命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
福岡市長と塩谷瞬とヘロデ王

 刺青公務員の次は、酒乱公務員がニュースに。多分、公務員だけでなく、全体として職業人、社会人の倫理観が低下しているのでしょう。今回の禁酒令については、福岡市民は、賛否両論とは言え、支持しない方が多数派のようです。

 福岡市は、飲酒運転についてはかなり厳しく真摯な取り組みをしてきたはず。しかし、運転とは別に飲酒がらみでの市職員の不祥事の続発。市長のお怒りも理解できますし、こうした異例の発令によって、職員に自覚を促そうという意図自体は適切でしょう。

 しかし、多くの方は「そうじゃないでしょー」との感覚をお持ちの様子。検討されているようですが、市職員の不祥事への罰則強化などが、市民が願うところでしょう。私などは、自宅のみでの飲酒では、ストレスが溜まって、別の不祥事が起こるのでは?一ヵ月後の解禁日には、マスコミが取材し、全国的に好ましくない映像が流れるのでは?と心配してしまいます。

 「飲酒がらみの不祥事続発→公務員の自覚を促す→自宅以外での禁酒禁止

 がん細胞を摘出するために、広域切除して、健康な細胞まで取り出すような発想でしょうか?

 塩谷瞬のバッシングの際にも同じようなことがあったように記憶します。まるで、塩谷に「一生恋愛はしません」と言わせたいかのような芸能記者インタビュー。それが、視聴者の思いを代弁しているかのようで、不快に思いました。「結婚詐欺まがいの二股」が問題なのであって、「二股でない誠実な恋愛」ならよいのです。塩谷が「女性を傷つけない誠実な恋愛」を今後すればいいのであって、「恋愛そのものの禁止」の必要はないはず。

 そういうわけで、不祥事があれば、その前提となる飲酒や恋愛そのものを禁止するという発想はどうかと思うわけです。

 聖書の世界でも、ヘロデ王は、自分以外の王の誕生を知って、ベツレヘムの二歳以下の男児を皆殺しにしました。都合の悪い一人を抹殺するために、全員を殺したのです。

 極一部の者のために、全体が不利益や罰を受けることの正当性

 ある不祥事や不都合を防止するために、その前提となる通常の行為を禁止することの正当性

 スポーツや政治の世界では、この二つの正当性が、当然とされたり、疑問視されて論じられたりです。

 福岡市長と塩谷瞬とヘロデ王、それぞれの事例と本質は、大きく異なります。しかし、三つともが、「あることの正当性」を考えさせる点においては、意外な共通項があるのでは?それは、人は強い感情に支配されると、丁寧さや細やかさを欠いた極端な判断や行動を取る傾向があるということ。福岡市長の義憤や責任感、大衆のバッシング感情、王の権力喪失の恐れなど、それぞれの感情はそれぞれの極端な判断と行動を産んでいるように思えてなりません。思索より感情が先行する時、人は過ちを犯しやすいことは、私たちの誰もが経験的に知っていることでしょう。

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 17:02 | - | - | - | - |
拝啓、橋下徹大阪市長様
 拝啓、橋下徹大阪市長様、このブログをお読みいただいておりますでしょうか?(絶対、読んどらんやろーなー)。大変、ご無沙汰しております。2004年の7月に「たかじんのそこまで言って委員会」で、ご一緒させていただいたキリスト教の牧師でございます。あの時は、中絶問題に対して当時弁護士であった市長からは法律家らしからぬコメントをいただき、本質とは別の面で番組を盛り上げて下さりありがとうございました。

 この度は、大阪市職員の刺青を調査され、110名の職員が刺青をしているとの結果を得られ、市民の目に触れぬよう配置転換を考えおられるとのこと。かつて茶髪の弁護士であられた市長が今や、職員の刺青についてご指導しておられる姿には、隔世の感がございます。確かに民間や一般社会に比して割合が多く感じますし、社会通念上問題視されるべきかもしれません。市長が、公務員としての意識や姿勢の改革を求めておられるも理解できることでございます。

