命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
異性間の師弟愛にもご配慮を?

 異性間の友情成立の困難さと異性間の兄弟愛については、既に論じました。今回扱うのは、異性間の師弟愛であります。

 まずは、クイズです!「マラソン、レスリング、柔道、サッカー」。これらのスポーツの共通点は何でしょう?

 正解は、ここ数十年で女性にも開かれたスポーツです。これらの女子スポーツは、歴史が浅いので、女性の指導者はまだ、育っていません。ですから、男子を指導していた監督やコーチが、女子の指導にあたるわけです。

 男子も女子も、指導するスポーツは同じですから、基本や技術的などは大きく異ならないようです。しかし、指導する相手が男子と女子では、指導者の接し方が大きく異なります。男子への指導者が女子を対象としたとき、問題となることの一つは、実は、女子選手間の嫉妬だそうです。このことは多くの女子スポーツ指導者が経験するそうです。

 長年男子の指導にあたり、初めてある女子スポーツの指導をした監督は、選手たちから、「監督は〇〇さんや××ちゃんなど、かわいい子にばかりに声をかける」との非難の声を聞きます。最初は全く実に覚えがないので、「とんでもない」と全面否定

 しかし、落ち着いて冷静に自分がよく声をかけている選手を考えてみると、容姿のかわいい選手や自分が異性として好感度を持つ選手に偏っていることに気がついたのです。つまり、無意識にも選手を異性として見ており、関心のある選手に偏って接していたのが事実だったのです。

 自分は監督であるのに、選手のチームワークを乱していたことを認めます。選手からの苦情や非難が正当だと分かったその指導者は、それ以来、意識的に関心のない選手に、優先的に声をかけるようになり、チームに一致がもたらされたそうです。

 男性は無意識のうちにも、女性を異性として認識してしまうようです。純粋なはずの師弟愛であってもそうした要素が混入してしまうのです。恋愛や性の対象となど考えなくても、女性に平等に接することが困難なのが多くの男性たちの現実。だからこそ、教会の交わりの中では、異性をまず、兄弟姉妹として見るような意識的な価値転換の努力も必要かと思います。
 
 そういえば、若き草食系?(たぶん)独身伝道者であったテモテに、パウロは勧めていています。「年とった婦人たちには母親に対するように、若い女には真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。」(テモテ5:2)

 多分、独身であった先輩パウロは、自らも若い女性を異性として見てしまいがちな男性の弱さを、自覚して、弟子であるテモテを諭しているのでしょう。

 特に男性の指導者とその指導の下にある女性の場合は、どんなに純粋、安全に思えても、どんなに強い信頼関係にあったとしても、一定の距離感をとり、通常の男女間のマナーは必要かと思うのです。「性別を超えた師弟愛などない」とは言いませんが、「そこに危険性が全くない」とも言えないでしょう。

 中高生や青年などに、「男女だから・・・」と距離感の必要を説くと「そんな思いはないから・・・」「兄弟姉妹、師弟関係だから・・・」と言われたり、「そんなこと考えるのが方が不純」と逆切れされることも。でも、前回と今回の記事で考えてくださればうれしいです。

| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 17:02 | - | - | - | - |
男女間の友情成立が困難である脳科学的根拠

 未婚のクリスチャン女性から時々、いただく質問の中に、「男女で友情は成立可能か?」というものがあります。また、クリスチャン女性からは「主にある兄弟として愛を示したのに、恋愛感情を持たれてしまった」との苦情や相談をいただくこともしばしば。逆に男性クリスチャンからは、「クリスチャン女性から、好意と勘違いするようなことをされて困る」とか「好意もないのに、あまりに親切にされるのは、辛い、残酷」などの声もお聞きします。

 このことについては以前、ブログ記事に記しました。

女性は兄弟愛のつもり、男性は恋愛と勘違いという実例はこちら。

「女性側の善意がもたらす男性側の勘違い」
http://blog.chiisana.org/?eid=1108920

 男性が勘違いしやすいこと、また、男女の友情のあり方の違い(女性は感情共有、男性は情報と使命共有)に男女の友情が成立困難な理由があるとの説はこちら。

「惚れてまうやろー」
http://blog.chiisana.org/?eid=1153076

 まあ、こんなところで、自分としては納得していたのですが、先日「さんまのホンマでっか?TV」を視聴。某脳科学者の先生が、「男女の友情不成立の脳科学的根拠」を語っておられました。それによれば、友情と恋愛では司る脳の部分が異なるとのこと。どうも、そのために生殖年齢である異性と認識すると友情を司る部分が機能しないらしいのです。「脳が異性との認識」→「脳の友情機能停止」ということのようです。

