命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「〇〇の大好きな〇〇」(3)
 最後に考えたのが「〇〇の好きな牧師」であります。

 「それ自体はいいけれど、それだけではねー」と信徒から思われかねない例。 

 「神様の大好きな牧師」

 神様と個人的関係ではご立派。でも、牧会は密度の濃い人間関係にかかわる職務なので、牧師が信徒との交わりに生きずに、神様大好きばかりが突出していてはどうかと思うのです。

聖書の大好きな牧師」
 好きこそ物の上手なれと言いますから、きっと、よき聖書の学びをリード、優れた説教をされるでしょう。しかし、牧師は専業聖書学者でも、専業説教者ではありません。祈り、牧会、交わりがも大切ですから。

信徒の大好きな牧師」
 嫌いよりはいいけど、世話をしすぎて信徒の自立を妨げかねない面もあるのでは?私自身は「信徒は大好きでなくても愛する牧師」がよいと思っています。

教会が大好きな牧師」
 これもいいようで、心配。会社が大好きなサラリーマンと同様の現象が起こるからです。牧師の家族や神様が悲しまれるケースもちらほら。

 やはり、牧師の働きは、総合的なもの。賜物や優先順位、得意苦手はあっても一定のバランスは必須かと思うわけです。

 逆に「それはどうかと思うけど、実は大丈夫」と思える例

 「女性とお金が大好きな男性牧師

 これは危険なようで、意外と大丈夫というのが私のひねくれた見解。男性牧師の女性金銭問題の原因は、その牧師が他の牧師より女性とお金が好きだから起こるのではありません。心理学的には、力の確認と言われ、霊的には高慢、自制の実の欠如、神学的には聖書的倫理観の欠落によるもの。

 ですから女性とお金の大好きな神学生も献身希望の男性も、用心は必須ですが、心配は無用です。私の知人牧師は時々会衆に「私は女性とお金が大好きですから、私のためにいつも執り成し祈って下さい」とアピールしているそうです。こうした正直な交わり、謙遜な態度があれば、大丈夫なのでは?

 「〇〇が大好きな牧師」

 〇〇に入れるべき適切な言葉が見つかりませんが、信徒同様、「神様と隣人が大好きな牧師」なら無難で普遍的にOKかと思います。

 
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 23:38 | - | - | - | - |
「〇〇の大好きな〇〇」(2)
 二回目は「〇〇の大好きな信徒」を考えてみました。

献金が大好きな信徒」
奉仕が大好きな信徒」
伝道が大好きな信徒」
料理が大好きな信徒」
ケーキ作りがが大好きな信徒」
会堂清掃が大好きな信徒」

 これらは、一見よさそうに思えますが、実は、組織としての教会、あるいは牧師にとって、好ましい、都合のよい信徒に過ぎないのでは?

 献金、奉仕、伝道すべて、よいことでしょうが、問われるのは、その動機です。汽灰螢鵐硲隠馨錬垣瓩蓮全財産を貧困者に分け与えても、わが身を火に焼かれるために与えても、「愛がなければ、何の役にも立たない」と一刀両断であります。究極の自己犠牲や献身に見える行為も、動機が愛以外のものであるなら、神にとってはそれは役立たずの自己犠牲と献身に過ぎません

 人間はあまりに罪深いので、愛以外の動機で、全財産を放棄したり、わが身を火に投げ込むこともありえるのです。人の賞賛を求めて、全財産を寄付する金持ちもいるでしょうし、抗議や憎悪の表現として焼身自殺をする人々もいます。

 残念ながら、献金、奉仕、伝道に熱心でも、それが劣等感の反動、他者の目を気にしてのこと、罪悪感の払拭、行為による自己義認、教会の場を借りた自己実現、 別の使命放棄の償いなどの場合も。

