命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「猿の惑星に学ぶ」弱者犠牲による強者の富の享受構造
 最近ある方のメッセージをお聞きして、感銘を受けました。その中に映画「猿の惑星」が登場。宇宙船が着陸した猿が人間を支配し奴隷とする惑星、ラストシーンは、それは地球であったというのが第一話。

 映画化されるもととなった小説の作者はフランス人のピエール・ブール。彼は東南アジアで以前はゴム園で現地人に奴隷労働をさせ、富を享受していた経営者。しかし、やがて日本軍の捕虜となり強制労働をさせられる立場に一転。

 この経験が「猿の惑星」につながったのだとか(ちなみに、もう一つの有名映画「戦場にかける橋」も同様)。じゃあ、日本人は猿扱いか?というツッコミもあるわけです。強者が弱者を犠牲にして、富を享受する構造。その構造の中で、強者の立場から、弱者の立場に転じた原作者。

 このことをお話になった説教者は、原発事故以来、自分が享受してきた電力の背後に弱者を犠牲にする現実があったことを知り、葛藤してきたとのこと。そのこととのつながりで、創世記1章28節を取り次がれました。「地球環境を、他の命との関係で人類はどう治めるか?」そのことの重要さを聖書的で現代的な課題として重く受け止めさせられました。

 私も同様の問題意識を持ってきました。以前、記事にしたのは以下の通り。
「弱者犠牲の上に生きながら、その事実を見ないで済むシステム」
 http://blog.chiisana.org/?eid=1407777

 「猿の惑星」が描くものは、現代的で切実な問題、今、日本が直面している極めて現実的な問題、さらには人類の最初からの聖書的課題であることを思います。
| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 12:19 | - | - | - | - |
思考放棄結果としての「既成継続」と「既成否定」

 橋下徹氏が勝利とのこと。その是非を問う意図はありません。この結果の要因が有権者の既成政党や既成政治への失望や不信にあるという点は考えたいわけです。既成のものへの失望と不信が、既成を否定し未知なる将来を語る者の支持へと有権者を向けたと言われています。

 こうした傾向は、なにも政治の世界だけではないでしょう。経済や産業、教育や医療にも同様の傾向や課題や傾向があるようです。既成のシステムや方法論ばかりか理念までもが限界と判断され、その打開策が模索されるのですが、既成の否定の向こうに新たな希望の実現があるのかどうか怪しい場合も。

 既成の継続を選択しても、既成の否定を選択しても、心配なのでは、その判断にしっかりとした思索があるかどうか?であります。どうも、現在の日本という大衆社会にあっては、思索による判断より、感情や流れやムードによって、既成を考えもなく肯定したり、逆に既成の否定を安易に善とする傾向があるのではないかと心配です。

 無思慮になると、人間は、必要な既成の改善もせず規制路線を肯定するか、必要な既成の継続をせず全面否定するかの「オールorナッシング思考」に走ってしまうと思うのです。

 その両極端の代表的フレーズとしては「何が何でも守り抜く!」と「ぶっ壊す!」でありましょう。どちらもインパクトがあり、人の心を動かしますが、同時に人を無思慮に陥れるようで心配です。しっかりとした思索があれば、大抵の場合は、既成を改善したり、既成を捨てつつも必要部分は継承するものかと思います。

 キリスト教界にもそうした両極端が起こりやすい時代と社会ではないかと思います。既成を握り締めて枯渇していったり、既成を否定し到達したものもやがて否定せざるを得ない場合も。ゆっくり立ち止まり、聖書の視点での現状判断と、聖書的思索による取捨選択の大切さを思います。大阪ダブル選挙を機にそうしたことを考えてみました。

| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 15:07 | - | - | - | - |
マル暴のカタギのみなさんのおかげです」(4)
 このシリーズもこれで最終回。今回は日本の社会には暴力団員を必然的に生み出す土壌があるのだというお話し。「暴力団員が生み出されるのも、ある意味で、カタギの皆さんのおかげです」という主張であります。 