 私が思うにこうした傾向は、女性より、男性に圧倒的に強いのでしょう。どうも男性はハンターであって、瞬時に獲物としての女性を見分ける能力が備わっているように思えてならないのです。

 私自身は脳がすべてだとする「唯脳論者」ではありません。愛するという世界には「霊」の領域が深く関わっていると考えています。しかし、愛の感情や行動、思索として現われたり意識されることについては、脳が大きな役割を担っているのだろうとも思っています。「兄弟愛」を司る部分が脳にあるとしたら、それは、やはり、友情担当と同じ部分なのでしょうか?

 もちろん、聖書は男女間での兄弟愛を勧めています。しかし、男女間で深く感情を共有するような兄弟愛の実例や勧めが聖書にあるのか?と考えると、戸惑ってしまいます。試練や信仰的問題を兄弟姉妹として、相談し、感情を共有する中で、恋愛関係に発展するケースは時にあるもの。

 それが神様の導きで、正しい恋愛関係ならいいのですが、性的罪になったり既婚者の場合に不倫に発展するのは困り者。距離が近すぎる男女の友情や兄弟愛が、そうした残念な結果を生み出す可能性もなきしもあらずなのは現実。

聖書的な根拠よりは、むしろ現実的、そして脳科学的根拠をもって、男女間の深い友情成立は困難で、異性間の兄弟愛は一定の距離感を保つことが好ましいのでは?と思っています。

| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 11:35 | - | - | - | - |
目指せ狼男?
 満月の夜に変身して、美女を襲うとか、そういうのではございません。かつてピンクレディーは歌いました。「男は狼なのよ、気をつけなさい」と。「羊の顔していても心の中は狼が牙を剥くそういうものよ」と見事に男性の本質を伝えております。

 昨日は男性の「浅く多数」志向が、動物のオスの本能に由来するとの節をお知らせしました。しかし、狼は例外的存在であるようです。聖書でも、決してよいイメージではない狼ですが、とても、優れたことがあります。実は、狼は珍しく、生涯一匹の異性としか、性関係を持たないそうです。つまり、狼の世界には不倫も浮気もないのです。模範的で純粋な夫婦愛があるのが、狼。

 というわけで、この意味では、男は狼になっていただきたいという「目指せ狼男!」「狼男のススメ」でありました。 


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| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 21:52 | - | - | - | - |
動物的本能として説明される男女の性の違い
 「あなただけとすがって泣いた」とか「お別れするより死にたいわ、女だから」とか、演歌が描く女性は一人の男性に執着します。逆に男性のほうは「北の酒場どおりには長い髪の女が似合う」と浮気願望を抱いたり、「芸のためなら女房も泣かす、それがどうした文句があるか」と浮気の開き直りや逆切れ。極端でステレオタイプとは思いますが、やはり演歌は男女の性の違いを見事に描いております。

 確かに健全な女性たちの多くは、一人の男性との深い関係を願うようです。好きではない男性との性関係はもてないもの。しかし、健全な男性の方は、どうも本能の部分には、多数の女性との性関係を願う要素は否定しがたいでしょう。悲しいかな男性の多くは、ストライクゾーンに入り支えすれば、好きでもない女性との性関係が持ててしまいます。男性がそうならず、一人の異性と絆を形成できるのは、誠実さや自己規制や結婚という契約があってのこと。

 ですから、女性は性関係が成立すると、いよいよ相手男性に執着。逆に男性は「釣った魚にえさはやらない」とばかりに、相手女性への思いは半減、他の女性に目移りが・・。「一人の異性との関係の継続と深化を願う女性」と「他の異性との関係に走り勝ちな男性」という違いは残念ながら現実。女性の「一人と深く」に対して男性の「浅く多数」は本当のこと。 