 しかし、「ちゃんと仕事やってくれたら、そんなんかまへんわー」とおっしゃる市民も多く、刺青のデザインによっても市民の受ける印象は異なるように思います。大阪市民の視点からも、配置転換の必要があるかどうかは、意見の分かれるところかと存じます。名古屋の河村市長も、「昔に刺青入れとっても、その後、回心して真面目に勤めてくれたら、ワシはええと思うがや」と「刺青=暴力団」との時代錯誤が混入している心配はあるとは言え、「人生やり直し重視」の趣旨のコメントを出しておられます。全国的には、もっと別の面での組織改革や職員の意識変革の必要性を訴える声、市民の支持を得るためのパフォーマンスとの声も起こっております。

 それはさておき、本件に際し、市長は、「刺青で個性を発揮したければ民間に転職すべき」と発言されたようですが、民間でも一般市民の目に触れるところでは刺青が問題となる職場が多いかと存じます。日本社会においては、刺青を入れた方々は、大阪市役所も民間企業も、銭湯、プールなども、受け入れは、困難なのが現状かと思います。

 そこで、市長にお願いなのですが、刺青を入れた職員には、是非、地域のキリスト教会に集うようお勧めいただきたいのです。大阪には、刺青を入れておられる牧師も何名かおられるようです。刺青牧師が代表役員を務め、一部、刺青信徒が集っているのですから、、刺青公務員が来会され、入信、洗礼の後、教会員となられることは、何ら問題はございません。とりわけそうした教会では、市長が問題視される職員の方々も活かされるかと存じます。

 そうでなくても、多くの教会は、看板やホームページ上で「どなたでもいらして下さい」とすべての方を歓迎しておりますから、刺青をしておられる大阪市職員を近隣キリスト教会にお送りいただいても、きっと受け入れられるはず・・・・でございます。

 お送りいただきました職員は、教会にて信仰教育をさせていただき、立派なキリスト者市民として、大阪市役所に教会より派遣させていただきます。このことは大阪市民にとって多大な益をもたらすことと確信しております。ただ、市長様にとっての益となるかどうかは、神のみぞ知るとなることでしょう。地域を愛する日本のキリスト教会の一員として、拙い内容ではありますが、ご提案申し上げました。ご多忙のこととは存じますが、御一考いただければ幸いでございます。


 ※教会の「どなたでもいらしてください」には、「ホンマかいな?」「建前とちゃうんか?」との心のツッコミは教会内外にあるようです。理想論はそうでも、現実にはそれを可能とする成熟した主にある交わりと受容力を持っているかが問われます。取税人、遊女と食事をされた「キリストの体」、それが教会のはずですから、「刺青公務員受け入れ」は初歩的なチャレンジだと思うのですが、どうなんでしょうね?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 13:44 | - | - | - | - |
マルタ依存体質からマリヤ体質へ
  昨日の記事の続編を少しばかり。マルタは牧師や教会員にとっては、よく言えば、頼もしいのですが、悪く言えば都合がよく、便利であります。教会の奉仕は率先してして下さり、行事や活動は次々と予定通りに進みます。

 たとえば、教会の中心がマルタ多数派で、牧師もマルタモード歓迎なら、きっと活発な教会になることでしょう。人も集まり、礼拝人数も増えるかも。でも、教会が建て上げられているかどうかは疑問な場合も。活動主義の教会が陥り易い落とし穴でもあります。活発な活動は、仮想充実感を与えますが、それは実際の結実とは別のことなのです。「何をもって結実とするか?」「何をもって教会が建てあがっていると判断するか?」の基準を明確にして、立ち止まって評価をする必要は常にあるでしょう。マルタモードの一つの問題は、立ち止まることも、自己検証もせず、活動まっしぐらになってしまう危険性。

 マルタ系教会員にマルタモードを継続させると、その多くは、どこかの時点で目的喪失し、自分の信仰や他者の問題でつまづき、三年で離脱。「期間限定マルタ」で終わるようです。そうです。頼もしいから、都合よいからで、マルタモードを継続させると多くが三年の寿命の「期間限定マルタ」となるのでしょう。

 そうなれば、期間限定マルタを、大量消費材のごとく何人もつなぎなら当面の活動を継続するという状態に陥りかねません。「教会の活動は存続するのだけれど、それってどうよ?」との厳しい声はあちらこちらでお聞きします。「とりあえずのマルタ」に、一旦、教会が依存してしまうと、原発地域や沖縄の基地問題のように、そこからの脱却が困難となるのでは?マルタの持つ即効性、依存性の誘惑に教会がどのような態度を取るか?が教会のあり方を決める一要素なのでは?