 我が家には、自らが被差別部落の出身者あることを公表し、活躍するライターの著書が何冊かあります、その著書によれば、日本の暴力団員の6割は在日と被差別部落出身者だとか。多少の数字は異なりますが、同様の情報はあちらこちらで読んだことがあります。誤解を招かぬよう断っておきますが、差別を助長するためにこのデータを紹介しているのではありません。逆に差別の実態とその責任を自覚していただくために紹介しているのです。

 ほんの何十年前までは、かなり悲惨な就職差別がありました。在日の方や被差別部落出身者は、どんなに成績優秀で品行方正でも、それに、ふさわしい就職ができませんでした。村崎太郎さんも、どんなに勉強しても報われない現実をある時悟って、進路を変えたようです。特に被差別部落出身者は一流大学卒でも、企業から採用通知が来た後に不採用通知が来たと言います。

 そうした中で、ぐれてしまったり、社会に敵意をいだくのは、ある意味、当然のことではないでしょうか。100メートルレースのスタートラインが、20メートルも30メートルも後ろから、スタートしているのです。競争社会なのに、全く平等でないわけです。かつての日本社会は、国籍や出自によっては、誠実な努力が恐ろしく報われない社会だったのです。いいえ、今でもそれは残っています。

 努力が報われない時、向上心や自己価値は失われ、男性は暴力、女性は性の世界に、傾きやすいもの。そこにしか社会における自分の居場所がないかのように思えてしまうもの。この日本社会において、暴力団が形成される土壌を作っている一員は、その社会に現在する差別であります。いいえ、突き詰めれば、カタギの皆さんの心にある差別という罪でありましょう。

 差別がなければ、一定の平等な社会で誰もが努力の報われる社会なら、暴力団はなくなるとは言いません。しかし、少なくともその規模や勢力は半減されていたのではないでしょうか?

 そうなると、教会やクリスチャンも決して自らを安全地帯に置くことはできないでしょう。キリストは遊女と取税人を愛をもって受け止めたのですが、キリストの体である教会はそうであったか?考えさせられます。すべての教会が、被差別者への重荷を持たずともよいでしょうが、そうした方々が倒れているのに、道の反対を通過してきたのかもしれません。日本社会において、居場所のない方々の居場所になっていったのは、教会よりも、暴力組織、その関連にある風俗業界などだったとしたら、それは悲しすぎませんか?

 私自身もかつてはそうしたクリスチャンであったから、偉そうな事は言えません。ですから自戒を込めて記します。暴力団やその関係者となっていきかねない人々の存在や問題さえ知らずにこの日本社会で、クリスチャンとして生きながら、自らを安全地帯において、暴力団をただ一方的に断罪するような姿勢だけは間違っていると思うのです。それはキリストに似ても似つかぬ正反対の歩みと言えるのではないでしょうか?

 四回の連載を記してみてつくづく思います。カタギの皆さんは暴力団に、「必要悪」という機能を担わせ、時に、利用価値のある団体として便利に使いながら、まるで自分とは関係ないかのように悪人呼ばわりします。その一方で差別を繰り返し、暴力団存続土壌を維持しながら、今も差別によって、暴力団員を日々、補充しているのでは?だとしたら、暴力団が悪いのは当然として、カタギの皆さんも随分な悪行三昧なのではないでしょうか?

 
 

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| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 22:13 | - | - | - | - |
マル暴のカタギの皆さんのおかげです(3)
 暴力団排除条例と宗教、とりわけキリスト教会とは、何の関係もないと思いがちですが、現実はそうではないようです。暴力団体がある意味で宗教熱心な場合も。たとえば、マフィアは南部イタリヤの貧困層から発生していますから、カトリック信仰と密接な関係を持っています。マフィアと交際し、マフィアに益をもたらし、益をいただいている神父様もおられるのだとか。