 だとすれば、「神様と隣人が大好きな信徒」がいいのでは?。汽灰螢鵐氾には、能力・所有・賜物でなく、その使用動機であるが大切なのですから。

 他にも、よさそうですが、それだけではどうかと思うわれるがあります。

聖書が大好きな信徒」
 絶賛したいですが、祈りと証しが大嫌いで、聖書の言葉を実行しないなら考え物。

デボーションが大好きな信徒」
それ自体は賞賛に値するでしょうが、そこでの発見や悟りが、実生活に影響がないならどうかと思うわけです。

 もし、私が一教会の牧師で、神様から「〇〇の大好きな信徒を五人送ろう、〇〇に好きな言葉を入れなさい」と求められたら、こう答えるでしょう。

礼拝と証しの生活が大好きな信徒をお願いします」

あるいは・・・
神の栄光を現すのが大好きな信徒ということで一つよろしく・・・」
となるでしょうか。

 私なら、正しく健全な動機に基づいて、実生活で真理を体現する信徒を願うでしょう。それが、長い目で見て着実な宣教と教会形成につながると考えるからです。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 11:23 | - | - | - | - |
「〇〇の大好きな〇〇」(1)
 先日、近所の自転車屋さんへ。ここは半年ほど前にできたばかりのチェーン店。様々な企業戦略が至るところに垣間見られ、大変、勉強になります。その一つのがこのフレーズ。

修理の大好きなお店

 これは見事です。自転車自体や部品を買わずに修理だけをお願いするのは、抵抗のあるもの。よくある「自転車修理いたします」では、修理を歓迎しているように地域住民に伝わりません。遠慮深い人などは、「本心は、儲けが少なく、嫌がっているのではないか」と気を遣ってしまうことも。しかし「修理の大好きなお店」とのフレーズなら、「喜んで修理しますから、遠慮なく、安心してご来店ください」というさわやかでストレートなメッセージが伝わります。

 そこで考えたのが、「〇〇の大好きな教会」というフレーズ。キリスト教会であれば、〇〇に何を入れたら、地域住民が安心して気軽に来会していただけるだろうか?

 「神様が大好きな教会」
ストレートですが、これでは狂信的との誤解も与えかねません。

お祈りが大好きな教会」
これも同様の理由で不採用。

聖書が大好きな教会」
 聖書的とのアピールになるし、聖書に関心のある方にはいいでしょう。逆に勉強嫌いの方にはハードルを上げてしまうのでは?

伝道が大好きな教会」
 地域住民には一歩入ると入信を強制されるとの恐怖を与えてしまうでしょう。

どうも、クリスチャンの内輪発想ではなく、地域住民の視点から考えてみる必要があるようです。

タイガースが大好きな大阪〇〇教会」
ドラゴンズが大好きな名古屋〇〇教会」
カープが大好きな広島〇〇教会」

 これは「別の意味で狂信的」との評価を受けてしまうでしょう。それに転勤してきた他球団ファンmの来会がなくなるので、没。

これならどうだろう?
この町が大好きな教会
これは、隣人愛の表明であり、好感度高いのでは?

賛美の大好きな教会」
これも、楽しく明るそうで、音楽好きが来て下さるのでは?

採用可能な案はこの程度しか思いつきませんでした。

 最後に、これだけは、やめた方がいいでしょう。

 「議論が大好きな教団所属、会議が大好きな教会」

実態はそうであっても、外部に表明でしてどうすんの?内部だけでも十分キツイですから。


| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 13:21 | - | - | - | - |
「ラブ注入なき、マニュアル注入」(4)

 これは経営の世界では、有名な話だそうですが、ディズニーランドの従業員にはマニュアルというものがないらしいです。しかし、その一方、優れた従業員教育が為されているのは、あのサービスを見れば、間違いありません。

 ネット上の情報によれば、ディズニーの従業員が教えられているのは、「SCSF」という優先順位。それはsafety(安全性) >coutesy(礼儀正しさ)> show(見栄え)>effeciency(効率性)というもの。つまり、清掃も接客も、この優先順位に従って、柔軟に対処するわけです。

