命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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簡単・便利!健全権威育成セミナー(3)
 第三回目のは権威の目的です。権威、目的は、支配でなく模範。神様からの権威を委譲されているその目的は、支配ではなく、模範を示すことなのです。聖書は教えます。

「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい」(汽撻藤機В魁

 権威は神様からのもの。牧会指導対象も、神様から割り当てられた人々。どちらも自分のものではないのですから、信徒を支配することも、支配のために権威を行使するのも不当となります。

 この聖書箇所は、直接的には牧師などの教会教職への言葉ですが、同じ原則はあらゆるリーダーシップに適用可能ではないでしょうか?模範を示さず言葉だけで従わせようとする親、教師、上司、先輩などに私たちはどう思ってきたでしょう?

おまえ、やってみー!」「あんたはどうなの?」「自分ができもせんこと、命令すなよ!」きっとそんな心の叫びを発したことが幾度となくもあるでしょう。あるいは、お互いはリーダーとしてそうした応答を呼びおこすようなお粗末な態度をとってしまったことがあるのでしょう。模範なき命令や指示は、心からの応答や従順にはつながらないもの。

 模範を示し教え導くのが聖書示す権威行使の王道。イエス様ご自身も、弟子教育のためには寝食を共にして、全生活を通じて模範を示されました。神様も「私が聖であるから、あなたも聖であれ」とご自分を聖さの模範としながら、ご自身の民に聖さを命じておられます。決して言葉だけの命令、指導ではないのです。

 野田秀(のだしげる)とおっしゃる牧師がおられます。最近は「牧師の責任・信徒の責任」という著書を出されました。これは、私が最近読んだ書物では最高!特に教職にはお勧めです。分かりやすく、実際的で、見落としやすいところを自覚させられ、痛いところを突かれます。現代の牧師の課題に見事に呼応した実用的名著というのが私の評価。

 その野田先生が昔ある集会で、ご自分の一つの転機、大きな取り扱いを神様から頂いた出来事といいうことで、こんな証しをされたのをされたのを覚えています。それは野田先生がある時、信徒から言われた次のような言葉。

「聖められるということがあなたのような人間になるのだとしたら、自分は聖められたいとは思いません。」

 聖めを信仰のアイデンティティーとする野田師にとっては決定的な言葉です。野田先生はこの言葉を真摯に受け止められたそうです。そして、神様からのお取り扱いを受け、この発言は幸いな転機となっていったとか。私などはこの発言を「侮辱だ!」「失礼だろ!」「傷ついた!」ではなく、謙遜にそして真摯に受け止めたこと自体が聖められているのだと思ってしまいます。

 きっと「自分は聖めを説きながら、模範を示していなかったのではないか?」「聖きに生きる模範を示す責任を放棄していたのでは?」「実際の自分の生活が語っている聖さを否定していたのでは、著しい言動不一致があったのではないか?」「模範を示さぬ指導者が信頼され従ってもらえるはずがないだろう」などと自問されたり、神の前に自らのあり方を問われたのでしょう。

 与えられた権威は模範を示すためのものです。模範を示すことによって、信徒に、子どもに、生徒に、部下に、メンバーたちの信頼を得るためです。権威の下にいる人々は、権威行使者の「誠実さ」や「本物度」を願っています。これは正当な要求です。素直な子どもや成熟した大人たちは、誠実で本物なら喜んで従いたいものです。
そして、模範を示しているか否かが、その誠実さや本物度のバロメーターとなるのでしょう。

 権威を行使する側は、「自分は模範を示し、信頼に価するリーダーだろうか?」を常に自問すべきでしょう。多くの正常な牧師は嫌でも自問させられるものです。権威の下にいる側は、模範を示す誠実で正当な権威には従うべきでしょう。一方、そうではない場合に、模範を示すことをお願いし、誠実さをリーダーに求めていくことも、大切かと思うのです。もちろん、自分の事を棚に上げて、リーダーにだけ誠実さを求めるなどは、愚かな自己中。気をつけましょう。

 三回にわたり、「健全な権威の行使と権威への応答」を願って、聖書が示す「権威」について三つの面から見てきました。どんな分野や世界でもこのことは普遍的な原理原則だと思うのです。親子、師弟、上司と部下、先輩と後輩、それぞれの立場でこの記事を活かしていただけたらと願っています。

 もう既に多くの方々が同様のことを指摘し、訴えてきたと思います。権威主義への親和性が強く、不祥事の温床を造りやすく、しかも自浄作用を喪失しやすい傾向を指摘される日本のキリスト教会です。

 とりわけ教会こそが、聖書が示す健全な権威観を基本だけでも全信徒で学び合い、共通理解を形成することかと思います。また、指導者が教育することも、指導者が教育されることの必要も覚えます。

 本来はキリスト教会こそが、不当な権威行使による悪に満ちたこの日本の社会にあって、健全な権威行使、正しい権威の大切さを示していく使命を持っているのですから。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:26 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
いつもながら、適切かつ必要なフォローをありがとうございます。ご指摘のように常に同様に受け止めるべきものではないと私も思います。
| ヤンキー牧師 | 2009/05/15 9:26 PM |
>「聖められるということがあなたのような人間になるのだとしたら、自分は聖められたいとは思いません。」

直接テーマに関係有りませんが一言。

この発言については、慎重に考えなければならない部分が有ると思います。「聖め」の神学や内容はは別にして、「あなたのような人間になる」という表現が何を意味するのかは人によって様々です。その判断が、性格の違いや、理想とするリーダー像との違いから出てくる場合は、画一的な理想像の押し付けが入り込んでいないかを確認する必要が有ると思います。そのようなケースにおいては、発言者のエゴや見識の狭さが問題である可能性も見落としてはいけないと思います。

野田先生が目を開かれる転機となった重要な発言であったという点に心を奪われ、何時でもどんな時でもそのような指摘が有ったら真摯に受け止めようとすると、逆に問題にはまり込むことも有ると思います。
| 細木 | 2009/05/15 3:10 AM |









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