命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「老害」転じて、「老益」と為す聖句、ヘブル13:7
 戦後のキリスト教界をリードしてこられ、多くの信徒や後輩牧師夫妻の尊敬を受けてきた主の器が、その生涯の最後に残念なことに・・・・・。そうした事例は少なくありません。そうした事例について、以前、一人の牧師が私にヘブル13:7を示してくださいました。

 「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」

 これは直接には、指導される側に語られた言葉です。しかし、指導者の側から読めば、指導者は、その「生活の結末」を「その信仰にならいなさい」と神様から、後輩に向けておっしゃていただけるようにするのが責任でしょう。「生活の結末」という言葉は、新共同訳では、「生涯の終わり」と訳されております。

 信徒に模範を示すという面から、神様は指導者の「生活の結末」「生涯の終わり」を極めて重大な評価基準としているのではないかと思うのです。

 目を見張る働きをされながら、晩年に不祥事や逸脱行為、真の悔改めも和解もなく終わる伝道者生涯。

 団体を代表するような大規模教会を建て上げながらの教会私物化とその後の衰退。
 優れた教会形成をされながらも、後継の準備をすることなく過ごし、後継牧師の代には、礼拝出席者半減

 団体のリーダーとして活躍し続けながら、退くタイミングを逸し、老害によって団体を苦しめ、衰退させる大御所牧師。
 
 こうした残念な現実から目を背け、群れの功労者を賞賛する文化がキリスト教会にはあるように思います。あるいは残念な「生活の結末」については「皆知っているけど、口に出さない」のが大人の態度ということも。公の場では、ちょっと本音を漏らして、「素晴らしい先生でしたね、最期はちょっと残念でしたけど」程度の会話となるでしょうか。

 私はこれまで、「たとえ、最期は残念でも、それまでの功績まで否定してしまっては、いけないだろう。一応分けて考えるべき」と世間の常識、あるいは、キリスト教会の文化に立っていました。しかし、一人の牧師からヘブル13:7を示していただき「本当にそれでいいのか?」「神様の視点は違うのでは?」と悩んでしまいました。

 恐ろしいことですが、「最後はチョット残念だったけど、偉大な伝道者生涯だった」との全体評価は神様の目からありうるのか?と考えてしまったのです。聖書は指導者は模範を示すべきであり、付与される権威も、群れの模範となるための権威であると明記しております。

 その上で、この聖句を神様の評価基準とするなら、信徒の模範を示す、倣うべき信仰を示すという点においては、「最後は残念」は「全体的に残念」とまではいかなくても、、その指導者の生涯の全体の評価をかなり低くするのではないでしょうか?

 「終わりよければすべてよし」というのは極論でしょう。しかし、どうもヘブル13:7によれば、「終わりよくなければ、かなり悪し」のように私は読めるのですが、どうなんでしょうね?

 「老害」という言葉はキリスト教界でも、けっこう囁かれている言葉です。その信仰にならえないような生活の結末を送るなら、それは霊的世界における老害に他ならないでしょう。

「神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」

 しかし、このみことばを生涯の最終ステージで、自らに適用できる指導者は、「老害転じて労益となす」となること間違いなし。「老害」という言葉はあっても「老益」という言葉はありませんね。でも、思うのです。後進にとって信仰の模範となるような生活の結末を送れたら、それが指導者として、まさに「老益」。伝道者生涯の完走と言えるでしょう。

 伝道者生涯、最後のミッションは、「自分の信仰にならってもらえるような生涯の終わり方」をすることでしょう。私自身、みことばの前にビビリながら、晩年はいよいよ妻や周囲のクリスチャンの声に聞き従わなくては!痛感しております。

 と言うわけで、このヘブル13:7が日本のキリスト教界において、「老害」転じて、「老益」と為す聖句として用いられるように願っております。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 18:20 | - | - | - | - |
「はばたく福音派」、その現在は?