 そのことは信仰生活も似ていると思うのです。イエス様は律法を「神を愛せよ」と「隣人を愛せよ」の二点に要約できると教えられました。乱暴に言ってしまえば、「神愛と隣人愛」の原則と動機で、思索し、判断し、言動に移せば(試行錯誤はあるでしょうが)よいのです。これはいわば、クリスチャン版SCSF。

 ところが、神と隣人を愛するという「ラブ」よりも、礼拝・聖書・祈り・奉仕・献金という「マニュアル」を注入してしまいやすい私たちであります。そうです。ラブが注入されていれば、現実の様々な場面で「神愛と隣人愛」の原則を適用し、柔軟に御心に適った対処がしやすいわけです。特に十代や青年期は、試行錯誤をしながら、そうした歩みをして、成熟に向かうのが理想的かと思います。

 しかし、ラブを十分注入せずマニュアルだけを与えてしまうと、表面的にはクリスチャンらしい歩みをしていても、現実の諸問題や未経験の場面で、対処ができません。時に教会では優等生、一般社会では、適応困難者となりかねません。


 ラブ注入優先 →思考と試行錯誤の繰り返しで多様な判断と行動→現実生活における柔軟で御心に適った対処

 マニュアル注入→思考と試行錯誤がなく、自動的判断と機械的行動→現実生活で硬直した反応対応不能

 
経営や社員教育の世界でも、マニュアル主義のマイナスは従業員を思考停止状態にすることだと指摘されているようです。思考と試行錯誤がなければ、特に未経験の場面や問題について、正しい対処はできず、破綻の可能性もあるわけです。

 たとえば、就職や結婚や神学校生活などは未体験ゾーンの代表でしょう。教会や家庭では優等生、模範的と思われてきたクリスチャンホーム子弟の社会参加後の残念な挫折、びっくりするような結婚生活の破綻、神学校入学後の集団生活での不適応など。近年見聞きするこうした現象の背景には、ここで論じているような経緯があるのでは?危惧しております。

 そうした方々が神様と隣人を愛していないわけでは決してありません。むしろ純粋に愛する思いがあるのでしょう。しかし、それに優先してその心を占めているのは、「マニュアルを守って、牧師と親と周囲に認められること=信仰のアイデンティティー」という長年かけて形成された深いものでありましょう。その意味で、次の世代を担う大切な子どもや青少年たちを「ラブ注入なきマニュアル注入」の犠牲者にしてはならないでしょう。

 「神と人を愛すること」が教理や観念としてだけでなく、また、「5点セットのマニュアル」との結びつきだけでなく、現実の社会生活、家庭生活での具体的アウトプットのモデルと結び付けられて、伝達継承されていくことの大切さを思います。

 教会優等生における現実生活での破綻や逸脱行為を見聞きするたびに、大人たちが教会集う品行方正な10代たちの外面でなく内面を観察し、想像し、接して欲しいと強く願います。優等生が必ずしも信仰面、人格面の両面で順調に自立に向かっているわけではありません。また、教会生活優等生の青少年たちが本音で相談できたり話し合える指導者、先輩、交わりの必要性を痛感しています。 

 ラブ注入あってのマニュアル注入。神と人を愛することを伝え、教え、訓練しながら、その具体的アウトプットとして「礼拝、聖書、祈り、奉仕、献金」でありましょう。むしろ、愛こそが、正しくマニュアルを守らせるのです。次世代が、神と人を正しく愛するよう教え、伝え、自らが見本となっていく大人でありたいものです。そう、次世代に対してマニュアルを果たす模範でなく、神と人を愛する生き方の模範を示すお互いでありたいですね。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 14:06 | - | - | - | - |
「ラブ注入なき、マニュアル注入」(3)
 以前、コンビニでネギトロ丼を購入。レジで会計をしようとすると、「暖めますか?」と問いかける学生風アルバイト店員。これには思わず「これ、ネギトロ丼でしょ!暖めてどうすんの?」と心の中でツッコミ。言葉にはするのは大人げないので、「いえ、いいです」とだけ返答して、店を出ました。