 現場無視の理想主義的な正論と言われるのは覚悟の上で記しましょう。長い目で見れば、あるいは本来の教会形成を目指すなら、やはり信徒にマルタをさせず、マリヤに育てていくことでありましょう。いわば、マリヤモードの信仰生活の教育であります。

 神様が最優先に求めておられるのは、熱心な教会奉仕者ではなく、真実の礼拝者、器用な実務係より忠実な祈り手、世の知恵に富んだ実用的な人材より、聖書の基準に立って思索判断ができる霊的成熟者でありましょう。本当の意味で教会を建て上げるのはそうしたマリヤモードの信徒ではないでしょうか?

  ここでは、物事をわかりやすくするため、単純化して、対立的に「マルタモード」「マリヤモード」としておりますが、マリヤモードというのは、みことばに聞き入って奉仕をしないあり方ではありません。むしろ、みことばに聞き入った上で積極的に主の奉仕に参与するキリストの者のあり方です。言い方を替えれば、「みことばに聞き入って、心を騒がすことなく奉仕できるマルタ」のあり方とも言えるでしょう。

 一番深刻な問題は、牧師自身がマルタモードに陥ってしまうこと。これは困難な課題です。祈りとみことばに専念するどころか、それを後回しにしてまで活動を優先せざるを得ない状況は深刻な問題でありましょう。確かにマルタかマリヤかは選択の問題ですが、マリヤの選択をすることの困難さは、牧師も同様のこと。

 こうした課題の克服のため、あるいはリアルに高齢化や人材不足で奉仕の担い手がいなくなり、教会行事や奉仕の「事業仕分け」を断行した教会のこともお聞きします。それによって、礼拝の充実、みことばと祈りへの専心が実現したのなら、マルタ依存体質からマリヤ体質への「体質改善成功」と言えるでしょう。

 一方で「事業仕分け」を提案しただけで、各方面から抵抗勢力の攻撃に合い、頓挫したというケースもお聞きします。マルタ依存体質克服の困難さを思います。

 マルタモードの持つ即効性の誘惑、その依存性、一旦依存体質となれば、その克服の困難さ、クリスチャン個人の内にも、教会全体の中にも、根強くはびこるこの課題。まずは自覚したいもの、個人レベルで克服したいもの、さらには教会で共有の課題としたいものではないでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 13:41 | - | - | - | - |
マリヤは一時の恥、マルタは一生の恥?
 ルカの福音書10章の38節以下には、マルタとマリヤのお話しが記されています。結局、このお話しを通じて神様は聖書読者に何を伝えておられるのでしょう。確か、作家の亀井勝一郎氏は「マルタは世話女房タイプで、マリヤは恋女房タイプ」と評したと記憶します。それは見事かつ適切な性格分析でしょうが、神様は「あなたはマルタタイプ?それともマリヤタイプ?」と性格分析を為さりたいわけではありません。

 イエス様ははっきりと「どうしても必要な事は一つ、マリヤはよい方を選んだ、取り上げてはいけない」とおっしゃっています。これが結論で間違いないでしょう。つまり、この話の目的は、性格の類型化ではなく、どちらを選ぶかという選択の大切さを示すことでしょう。静まり主の語り掛けを聞くという最重要行為として、主のための活動に優先して選択するようにと命じているのです。

 そこで思いついたのが、今回のタイトル。

マリヤは一時の恥、マルタは一生の恥

 私たちがマリヤのようだと、教会生活で、マリヤのように「奉仕しない」とか「協調性がない」とか、誰かに叱られたり、悪く言われるかもしれません。でも、それは一時の恥。地上の生涯での期間限定の恥。一方、地上の生涯をマルタモードで過ごしたらどうでしょう?イエス様に再びお会いした時、休みなく主のために働いてきたと自他共に認めるクリスチャンは、再臨の主の前に立っとき、こんな会話になるかも・・・・