 最近、近所の図書館で古屋安雄著「日本のキリスト教」という書物を借りて読みました。福音派や聖霊派の方にはあまり馴染みのない著者からも知れませんが、日本のキリスト教界全体に「福音派」を外の立場から知らしめた方であります。ですから、古屋先生は、福音派の集会にも招かれ奉仕をされることもおありのようです。

 この著書は訳20章の内の一章を「日本の福音派」に割いています。外側から、また、日本のキリスト教会全体の視点から客観的に福音派を観察評価しており、とても有意義に感じました。JEAが1978年に発行した「はばたく日本の福音派」という著書の通り、80年代は文字通り「はばたく」ような成長振りであったことを記しています。しかし、90年代には停滞傾向に入ってしまったことを指摘。世界的には福音派陣営は将来性があると目されているのに、日本の福音派はどうなっているのか?という問い掛けが興味深いです。

 古屋先生のこれに対しての見解(米、韓とは異なる日本独自の宣教史や精神的土壌の指摘)は、外側からの観察、分析として、とても有意義に感じます。ただし、古屋先生は紙面の関係もあるのでしょうが、米・韓福音派の評価はなさっていません。ですから、「米、韓の福音派はどうなの?今もはばたいてるの?多数化はしてはいても、日本の福音派が目指すべきあり方なの」とのツッコミはありそうです。

 この著書を読んで考えました。80年代は「はばたく福音派」でしたが、現状をどう表現すべきだろうと。

 「はばたいた福音派」 
 これは、客観的観察による冷めた表現。

 「翼の折れた福音派
 これは内部からの自虐的表現。でも福音派は中村あゆみではございません。

 口の悪い牧師はこう評するかも。
 「低空飛行に切り替わった福音派

 さらに口が悪く、危機感過剰の牧師はこう評するかも。
 「一部、墜落に向かいつつある福音派

 しかし、私なりの結論はこれです。
 「翼を休めている福音派

 はばたいてきたが、翼に違和感を覚えて、翼を休めている。これまでの飛行を振り返り評価、そして、正しい危機感を抱きつつも、次の飛行を、聖書に立ち返り謙虚に考えている。
 
 古屋先生は、かなり客観的に観察と評価をしながらも、福音派に対する大きな期待を記しています。神学者マクグラスは「世界的に見て将来性のあるキリスト教として、ローマカトリック、東方正教会、福音派、カリスマ派の四教派を上げています。古谷先生はこの見解を支持しているようです。そして、日本社会において、庶民、あるいは大衆への伝道をリードし、実現するのは福音派だとして、高い評価と期待を記しています。

 私は思います。翼を休め次の飛行を模索している限り、福音派には未来があると。次には80年代とは異なるばばたき、あるいは飛翔はせずとも安定した飛行があるだろうと。近年は、単なる新たな方法論や枠組みなどではなく、そうした翼を休めて福音理解等を深める取り組みや交わりが起こっているようですが、それは必然だと思うのです。

 もし、福音に未来がないとすれば、それは翼を休めようとしない教団や教会であろうと。思考停止の前例踏襲主義過去検証のタブー化などは最も残念な結果をもたらす典型かと思います。現状から目を避けて、「主にある時代の産物」?でもある「80年代はばたき幻想」を未だに追求するなら、そこには次のはばたきも、安定飛行もないでしょう。

 「翼を休めた後に飛行する福音派」、
 「翼を十分休めることなく、無理に低空飛行を続ける福音派」
 「翼を休める必要も認めず、墜落に向かう福音派」

 こんなふうに、21世紀、日本の福音派は、大きく三つに分かれるのではないか?それが、私のはちゃめちゃ予測であります。数十年後には「福音派の教勢は、全体として・・・」と一括して語ることのできない将来が来るのではないかと私は考えています。

 福音派外部の優れた先生が書かれた書物から、外側の視点ならではの自己分析と、外からだからこそ見えてくる希望や展望をいただいた気がします。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 11:43 | - | - | - | - |
総論「共に生きる」、各論「精いっぱい出会う」
 一昨日は3400を超えるアクセス。「いいね」も多くいただいているので、この記事にアクセスが集中したと思われます。

言葉だけの「寄り添う」「共に生きる」よりリアルな「精いっぱい出会う」
http://blog.chiisana.org/?eid=1408361

 キリスト教界でも、「寄り添う」「共に生きる」が、安易に使われていることへの違和感や批判的思い多くの方が持っておられたということでしょう。また、そうした美辞麗句による実質以上のに過剰評価。時にそこに潜む自己満足や自己宣伝。純粋な被災者支援、キリストの愛とは異なる要素の存在。そうしたものを感じてきた方々の問題意識にはまった記事であったのかもしれません。そうした意味でも今回のクリスチャン新聞「オピニオン」は高く評価されるべきだと思うのです。