 マニュアル教育の持つ欠点とはこういうことだと思います。マニュアルは、一定のレベルのことを画一的に教育するのにはとても効率がよいものです。なぜなら、「何も考えなくてもいいから」です。マニュアル通り、書かれた通り、指示されたとおりにして、疑問を持ったり、考えたりしない方が、うまくいくのです。

 極めて管理的で効率主義的な日本の社会では、教育や労働もそうなりがちなもの。そうしたことへの反省に立っての改善も近年は行われている様子。その事は家庭や教会での信仰教育も同様なのでは?そこで、今回考えたいのは「ラブ注入なきマニュアル注入」は思考停止型クリスチャンを生み出しやすいのでは?ということ。

 「疑問を持ったり、考えたりしない方が、うまくいく」

 これは、教会学校に通い続ける子どもの多くが、どこかの時点で悟ること。あるいはうまく立ち回るために、思いつく知恵。「へたに疑問をもって教師や親に質問すると、納得できない説得が始まり、いつまでも続いて苦痛」、「へたに考えると疑問がわく、それを質問するとめんどくさいことに・・・・だから、考えない方が楽

 その結果、「ラブ注入なきマニュアル注入」が長年続けば、子どもは、疑問を持たず、考えず、思考停止型の信仰になりやすいもの。疑問を持ったり、よく考える子どもは教会学校を離れてしまい、疑問を持たず考えない子どもが大人になるまで信仰生活を続けるという皮肉な現象が起こっているとの指摘も、時に牧師先生からお聞きします。

 そうなると、「聖書はこのことについてどう教えているか?」より「教会でこう教えられた」が「聖書は何と言っているか?」より「〇〇先生がこうおっしゃった」が先行するようになります。これでは、聖書に立って思索するクリスチャンになれないように幼児期から逆英才教育をしていようなものでは?

 そうした逆英才教育を受けて残ってきたクリスチャンが、やがて役員や有力信徒となり、「教会ではこう決まっている」、「〇〇先生がこうおっしゃた」と主張されるのでしょうか?それを牧師や問題意識のある信徒が聖書から検証したり、改革の余地を論じることに対して「冒涜的」「不敬罪」かのように感情的反応をしてしまうのでしょうか?そうしたことで困惑し、苦悩する牧師先生や信徒リーダーたちの声も時にお聞きします。

 上から下へのマニュアル伝授は、効率よく機能しても思考停止型信仰者の大量生産になりかねません。それでは、よく機能する教会員の数は増やせても、本当の意味での教会形成にはつながらないのでは?

 しかし、「神様からの愛→その愛への応答→礼拝、聖書、祈り、奉仕、献金」という論理の流れは、人格交流であります。そこからは「ネギトロ丼暖めましょうか」のような思考停止は起こりません。教会教育にしろ、信仰継承にしろ、それは一方通行でなく、対話的なものであるべきでしょう。そもそも礼拝、聖書、祈り、奉仕、献金のすべては、マニュアルとしての義務ではなく、人格的応答なのですから。

 「疑問があったら遠慮なく質問してね。大人だって分からないことがあるから、その時は、一緒に考えよう。」
 「信じてたって、迷うし、悩むもの。それでいいから、一緒に考えようね」
 「疑いが起こるのが当然。それを認めて、克服して、いよいよ信じられるようになっていくのだから。」
 教会学校の教師から生徒には、こうした語りかけができるのが健全かと思います。

「ねぇ、パパ、どうして礼拝をささげるの?」「それは神様を愛しているからだよ」
「ねぇ、ママ、神様はお金いらないのに、どうして献金するの?」「すべては神様のものだから、感謝して一部をお返しするんだよ」

 たとえば、こうした会話ができるのが、健全なクリスチャン親子かと思うのです。「聖書にそう書いてあるから」「そう決まっているから」はマニュアルであり、時には、自分の言葉で応えられない親のごまかしであることも。親自身の言葉で、意味や目的を伝えられないのは親自身の信仰生活がマニュアル化しているからかも。対話的であることは、子どもだけでなく、親自身の信仰教育にもなるのでは?