再臨のイエス 「あなた一生マルタでしたね」
一クリスチャン「はい、あなたのために休みもないほどに働きました」
再臨のイエス 「その気持ちは、うれしいんだけどねー」
一クリスチャン「厚かましいとは思いますが、忠実な僕だと、褒めていただけないんですか?」
再臨のイエス 「あのねー、あなた、聖書のマルタとマリヤの話、読んだことあるの?」
一クリスチャン「はい、何十回と読んで、メッセージも何度も聞きました」
再臨のイエス 「じゃあ、何で、ずっとマルタしてたの?」
一クリスチャン「・・・・・」
再臨のイエス 「しかも、御言葉を聞いて恵まれても、奉仕しない兄弟姉妹を心の中でずっとさばいていたでしょう」
一クリスチャン「・・・・・全部、お見通しだったのですね」
再臨のイエス 「マリヤの選択をして欲しいと、はっきり聖書で示したのに、私は悲しいです。」
一クリスチャン「少しは、分かっていたのですが・・・」
再臨のイエス 「やっぱり、実行してくれなくちゃーねー」
一クリスチャン「申し訳ありませんでした」

 この妄想の通りの事実が起こるとは思いませんが、少なくとも真理のある一面を表現しているとしたら、やはり、「マリヤは一時の恥、マルタは一生の恥」でありましょう。

 人に悪く思われたくなくて、マリヤに徹しきれず、マルタ化しやすい私たち。
 マルタのように活動に追われ、焦点が定まらず、他者をさばきかねない私たち。
 マリヤであることを主が望んでいると知りなら、時にマリヤになろうとせず、マルタを選ぶ私たち。

 常にみことばを心に主の御心を確認し、正しい選択をしなければと思います。たとえ、一時の恥をかいても、主の御心であるマリヤモードで地上生涯を過ごしたいもの。間違っても、マルタモードで生涯を終えて、主の前で一生の恥をかかないお互いでありたいと願います。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 15:05 | - | - | - | - |
「大きな事を言う小さな男」より「小さな事が実行できる大きな男」

 猫ひろしさんのことではありません。猫さんは大きな事をする小さな男でしょう。一般論として、大いなる夢や希望を語るのですが、実は、自分を大きく見せようとする動機の小さな男がおります。ありのままの自分、等身大の自分で勝負できず、語る内容で自分を肥大化させ、相手に、自分をひるませたいのでしょうか?それとも、自分の劣等感の裏返しとして、相手に劣等感を与えようとしているのでしょうか?

 いずれにせよ、大きな事を言う男性が大きな男とは限りません。小さな男だからこそ、大きな事を言うケースも珍しくありません。小さな男の場合は、大抵その大きなことに達する為の小さなステップをスルーしているもの。夢や野望を語りつつも地道な努力や訓練あるいは準備をないがしろにしていることが多いように思います。

 一方、為すべき小さな事日常的な義務や責任を忠実に果たす男性がおります。大きなことはしませんし、言いません。しかし、地道に小さなことを忠実に果たし続けます。人から評価も注目もされませんが、為すべき小事に忠実であること。これができる人物が、本当の意味での大きな男のように思うのです。「評価や注目もされないような大事」を成し遂げるからです。

 というわけで、クリスチャン男性たるもの、後者でありたいと願います。聖書の「小さい事に忠実な人は大きい事にも忠実」とは、現実的な真理であります。委託された事柄の大小は、本質ではなく、委託された人物の忠実さの有無が決定的なのであります。

 婚活系女子の皆さんは既に経験的にご存知でしょう。大きな夢や野望を語るだけの男性は、やめときましょう。夢を語る男性に恋してしまった場合は交際前にしっかりと観察、チェックが必要。結婚は現実生活です。大事を語るより小事への忠実が優先です。祝福された結婚生活を築き上げるのは、大きな夢やビジョンより、日々の小さな愛の努力の積み上げです。

 「小さなことからコツコツと」の名言は偉大な漫才師によるもの。小事への忠実さの積み上げこそが、真の偉大さに至るのでは?