 このオピニオンを受けて、考えた事、それは、「キリストは、寄り添い共に生きたか?それとも、精いっぱい出合ったか?」という問い。

 「イエスに出会った人々」という書物があります。福音書から説教する時には、参考にすることのある私にとっての愛読書です。日本基督教団の高田栄治牧師が著しておられます。そこにはイエス様に出会った人物25人がピックアップ。東方の博士から始まって、十字架の犯罪人まで、さらには復活後のイエスに出会ったとして、マグダラのマリヤ、エマオの旅人、パウロまでで、合計25名。

 25名の中のほとんどは、イエス様と出会っただけで、生身の主と共に何年かでも歩んだわけではありません。東方の博士や羊飼いは幼子イエスを一度礼拝しただけ。でも、「別の道から」とか「賛美しつつ帰った」とか、その人生が一変したように聖書は暗示しています。サマリヤの女やザーカイ、ゲラサの狂人などは、出会いの前後の変化が分かりやすい例。十字架上の罪人などは、まさに「一度きりの出会いで、パラダイス入り第一号かい!?」とツッコミたいほどの神様の恵み深さ。ポテオピラトなどは一地方政治家に過ぎなかったのに、一度の出会いによって、使徒信条にまで、名前が挙げられ、半永久的かつ国際的悪役扱いであります。

 たしかに神は人となり、国を失った弱小民族国家の労働者階級に生まれ、貧しさを味わい、途中からは母子家庭の苦しみも経験されました。まさに「共に生きてくださった」わけです。でえすから、福音書全体は「神が人となり共に生きてくださった記録」とも言えるでしょう。しかし、福音書に書かれている事例の一つ一つは「精いっぱい出合った記録」が多いわけです。

 そこで、強引にまとめたのが、タイトルのフレーズであります。

 福音書が描くイエス様は、総論共に生きる」、各論精いっぱい出会う」であったのでは?

 今日のキリスト者の多くにとって、心寄り添い共に生きるべき第一の隣人は伴侶でありましょう。特別な使命がない限りは、家庭に大きな犠牲を強いてまで、遠方の苦しむ弱者のために「寄り添う」とか「共に生きる」とかはすべきだとは思いません。あくまで、これは原則論ですが、むしろ、日々の出会いを主の導きとして受け止め、「精いっぱい出会う」ことを心がければよいのでは?

 キリストに似た歩みとは「寄り添い共に生きる場面一辺倒」ではなく、むしろ、「精いっぱい出会う場面が大多数」の歩みではないかと思うわけです。

 総論共に生きる」、各論精いっぱい出会う」。

 これは、今日のキリスト者がキリストに似た者として歩む際の指針のようにも思えます。「たとえ、寄り添えなくても、共に生きられなくても、精いっぱい出会うキリスト者でありたい!」。優れたオピニオンに触発され、そんなことを考えております。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:15 | - | - | - | - |
言葉だけの「寄り添う」、「共に生きる」よりリアルな「精いっぱい出会うこと」
 クリスチャン新聞5月20日号のオピニオン松田牧人師が執筆。タイトルは「寄り沿うことはできなくても」。被災地現場からの真実な声であり、教会が陥りがちな課題を指摘しつつ、それを超える現実的で聖書的なあり方を示しています。私の問題意識と共感する内容なのですが、ありそうでなかった論点であることが素晴らしいと思いました。

 私が持っていた問題意識。それは「寄りそう」「共に生きる」という言葉が世間だけでなく、キリスト教界でも、軽くなっていること。オピニオンはそのことを冒頭で指摘。師自身がその言葉の重みを理解せず安易に口にしていたことを記しています。

 「寄り沿う」「共に生きる」とは何と美しい言葉でしょう。しかし、その言葉の実行は生易しいものではありません。事実として、寄り添い共に生きることのない「思い込み寄り添い」や「なんちゃって共生」が、実質90%以上を締めているのではないかと私は思います。

 それは、残念ながらキリスト教界も同様のようです。オピニオンは、「言いにくいことと」断りながらも、「被災地の教会に寄り添う」と言いながら、被災地教会を利用しているとしか見えない支援活動に傷つくこともあったことを記しています。