 マニュアルに先んじて親が子に無条件の愛を伝えることは、疑問や葛藤や反発を経由しつつも、大切な子ともが、やがて、聖書に立って思索できる成熟したクリスチャンに成長するための大きなポイントのように思えてなりません。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 14:43 | - | - | - | - |
「ラブ注入なき、マニュアル注入」(2)
 「ラブ注入なき、マニュアル注入」で育てられたクリスチャンホーム育ちの学生や青年たちからは、時々、怒りや涙の訴えをお聞きすることがあります。あるいは逆に「ラブ注入なき、マニュアル注入」を子どもにしてしまったことに気がつき、愕然としたり、真実な悔い改めをされるクリスチャンの親からの声も何度かお聞きしてきました。

 親は信仰継承を使命と考え、子どもにクリスチャンになって欲しいと考えます。そこで、伝達することが、「福音」ではなく「行動様式」、「神を愛すること」でなく「マニュアル」になってしまいます。つまり、「福音という本質」でなく、「その本質を表現する形式」を「動機としての愛」ではなく、「その動機が生み出す結果」のみを伝達してしまうわけです。

 これが続くと、様々なマイナスが子どもに生ずると思われます。今日は一つだけ記しましょう。

 それは、「条件付きの愛」の伝達ということ。 「礼拝、聖書、お祈り、奉仕、献金」などのマニュアルを果たせば「神様に喜ばれるよい子」というコンセプトは、子どもの神観も親子関係も歪めかねないでしょう。

 それは、「そうでないと神様に喜ばれない子ども」となり、「神様はよい子だけを愛する」というメッセージに置き換わることも。また、それは親子関係にも影響し「親も自分をいい子でなければ愛してくれない」とのメッセージを子どもは受け止めかねません。つまり、神の愛も、親の愛も「条件付の愛」だと子ども達は受け取るのです。

 もちろん神様と異なり親の愛が常に完璧に「無条件の愛」というわけにはいかないのが現実。しかし、不十分であっても、「親はあるがままの自分を愛していくれている」という実感がある時、子どもはそれに勝る神様の愛を想像しうるはず。大切なことは、子どもにとって「親の愛も条件付なのだ」というメッセージになる発信し続けないことでしょう。

 こうした例は、とりわけ熱心で厳しいクリスチャンの親に育てられた子どもたちから、お聞きします。親としては、神と子どもを愛するが故にそのマニュアルを教え守ることを要求します。律法は養育係ですから、それ自体が間違いではないでしょう。むしろよいことでしょう。

 しかし、神様からの愛、親からの「無条件の愛」があって、その応答の一形態としてのマニュアル遵守、五点セットの実行なのです。子どもは自分が親から無条件の愛で愛されているという実感に深い安心を得ます。そして、親のそうした愛を実感した子どもは、親の愛を通じて神様の無条件の愛を想像し、現実感を持って受け止めていくのでしょう。そして、その愛に応答していくのです。

 しかし、先に親からの無条件の愛を子どもが実感していなければどうなるでしょう?親の要求どおり、マニュアルを守ると喜ぶ親、そうでないと悲しんだり怒ったり親。それは、子どもに「親の要求したマニュアルを守らないと愛さない」とのメッセージとして伝わるでしょう。良くも悪しくも、子どもは親の姿を通して、神理解をするもの。当然、神様の愛も「条件付の愛」となります。

 こうした場合、将来、信仰をもったとしても、神様の愛を実感できないクリスチャン、あるがままで愛されると到底思えないクリスチャンになりやすいのでは?と心配します。あるいは、親に喜ばれること、または親を悲しませないことを動機とした神の愛を二の次とした信仰生活になることも。こうした生育歴、信仰歴の中で苦悩しているクリスチャン学生や青年は少なくないようにお見受けします。

 「ラブ注入あってのマニュアル注入

 私自身も一クリスチャンの親として、自らを問われます。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 21:05 | - | - | - | - |
「ラブ注入なき、マニュアル注入」(1)
 一昨日の記事で「ラブ注入なき、マニュアル注入」というフレーズを書きながら、「これが教会教育や信仰継承の落とし穴かな?」と思いました。

 神様を愛することを教えずに、「神様に喜ばれる子ども」というマニュアルを伝達する教会学校。これは、「信仰教育」でなく、「道徳教育」なのかも?