 男性読者の皆様は余計なお世話でしょうが、ご自身が「大きな事を言う小さな男」か「小さな事が実行できる大きな男」か自己検証されてみてはどうでしょう。

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 15:18 | - | - | - | - |
北野誠の自説に学ぶ「教会外で通用する隣人愛」
 名古屋の方のラジオでは、平日、午後は北野誠さんがパーソナリティーの番組が放送されており、先日、車中で聴いておりました。北野さんは「仕事ができる奴かどうかは、弁当を買いに行かせれば分かる」との持論を熱く語っておりました。

 以前のこと。午後7時からイベントで9時には打ち上げで食事というスケジュール。「小腹がすくから、マクドナルドでいろいろ買ってきて」とマネージャーに一万円を渡しました。帰ってきたマネージャーが、買ってきたのは、ビッグマックとコーラのLのセットが8つほどで、おつりも800円程度。

 北野さんが「何でビッグマックやねん!」と尋ねると「自分が食べたかったから。」とマネージャー。「小腹すいとるのに、ビッグマックはいらんわ。それに、いろいろ買ってきてゆうたのに、同じものたくさん買ってどうすんねん。コーラのL飲んだら、イベントでゲップするわ!」と気の利かないマネージャーに不満をぶつけると、マネージャーは「そんなこというなら、もっと細かく指示して下さい!」と逆切れ。これには、北野さんは呆れるばかり。

 以前にも、別のマネージャーに、番組スタッフ7,8人の弁当を適当に買いに行かせたら、全部から揚げ弁当を買ってきたマネージャーに怒ったそうです。やはり、「自分が一番おいしいと思ったから」との理由。

 弁当はいろいろ買うのが当然、生魚が苦手、フライが苦手の人もいるし、飲み物も炭酸好きもいれば、ウーロン茶党、緑茶党のいる。こうした場合、仕事のできる奴は、いちいち指示されなくても、食べる人の身になっていろいろ買ってくるもの。気の利かない奴はダメと一刀両断でありました。

 「仕事のできる奴は弁当買いに行かせたら分かる」

 これを聴いて思いました。
隣人愛の実践できるクリスチャンは、弁当買いに行かせたら分かるかも」と。

 クリスチャンは実社会で、結構、全部からあげ弁当を買うような失敗をしているのでは?私自身も、職場と家庭での数々の失敗が頭をよぎります。私などは教会生活や神学校生活より、職場や夫婦関係の中で、叱られたり、恥をかいたりしながら、こうした愛の実践訓練をいただいたように思います。思うに、意外と教会外の場の方がクリスチャンにとって愛の実践訓練の場となっているのでは?

 愛は寛容で親切・・・・あの第一コリント13章の愛のリストから分かる事は、愛は相手中心ということ。相手のニーズ、状況に応じて最善を想像し、対応すること。知性を使って隣人を愛するとは、相手の立場に立って考えて判断実行すること。

 北野誠さんが牧師で、信徒が、全員にから揚げ弁当を買ってきたマネージャーなら、きっとこうなるでしょう。

 牧師 「おまえ、全員にから揚げ弁当買ってきて、なんでや?」
 信徒 「自分が一番おいしいと思うものを買ってきました」
 牧師 「何で自分がおいしいと思うものを買ってくるの?」
 信徒 「自分にして欲しいことを人にするようにとの聖書の教えに従いました」
 牧師 「それなー、黄金律を機械的に適用しすぎやろー。自分がおいしいと思うものと、みんなが惜しいと思うものは違うやろー。人それぞれやろーが!」
 信徒 「それなら最初から、適当と言わず、細かく指示して下さい」
 牧師 「適当と言われて、いろいろ買ってくるのが、隣人愛やろーが」
 信徒 「何で、黄金律を実践したのに叱られるんですか?」
 牧師 「心を尽くして、思い尽くして、知性を尽くして隣人を愛するんじゃ。頭使えよ!この場合は、相手の立場に立って、何を食べたいか知性で想像して判断して、いろいろ買ってくるのが、隣人愛だろーよ」


 隣人愛を実践するには知恵や知性の働きが必要です。頭だけ、教えだけ、観念だけの隣人愛だったのが、教会外の現場での試行錯誤を経て、実践的な隣人愛になるのでしょう。未信者の皆様から「クリスチャンだろーが」とお叱りを受け、未信者の皆様の前で「それでもクリスチャンか」と恥をかきながら、クリスチャンたちは、次第に、キリストの愛を一般社会で適切に実践できるようになっていくのだと思います。それは、かなりきついプロセスでもあるわけですが、教会の外で通用する隣人愛の実行者となるためには、避けて通るべきではないでしょう。そもそも教会外で通用しない隣人愛なんて意味あるんでしょうか?