 日本の暴力団の儀式は基本的に神道のようです。故横山やすしさんは、天照大神の前で暴力団員と兄弟の杯を交わしております。そして、面白いことに「ヤクザ1000人に会いました」という書物によれば、一番多いのが創価学会で、キリスト教系も5.3%と、驚くべき?高さであります。 何と!この日本の社会においては、ヤクザのクリスチャン率は、カタギより高いのです。

 これは暴力団員がミッション系の学校や福祉施設にお世話になって育ったからかもしれません。あるいは厳格なクリスチャンである親への反発から、この世界に行ってしまったのかも。元来純粋すぎて社会に馴染めない方も多いでしょから、心でキリストを信じているというパターンもありそうに思うのです。

 日本の暴力団の場合は、右翼団体を兼ねておりこともあり、儀式は神道系のようです。つまり、「暴力、右翼、神道」という「暴力と政治と宗教の三点セット」であります。私は詳しくないので、暴力団お抱えの儀式を司る神主さんといるのかなー?暴力団事務所の地鎮祭などで、神主さんが謝礼をもらったら、条例違反になるのかなー?と、宗教者への影響まで心配してしまいます。

 キリスト教会も他人事ではないでしょう。弱者保護や社会正義のための闘争ということで、左翼団体と協力するキリスト教会も一部にはあるわけです。その左翼団体が一定の暴力を行使するなら、やはり、そこには「暴力」「左翼」「キリスト教」という「暴力と政治と宗教の三点セット」が成立。教会関係者は、条例違反になってしまうかも。

 そうでなくても、たとえば、暴力団員の娘が教会員などになり、その結婚式に際して、組員である父親が「多めの献金」として数百万を教会においていったら、どうなるのでしょう?断るのも怖いし、返しにいくのも怖いし、まあ、娘に返してもらうとしても、「牧師先生、花嫁の父に恥をかかせるんですかい?」とか言われたら、困りますね。受け取るとやっぱり条例違反なんでしょうか?

  そう考えますと、この条例、特に拡大解釈をされると、危険性もあり、それは決して、キリスト教会も無関係とは断言できないでしょう。そもそも、通常罰せられたり制限されるのは、犯罪行為や危険行為そのもの、あるいはその準備行為(銃刀所持や爆弾製造)であるはず。ある組織に所属しているだけで、その人物と親しく交際してはならないというのは、もしかすると、人権差別問題と言えるかもしれません。それは法理念としては、暴力団員が持っているはずの基本的人権の侵害に相当するのかも。

 たけし軍団の主要メンバーの一人は父親が暴力団員だそうです。その父親の葬儀の時のことです。メンバーの方から、たけしさんには参列をお断りしたのだとか。弟子思いのたけしさんは、きっとやりきれない思いだっただろうと察します。

 暴力団員の娘の結婚式を司式する牧師は、反対する信徒に「ヤクザの娘は、結婚に際して神の祝福を受ける資格がないのか?」と反論するでしょう。たけしさんの心にあったのは「ヤクザの息子は親を亡くしても、師匠に葬儀参列してもらう資格がないのか?」との思いであったかも。冠婚葬祭に限っては、直接暴力団ではない、そのカタギの家族とまで、断絶を強いるのはどうかと思う私は甘いのでしょうか?

 少なくともイエス様は、当時のヤクザ者に相当するザアカイの家に泊まり親しく交わりを持とうとしました。そう考えると、この条例、有効性は評価したいのですが、人権論的に聖書的にはどうなんだろうって、考えてしまいます。この条例が暴力団の弱体化などのよい結果をもたらすことを願いますが、他方、少なくとも拡大解釈がされぬよう、行き過ぎた適用が行われないよう、見守っていくことの大切さを思います。


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| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 23:01 | - | - | - | - |
マル暴のカタギの皆さんのおかげです(2)
  暴力団を「必要悪」との観点で考えてみたのが、前回。そして、暴力団をカタギの皆さんにとっての「利用価値」という視点で考察しようというのが今回。ある立場やある状況にあるカタギの皆さんにとって、暴力団は大変利用価値のある団体となっているのは事実でありましょう。三つの面でそれが言えると思うのです。 