 神様を愛する生活を見せずに、マニュアル遵守を要求するクリスチャンホームの。これは、「神様を愛すること」より「うまくクリスチャンをする方法」を伝授するのですから、「信仰継承」ならぬ「技術継承」なのかも?

 神様を愛することを励ますことなく、マニュアルの遵守を励ます牧師。これは「教会形成」ではなく「教会経営」をしているのかも?

 どれもが、私たちが無自覚に陥りやすい落とし穴ではないかと思うのです。他者批判の材料としてでなく、自らの問題として受け止めていただければと願って、このチャレンジに満ちた記事を記してみました。「ラブ注入なき、マニュアル注入」とのお下劣フレーズ、多少なりとも教会教育や信仰継承を検証、評価する助けになれば、感謝。

 以前にも同趣旨の記事を記しています。イチローの父「チチロー」は教会教育、信仰継承の秘訣を身を持って教えてくれているかのようです。

「クリスチャンをうまくなる努力?<キリストを愛する努力」
http://blog.chiisana.org/?eid=1387593
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 20:23 | - | - | - | - |
感動はするものでなく、強制するもの〜感動がもたらすファシズム(下)
 感動の強制、それへの画一的応答の要求異質者の排除・・・・。

 この問題は、教会の外の日本社会だけのものではないでしょう。キリスト教会内部でも、このことは向き合うべき問題であろうと思っています。なぜなら、教会内部では多くの感動が起こるからです。

 そもそも福音自体が感動的なので、聖書の言葉が聖霊の働きと共に正しく伝達されたら、人それぞれとは言えある種の感動が起こるのは当たり前。心を込めての賛美、真実な愛の交わりなど、教会には感動を味わえる機会と場面は多いもの。そして、こうした感動を胸に、応答として神様に従う証しの生活や忠実な教会生活などに向かうわけです。

 しかし、その感動は、いわば「結果」であります。感動自体は「目的」ではないし、ましてや、次の何かに人に向かわせるための「手段」ではありません。

 ところがです!そうした「結果」としての感動を、目的化して、さらに手段化して、ある方向に人々を誘導することが教会では、ありえるのでは?いいえ、気をつけませんと意外と簡単にそうしたことが起こるのでは?

 たとえば、感動させることを目的に説教をすること。解き明かしとして正しいことより、心情的に訴えることが優先します。感動させ、泣かせます。次には、その感動を手段として信仰決心や献身決心、その他の決心に向かわせるわけです。人によっては、決心しないといけないムードの中、思考停止で、手を上げたり、前に出てしまうことも。

 賛美についても、感動させること自体を目的として歌詞内容と曲調を巧みに配列して、ソングリーダーが感情を煽れば、会衆を涙ながらに、ある決心や行動に向かわせることは意外と容易だと思われます。みことばや聖霊によるのではない感情面だけの感動からの決心が、弱いもの、あるいは偽物であることは、多くの読者が体験済みなのでは?

 同じように牧師やリーダーが、感動させることを目的に劇的なヴィジョンや夢を語り、会衆を感動させ、その感動を利用すれば、会衆を特別に多額な献金にも、会堂建築大賛成に、誘導することも可能でしょう。献金についてのことや会堂建築の是非で、教会がファシズム状態になり、”No”が言いたくても言い出せず教会を去る人々も。そこには教会が一つとなって、あるいは個々が責任持ってみこころを求めるプロセスがありません。これでは教会も会員個々もなかなか成熟しないでしょう。

 成熟した牧師の条件の一つは以上三つのことをしない牧師だと私は思いますし、私も常々、自戒しています。

 そう考えますと「感動はするものでなく、強制するもの」とは、教会も例外ではないでしょう。感動が、人を思考停止状態に陥れ、群衆心理状態を作り上げて画一的反応をしない異質者を排除し、結果として、ファシズム状態が訪れる。