 クリスチャンであっても、一人よがり、観念的、教理だけの愛では、北野誠さんに叱られる仕事しかできないでしょう。北野誠さんの聖書に通ずる持論に、逆切れする証しにならないお粗末クリスチャンで終わってしまいかねません。北野さんの持論には、教会外で、聖書的な隣人愛を実践することのモデルや知恵を教えられたような気がしました。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 22:42 | - | - | - | - |
山本昌投手に学ぶキリスト者感謝のツボ

 球界のお達者後期高齢者、投げるシーラカンス、山本昌投手が、46歳にして、杉下氏を超えて球団最多勝利の新記録を達成。今朝の中日スポーツには、杉下茂氏のコメントも掲載。かつての愛弟子でもあった同投手の記録達成を喜びつつ、このようにコメント。

 「丈夫な体に生んでくれた両親と、ここまで長く契約してくれた球団感謝しなければならないね。」

 昌投手のプロ意識の高さと野球に取り組む姿勢の真摯さ、当人の努力は言うまでもありません。しかし、この偉業達成には、当人の努力や姿勢だけではない、要素があります。それは、丈夫な体という先天性の要素と忍耐と期待に満ちた所属球団の契約継続。当人の体のケアがあっての偉業とは言え、丈夫な体は先天性のものです。当人の努力とは別物。また、昌投手はこの二年は勝利なし、昨年などは一軍当番さえありませんでした。40半ばで二年未勝利なら、普通は、契約はできず、引退か退団移籍。球団のこの二年の契約継続は、温情というより忍耐と期待であったのでしょう。まさに杉下氏のコメントの通り。

 キリスト者の感謝のツボもこれと同様でしょう。 
神の子としてくださった天の父と、ここまで長く契約してくれている神様に感謝しなければならないね。」

 神の子としていただいたのは、自分の努力とは無関係な一方的な恵み。これまで実を結んできたか否かに関係なく、常に忍耐と期待をもって、一度結んだ契約を決して破棄されない主のご真実さ!キリスト者たるもの、やっぱり、これに感謝しなければ。

 この二つに感謝する時、自分の業績などとても誇る気になどなれませんね。お互い、この二つの恵みに感謝しつつ、山本昌投手のごとく、勝利を積み上げてゆきたいものです。

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 10:47 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(1の改訂版)
  (1)を読み返してみて、考察が浅くて、的確でないと判断したのと、別の面からアプローチを思いつき、再度、挑戦。考えたいのは、一回目に紹介したこの名言!

 日本の親は「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは「おまえは人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだ。(作者不明)


 この「後ろ向き名言」の教会向けバージョンであります。

 こちらの聖書箇所は「人をつまずかせちゃダメですよ」と教えるが、あちらの聖書箇所では「おまえは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだ。(作者不明)

 聖書は、「自分が他者をつまづかせること」と「他者が自分をつまづかせること」の両面に言及しております。後者は、字義通りの聖句はないかと思いますが、寛容や赦しなどの教えが、それに相当するでしょう。

 どうも「つまづかせること」と「つまづくこと」とは、表裏一体のようです。成熟して、聖書の言葉の前や他者との関係で自己を客観視できるキリスト者は、あまり「他者をつまづかせ」ないし「他者ににもつまづかない」ものです。両面において、聖書的な態度が可能です。

 しかし、興味深いことに、また、困ったことに、「人をつまづかせる」人に限って「人につまづく」という現実があるように観察します。周囲から見れば、「よくもあそこまで自分を棚に上げられるねー」「みことばを、よくもまあ、そこまで自分がスルーして、人に当てはめられるもんだなー」と、呆れたり、感心したりもします。

