に反した行為を強制されず、臓器提供を受ける側も提供する側も両者が幸福なのです。これは、最大多数の最大幸福を実現しているはずなのです。

 しかし、このSFが描く社会や「永遠のいのち実現システム」を、多くの読者は理想の社会とは思わないでしょう。言葉にできない違和感や葛藤を覚えるでしょう。なぜでしょう?それは池田さんが持っていた葛藤に共通する要素かも知れません。

 以前の記事を再度、ご紹介申し上げます。本件について思索する参考になれば感謝です。
「臓器移植法改正に際して」
http://blog.chiisana.org/?eid=1198391
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 07:48 | - | - | - | - |
移植医療は現代のカニバリズムか?
 先日「本当は怖い漢字」という本を拝読。「本当は怖い」どころか「怖すぎ」ました。一例を紹介しましょう。それは「」という漢字の起源であります。この文字の上の部分は元来「人」が四つだったそうです。下の部分は「」ですから、この漢字の意味は複数の「人」を「日」に干す事を意味したのだとか?では、なぜ、それが、過去から現在の時間の経過を意味する「」となったのでしょう?

 それは古代中国の飢饉と関係するのだとか。飢饉になり食物がなくなれば、家畜のを食べてしまいました。さらにそれでも飢餓が続くと、人間を殺して食べたのだとか。犠牲にされたのは子どもや老人や奴隷階級など社会的弱者でした。さらには安定した食物配給のため、人間の肉を食肉のように日干しにして保存したのです。良心の葛藤もあり、その干し肉が完成するまでの時間は、大変長く感じられました。

 もう、お分かりかと思います。四つの「人」は殺され食肉とされた人間。「日」は日干しのための日光であります。干し肉が完成するまでのその時間感覚が「昔」という字となっていたとのこと。世にも恐ろしい漢字の成り立ちであります。

 人間が人間を食べることを「カニバリズム」と呼びます。前述のように飢餓のような極限状態でそうした行動を取ることもあれば、宗教的、儀礼的ななど人間の食肉化とは別の意味でのそうした文化行動もあります。

 実は、移植医療自体が文明論的視点から「現代のカニバリズム」ではないかという批判を受けることがあります。神の形に造られ、神の霊を要する人間をそうではない他の動物のように食用にするカニバリズムは人間の尊厳に反する行為と言えるでしょう。移植医療はそれと同様ではないか?との指摘なのです。

 確かに移植医療は他者の肉体を自らの肉体取りこむことによって、生命の維持をするわけですから、その点ではカニバリズムと共通点があります。では、本質において同様の行為であると言えるでしょうか?

 厳密に考えてみると移植手術と食物摂取とは大きくことなります。食物摂取は体や臓器を破壊し、栄養として取り入れますが、移植は臓器を破壊せず、その機能を維持して体に取り入れます。
 分かりやすく考えれば「輸血」と「人の血を飲むこと」は明らかに異なります。もちろん、体で製造可能な血液と失ったら作り出せない臓器とは意味が多少は異なるでしょうが、移植と飲食の本質的な違いは明らかではないでしょうか?他者の肉体の一部を自分のものとすることの是非は考えられなくてはならないでしょう。しかし、それをカニバリズムと同一視してしまうのは乱暴な論理だろうと思うのです。

 私は現段階では、脳死移植には反対ですが、それ以外の移植医療については容認・慎重派であります。ただ聖書の人間論や身体論を考えると、手離しで移植医療を全面的に肯定することには躊躇を覚える面もあります。

 明日はある躊躇を覚えた移植希望者のことを記してみたいです。
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 09:17 | - | - | - | - |
クリスチャン新聞最新号に臓器法改正特集
 クリスチャン新聞8月23日号の8,9面は医療特集として、大きく臓器移植法改正を取り扱っています。今回特別に紹介したいのはいくつかの理由があります。

