命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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 第二回目のテーマは権威についての「動機」。権威、動機は、欲でなく愛ということ。ルカ22:26の最後には「治める人は仕える人のようでありなさい」とあります。この言葉は弟子達が「誰が一番偉いか?」を論じる中でイエス様が語られたお言葉。「真の神を知らぬ異邦人の王は人を支配するが、あなた方はそうでなくて、仕えなさい」との意味かと思われます。姿勢としての「治めるのでなく仕える」「支配でなく奉仕」ということでしょう。

 私はこれを権威行使の側面から、その際の動機に着目して「欲か愛か」という視点から考えてみたいと思います。以下のように比較対照してみました。

(1)欲は好き嫌いに基づき、愛は好き嫌いを超える。

 星野タイガース優勝時のこと、ある選手はこう語ったとか。「星野監督は選手に平等に接する。自分はこの人を胴上げしたいと思える監督に初めて出会った」。人間誰でも好き嫌いはあるもの。相性もあり、相手よって得手不得手があるもの。それを超えて平等に接するリーダーは全員の信頼を得るもの。リーダーの欲になど貢献したくないもの。そんなもの利用されるのは真っ平ご免。しかし、リーダーの愛には人は応答します。

 好き嫌いは欲です。自己中心。好きな者、気に入った者を優遇し、そうでない者を冷遇するのは権威の不当行使。神から委譲された権威を私物化しているからです。神様が愛の方で万人に平等であるように、リーダーも愛によって好き嫌いを克服して全員に平等であるべき。

 平等と言ってもそれは、機械的平等、均一化、画一化ではありません。タラントのたとえのように能力や忠実さ、成長の度合いに応じての平等。機会均等、同一基準による平等。

 正常な牧師は自分が好き嫌いで信徒を扱っていないか?動機は欲か愛か?平等か否かを常に御言葉、祈り、交わりなどを通じて神様に問われるもの。牧師が自己チェックを怠るか放棄するのが、不健全性の第一歩。信徒も牧師の好き嫌い優先が明らかな場合は祈り、愛と柔和な心で指摘する責任を怠ってはならないでしょう。

 牧師のお気に入りだけが用いられ、そうでない者が教会を去るようになれば、それは末期症状。教会は小帝国。実質上の頭はキリストではなく、牧師。心当たりがあれば、この記事を真摯に受け止めてご検討を。

(2)欲は自分のために相手を支配。愛は相手のために自分が仕える 。

 人間は大なり小なり、支配欲、名誉欲、権力欲、自己実現欲、優越感などを持つもの。人の上に立ち、自分が他者を支配し、権威行使をすることは自分のそうした欲求を満足させます。これは権威を自分の欲の満足のために用いること。そして、それは「支配」という形で現われます。

 一方、愛は自分の欲ではなく、相手が中心です。相手が成長する事を願って教えること。相手の益を考えて指導すること。相手の幸せを願って時には叱ること。与えられた権威を愛の動機で、相手のために行使するのです。

 要は、動機は欲か?愛か?その違いは誰のために権威を用いているのか?自分か相手か?につながり、現われとしては「支配」と「奉仕」の違いを生ずるのでしょう。欲は自己中で支配愛は相手中心で奉仕。すべての権威は神様からの委託。自分のものではないのですから、リーダーは他者のためにそれを用いるのです。

(3)欲は機械的、自動的。愛は人格的、対話的

 権威は相手をある程度自分の思い通りにコントロールすることができます。この権威の即効性、自動性の誘惑に負けてしまうと、もう、相手を愛そうとしません。相手を配慮し、思いやる姿勢を失います。すると、リーダーは機械的自動的な従順を相手に要求し始めます。「言ったとおりにしろ」「文句言わずにやれ」となります。

 しかし、相手を愛するなら、人格的な応答としての従順を願います。相手をロボット、機械、手段としません。尊い人格として扱います。相手が自分を信頼してくれ、自分の思いや考えを理解し、受け止め、目的理念を共有し、人格的な応答として、従ってくれることを願います。