 ところが、当人は、本気で自分は人をつまづかせているとはあまり思わず、他者につまづいているのです。理由は簡単、主観的だからです。人は成熟すると自己客観視能力を高めるもの。つまり他者の視点で自分を見るのです。これは、よりよく社会参加するために必要な成熟でもあります。

 教会の交わりも一つの社会ですから、信仰以前にこうした人間的成熟度がないと、教会の人間関係にあっても、自己を客観視できません。ですから、「さんざん兄弟姉妹をつまづかせている自分」は見えないで、「自分をつまづかせる兄弟姉妹」だけが見えてしまいます。当人の主観的な世界では、「自分はまともなクリスチャンで、他のまともでないクリスチャンが自分をつまづかせている」という事実が立派に成立してしまうのです。

 こうしたクリスチャンが、聖書の言葉によって、自分を客観視できるようになるかと言えば、人の罪深さと未熟さは、そんなにヤワイものではございません。客観視とは「他者の視点で自己を見ること」です。しかし、神様も「他者」です。ですから、他者である神様の言葉によって、自己を客観視することは、そもそも基本的にできない方なのです。聖書の言葉と共に働き、真理を悟らせ、真の自己を見せるご聖霊の働きも、こうした自己中な罪深さやかたくなさには、返り討ちにあってしまうもの。

 「どうすりゃいいのよ、この私」と昔のヒット曲の歌詞のごとく自分が悩んで下されば、希望もあるのでしょうが、「どうすりゃいいのよ、あの人」と他者につまづき、他者を問題視されては、ほとほと困ります。

 多分、未熟で困ったクリスチャンとは、「あなたは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と言われたとき、「自分は人をつまずかせていない」と本気で「客観的事実とは異なる主観的事実」を主張するクリスチャンでありましょう。

 「あなたは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」との言葉は、クリスチャンの成熟度の指標になるのかな?と思うわけです。どうでしょう?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 21:29 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(7)
 今日の後ろ向き名言は、ロックバンド「ザ・ブルーハーツ」のボーカルであった甲本ヒロトさん。現在は「ザ・クロマニヨンズ」なるバンドで活動中とのこと。

 「売れているのが、良いもんなら、世界一うまいラーメンは、カップラーメンだ。」

 言うまでもなく、「売れること」と「良いこと、優れていること」は、一定の関係はあっても、かなり別次元のこと。小室、つんく、秋元らのカリスマプロデューサーらは、日本の大衆文化にあって、「優れていること」を「売れること」の手段にまでおとしめた張本人でありましょう。言い換えれば、音楽表現が産業に従属しているのであります。

 ですから、これを現在の日本の大衆文化に適用するならこうなるでしょう。

 「売れているのが、良いもんなら、日本一の表現者はAKB48だ。」

「表現者」を「エンターテナー」に変えれば、異論も減るでしょう。大衆芸術の世界では、売れるとは、その時代と社会に生きる大衆のニーズを満たす商品を提供することであります。決して優れた表現内容が商業的成功に直結するわけではありません。

 キリスト教会も同様で、その時代と社会に生きる大衆のニーズを満たす商品として、福音を提供すれば、「売れる」でしょう。いわゆる「富と繁栄の神学」などは、そうした福音理解と福音提示なのかな?と考えています。甲本ヒロト流に言えばこうなるでしょうか?

 「売れている福音理解が、よいもんなら、今、世界一の福音は富と繁栄の神学だ」

 あるいはこうも言えるでしょう。
 「売れている教会が、良いものなら、世界一の教会は、〇〇教会だ」

 いわゆるメガチャーチが必ずしも悪いとは、私は思いません。ただ、多くの人が救われ集っていることだけが、聖書が示す評価基準のすべてではないでしょう。

 世界一の教会、それはあなたがそこで礼拝をささげ、そこでキリストの体につながり、そこで神と人に仕えるように召されている教会でありましょう。それが、その人にとっての世界一の教会で間違いありません。会員数、会堂の有無や優劣教会や牧師の知名度などは、それとは無関係なはず。

 それから、この名言には、例外があります。つまり、「売れているのがよいもの」が、真実な場合も。その代表例はこれ!