(1)臓器移植の基本的な説明や改正前後の対照表など、初心者にもわかりやすい解説があること。

(2)専門家に限らず広くクリスチャンたちの意見を多様な立場と視点から集めていること。

(3)何より当事者の立場からの意見が掲載されていること。

 実際に渡米し、脳死臓器移植を受けた日本人牧師の声が掲載されています。様々な葛藤があったこと、移植を受ける決断をした根拠。議論不足の指摘など、当事者ならではの思いや考えが記されています。個人的には、死を受け入れる選択肢も考えるなど、永遠のいのちを持つ者らしく延命に執着していなかったことに、真実さを覚えています。

 こうした倫理的な問題はよく当事者を除外しての判断がなされやすいのですが、さすが、ジャーナリズム。「事件は牧師の書斎や神学校にあるのでなく、病室や患者の家庭にある」ということでしょうか?ぜひ、この移植経験者の立場からの見解はお読みいただきたいものです。

 また、四名(いずれも匿名)からの見解が記されているのですが、本ブログの愛読者は本誌を一読すればあることに気づいてしまうでしょう。

 聖書的な考え方の筋道の典型と思われるのは以下の通りです。
聖書は人間の生命と身体についてどう示しているか?」→「脳死とは何か?脳死体からの移植は何をしているのか?」→「聖書の生命観、人間観に立つとき、脳死は死か?移植は正当な行為か?」

 聖書信仰というのは、現実の社会事象を聖書を最優先の基準として考察し判断することでしょう。こう考える時、どうしても、脳死や脳死臓器移植については、消極的否定的にならざるを得ません。「では、キリスト教文化に立つ欧米ではなぜ、脳死が死とされ、移植が多いのか?」と疑問に思うでしょう。以前、大和昌平先生の見解をブログで紹介しましたが、そうした判断は、「非聖書的思想」に由来するようです。それは、霊肉二元論のギリシャ思想やデカルト以来の機械的人間観によるものです。ですから「欧米では脳死は死、脳死体からの移植を申し出るのは愛の行為」→「それは聖書的、あるいはキリスト教的思想によるものであり、クリスチャンは賛同すべき」という判断は、過ちであると私自身は判断しております。

 こうした生死観が法律的根拠を与えられてしまうと、「いのちとは脳」「人格は脳」「人間とは脳」という「唯脳論的生命観」(聖書に著しく反する)が宗教心を失った日本社会には、深く浸透するのではないかと危惧をしています。

 紙面中、クリスチャンの小児科医師は、専門家として回復例があることなどを根拠とし、脳死を死と判断することに疑問を呈します。その他にも、医療人ならではの優れた見解が記されています。これは実に教えられます。

 私が今回教えられたのは一人の牧師の視点。この牧師は二つの視点から問題提起をします。キリスト者としての社会的視点と人権上の視点からの考察には私自身も大いに考えさせられました。

(1)国旗国家法案が「強要しない」はずが実際は強制力をもったように、同法も同様な展開になるのではという危惧。今回の法案通過が、純粋な死生観や医療上の判断ではない要素、政治的で功利主義的な要素が強く将来的には国民が予期しなかったような新たな課題が起こるのではないかと私も考え始めました。

(2)「誰が一番弱い立場か?」という発想での判断。その場合の弱者とは移植を受けられず死に至るいのちだけではなく、脳が機能しないという理由で死体とみなされるいのちもまた、最弱者であるとの見解です。
 キリストが弱者の側に立ち、宣教し、生きられたことを思う時、こうした発想は大変聖書的だと思います。脳死移植があれば、生きる可能性のあるいのちと不可逆的に死に向いながら回復の可能性がゼロに極めて近いいのちとのどちらが「弱者」でしょうか?