 ですから、そこには当然、対話が生まれます。不明点、疑問点は質問を許します。反対意見にも耳を傾けます。それによって、自分の提案や指示を訂正、取り下げる準備もあります。対話を通じて、リーダーもその権威の下にいるものも、共に学び、成長し、よりよいものを目指すのです。

 聖書の示すリーダーシップは「黙ってオレについてこい」という機械的自動的従順を要求するものでなく、「黙らずオレについてこい」という人格的対話的なものだと思うのです。

 対話がなく、リーダーに機械的に従うなら、そこに成長や発展はないでしょう。私は教会に閉塞感があるとすれば、一因はそこにもあると思います。牧師は自分の理念や方針を分かる言葉で説明する責任を果たさない。一方の信徒は深い理解も牧師との理念目的の共有もないままで、牧師に言われるとおりに行動。これは「従順」でなく、「言いなり」です。説明責任を果たさぬリーダーと理解もせずに従うメンバーという組織では双方の成長も組織全体の発展も期待できないのは当然のことでしょう。

 しかし、残念ながら、日本の文化には権威主義への親和性があり、対話、理解、共有なき従順に陥りやすいもの。日本文化は歴史的にも、「お上と下々」と関係が定着。対話をしない上下関係が心地よいもの。対話は面倒くさいもの。牧師も信徒もそのほうが楽で心地よいのです

 日本のクリスチャンたちは、牧師も含めてそうした誘惑に弱いのでは?いいえ、そうした誘惑の恐ろしさを自覚しづらいのでは?さらに申し上げるなら、そうした誘惑に屈してしまっている自覚すらない場合もあるのでは?

 教会によっては「理解できなくても従うのが従順」「指導者に従うに際して質問疑問はあってはならない」「間違っていると思っても従うのが美徳」などの指導が、堂々とまかり通っていることがあります。そうした機械的なリーダーシップをとるリーダーを信徒が望み、賞賛する場合さえあります。

 もちろん、成熟度がなければ、牧師と同じ深い理解と共有に達するのは困難でしょう。それでも、可能な限りの理解のための対話を持ち、その結果として、「個人的には理解不能、反対だけど従う」というのは大人のあり方。しかし、対話自体が許されないなら、それは権威の行使として不当、そして不健全だと私は判断しています。

 聖書を読むなら、神様は絶対者であるにもかかわらず意外にも、あまり「黙ってオレについてこい」タイプの機械的従順を求めてはおられません。自己紹介をなさり、民への熱愛を語り、命令に際しては趣旨説明までなさり、事細かな指示と共に理由や目的も示すなど、かなりしっかり「説明責任」を果たした上で民に従うことを要求しています。場合によっては民に向かい「議論しよう」と招き、自分自身を証人にして「誓約」までなさるこの真実さ!

 私などは、「神様、絶対者なのですから、問答無用で従えよ!でいいのでは?何もそこまでなさらなくても」と思ってしまいます。でも神様はそれ程、神様は私たちを愛しておられのです!それ故に対話を願い、人格的な応答としての従順を願っておられるのです!クリスチャンはここまでの深い熱愛への応答として従うのです。従順の動機は愛への応答であり、愛してくださる方への信頼であります。権威への安易な盲従などではおよそありえないはず。

 そう考えますと「黙ってオレについてこい」「教職への従順は絶対」などの機械的自動的従順を要求する牧師は、「神様以上の絶対者?」ということにもなりかねませんね。「牧師への絶対的従順」などは、牧師を神様、絶対者にすることだと言われますが、私は、それは牧師を神様以上の絶対者としてしまうことだと思います。言うまでもなく、信徒は牧師を神以上の絶対者にしてはなりません。特に牧師が「対話拒否症」「対話不能病」などの場合は、要注意であることを付け加えておきます。

 教会の健全化は教職だけの責務ではありません。信徒にこそ、できる意識改革や方針変換、そして具体的行動があるはず。権威行使の動機は欲か?愛か?リーダーはそれを常に自らに問い続ける責務を怠ってはならないはず。メンバーには、そうでなくなった時に修正していく勇気が必要。それが自浄作用であり、健全化。そして正しい権威行使を守ると思うのです。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 10:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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