 感情的に盛り上がったり、高揚する礼拝自体が悪いとは、私は全く思いません。しかし、その感動自体が目的化されたら、もう礼拝ではないでしょう。少なくとも神様がお喜びになる礼拝ではありません。それは自分が喜ぶための礼拝でしょう。

 その感動や感情高揚の中で、信仰決心がなされ、受洗者が起こされたとしても、それを結実と言えるかどうかは疑問でしょう。なぜなら、感動が手段化されているからです。純粋で熱心な若者が中心の教会や集会ですと、こうした感動の目的化と手段化のシステムに無自覚のうちに陥ってしまう傾向があるようにお見受けします。年長者のリーダーが逸脱せぬよう見守る大切さも思います。

 牧師などのリーダーの中には、この感動の強制によって教会を自分の願う方向に向かわせようとの悪魔の誘惑を感じる方もおられることでしょう。また、実際、大なり小なり悪魔の誘惑に手を染めてしまったという方も、おられるのでは?カルトなどは、「感動の強制」が思考停止やマインドコントロールのために手段化されているように思います。まさに感動の強制による金儲けや政治利用でしょう。教会のリーダーたるもの、この悪魔の誘惑を退け、悪魔の手段に手を染めぬことが、何より。それは偽りの宣教の実であり、偽物の教会形成ではないでしょうか?

 ただし、感動の強制が一件起こったら、すぐに教会が不健全だというのは早急だと思います。それに気がつき、自覚できて、修正し、教会全体に蔓延する前で、部分的なものに留まれば、その教会は健全レベルだと考えます。

 教会内における「感動」。それは優れた説教、真実な賛美、深い交わりなどによってもたらされるあくまで「結果」でありましょう。「結果」としての感動は健全かつ素晴らしいこと。しかし、「目的」、「手段」としての感動不健全、そしてかなり危険であると私は思うのですが、どうでしょう?
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 17:30 | - | - | - | - |
感動はするものでなく、強制するもの〜感動がもたらすファシズム(上)
 以下のブログ記事を読み、感動について考えさせられました。

「松ちゃんの教室ブログ」より「今一度宗教者の姿勢を問う(6)」
 http://yaplog.jp/shinkichi1109/archive/976

 もちろん、宗教者の応答責任についてチャレンジを受けたのですが、それとは別の面で触発されたことで記事にします。それは「感動が時に有するファシズム性」であります。30代イケメン編集長の松ちゃんは以下のように記しています。

 森村氏は、「『宮崎アニメを観ない』ことによって育つ感受性もあるに違いない」との理由で、「観れば感動してしまうのかもしれない」 と思いつつ、あえて「観ない」という選択を固持する。

 「みんなと同じアッチじゃなく、誰もが興味を示さないコッチを向く姿勢にこそ、芸術家のあるべき姿を見る思いもする」という。 果たして、氏のような生き方は、浮世離れした芸術家の単なる
ヘンクツアマノジャクとして切り捨てられるべきものだろうか。

 私が抱いてきた違和感の一つは、ボランティア至上主義とでも言うような震災後の「空気」である。 まるで、被災地に行かない人間は「人でなし」とでも言わんばかりの、重く冷たい「空気」。

宗教者として震災に向き合う」方法は、決して一つではないはずだし、 「みんなと同じ」でもないはずだ。 


 以上が引用。感動は時に応答を画一化させます。特定のある応答以外の応答をしてはならないムードを作り上げることがあります。ここに記されているように、3.11以降は、「現地に向かいボランティア」だけが真実な応答でそれ以外は、「本気でない応答」のようなムードが日本中にあるのを私も感じています。

 かつて島田紳介プロデュースの番組の一部が、「感動の押し売り」と批判されたことがあります。確かに感動の押し売りは迷惑で不快でしょう。それでも「感動がもたらすファシズム」よりはましです。押し売りは嫌なら何とか断れますから。そう、押し売りには、断るという選択肢があるのです。