 当事者を除外した倫理的判断には、聖書的な正論であっても、なお限界や欠けがあるかもしれません。しかし、この場合の当事者とは、脳死臓器移植を願う患者と家族たちだけではなく、脳死状態にある方とその家族でもあるのです。自分を両面の当事者に置いて考えることが大切でしょう。こうしたことを思いながら、いよいよ深く多面的な視点から本件を考えさせられました。

 クリスチャン読者の皆さんが「生きることを願うのは当然」という感情論や「いのちがすくわれるのだからいいのでは?」という功利主義的な発想ではなく、聖書を根拠に、現実の当事者に自らを置きながら、深く多面的に考えていただければと願うのです。

 関心のあるなしにかかわらず、個人的には、是非ともご一読いただきたい特集です。 

 
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 07:59 | - | - | - | - |
脳死移植法改正に応答してクリ新記事
 ブログ休止中とは言え、どうしてもこのタイミングでご紹介したい新聞記事が。それはクリスチャン新聞最新号(7月19日号)第二面に掲載の「脳死 臓器移植法改正論議と宗教」という記事。大和昌平先生(東京基督教大学准教授)による特別寄稿。

 先日、上記移植法の改正が成立。クリスチャンたちが聖書を基準にどう考えるか?いざという時、自分や家族が脳死患者から臓器移植を受けることを願うのか?自分や子どもが脳死の場合に移植を申し出るのか?そもそも脳死を死とする死生観に聖書信仰者は同意できるのか?

 私自身も何度かブログで脳死問題には触れてきましたが、大和先生の論説は、非常に分かりやすく問題の論点を明確に示し、聖書的な生命観を明らかにしてくれています。

 キリスト教が霊肉二元論というのは誤解。霊肉二元論は古代ギリシャの人間論。現代医学はデカルト以来の心身二元論に立っている。むしろ聖書の人間観は心身統合体。この聖書の人間観に立って大和先生は、脳死や臓器移植を論じておられます。

 さらに優れているのは、仏教学者でもある先生が、仏教も別の論拠で、機能主義的に延命を図る医療に疑問を持つこと、脳死移植が「不殺生戒」に抵触する可能性を示唆している点です。宗教的な生命観に立てば、脳死移植は慎重にならざるを得ないのが必然のようですし、私個人も同じ見解です。

 極めて高度な医療が可能となっている現代という時代、日本という社会に生きるキリスト者として、こうした問題は避けられないと思います。性といのちの尊厳を見失いつつある現代日本社会にあって、自らの性のライフスタイルや生命観を周囲の未信者に伝えることは最もインパクトある証しになるのでは?人工妊娠中絶と同様に脳死移植が聖書の「殺すなかれ」に相当する可能性があるとするなら、「御心が天で行われますように地でも行われますように」と祈る者として無関心ではいられないし、放置しておいてはならないと思うのです。

 同じ二面には日本宗教連盟からの意見書の概要を記されており、こちらもお勧めです。以下のサイトで概要がご覧いただけます。

http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=1739
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 10:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
臓器移植法改正に際して
 臓器移植法案のA案が衆院通過だとか。臓器移植の願う患者達とその家族の切実な思いは、大切な要素。しかしそれ以外の様々な思惑や要素もあるようで、純粋に死生観を問うものでも、国民的合意を図るものでもないというのが私の考え。

 2007年の下旬には「患者様は神様?お医者様も神様?」という医療関係者には申し訳ないような挑戦的なタイトルで、記事を書いております。私なりの拙い私的見解を記しているので、その(2)と(3)を再度記事として掲載しておきます。患者とその家族の願いを中心とした感情論や、治療効果を最優先する功利主義的な発想に埋没するのでなく、問題の本質、深い部分への考察を大切にしていただきたいと願っての再度掲載です。

(2)
昨日に続いて最相葉月著「いのち〜生命科学に言葉はあるか」(文春新書)を取り上げます。今回は脳死・移植問題について著者と額田勲さんの対談から。額田さんは神戸の病院の理事長。医療関係者と一般市民で組織する「生命倫理研究会」を全国に先駆けスタートした方。

 額田さんは日本の脳死論争の特徴の一つとして、推進派側の論理がほぼ同一であることをあげます。臓器提供をする善意の人がいて、移植によって助かる患者がいて、それを仲立ちできる医者がいる。当事者がみなよしとするのに、それを実践して何がいけないのか?という論理。三者合意があれば、OKということ。それに対して反対派や慎重派の意見は多種多様であると指摘します。