 被災者支援のグループを立ち上げ活動している松田牧師自身も他者は「寄り添う働き」と評価してくださっても、自己評価はそうではありません。私自身も「小さないのちに寄り添う」とか「予期せぬ妊娠に悩む女性の寄り添う」などの言葉をいただいたことがありますが、「そんな実質はない」というのが、私の自己評価。教会に支えられ、教会と共にできる限りの支援をさせていただいたのであって、決して、「寄り添ったり、共に生きたり」などしてはきませんでした。

 どうして、私たちは、、こうも、事実と異なる言葉で、主にある働きを、事実以上に美化してしまうのでしょう?そこには自己満足や自己宣伝さえ混入していることもあるのでは?「寄り添う」「共に生きる」が言葉の重みや責任を失い、「思い込み寄り添い」や「なんちゃって共生」に変質しがちな中、松田師は、実態に沿った別の言葉を示します。

 それは「精いっぱい出会う」との表現。

 私が思うに、「寄り添う」、「共に生きる」は、多くの場合、自分の生活を捨てたり、ライフスタイルを大きく変えて継続的な関係のなかでこそ、可能なこと。しかし、「精いっぱい出会う」は、出会いの場と出合った期間のなかで、できること。私自身も、教会の手足となり、小さないのちや苦悩する女性たちと「精いっぱい出会うこと」なら、少しはさせていただけたかな?と自己評価しています。

 オピニオンは、イエス様の実例や被災支援の具体例を提示しながら、そのことの聖書的根拠と現実性を私たちに教えてくれています。

 「寄り添う」「共に生きる」・・・。その言葉の重みも責任も失った「思い込み寄り添い」や「なんちゃって共生」は神様にも隣人にも本当の意味において喜んではいただけないでしょう。

 結論部分では、その「精いっぱいの出会い」について聖書的事例と被災地での具体的実践を提示し、最後に希望を与えます。「キリストが弱者、疎外者に寄り添い、共に生きようとされたのに、教会やクリスチャンがその程度でいいのか?」との自問や反論も起こるでしょう。そんな方こそ、このオピニオンを一読されることをお勧めします。

 最後の二文には、被災者でありながら、被災者を支援する経験から、導き出された正直で、聖書的な結論が記されています。それは聖書的な希望に満ちたもの。

 誇張表現であり、自己満足や自己宣伝の匂いさえただよう多くの「寄り添う」や「共に生きる」より、「精いっぱい出会うこと」!3・11以来、個人的に抱いてきた違和感や胡散臭さに、聖書的解決を与えられたようで、感謝するばかりの「オピニオン」であります。是非、ご一読を。
 
 
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:29 | - | - | - | - |
塩谷瞬関連で絶賛のブログ記事紹介

 クリスチャン関連のブログ記事で、すでに「いいね」が30を超えています。これは本ブログではありえない数。私同様、多くのクリスチャンが絶賛しているのでしょう。塩谷瞬関連で、あくまで一般論として「演技性人格」と「未熟型自立女性」の二つの心理を解説してくださっています。

 ブログ「おふぃすふじかけ」より「塩谷瞬の涙、二股騒動の二つの心理
http://fujikake.jugem.jp/?day=20120502


 牧会事例キリスト教界にもこれに該当するケースがあるのでは?逸脱行為や著しい罪など「よほどのこと」を通じて、こうした病理が露呈されたと思われるケースが時にあるのでしょう。私自身が直接関与したケースはもちろん、見聞きしてきた困難な事例の中に該当するのでは?と思えるものも。大量の「いいね」は、教会外だけでなく、教会内で、同じように感じた読者の存在を暗示しているのでしょうか。

 それにしても記事中のこの記述には考えさせられました

演技性性格の人はよほどのことがない限り、その病理性は露呈しないし、むしろ高い評価を得て成功する。やっかいである。」
 牧会や交わりの中で実にやっかいな体験をされた読者もおられ、この記事で合点がいったというクリスチャン読者も少なくないのではと思うのです。