(1)「非合法の便利屋」として
 なんと言っても、暴力と恐怖は便利です。とりわけそのプロである暴力団による暴力や恐怖は、かなりの確率で、相手を意のままにコントロール可能にします。もちろん、それは相手の自由の侵害であり、非合法の手段。
 一般市民や企業などの側にあるニーズが生じ、それを満たす機能として暴力団は存在するという社会構造は皆さんのご存知の通り。合法的な手段では実現できないことが、暴力団に依頼すれば、できてしまうのですから、これはある方々にとっては究極の便利屋でもあります。
 必殺仕掛け人ではありませんが、法律では、何ともならないこの世の不条理も、暴力団なら何とかしてくれることがあるようです。また、事実かどうかは知りませんが、あの東電も原発関係で暴力団を用いたとの記事を読んだ記憶があります。そうした企業は決して少なくないとか。

(2)「即効性の高いトラブル処理班」として
 暴力が持つ負の魅力は、即効性であります。たとえば、学校の教師には体罰の誘惑があります。それは暴力が持つ即効性故のこと。時間をかけ、愛をもって、向き合い、話し合い、悟らせて初めて達成できるであろうことが、その場の体罰で可能になるからです。もちろん、それは外面的な結果が同じだけ。体罰に依存するなら教師と生徒の両者とも成長がなくなるもの。

 同様に合法的にやっていれば、時間がかかることも、暴力団にお世話になれば、大幅に時間短縮となるわけです。右翼団体に街宣をかけられても、法律的解決は困難。また、それがなくなるのには時間も要するでしょう。しかし、暴力団に頼めば、短時間で問題解決。芸能人やスポーツ選手の中には暴力団に女性問題を解決してもらい、現在、あるいは引退後も活躍している方がおられるとの情報も。まさに暴力団はクイックタイプのトラブルシューターであります。

(3)「都合のよい暴力代行業」として
 大変便利で即効性のある暴力ですが、自分でできるか?と言えば、やはり無理。自分の暴力は大したことないし、暴力を振るえば犯罪者になりかねません。そうしたリスクを避けて、ダーティーワークを引き受けてくれるのがプロであります。
 そう考えますと、暴力団に何かを依頼する人間は、とても卑劣なわけです。自分は犯罪的な意図を持ちながら他者に罪を押し付けるわけですから。

 そのようにカタギの皆さんにとって、ある状況下において、暴力団とは「非合法の便利屋」「即効性の高いトラブル処理班」「都合のよい暴力代行業」というわけです。まさに暴力団とは、「便利で・早くて・都合がよい」の三拍子。これは、悪の魅力に満ちています。特に合法的には解決困難な状況にあるカタギの皆さんには、大きな誘惑となりかねません。

 今回の暴力団排除条例は、こうした「便利屋」「問題処理班」「代行業」の「お客様」に対してもペナルティーを与えようという発想に基づくのでしょう。

 このことは売買春の問題にも似ています。売る側も買う側も非合法なのです。援助交際をする女子中高生は悪いですが、それを買うオヤジも悪いのです。非合法のサービスを提供する団体も悪いですが、その提供を求めるカタギの皆さんも悪いのです。業者も悪いし、客も悪いのです。

 基本的な発想においては、暴力団排除条例は正しいのかな?とは個人的に思います。特に芸能人やスポーツ選手はこれでお付き合いを断りやすくなるでしょう。では、「諸手をあげて賛成か?」と問われれば、戸惑いや危惧がないわけではありません。それは、後日、記したいと思います。

 今回の記事で、暴力団を「カタギの皆さんの側の利用価値」という視点でお考え頂き、「カタギの側の責任」を、考える参考になれば、うれしいです。

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| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 22:59 | - | - | - | - |
マル暴のカタギの皆さんのおかげです(1)
 このシリーズ、キリスト者として「暴力団排除条例」をどうか考えるか?というもの。元ネタ不明の読者のために一応説明しておきましょう。これは「とんねるずの皆さんのおかげです」というテレビ番組名のパロディーであります。島田伸助氏の電撃引退以来、暴力団の問題がクローズアップされております。暴力団が悪いのは当たり前。では、暴力団の問題で悪いのは、暴力団だけか?と言えば、とんでもありません。暴力団が存続できるのは「カタギのみなさんのおかげです」という面があるわけです。

