命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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ようやく定まったB’zの評価
 先週の火曜日は所属団体総会で代々木へ。新宿で小田急に乗り換え。当然のごとくにディスクユニオン新宿プログレ館経由となりました。CDは購入せずに買ったのは「証言!日本のロック70’s」というタイトルの書籍。

 これはよかったです。何がよかったと言って、自分の中でB’zの評価が定まったからに他なりません。B’zくらい、自分の中で評価不能なバンドはありませんでした。

 他にはない独自のグルーブ感、キレ。かっこいいです。ギターもボーカルも最高です。でも、どこかロックとしてはうそ臭いわけです。ロックの様式をとりながら、別の音楽をやっているかのような印象を常に受けてきました。

 実に巧妙にして莫大なパクリをしているとの指摘(この世界それが悪いわけではありません)もB’zにはよくありました。ロックによる表現より別の要素を追求しているようにも見えます。売れるのは当然の魅力は認めながら、何か騙されてはいけない要素を感じていました。ただ、それが明確化、言語化できなかったわけです。

 この著書の代一章では、大学教師の井上貴子を司会に、PANTA(頭脳警察)、難波弘之ダディ竹千代の四名が対談。「フォークVSロック」をテーマに対談を開始。

 ダディ氏が「さだまさしやアリスは嫌いだけど、聴くと泣ける、自分は地方出身者だからと告白」。
 難波氏がそれを「それはフォークでなく演歌だから」と解説。
 ダディ氏は「舟歌」や「津軽海峡冬景色」も泣けると評価。
 それを受けて難波氏は「自分は演歌っぽいフォークはだめで、フォークならガロやネコ」と主張。

 そこで井上教授が「許せるフォークと許せないフォークがある」とまとめた上で「では、許せる基準は何か?」と問いかけ。

 難波氏が「フォークの皮をかぶった演歌はだめ」と基準を明示。
 井上教授が「では、ロックの皮をかぶった演歌は?」と問いかけ。

ダディ氏は「チャゲアス」と第一声。
井上教授は「アルフィーとB’zはその典型」と指摘。
難波氏は「B’zはそれを完全に狙って戦略的にやっている」とダメ押し。

 そこまで読んで、私は納得。チャゲアスやアルフィーは分かりやすいし、騙しの要素はおよそ感じられないと思うのです。そもそも元は完全なフォーク系ですし、ロックの様式、フォークのメロディー、演歌のスピリットという三種混合ミュージックであることはかなり明白。

 しかし、B’zは、見抜けなかったのです。「そうか!ロックの皮をかぶった演歌だったのか!」と目から鱗。しかも、それを狙って戦略的に活動をしていると言われれば、「なるほど」と納得。

 つまりB’zとは、ロックの様式を用いて、日本人に受ける演歌スピリットを表現し、大ヒットを連発する最高レベルの産業バンドなのでしょう。もちろんエアロ・スミスのカラオケをバックに北島三郎や森進一の世界を歌っているという単純な構造ではありません。歌詞自体にはあまり演歌性を感じませんが、その背後にある精神性は演歌的というか結構古典的なのでは?もしそうなら、和魂洋才ミュージシャンとも言えるでしょう。

 こうした戦略的成功については、B’zも偉いと思いますが、本当の成功者はプロデューサーや事務所なのかもしれません。ちなみにX−Japanは、「ヘビメタの皮をかぶった歌謡曲」だと思います。

 少なくとも、日本ではロックスピリットと大衆性が両立するはずがないので、日本でロックスターになるためには、あるいはロックミュージシャンとして商業的な成功を収めるためには、こうした音楽的姿勢をとるしかないでしょう。ある意味、B’zやX−Japanは日本社会における典型的成功者と言えるでしょう。

 ただ、両者は多分、洋楽ロックファンには支持されなかったり、違和感を持たれたりしているのでは?と思います。本当の意味でロックミュージックとして優れていることは、日本社会では大衆性を得る事の断念を意味するはじでしょうから。

 「B’zは、ロックの皮をかぶった演歌」

B’zファンの罵声が飛んで来そうですが、私は、難波氏を支持します。そして、それは決して悪口ではなく、高い評価を与えているのだと考えます。大衆に支持される音楽を創造していることは産業的な成功であると同時にやはりそれはミュージシャンとしての成功でもあるのですから。

 でも、もしかしたら、B’zやX−Japanを、その音楽様式から判断して、ロックとして聴こうとしていた自分が間違っていたのかも。もともとPOPか歌謡曲として聴けばよかっただけなのかも知れません。
| ヤンキー牧師 | 音楽 | 11:20 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
「秀作」は「習作」の誤りです.訂正させてください.じゃないと意味が通じにくくなりますので.

しかし,XjapanやB'z,布袋寅泰など,洋楽をもって「世界」に挑んだミュージシャンがことごとく欧米では評価されなかったのに,ビジュアル系が受けてるのは何でしょうかね.マーティ・フリードマンもJPOP好きですし.
あえて欧米を意識しない邦楽のほうが,欧米の人に対しては異質感を,そしてアジアの人には同質感を抱かせることで,意外に魅力的なのかも知れませんね.
| パライソ | 2009/06/03 12:02 AM |
 非常に優れた分析に脱帽です。サブカルチャーをこれだけしっかりと論じられるコメンテーターがいることを誇りに思います。渋谷陽一の著書「ロックはなぜ時代から逃げられないか」を思い出します。日本においては、演歌歌謡曲の魂からの脱皮は極めて困難なのでしょう。記事を何歩も深めるコメント、ありがとうございました。
| ヤンキー牧師 | 2009/06/02 9:54 PM |
「狙って戦略的にやっている」という意見には,私は賛成できません.「ロックの皮をかぶった演歌」というよりむしろ「身も心もロックになりたかったのに皮しかかぶれなかった演歌」「ロックになれなかった演歌」だと,私には思えます.

純粋なオリジナリティというのは,よっぽどの天才しか生み出せないと思います.つまり創作は幾つかの秀作の集合であることがほとんどですし,オマージュとパクリは紙一重だとも言えます.

音楽,とくに聞き手を意識した大衆音楽(ロック,メタルをも含む)の創作に当たっては,作り手がその過去の影響から完全に離脱して創作することはほぼ不可能と考えてよいでしょう.過去に吸収したその人の音楽文化が創作に反映されるのです.

ですから,「ロックになれなかった演歌」も「メタルになれなかった歌謡曲」も,B'zやXjapanが自らの音楽的過去から連続的に生きていることの証明なのでしょう.ただし,もし「狙って戦略的にやっている」のだとすれば,彼らは自らの音楽的過去からの離脱を諦めた,もしくは必要ないと思ってのことかもしれません.

| パライソ | 2009/06/02 9:43 PM |









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