 また、教会では、自立的に見える女性が、「どうしてそんな男性と?」「まさか、彼女がそんなことを」というケースが時に起こります。この記事を拝読し、私はかなり深い納得がいきました。「未熟型自立女性だったと考えると彼女のことは理解ができる」と過去を振り返り思います。真面目ゆえに高学歴で社会進出をして自立的に見える一方で親からの心理的自立ができていないクリスチャン女性というパターンは決して少なくありません。そうした女性がどうかと思える男性にぞっこんになってしまいクリスチャンらしからぬ問題行動に走るケースがあるのも、これで理解ができました。

 この記事は教会内で起こるちょっと理解不可能な事例や、把握しきれないタイプの信仰者の心理を理解するための大きな指針になるのでしょう。私にとっては、過去の事例の納得につながりましたが、むしろ、未来の事例の深い理解やそれに基づく愛の対処のために役立てたいと願う極めて優れたブログ記事だと感激し、ご紹介申し上げました。
 

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 08:46 | - | - | - | - |
説教問題についての応答ブログ
 先日の記事「某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?」には、最近、ブログ上で応答がいつくもありました。「主とブログにある友」とも表現すべき方々からの有意義な応答に感謝します。

 「ちゃんと聖書からお話ししてよー」とお嘆きの信徒の皆様の声を代弁したに過ぎない記事なのですが、高尚な説教論にまで、掘り下げたり、多様な視点で説教を考察していただき、申し訳ないやら、ありがたいやら。

 発信順に並べて見ました。関心のある方は、以下の四つのブログ記事をお訪ねください。四つ順番に読むと、なかなか面白いです。主流派的な説教論とその落とし穴の両者を学ぶことができるかもしれません。
 

 大和郷にある教会
http://sugamo-seisen.blogspot.jp/2012/04/blog-post_17.html

久保木牧師のきらきら探訪
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/63225028.html

(それを受けて)大和郷にある教会
http://sugamo-seisen.blogspot.jp/2012/04/blog-post_20.htm

一キリスト者からのメッセージ
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=325
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 18:07 | - | - | - | - |
某国ミサイル問題の共通項としての牧師説教問題?

 ここ数日、メディアのトップニュースは某国のミサイル発射関連ばかりであります。その報道内容に触れながら、思った事は・・・・。

 「これって、時に、信徒の皆さんからお聞きする牧師の説教への苦情と共通だなー」

 ということ。

 信徒の方からの訴えによれば、極一部の牧師の説教は「某国のミサイル発射のごとし」であります。人工衛星という名目で実質はミサイルであるように、説教という名目で、実質は証しや講話や世間話なのであります。どうも、一部信徒の報告によれば、ある牧師は、御言葉の解き明かしとは別の内容の話を、「説教」と称して、ミサイルのごとく講壇から会衆に向けて発射しているそうです。

 では、その「名目上の説教」がどうなっているかと言えば、これまた、某国発射のミサイルのごとくであります。発射台は聖書の言葉なのですが、その軌道は発射直後から、逸脱してしまうのです。聖書の言葉が意図することとは別のお話しが始まります。

 しかも、聖書のテキストに従った展開、構築、一貫性などがなく、某国のミサイルが10個の破片に分解したように、その説教は、いつくもの断片に分解。そして、その名目上の説教はミサイルのように発射後、1分程度で、会衆の心に届く前に海に沈没

 某国のミサイル発射は、いよいよ某国を国際社会から孤立化させると言われておりますが、こうした某国のミサイル発射のような説教が毎週続くと、その説教者も教会の交わりから孤立化する危険性があるわけです。

 心ある信徒が愛をもって謙遜にご忠告下さっている間に、真剣に改善を試みればよいのですが、そうした努力をしないと、亡国が国際社会から何からの制裁を受けると予想されるように、説教者である牧師が、会衆から制裁を受けることも予想されます。

 説教中に週報を読み始める、あくびをする、居眠りなどは、軽レベルの制裁です。それらは、制裁の意図を持たぬ信徒側の問題という場合もあるでしょう。しかし、そうした制裁的な意思表示を見逃してしまい、改善努力をしませんと、次には信徒の教会移動という制裁が始まります。場合によっては牧師交代という制裁も起こりかねません。(正確には制裁ではなく、やむをえない応答あるいは信徒としての最後の権利行使なのでしょうが)

 「優」や「良」のレベルの説教でなくてよいのです。「不可」でなく「可」でさえあれば、こうした問題は回避できると私は思います。しかし、やはり、「不可」のレベルですと、真面目で忠実な信徒も忍耐に限界があるもの。