 しかし、ファシズムにおいては断るという選択肢は極めて厳しいものとなります。感動に対して特定の応答をしないと「人間でない」「冷たい」「非国民」などのレッテルを貼られかねません。感動に対して「みんなと同じ画一的な応答をするのが日本人」とばかりに、最初から外国人を排除した発想で、なおかつファシズム的な発言を時に耳にします。

 「感動は大切」、「感動をありがとう」と私も思います。そんな感動からファシズムを生み出したり、画一化によって異なる人々を除外しかねないのが、私たち罪人が形成するこの社会であります。

 最近、渋谷陽一の本を購入しました。彼は著書の中で、泉谷しげるのこんな発言を紹介しています。

 「感動はするもんじゃなくて、強制するもんだ」

 これは3.11以前に泉谷が発していた言葉です。どういう意図での発言かは不明ですが、日本社会が3.11以前からもっていたある体質を言い当てていたのかもしれません。そう、感動が強制されているのが、日本社会。感動の強制は、感動が持つ負の力を呼び起こします。

 感動は時に、人を思考停止状態に陥れます。
 そして、群衆心理状態を作り上げます。
 それは、感動に対して画一的反応をしない異質者を排除します。
 結果として、ファシズムと呼ばれるにふさわしい状態が訪れます。
 このことを熟知しており、金儲けする者もいれば、政治利用する者も。
 

 感動の強制、それへの画一的応答の要求異質者の排除・・・・。

 キリスト者が群集のごとくが踊らされていてはならないでしょう。神と出会い神を知り、真の感動を体験しているキリスト者こそが、こうした感動の強制が持つ危険性と負の力を見抜き、日本社会にあって、賢い発信と着実な歩みをしたいと願うのです。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 18:49 | - | - | - | - |
飲食の神学〜たかが飲み食い、されど飲み食い(3)
 「されど飲み食い」の代表格はやはり聖餐でありましょう。飲食が、キリストとの縦の交わりと教会における兄弟姉妹間の横の交わりの両者を体現するのですから。

 聖餐はキリストの血と肉を覚えてること。諸説あるでしょうが、私はそれは単に過去の出来事の記念に留まらず、聖餐の場に臨在されるイエス様とのリアルタイムでの交わりだと考えております。さらには聖餐は横の交わりを意味します。一つのパンと杯から分け合うことは互いがキリストにあって一つであることを意味します。ローマ16:16の「聖なる口づけ」も、聖餐式の場で、同性間でなされた挨拶だったようです。実に濃密な交わりです。聖餐式は英語で「コミュニオン」。まさに交わり

 聖書によれば、コリント教会の信徒たちは、キリストの血の肉を覚えるという本来の目的も忘れて飲食。さらには、兄弟姉妹との一致どころか、金持ちだけ先に集まり飲食を済ませ、貧しい人たちを疎外していました。聖餐の本質を失っっていたどころか、同じ教会の兄弟姉妹に、正反対の行動をとっていたわけです。聖餐がキリストと弱者を疎外する場となっていたとは、超トホホであります。ここまでの逸脱が起こった理由の一つは、当時の聖餐が今日のように礼拝内ではなく、礼拝とは別の飲食の場で行われていたからでしょう。

 キリストが、被差別者、裏切り者、失敗者に深い愛が示された場も、神と人、イエス様ご自身が縦横双方の交わりとして命じられた聖礼典の形式も飲食であることは、大きな意味を持つのでしょう。神の被造物である人間存在にとっては、飲食は単なる生命維持のための栄養摂取手段といった物理的意味を超えた社会的意味、さらには霊的意味さえ持ちうるのでしょう。コリント教会の失敗は霊的レベルのことを社会的レベルに引き下げてしまったことでしょう。

 というわけで、教会の中で、家庭の中で飲食が問題となった場合、「物理的」「社会的」「霊的」のどのレベルの課題であるかの見極めが大切かと思います。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 13:59 | - | - | - | - |
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