 一般的にこうした男女の違いは動物的本能によって説明されます。メスは、性関係を持ち、妊娠すると、出産までオスに養われ、守られる必要があります。つまり、出産までオスに浮気されたら、自分の生存さえ危ういのです。それに対して、オスは、できるだけ確実またできるぎけ多く、自分のDNAを後世に残そうとします。そこで、特定のメスと性関係を持てば、別のメスとの性関係をもつようになるというわけです。そのように人間における男女の性の違いも、動物的本能に根ざすという説明がよくされます。

 罪の侵入によって、人間の性と生殖についての本能も、堕落してしまったのでしょう。他者愛であるはずの性が、男女とも自己保身や自己中心に転じてしまったと考えるべきなのかも。罪人にとっては、神が定めた相互独占的な結婚という契約関係は大きな苦痛だろうと思います。また、「自分の思いに正直であれ」とかと言えば、すぐに結婚は崩壊でしょう。結婚のために自分の思いを抑えたり、捨てたりしなくては・・・。

 逆に言えば、相互独占的な結婚制度によってのみ、こうした罪で堕落した本能を超えた「他者愛としての性」が回復されるのではないかと思うのです。また、よき結婚のために意志的努力が、自己な感情や自分の思いに優先するなら、私たちの罪深い本能に根ざす危険は克服可能なのでしょう。
 

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| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 09:43 | - | - | - | - |
論理力、構築力、判断力欠損型男性の原因は?
 時間的余裕がないので、シリーズを中断して、最近思ったことを記します。 先日の「さんまのホンマでっかテレビ」を観ていて、自分なりにもっていた仮説が正しかったことを確認しました。

 一人の学者先生によれば、児童期に父親と接する中で男の子は、「論理力、構築力、判断力」を身につけるのだそうです。逆に言えば、児童期に父親に接する事が少なく育った男児は、大人になってもその三つが欠損しかねないわけです。

 これまで、出会ってきた男性クリスチャンや牧師の中で、「論理力、構築力、判断力」に心配なほど欠ける方々を思い返すと、(その生育歴が分かる方に関しては)確かに、父親との関係が希薄で母親との関係が心配なほど濃密なままで育った男性ばかりです。

 どうしてこんなに聖書にたった論理でなく、衝動や感情による言動が多いのかとびっくりする男性クリスチャン。

 説教や公に説明や報告をする際に、言葉数ばかりが多くて、構築がなく、理解できない話し方をする男性クリスチャン。

 自分の好き嫌いや感性で物事を決めてしまい、クリスチャンなのに聖書的な是非、評価基準、優先順位で客観的な判断のできないクリスチャン男性・・・。

 思い返すと、父親との接触が希薄で、母親が支配的か母親との関係が濃密なクリスチャン男性ばかりが思い浮かびます。読者の皆さんはどうでしょうか?同じような観察結果でしょうか?そうでもないでしょうか?

  こうしたことは、生育暦を考慮して暖かな理解と寛容な心で受け止めるべきでしょう。しかし、こうした男性クリスチャンが牧師、役員、上司などの役割につくと、困難が起こりがち。論理性があり、構築がありそれに基づく判断は、普遍性があり構成員は共有できて一致が保たれます。しかし、リーダー個人の衝動、感情、好き嫌い、きまぐれは、共有できず、それは構成員の一致を破壊しかねません。あるいは困ったリーダーとして、構成員から評価を受け、あきらめと寛容によって、働きを継続するようになることも。

 本来、こうした問題は、みことばや交わりの中で取り扱いを受けて、次第に完全克服されるべきなのでしょうが、こうした生育歴が、みことばの介入や聖霊の働きさえも、はねつけてしまっているのでしょう。カウンセリング等の方法論が有効なのでしょうが、当人が問題だと認めなかったり、課題として向き合う気がないとこれまた大変。

 日本は世界一の母子密着家庭だと言われています。父親の長時間労働は深刻な問題を生んでいるのかもしれません。女性のパートナーとして、あるいは夫婦の頭として、男性に大いに求められるのは、聖書に立脚した「論理力、構築力、判断力」でありましょう。「衝動、感情、好き嫌い」がそれにとってかわるなら、女性に多く見られる欠点や弱さ(私の偏見ならゴメンナサイ)を助長してしまい、それを補う「助け手」の役目は果たせないでしょう。