 この推進派の論理は、援助交際を肯定する理論と酷似しています。性を売ってでもお金の欲しい女子高生がいる、女子高生とエッチしたいオヤジがいる、それを仲立ちできる風俗業者がいる。当事者がみなよしとするのに、それを実践して何かいけないのか?という論理は、当事者だけが主張していて、社会的にはおよそ認められません。三者合意があっても、三者以外のところに基準はあるのです。

 脳死移植と援助交際の違いは何か?金銭欲性欲などの欲と善意や幸福を願う動機の違い。取引に売買関係がないこと。援助交際自体はすでに法律違反とされていることでしょう。完全に同一視はできないのは確か。

 しかし、本質的に「当事者がよければ、実践してよい」という論理はめちゃくちゃ。「苦しいから死なせてくれ」と頼まれて医者が、善意のつもりで医療機器をはずしたら大問題。当事者がよくても、正しくない医療行為はあるはず。

 脳死移植も援助交際も当事者はよいことが、そのまま社会的に許容されるわけではない。当事者たった三名の社会の中だけで医療も援助交際も終結しているわけではありません。それは地域社会や日本という国家を現場としているのですから。医療も援助交際も社会的行為です。故に社会的な評価を受けて是非が判断されるべきでしょう。

 さらにもう一つ共通の問題点があります。両者とも「当事者がよければよい」で判断を終えてしまうと、さらに本質的な判断を放棄してしまうことになります。援助交際なら、そもそも女子高生が性体験をしていいのかという年齢における性行為の是非、性を金銭と交換してよいかという売春の是非、買ったオヤジは妻がいながら、そんなことしていいのかという不倫の是非。そうしたより本質的な問題が議論されず、置き去りのまま、援助交際が続いていくわけです。

 脳死移植医療も同様。「当事者がよければいいではないか」がまかりとおれば、もはや「脳死は人の死か?」「そもそも移植医療は正当な医療行為か?」などの本質的な議論は全くの置き去りになってしまいます。

 「当事者がよければいいではないか?誰に迷惑かけるわけでなし、他者のことに干渉する権利はない」。それは普遍的な真理や絶対的な基準を失った現代人独自の危険な思想。

 脳死が死でないとしたらどうでしょう?いくら本人の願いとは言え、生きている人間から臓器を取り出して、その移植を願う人に移植。患者は健康となり医師は役立った満足感や達成感を持つとしましょう。これら三人は第三者から見るなら、三名の閉鎖社会における異常行為、不法行為と判断されても仕方ないでしょう。

 脳死臨調メンバーの中で、脳死は人の死ではないと判断しながら、脳死移植を許容した梅原猛さんは生きながらにして死を覚悟し、生ける自分の臓器を他者の幸福を願い提供するのはキリスト教の隣人愛、仏教の菩薩行に相当するので道徳的に正しい行為であると判断されました。これもドナーのほとんどは脳死を死と理解した上で、臓器提供するわけですから、隣人愛や菩薩行ではなく、従来の献体における善意の延長となるでしょう。

 欧米のキリスト教社会はいとも簡単に脳死を死と認めたようですが、その判断基準は聖書とは別の思想によるものとしか思えません。死に向かいつつありながら死に到達せず逆戻りできないいのちを既に死に到達したと合理的に割り切る思想は、聖書とは別のもののように私は考えています。それは霊肉二元論や愛を最優先する倫理などでしょうか?

 聖書の生命観、死生観、身体観はそうした発想を支持していると私には思えません。誰が何を根拠にどう判断するのか?そしてその判断の責任は誰がとるのか?そうした肝心の議論もそれなりで結局、死生観の議論の深まりは過去のこととなり、本質とは別の要因(経済的理由や競争心など)で決まってしまったように感じています。
 
 著者の最相さんは「当事者がよれけばよい」という倫理的な判断は再生医療や不妊治療も同様だと指摘します。組織提供者、それを必要とする患者、仲介する医師の三者がいれば再生医療はOK。組織採取に際しての様々な問題は不問とされます。精子提供者と不妊女性と仲介する医者がいればAID(第三者の精子による不妊治療)はOK。生まれてくる子どもや家庭や社会的影響、さらにその医療自体の正当性の判断は置き去り。