  「売れているのが、良いもんなら、世界一の書物は聖書だ。」

 不敬虔な発想とのお叱りをいただくかもしれませんが、聖書を一書物という商品として見たらどうでしょう?被造物である人類の正しく根源的なニーズを満たすのだから、売れるのは当然。また、神の言葉という他の書物とは異なる究極の差別化に成功しているのですから、ベストセラーも必然。

いずれにせよ、甲本さんの名言は、消費社会にあって、教派や教会の評価までも序列化、ランキングしかねない今日のキリスト者にも有益な言葉なのでは?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 12:02 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(6)
 コンビニで購入した「勇気をくれる後ろ向き名言」は、ネタの宝庫と化しておりますが、第六回目の「後ろ向き名言」はこちら!

 「自信喪失の人は弱い人ではなく、
 変る準備をしている人だ。
 妄信と傲慢の人こそ弱い人だ。」

 これは、私は存じ上げないが著名な方で、宋文洲さんの名言。この方、評論家でコンサルタントなのだとか。

 自信喪失の原因は、このままの自分ではいけないという行き詰まり、あるいは、従来通りのあり方では通用しないという限界などでしょう。ですから、自信喪失しているとは、そうした行き詰まりや限界などの現実の課題を認めて、受け止めていることを意味します。

 自己の行き詰まりや従来のあり方の限界という現実の課題を認めるということは、既に今後の変化の準備段階を意味しているわけです。

 「自信喪失状態≠弱さ
 「自信喪失状態=変化の準備段階

 これは単なる積極思考を超えた真理かと思うわけです。たとえば、ペテロが三度主を否んだ失敗などは、ある意味では弱さなのでしょうが、後の変化の準備段階でもあったと、主の摂理の御手の中では、考えられそうです。

 一方、行き詰まりや限界を事実として認めないことは、従来の自分やあり方への妄信を生み出します。また、事実であるのが明らかな行き詰まりと限界を認めないことは、傲慢を意味します。妄信は現実的な根拠がないのですから、破綻します。傲慢も正しい自己認識や現状分析をしませんから、人を破綻に向かわせます。

 自己の行き詰まりや自分の限界を認められる妄信と傲慢の人、弱い人とはまさにその通りでしょう。ある意味での自分の弱さを認められない人こそ、弱い人なのです。弱い自分の現実に向き合えないで逃亡するのが、本物の弱者でありましょう。

 時には、妄信と傲慢の人が、他者に「これまで通りで大丈夫」とか「ばら色の未来がある」など、妄想と傲慢に基づく言動をします。困ったことには、それらが信仰や聖書の言葉を伴うと、妄想はヴィジョンで、傲慢は信仰の確信であるかのように受け止める方々も。

 牧師などのリーダーが「ヴィジョンキャスターという名の妄想家」や「信仰的確信の人の皮をかぶった傲慢の人」になってしまいますと、被害甚大、被害者続出であります。何と言っても現実的根拠も信仰的根拠もないのですから、一時的には、成功と繁栄と見えても、最終的には、衰退、破綻、逸脱となっていくことでしょう。

 そういうわけで、周囲の方々は、妄想とヴィジョン、傲慢と信仰的確信の判別が必要となるわけです。以上を公式化するとこうなるでしょうか?

 「自己と現状の認識不足→妄想と傲慢→破綻に至る弱さ

 これは聖書中のケースとしては、サウル王のパターンに相当するのでは?

 よく言われるように、人間側の行き詰まりや限界は、神の側のチャンスです。これまでとは違う自分に脱皮する絶好の機会です。それを認めて、脱皮するか?認めず妄想と傲慢の人となり、破綻に至るか?ペテロの歩みをしていくのか?サウル王のフォロアーとなるのか?それは、行き詰まりや限界を突きつけられた時の、お互いの受け止め方次第でありましょう。

自信喪失状態≠弱さ
自信喪失状態=変化の準備段階
自己と現状の認識不足→妄想と傲慢→破綻に至る弱さ

宋文洲さんのこの名言、聖書が示すある真理に共通しているように思えてなりません。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 23:16 | - | - | - | - |
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