 聖書によれば、育児の第一責任者は母親でなく父親です。中心的人生観、価値観を教えるのは男親。そしてそれは、おのずと子どもが「論理力、構築力、判断力」を身につけることにつながります。私の観察では、母親はどうしても感情的言動が多く、そうした力を身に付けさせるのには適さない傾向が強いように思います。

 父親の責任を果たすには、厳しすぎる状況の日本社会であります。それでも、何とか聖書基準の子育てにチャレンジしたいもの。妻たちにはチャレンジする夫を応援し励ましていただきたいもの。そして、とりわけ男児を聖書に立脚した「論理力、構築力、判断力」を持つ大人のクリスチャン男性に育てられたらと切望するばかり。そう、福音の光が育児の世界に差し込むこと、福音の力が日本の状況や肉性を克服することを期待し、願っています。
| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 23:19 | - | - | - | - |
後藤田議員よ、おまえもか?!

 もう20年も前のこと、日比谷公会堂に向かって、日比谷公園内を歩いていたら、テレビの野外ロケをしているようす。遠方からでも、分かる美男美女がベンチに座っており、照明だのカメラだのが取り囲んでおります。興味津々で、近寄ってみると男性は別所哲哉であります。そして、女性の方は当時20代前半の水野真紀ではありませんか!

 「おお、日本列島にはこれほど美しくも愛らしい生物が生息するのか!」と天然記念物レベルで感動してしまいました。

 というわけで「生水野真紀」の目撃者としては、後藤田議員にはぶち切れなのであります。「おまえが当選できたのも半分は水野真紀のお陰ちゃうか?」「それが、議員宿舎で不倫かい!」「美人ホステスと長時間同室で何もないわけないやろー!」と一方的に水野真紀の味方になってしまいました。

 男が権力を持つとろくなことはしませんな。美人の妻など何の抑止力にもなりませんな。確か、昨年も、議員宿舎をラブホにした困った議員さんがおりましたな。ちょうど、ある学校の校長も校長室をラブホにしたのと重なったので、こんな記事を書いたのを覚えています。これは、各方面からお褒めの言葉をいただきましたので、未読の方は是非ご一読を。

権力者の密会現場が意味すること
http://blog.chiisana.org/?eid=1350867

 
 「ダビデの城」、「クリントンのホワイトハウス」、「エロ校長の校長室」、そして今回これらに加えて「後藤田の議員宿舎」を登録いたします。言うまでもなく、このことは「牧師の牧師室」や「牧師のカウンセリングルーム」にも共通ですので、さらなる「後藤田牧師」防止のためにも、教職・信徒に関係なく、様々な具体的ご配慮と予防策をよろしくお願いします。

 叔父上は「カミソリ後藤田」と呼ばれた程の切れ者政治家だったようですが、こちらの後藤田議員は「カミソリ後藤田」ならぬ「カビ取り後藤田」として、当分はカビ落としに励んでいただき、きれいになってから出直していただきたいもの。


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| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 20:57 | - | - | - | - |
褒めなさい、そうすれば伸びます(3)
 本日のテーマは、「男性の何をほめるか?」であります。安藤主事に「男性は何をほめられると成長するか?」と問われて、返答に迷ってしまいました。つまり、「コンピューターに詳しいのね」と「思いやりがあって優しいね」のどちらがよいかということなのですが、難しいです。

 安藤主事の見解ではどうも、女性は外見や能力より、人格をほめられるほうが深い喜びがあり、成長するのだとか(もちろん、例外もあれば、それ程単純でもないでしょうが)。

 応えに窮しながらも、「自分はどうか?」と考えてみました。そして「能力面も人格面もどちらもうれしいと思う。」と応えたように記憶します。そして「付加価値をほめられても、付加価値を伸ばすだけになりがちだけれど、人格をほめられると本質的に成長しやすい」と付け加えました。

 もちろん、能力や外見などの付加価値をほめられると自分全体に自信がつく場合も多いです。それが、男性の人格的成長につながることもあるでしょう。しかし、人格面をほめられると、より深い喜びがあり、より深いところでの成長が励まされるように思うのです。

 逆に外見や能力面でけなされるのは、ある程度、立ち直れますが、人格面でけなされるとかなりきついですね。

 男女とも「何をほめられると伸びるか?」は一様ではないと思われます。その人のコンプレックスとも密接に関係してくると予想するからです。しかし、一般的には付加価値より人格そのものをほめることが、相手の成長につながる傾向が強いのでは?

 しかし、課題もあるでしょう。
(1)付加価値をほめると先鋭化、オタク化する男性
 ほめたことが自身獲得や人格的成長につながらず、専門分野にいよいよ没頭し、その分野のみの能力や知識の成長にしかつながらない男性。やはり、人格面をほめるのがよいのでしょう。

(2)ほめればつけ上がる、叱ればいじける男
 ほめることが、高慢さにつながっては困ります。高慢さにつながりにくいのはやはり能力や業績ではなく、人格をほめることかと思います。

(3)ほめられても、素直に受け取れない
 ほめられても、「バカにされている」「お世辞にすぎない」としか受け取られない不幸な男性も。劣等感や過去の傷によるのでしょうが、どうほめて成長を願うかは、私には正解がなく課題です。

 まあ、「ほめられたいところ」「ほめられてうれしいところ」と「ほめられたら成長するところ」とは別なのだろうなーと思います。

 相手をよい気分にさせるだけのほめ方でなく、相手の成長を願う愛の「ほめ」を心がけたいもの。そんな、交わりの発信源になれたら、いいですね。
| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 12:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
褒めなさい、そうすれば伸びます(2)
 今回のテーマは「褒めるとは何か?」。女性たちがある程度成長して、男性の現実が見えてくると、「男のプライドとやらを傷つけると過剰反応する危険物」あるいは「おだてればどこまでも登り続ける習性のある単純な生物」というような観察結果に向かっていくわけです。そして、「男は単純。プライド傷つけず、おだてておくのが対処の秘訣」という中間的な結論に到達する方が多いのでは。

 これはかなり正解に近いと思うのですが、しかし、まだまだ中間的な結論に過ぎません。この対処法は確かに多くのトラブルやリスクを回避するには有効ですが、伸太くんを生み出すには不足なのです。プライドを傷つけないように配慮するのは、成長意欲を奪わないためには大切なポイント。

 しかし、「おだてる」ことには、限界があります。おだてられて登る高さは、大したものではありません。しかも、おだてられないと登れない習性になりかねません。そして何より、この手法では、「おだてられて女性にコントロールをされている実は単純で情けない男」以上には成長できないのです。

 別の言い方をすれば「女性(特に妻)にとってコントロールしやすい都合のよい男性」にはなれても、「聖書的なリーダーシップを発揮できる成熟した伸太君」には到達できないのです。

 では、どうするのでしょう?「おだてる」のでなく「ほめる」のです。私なりに考えた「おだてる」と「ほめる」の違いは以下の通り。

「おだてる」は相手を見下している。「ほめる」は相手に敬意を持っている。
「おだてる」は相手を自分の思い通りにすることを目指す。「ほめる」は相手が神様の思いのようになることを目指す。
「おだてる」は相手を支配コントロールするための行為。「ほめる」は相手の成長を願い仕える行為。
「おだてる」は自己中心。「ほめる」は他者中心。
「おだてる」は欲が動機。「ほめる」はが動機。
「おだてる」は即効性のあるカンフル剤。インスタントに行動変容を生むが、持続しない。「ほめる」は漢方薬、時間をかけて体質を変え、継続的な行動変容を生み出す。

「おだてる」内容は事実でなくてもよい。「ほめる」内容は事実でなくてはならない。
「おだてる」場合は長所をでっちあげてもよい。「ほめる」場合は長所を見つける努力が必要となる。
「おだてる」は架空の長所があるかのように相手を騙すこと。「ほめる」は現実にある長所を当人に気がつかせること
「おだてる」は過大評価であってもよい。「ほめる」は現実の長所を正当に評価すること。
その意味で「おだてる」は神に対しても相手に対しても不誠実な行為。「ほめる」は神にも相手にも誠実な行為

 そう、イエス様は誰一人「おだてること」をしなかった。しかし、多くの信仰者の長所を指摘し、「ほめること」をされた。

 きっとキリストに似ることの一つは相手を「おだてずほめること」なのでしょう。汽灰螢鵐硲隠馨賄には「愛はおだてません。愛はほめます。」となるのでしょう。

 女性に限ったことではないでしょうが、交わりの中で、私たちがキリストに似たものとなり、愛に生きるとき、他者を正しくほめて、男性たちを成長させる者と変えられるのでしょう。
| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 09:20 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
褒めなさい、そうすれば伸びます(1)
 今回、J+Passion分科会で強調されたことは、男性に敬意を持てるかどうかが、30代女性の大きな分岐点ということ。それに付随して、男性は女性の評価によって驚くほど成長するということ。

 本当に男性は驚くように成長、成熟するもの。もう、脱皮して、別人にようになることも珍しくありません。特にクリスチャン男性はそうですね。褒められて伸びたクリスチャン男性を「伸太君」と呼びましょう。

 女性から見ればつまらないと思えるようなプライドでも、それがとてつもない重大事で、それを傷つけられるとどんなに正しい指摘やアドバイスでも、受け入れて成長することが困難です。逆に、よい点を指摘し、評価し、励まし、信頼すると、めきめきと成長するものです。伸太君になるのです。

 先日、クリスチャン男性が未成熟になりがちという課題についてあるクリスチャン女性とお話ししておりました。私は、先輩クリスチャン男性がモデルを示すこと、教会が男性に実際的な教育訓練をすることが困難であること、何より、父親の機能が不十分であることなどを原因としてあげました。しかし、そのクリスチャン女性は、男性以上に教会の女性たちのあり方をポイントにおられました。「あなたがオムツをしていた頃から」などという話しばかりでは、教会の男子が成熟するはずないでしょう。というのがその方のご見解。なるほど、納得です。

 そこで今回は「男性を成長させるのは女性の評価」という観点でシリーズ記事を開始。題して「褒めなさい、そうすれば伸びるでしょう」。そして一回目は「誰が褒めるか?」について。

(1)まず、母親です。クリスチャンの母親が男の子の欠点や失敗ばかり指摘してマイナス評価ばかりしてしまうのは、かなりの悲劇。母親だけでもきついのに、神様にまで否定されている気分になるのかも?クリスチャンホームの場合、伸太君になるもならいかは、かなり母親次第なのでは?
 受験などで、クリスチャン男子が面接試験で自分の長所を上手にアピールできないことがあります。その原因が、母親がよい点を指摘し、評価し、褒めて伸ばそうとしてこなかったことにある場合が多いようにお見受けします。95点を差し上げたいような男子なのに、母親は100点に満たない5点分の指摘ばかりしているということが。これは、息子さんにはきついです。これでは「日本の女性は不満と文句をいい連ねる達人」と言われてしまいます。そして、その被害者を被りやすいのは女子ではなく男子。
 こうした場合、私の見解では本当の問題は親子関係でなく夫婦関係であるように思います。息子さんを自信をもったしっかりしたクリスチャン男性に成長させるのは母親の評価、しかし、それができる母親になるための前提は、妻として夫の愛の評価をいただくことでしょうね。


(2)次には教会内の先輩女性クリスチャンたちでしょう。時々、そうした女性たちを中高生男子が「教会のおばさん」呼ばわりをし、敵対視するケースがあります。単に口うるさいとか、わからずやならいいのですが、自分たちの自立や成長を妨げる存在としての評価なら、深刻な問題ですよ。
 先にあげた「オムツしてた頃から」や「あなたが小さい頃は」発言を繰り返すのは、かなりまずいと思います。「いつまでも子ども扱いしやがって」「子どもでなくなるといけないのか?」「これだから教会は・・・」「教会の交わりは俺達を大人にしてくれない・・」などとなりかねません。

 教会の先輩女性クリスチャンは、子どもの過去よりも成長した現在を評価し、これからの成長への期待を語るのがよいでしょう。「大きくなったね。たくましくなったね。しっかりしてるね。」「これからが楽しみ。素敵にクリスチャン男性になるでしょうね。どんなに神様も期待しておられるか」などの語りかけが好ましいのでは?とにかく男子には自分自身の感想より、相手を活かし成長させる評価や期待の言葉をと願うのです。

 先輩クリスチャン女性の皆さん、あなたの意識改革、言語改革が、教会内に伸太君をつくるのです。

(3)同年代の女性たちの励ましや期待も、男性を大きく成長させます。しかし、注意は必要です。特定の女子があまり褒めると「惚れてしまうやろー」現象や勘違いが・・・。つまり、信仰と兄弟愛の励ましが、恋愛感情として受け止められてしまうのです。これは男性が愚かなのではありません。実際、男性はそういうものなのですから、女性が男性理解をしていただきたいもの。

 ですから、恋愛対象となりえるような同年代の異性間では、褒める場合は、女性陣の連帯で「集合的評価」を与えるのがよいのでは?「私たちあたなのことを褒めている」「教会の女性たちの多くが期待している」「あなたは姉妹たちから信頼を得ている」など、主語を複数にしてみては?

 教会に集う男性に対してのご不満や苦言は分からんでもありません。でも、「見たまんま」「思ったまんま」の事を女性の交わりで話していては、ストレス解消はあっても、本当の解決や問題の克服には向かいません。様々な年代の教会に集う女性たちが、その語る内容、向き合う姿勢、相手への思いを少し努力して変えるなら、そして、それを継続して積み上げていくなら、クリスチャン男性たちの成長に大きな進展をもたらすと私は思います。

 不満と苦言の対象であるあのクリスチャン男性も、「未来の伸太君」を内に秘めているのです。その可能性を開花させるのは、もちろん神様でしょうが、その可能性を自覚させ、それをサポートすることを、神様は教会の交わりに期待しておられるはず。そして、その大きな役目を担うのは異性である女性たち。

 女性の言葉が男性に及ぼす影響の大きさは、女性自身が思っているレベルをはるかに超えた絶大なものなのですから。
| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 10:39 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
男性への敬意というチャレンジ
 J+Passion分科会の中では、女性の年代別に課題をあげての対談。30代になると男性に敬意を持てるかどうか?が女性の分岐点。教会内の独身男性には、十分なコミュニケーションのとれない男性、自身のない男性が多い傾向が。30代に入れば女性も男性の現実と本質もかなり見えてくるもの。

 「日本の女性は不平と不満を言い連ねる名人」というような内容を記事をある週刊誌で読んだことがありますが、私が思うに、クリスチャン女性でも、いまどきの男性を見ていればそうなりかねないでしょう。

 しかし、より成熟したクリスチャン女性は、そうした男性たちの現実は認めつつも、成長しあう交わりや、多少なりとも励まし成長させようという姿勢を持ちます。つまり男性を評価対象にして、不平不満に埋没するパターンと、男性を交わりの対象として、成長を願うパターンに分かれるわけです。

 安藤主事は、私の上記のような見解に対して、ご自身の観察から、30歳を過ぎた頃から、クリスチャン女性は、ひねくれていくタイプと今まで以上に仕えていくタイプとにかなり明確に分かれていくとのご発言。

 なるほど。私の観察からもそれはあります。同年代の男性に対して敬意を持てなくなり、心の底に軽蔑や見下す思いがあると、女性がひねくれてしまうのは、ある意味必然なのでしょう。

 「ひねくれ系女子」か「お仕え系女子」か?男性たちの残念な状況や失望したくなる現実は、その通りでしょう。でも、それに対する応答は、女性自身の選択なのでしょう。

 男性への客観的評価と心に抱く感情は、なかなか分離しがたいもの。マイナス評価をしながら、男性たちの成長を願ったり、励ましを与えていくのは、かなりの成熟度が必要だと思います。

 でも、(多分既婚未婚を問わず)30代のクリスチャン女性の多くはそれが問われているのがと思います。一見、不条理、不都合なチャレンジに思えますが、そうしたチャレンジを受け止めるか?放棄するか?は30代以降の女性のあり方や成長にとっての大きな分岐点になるのでは?
| ヤンキー牧師 | 男性(心理と性)理解のために | 09:35 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
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