 大切な判断を置き去りにしながら、当事者間の利益や善意だけを根拠に実践されていく様々な医療技術。それは「何のために生きるか」を考えることを放棄し、快楽と豊かさを追求する日本人のあり方に共通する問題があるように思うのですが。実は共通ではなく、同一も問題かも

(3)
 最先端の医療技術が持つ問題の所在は?そのことを深く教えられたのが、著者の最相さんと発生生物学者の中辻憲夫さんとの対談。

中辻さんは「生命科学の最先端で問題視されていることは、人間の欲望や現代社会の成り立ちの方に根本的な問題があるという気がするんですね。」と鋭く問題の所在を指摘します。

 人間の欲望や社会の成り立ち・・・実は、私自身もそう思っていました。医療技術が問題視されるのは医療の世界でのことではなく、内側では人間の欲望とそれに伴う罪の問題、外側にはグローバルな視点も含めた格差社会や世界の貧富などの不平等性の問題だと考えてきました。中辻さんの発言は私の頭にあったことを言語化していただいたようで感激です。

 中辻さんは様々な事例をあげる中で、最相さんと共に結論めいた会話をされます。

中辻「精子バンクで精子を買うことも、夫の死後、その精子で出産することも結局、自分が中心ですよね。子ども自身のことをよく考えていない。技術は進歩して暮らしも良くなったけど、人間の欲望って、ますます悪くなっているんじゃないでしょうかね?」

最相「そうですね。」
中辻「手段が与えられれば、与えられるほど、欲望が肥大化している。」
最相「いい加減にして欲しいですね。」

 欲望達成の手段が与えられるほど、際限なく自己中心の欲望を肥大化させていく、現代人。それを肯定し、実現を援助していく現代社会のシステム。

 医療が人の健康と幸福に貢献するものから、患者の自己中心な欲望を実現するサービスに変質し、さらに、そのことが患者の欲望を肥大化させるという悪循環に陥っているように思えてなりません。

 聖書は際限なき欲望の肥大化を「むさぼり」と呼んでいます。そしてコロサイ3:5は「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と指摘しています。欲望の肥大化こそが現代の偶像礼拝。へたをすると医療技術は偶像礼拝の実現手段となりかねません。

 最近、ある教会でお聞きした話。アメリカの白人夫妻アジアの貧しい国の女性と代理母の契約。やがてアジア人女性は、白人夫妻の子どもを懐妊。ところが、依頼者である白人夫妻は、離婚。そこで、「もうその子は、いらない」ということになり、白人夫妻は両者とも子どもの引取りを拒否。不平等で一方的な契約だったのでしょう。結局、アジア人女性はお金を全く受け取ることなく、白人夫妻のあかちゃんを生まざるを得なくなったというのです。

 これは、まさに人間の欲望と現代社会の成り立ちに、問題の本質があることを示している例でしょう。子どものことも、貧しいアジアの女性のことも、自分たち夫婦のことさえ考えてない人間。その欲望を達成させることが医療として正しいと言えるでしょうか?

 さらに、この社会の成り立ちは、一部の富裕層が、貧しい人々の犠牲や搾取の上にその富を独占しているというもの。医療の世界でもこうして豊かな人のわがままな欲望達成のために、貧しい人々が道具のように使われて、都合が悪くなれば捨てられたり、傷つけられたり。

 貧しい国では、数百円のワクチンで、一人の子どものいのちが救われるその一方で、豊かな国では、数百万の大金を投資して一人の我が子を得ようとするのです。貧しい国では、生活のために闇で臓器を売る人々がいます。一方、豊かな国の一部の金持ちは数千万円から億というお金をかけて臓器移植を試みます。グローバルな視点に立つなら、貧富の差は医療の差にリンクしています。