 説教者は「人工衛星」と称するなら、人工衛星を発射して、宇宙の軌道に乗せるのが、最低限の使命なのでは?それとは別のミサイルを発射して、分解、一分後に沈没では、国際社会からヒンシュクをかい、待ち受けるのは孤立と制裁であります。

 「聖書の言葉から発射して、逸脱することなく、聖書の軌道に乗せて、語り続ける」

 これが、説教者の可と不可合格と不合格の分岐点ではないかと、某国のミサイル問題から、思った次第であります。

 信徒の方からお聞きする牧師の説教への不満にはこうしたレベルのものが時にあります。優劣以前に「説教として成立しているか否か?」のレベルでの不満です。辛辣な言い方かもしれませんが、そもそもが説教観の問題、正しく聖書が読めているかどうかのレベルの問題かと思います。説教者であるが故に牧師が、孤立と制裁の道に歩まないようにと願うのは当然のこと。それに加えて、成熟した信徒が、不満の訴えではなく、忍耐と愛の祈りと励ましを通じて牧師説教者の成長を助けていくことをと願ってやみません。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 18:44 | - | - | - | - |
南国のブログ王子の記事に応答したいのですが・・・
 南国のブログ王子こと久保木牧師が、また、有意義な記事を書かれたようです。

これからの経済、政治、宗教
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/63108869.html

 さすが、勉強熱心な牧師は違います。カトリックの霊性神学まで学んでおられるのでしょう。せいぜいナウエン止まりの私は脱帽。紹介された英(はなふさ)神父の講演をネット上で視聴し、大いに教えられました。

 個人的には大きな影響を受けたナウエンをカトリックの歴史と霊性神学全体の中で、客観的に位置づけることができたことは大きな収穫。また、近年起こっているカトリックにおける信徒を信仰と社会的活動が一体化した信徒運動などには、大きな励ましをいただきました。そして、キリシタンやカトリックの日本宣教史などを真面目に学んでこなかった私にとっては、新たに教えられることが山ほどありました。

  久保木先生の記事に応答し、これまた優れた記事を書かれたのが巣鴨の某牧師先生。こちらもご紹介。英神父の見解が正しければとの仮定の上での優れたコメントを記しておられます。

混乱期を迎えるキリスト教への挑戦
http://sugamo-seisen.blogspot.com/2012/02/blog-post_16.html

 英神父の講演内容は私も十分消化できていません。特に久保木先生が紹介しておられるこれからの社会のありようやキリスト教が再評価されるとの展望については、非常に説得力があると思うのですが、慎重な検討の余地があるようにも感じています。社会心理学的、宗教社会学の面からは優れた考察なのでしょうが、安易に教えの風に吹かれてはならないと慎重になっています。聖書にこの見解を支持する事例や教えがあるかな?と考えているところです。私もどなたか学のある方が、ブログ上で議論を深めていただけるとうれしいです。

 霊性神学入門としては当然のこと、聖化論、キリスト者の社会的責任、日本宣教などに関心と使命のある方には、有意義なサイトだと思いますので、紹介しておきます。こちらのページの27日の講演です。四つに分かれていますが、全部で3時間半程度でしょうか。

カトリック研究講座、夏期神学講座
http://holyring.jp/AC/RICC/2011S/
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:34 | - | - | - | - |
「肉吸」、「天抜き」、「牛皿」としての「結婚式場教会」
 大阪には「肉吸(にくすい)」というメニューがあります。これは肉うどんからうどんを抜いたもの。なんば花月近くの食堂のメニューで、吉本芸人はこれとご飯を出前に取るのだとか。何でも、故横山やすしさんが、「肉うどん、うどん抜きで」と注文したのが、始まりだと聞いたことがあります。「うどんのない肉うどん」それが「肉吸」

 大阪がうどんなら東京には蕎麦。実は東京にも同じく、「天抜き」というメニューがあるそうです。これは「天ぷら蕎麦の蕎麦抜き」。食通の中尾彬さんが、名古屋の蕎麦屋で、「ご主人、抜きできる?」と例の口調で注文していたのをテレビで見ました。

 そして、全国区なのが、吉野家の「牛皿」。これは「牛丼のご飯抜き」ではないかと思います。誰がどんなふうに食べるのか?不思議です。ダイエット目的?それとも、お酒のおつまみでしょうか?

 「うどんの抜きの肉うどん」、「蕎麦抜きの天ぷら蕎麦」、「ご飯抜きの牛丼」があるように、「信徒・礼拝抜きの教会」があります。それは、結婚式場教会。これはよく考えて見ると、かなり不思議な現象なのでは?

 肉吸がうどんでなく、天抜きが蕎麦でなく、牛皿が牛丼でないように、結婚式教会は、教会ではないのでしょう。神との民との交わりである礼拝もなければ、信徒相互の交わりもないのです。結婚式はあるのに、聖餐式も洗礼式もないのも、あまりに不自然。どう考えても、キリストの体ではないと考えるのが妥当のようです。

 実際に「キリスト教年鑑」にも「クリスチャン情報ブック」にも、あの豪華絢爛の会堂を有する教会風の建造物は掲載されていませんから、きっと教会ではないという判断は正解に違いありません。にもかかわらず、大抵は本物の教会より、立派な会堂を有しているわけです。これは、どう考えてもおかしいです。

 そこで考え付いたタイトルが「肉吸、天抜き、牛皿、結婚式場教会」というわけです。

 この「結婚式場教会」なる現象、日本独自のものなのかも?そしてそれは日本の宗教観をダイレクトに反映した現象と言えるのでは?

 そんなことを考えたのも、こちらのブログ記事を読み、結婚式教会を考察した書物があるのを知ったから。読んでみたら面白そうです。雑誌Ministryの記事にこの著者を登場させたら面白いのでは?とも思いました。感心のある方はご一読を。

ブログ「一キリスト者からのメッセージ」より「教会という建物について考えた
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=305

 
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 13:31 | - | - | - | - |
飲食の神学〜たかが飲み食い、されど飲み食い(2)
 飲み食い自体は「たかが飲み食い」ですが、それが、愛を示す表現方法愛を伝える場面設定となりますと、「されど飲み食い」となるわけです。福音書を読むなら、イエス様は飲食の交わりを通じて、他者に深い愛を示し、食事の場で真実な愛を伝えておられます。主な例として三つだけとりあげてみましょう。

 まず、イエス様は取税人や遊女と食事を共にされました。これは当時の社会的タブー。取税人は職業自体が盗みの罪、遊女は職業自体が姦淫の罪ですから、宗教的理由で職業差別を受けました。食事を共にするなど、とんでもないとされていたようです。ですから、イエス様はタブー破りの非難も、汚らわしいとの攻撃も、覚悟の上で、取税人や遊女に愛を示されたのです。食事の場は、差別や罪、汚れを超えた愛の表現の場面となったのです。

 また、有名な最後の晩餐の場でもイエス様は、深い愛を示しておられます。イスカリオテのユダはイエス様の左隣で右隣がヨハネだったようで、イエス様はユダにだけ聞こえるように話しておられたようです。そして、過ぎ越しの祭りの食事では、主人の左隣が最も栄誉ある席でした。つまり、この場面でイエス様は他の弟子の誰よりも勝る愛をイスカリオテのユダに伝えておられたのです。その愛を受けての悔い改めを最後の瞬間まで待っておられたのでしょう。自分を奴隷として金で売り渡す者さえ、愛されるその深い愛は食事の席で現されました。

 さらにはテベリヤ湖畔で三度目に復活を示された場面です。復活されたイエス様は大漁後に、朝食の準備を弟子たちに命じます。パンと魚というメニューだったようですが、食後にイエス様は三度自分を否認したペテロに三度ご自身への愛を問いかけます。三度も自分を否認した失敗者、挫折者ペテロを、変ることなく愛されたその真実な愛は、復活後の朝食の場でありました。

 これらは食事が、愛を示す表現方法愛を伝える場面設定となった例。こうなれば、「されど飲み食い」となるわけです。

 さて、教会の現場であります。礼拝後の食事をいつ、誰が、何をつくるか?食事を提供する伝道集会でメニューをどうするか?大切なことは間違いないでしょうが、これは「たかが飲み食い」なのか「されど飲み食い」なのか?この判別は結構悩んでしまうのでは?
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 17:54 | - | - | - | - |
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