 10月より東京でも試行され、話題となっている「暴力団排除条例」は、カタギの皆様にもペナルティーを科すことが特徴です。つまり、「暴力団が存続しうるのはカタギのみなさんのおかげです。」という現実と発想に立って暴力団を弱体化しようという狙いかと思います。

 私自身もそういう傾向があるのですが、クリスチャンはどうも、社会の悪について、「自分たちは善である」と安全地帯に自らをおいてしまう傾向があるように思うのです。自分たちも罪人であり、特に社会における構造的悪については、好まずとも、その当事者や加害者たりうるとの自覚に欠けるように思うわけです。そして、あたかも自分はであるかのように、社会悪を嫌悪し、聖書からの正論で斬るような態度をとりかねません。私自身も、ふと気づくとそういうことをしている自分がいて、悔改めることもしばしば。

 そこで、屈折した視点からの社会評論であります。クリスチャン市民も含めての「カタギ」や「シロウト」と皆さんの側の責任を考えてみようと言うのがこのシリーズの趣旨。

 芸能と暴力団の関係
は古くは江戸時代からだそうです。旅をして芝居をする人たちと、その土地の用心棒はある意味のセットとなり、それが、現在でも芸能と暴力団の関係につながっているというのが歴史的見解のようです。かつては、特に演歌系とプロレスの興行が、暴力団と密接な関係があったのは、有名なお話。

 ですから、江戸時代は、旅芸人の芝居を見る事は、ある意味、暴力団への利益供与であります。かつては、演歌のコンサートに行くことも、プロレスを会場で観戦するなら、その料金の一部は、暴力団の活動資金になっていたわけです。


 「必要悪」という概念があります。「暴力団は必要悪ではないか?」という議論はよくされます。たとえば、旅芸人が安心して公演するために用心棒は必要です。江戸時代の旅芸人は被差別階級の人々が担いましたから、公権力が守ってくれることは期待できません。まさに、用心棒は必要だったのです。でも、それは暴力を行使する悪であったわけですから、まさに必要悪です。

 開拓の歴史を持つアメリカ社会は、十分な警察組織などは持ちえず、自らを守るために銃が必要とされました。言うまでもなく銃は、凶器であり、殺人可能な道具であり、「」の機能を持ちうるもの。これも必要悪の一つといえるかも知れません。

 信仰共同体とされるイスラエル社会にも売買春があったことを聖書は示しています。いいえ、その社会には、犯罪者集団もあったようです。

 また、いつの時代、どの社会にも社会秩序やルールに従って生きられない人々はいるもの。そうした人々の居場所や社会的立場も必要となります。どうも聖書の描く羊飼いはそうした職業だったようです。安息日を守れない職業ですから、一種のはずれもので、実際に無法者や前科者もいたようです。どのような社会であっても、反社会的組織や、犯罪者集団はあります。その中には、「受け皿としての社会悪」と考えられるものもあるのでは?

 かつてある暴力団の組長は、「ゴミは一箇所に集めた方が社会のためによいでしょう?」という趣旨の発言をしたそうです。これは暴力団のもつ必要悪という面を、前面に出した一種の自己弁護あるいは、開き直りでしょう。でも、「くやしいけど一理あるなー」と感じる方も多いのでは?

 私個人は安易に必要悪を是認してはならないとは思っています。しかし、人間が罪人である限り、必要悪は生じます。これが現実です。では、聖書はそれについて、何を示し、どう評価しているのでしょうか?即時全面否定をしているのでしょうか?究極的否定も向かいつつも、経過措置として一定の容認をしているのでしょうか?そんな単純ではない深い考察が聖書からは導き出されるのでしょうか?

 そうした視点で聖書を読むと、今回の「暴力団排除条例」について聖書的な評価ができるのかもしれません。「日本社会において、暴力団はある意味での必要悪ではないか?キリスト者市民であっても、間接的にはその恩恵にあずかっているのではないか?」そんなことを考えてしまいました。


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| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 16:54 | - | - | - | - |
キリスト者として考えるパチンコ問題(3)
 「なぜ韓国はパチンコを全廃できたのか」の著者はパチンコを「数千人の莫大な利益のために、数百万人を泣かせる行為」と表現しております。今日はそうしたパチンコと有名クリスチャンとの関係を記してみます。

 同著にも登場する話ですが、クリスチャン政治家と言われる土井たか子さんのパチコンコ好きは有名。一般にはその庶民性がアピールになるのでしょうが、ピューリタニズム色の強い私などは「クリスチャンの趣味が、パチンコってどうよ」と裁き心が起こってしまうわけです。実は土井さんは、パチンコ業界からの多額の献金が問題視されたことも。北朝鮮とも極めて友好的な関係であったことなどもあり、いろいろ言われてきたようです。どう、評価すべきなんでしょう?

 クリスチャンである李明博大統領は、ソウル市長時代は、パチンコを強く批判していました。しかし、2008年2月に当時、民主党代表であった小沢一郎氏が訪韓した際に、大統領となっていた李明博氏はパチンコ業界の規制強化在日同胞が苦境にあえいでいると話し、小沢代表は帰国後に民団に聴いてみると応じたと、同著は記しています。在日同胞のためなら、日本のパチンコ業界には規制緩和要請?ということで、著者は、「李大統領の真意はいかに?」と小見出しをつけております。

 パチンコではありませんが、カトリックの著名作家、曽野綾子さんもギャンブルとは無縁ではありません。曽野さんは一時期、「日本財団」の代表を務めておりました。「日本財団」と旧名はあの「日本船舶振興会」であります。知ってる人は知っている笹川良一会長が登場するあの「一日一善」「戸締り用心火の用心」のCMの団体であります。

 ボートレース好きのおっちゃんは言います。「競艇はええでー。勝てば儲かるし、負けても笹川さんが、世のため人のためにそのお金を使ってくれるさかいになー」。かくして、ギャンブル行為は肯定化されるわけです。つまり競艇で集めたお金を社会貢献に使おうという財団であります。いくら、社会貢献目的とは言え、そうした資金源を持つ団体の代表にクリスチャン?という声はあるでしょう。

 クリスチャンがパチンコやギャンブルをどう評価するか?それが弱者救済や福祉事業などと関連していた場合は、どう考えるべきか?

福音に生きるってことは、この場合、どういう判断することなんだろ?」
「もし、イエス様ならどうするだろう?」

 
 考えさせられますね。本著が最終的に訴えていることは、パチンコに象徴される日本社会の問題。際限ない拝金主義、国民を苦しめてまでの利権構造や馴れ合いであります。えっ?そんなこと聖書や信仰と関係ないって?でも、現実に三名もの著名クリスチャンがかかわっているではありませんか?私は思います。聖書や信仰と関係ない事象がこの被造物世界にあるのだろうかと。

 
| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 08:13 | - | - | - | - |
キリスト者として考えるパチンコ問題(2)

 今回はキリスト者とパチンコについて考察。

 まず、「クリスチャンがパチンコをすることについてどう思います?」と尋ねると、飲酒などのように意見は分かれず、反対派や否定派が大多数かと思われます。容認派も多分「娯楽として」との限定つきでありましょう。

 そもそも私のような敬虔主義的な傾向の強いクリスチャンは、賭け事、ギャンブル自体に否定的なわけです。もし、私が、ギャンブルの是非について尋ねられたら、主に次のような理由で、否定的意見を述べるでしょう。

(1)偶然性の高いもので、金銭や所有物が左右されることは、「あなたの神をこころみてはならない」との十戒に反すると解釈されるので。

(2)正当な労働によらずに金銭を取得することは、聖書的労働観に反するから。
 これは勝った場合のこと。他者や社会への貢献なく、金銭を得ることやそれを願うことは神様のみこころではないでしょう。

(3)ギャンブルでの消費はキリスト者としての主にある金銭管理として不忠実だから。 
 これは負けた場合。娯楽としての消費なら意味もあるでしょう。一般消費でもないですから、経済にも貢献しません。そうしたお金はもっと自分や他者を活かす使い道があるでしょう。

(4)とりわけパチンコでの消費は、「誰への貢献となるか?」を考えるべきだから。
 言い換えれば、お金の行き先です。一部は、暴力団の資金源になるようですし、北朝鮮への送金ともなります。当然、是非を考えるべきでしょう。つまりパチンコにつぎ込んだお金は、反社会的勢力の応援や北朝鮮の対日ミサイルや核開発の援助にもなるのでは?とも考えられるのです。

(5)その社会や文化の中で、悪く評価されることは証しのため避けるべきだから。
 少なくとも日本ではギャンブルが紳士のステイタス上流階級のたしなみにはなっていません。こうした社会では、わざわざ、証しにならないことはすべきではないでしょう。

 これを前提として、「キリスト者とパチンコ」であります。いくつか列挙してみましょう。

 ある牧師は、「日本中のパチンコ店が教会になりますように」と祈っておられるとか。

 実際に、最近のクリスチャン新聞では、そうした事例が紹介。パチンコ店の外装そのままで、十字架や看板をつけた札幌の教会。インパクトありすぎの地域への証しでしょう。また、私自身も、廃業後のパチンコ店を教会堂とした福島県いわき市の教会を訪ねたことがあります。若くして救われたパチンコ店オーナーの息子さんが20年祈り続けたことの実現であります。現場では感動しまくりでした。

 そこで考えてしまった事例が二つあります。実は私が存じ上げている牧師二名は、信徒に
パチンコ店(と娯楽施設)の経営者を持つ方がおられます。

 一人は、その信徒に対して「神様は喜ばれないのでは?」とシビアに転業などをチャレンジしているようです。確か、その牧師は、パチンコでの収益によるお金という理由で、献金を受け付けていなかったと記憶しています。この指導の是非はともかく、一貫性はあると思います。私などは(その教会では月定額什一が定められているので)、莫大な額の月定献金が予想されながらそれを辞退する姿勢には敬意を抱きます。

 もうお一方は、韓国系の教会の牧師。牧師自身がどうお考えなのかは、尋ねてもいませんし、知りません。ただ、私がお聞きしている情報では、パチンコ店経営者信徒が長老であり、教会の財政に多大な貢献をしており、それが教会内では少なくとも表立っては問題視とされていないとのこと。

 これに対しては違和感や反発をもたれるクリスチャンもおられるでしょう。ある意味、正常な感覚だと思います。ただ、私としてお伝えしたいことは、日本のパチンコ店オーナーの8割は韓国・北朝鮮系の方々だということです。そして、パチンコ産業は在日の人たちに大きな雇用を与えているということです。

 もし、日本社会に差別がなく、在日の方々に就職等の機会均等やチャンスの平等があれば、こういうことにはならないわけです。多様な意見はあるでしょうが、差別してきた側の罪を脇において、こうした事例を安易に断罪するクリスチャンにだけはなってはならないと私自身はいつも願っています。

 パチンコの是非を論じるのは簡単です。しかし、現場で当事者感をもって、自分に問いかけてみると、見えてくることもあるでしょう。

「自分がパチンコ店経営者のいる教会の牧師だったら?」

「転任してきた教会でそうした献金が教会財政の半分以上を占めていたら?」

「自らの給与の一部がパチンコの収益である現実を、自分が牧師ならどう考えるのか?」

 うーん、シビアな問いですねー。以上、パチンコと教会ということでいろいろ考えてしまいました。

| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 10:22 | - | - | - | - |
キリスト者として考えるパチンコ問題(1)

 本日、ある伝道者からニュースレターがメールで到着。ある書物を読んで、考えさせられたようです。その書物のタイトルが気に入りました。

 若宮健著「なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか」(祥伝社新書¥760+税)

アマゾンのサイトでは→「こちら」

 日本国内ではパチンコ問題はマスコミタブー、言うまでもなく、広告主だから。また、この件は民族問題や政治家や警察の利権もからむ深い闇の世界。「よくこんな本を書けたなあ、若宮さん命の危険はないのか?」と心配するやら、感心するやらです。

 さっそく近所の書店で購入。1時間もかからず読めました。パチンコ問題の深さを御存じない方には是非ともお読みいただきたい内容です。

 私自身も、そもそも韓国が2006年にパチンコを全廃したとは知りませんでした。これがまず、驚きであったわけです。韓国に日本のパチンコが行っており、かなり普及していることは知っておりましたが、国家規模で全廃とは驚きです。

 韓国では2000年ごろにパチンコがかなりブームになり、一大娯楽産業化したそうです。しかし、依存症、家庭崩壊、犯罪、汚職などが続発し社会問題化。マスコミと野党が強い批判や反対をして、遂に、パチンコ禁止を法制化したのです。

 ところが、私自身も、この隣国の大事件、しかも自国のあり方が問われる意味ある情報を、恥ずかしながら、知らないでいたのです。なぜでしょう?日本のマスコミが伝えないからです。

 パチンコなど30年以上していない私でも、パチンコ機の機種名を知っています。それ程、パチコンコのテレビCMは増加。(以前は最大手電通はパチンコCMは受け付けなかったのが近年変更)。大手新聞にも、一面や半面を割いてのパチンコの広告です。業界に不利なことなど報道できるはずがありません。実際に、この著書によれば、多くのメディアでは、パチンコの問題点や今起こっている深刻な依存症問題を扱った記事はすべてになるそうです。

 子ども手当てをパチンコ資金にする母親、子どもの給食費未納者にパチンコ依存症の母親が多いという事実、依存症となり、最後は自死を遂げるパチンカーたち。犯罪、時には親殺しの背景にパチンコ依存症があったという事例などなど、現実に起こっていることをマスコミは伝えません。国民の生活を蝕み、家庭を破壊する実害を伝えて守るのがマスコミの使命だというのにです。

 私は一度だけ、テレビニュースの特集でパチンコ依存症問題を取り上げたのを観たことがあります。上に記したようなことではなく、生ぬるい内容でした。明らかに手加減をしていると感じたのです。そして、業界自体がパチコンコ依存症の相談や回復をしているという取り組みを紹介していました。自分たちで依存症を作りそれをケアーしている矛盾には触れず、あたかも業界が問題を認めて、責任を果たしているかのようなニュアンスで伝えていました。

 これでも、メディアとしては、頑張った方なのでしょう。あくまでパチンコ業界のイメージダウンをしない範囲でしか、パチンコ依存症の問題を取り上げる事はできないのが現実かと思われます。

 こうした日本のマスコミが一方で「報道の自由」を主張するなど、笑止千万でありましょう。自らが、権力関係に敗北し、自らが報道の自由を放棄しているではないですか?!「言論の自由」「表現の自由」などは本来、政治権力の不当な圧力に屈しないために保証されてきた自由です。それを利害関係を持つ強者の圧力に屈し、報道しないことで、パチンコ依存症とそれにまつわる悲劇を、放置しているのですから。強きを助け、弱きを挫く日本の大手マスコミなど信頼なりません。

 ある牧師からは教会員が、パチンコ依存症になってしまったと聞いたことがあります。お互いの家族がそうなる可能性もゼロではありません。

 こうした問題が放置されている背後には、業界と政治と警察の馴れ合いや利権問題があります。本書の優れた点は、パチンコ問題を通じて、日本社会に巣食う馴れ合いや利権の体質を見事に知らせてくれることであります。そうした意味では、日本社会に生きる誰にでも読んでいただきたい良書だと思います。 

| ヤンキー牧師 | キリスト者として考える社会事象 | 16:09 | - | - | - | - |
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