 我が子を願う思いや移植医療での治療を願う方々のその切望を批判するつもりは毛頭ありません。しかし、正当な手段と不当な手段の判別だけは必要だと思うのです。内側にあっては自分の欲望を検証すること、外側にあっては、現代社会の成り立ちから、自分の願いを検証すること。とてつもない欲望を実現する医療手段があるからこそ、現代人はそうした視点を持たなければ、ならないことを中辻さんから教えられた気がします。
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 18:08 | comments(4) | trackbacks(1) | - | - |
臓器は部品、医療は修理、だったら人間は車か?
そもそも移植医療には大きな落とし穴があるように思います。機能しなくなった臓器を、他者の機能する臓器と交換することによって患者の健康を実現する、それが臓器移植なわけです。
 この発想は何かに似てませんか?そうです。自動車の部品交換です。故障した部品を正常なものに交換することで、修理するという発想です。車は物です。人格も命もありません。部品はいくらでも製造できてカーショップで並んでいます。
 でも、臓器は物ではないと私は思います。すくなくとも人体という車体の部品、パーツではないでしょう。移植元の患者、移植先の患者には当然、書面で十分な説明の上承諾を得るべきです。
 病気に犯され切除した腎臓を移植したとのこと。中古部品を用いて車を修理するような発想でしょう。私は医療行為自体よりもそうした発想、突き詰めれば人間観に危険を感じます。臓器は部品、医療は修理、だとしたら、人間は車です。まさにボディーでしょう。それは人格や命のないひとつの機械。様々な部品の集合体としての人間です。
 現代の医療は、臓器ごとに専門化し、そのために飛躍的発展を遂げました。私たちはその恩恵にあずかっています。しかし、一方でそのような傾向の中、現代医療は臓器医療と言われるようになりました。臓器に対しての治療であり、患者という生命体を見なくなったという批判もあるのです。
 私は移植医療には反対ではありませんが、慎重派です。様々なリスクや問題点を自覚した上でのルール作りと実施を願っています。
 大阪のおっちゃんが患者さんだったこういうだろう。「オレの体は車やないぞ。オレの臓器は部品とちゃうぞ。勝手にリサイクルして使うなよ。オレの臓器をごみ扱いしよってからに。ただじゃすまさんぞ!」
 私は思う。人間の体は、統合的な生命体、臓器はいのちの一部、いや、人格の一部ではないかと。
 
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 09:04 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
臓器移植問題は耐震偽造問題に似ている
 さらにいろいろな事実が明らかとなっている臓器移植問題。問題となっている医師の証言に虚偽が多く、臓器移植の際の明らかなルール違反も明らかになってきた。
 こうした問題発生の背景には臓器移植のルールやシステムの不備があるようだ。その不備はちょうど、耐震偽造問題の場合に酷似。人の生命にかかわることだから、まさか設計士が不正はしないだろうという楽観的過ぎる性善説に立った法律。したがって意図的な不正は可能で、チェックの際にばれないければ済んでしまう現実がある。
 今回の臓器移植も同様。ルールはあるものの、意図的に破ることもでき、しかもチェック機能がないに等しい密室性。
 人間は罪人であり、弱い存在、利害や欲望がからめばルールを破りたくなる誘惑は誰にでもあるもの。医師、建築士、弁護士、警察官、教師、牧師など人の命や人生に深くかかわる職業に携わる人たちも同じこと。
 移植医療については一定のレベルで悪を抑制する規則の制定や何より第三者によるチェック機能が働くシステム作りが必要だろう。

 不正表示、不正改造、リコール隠しなど、企業悪と同様のことが医療現場で起こっている。なぜか?医療の比重が、経営や利益に大きく傾き、企業同様の競争原理が働いているのでは?
 ルールを破ってまで、不透明な移植医療。医師は患者のためと説明しているが、私は信じない。臓器移植を多く成功させることは、間違いなく有形無形で医師に大きな利益をもたらすだろうから。
| ヤンキー牧師 | 脳死問題・臓器移植 | 09:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
+ RECOMMEND
+ RECOMMEND
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ RECENT TRACKBACK
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE