命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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元国際福音の牧師に出会う(2)
 元国際福音の牧師とお話しをして最も教えられたことは「弟子訓練とカルト化」「弟子訓練と権威主義」の関係でした。

 このことは、この牧師と会う以前から明確に考えてきたことですが、まずは、弟子訓練自体が問題ではないということです。日本で実践されたきた弟子訓練には様々な評価はあるでしょうが、それ自体に大きな問題はないと思うのです。少なくとも弟子訓練という理念自体は大変、聖書的であり、聖書が明確に命じていることの一つでしょう。

 弟子訓練を実践している教会の中には、もちろん、その一部ですが、カルト化や明らかに非聖書的な権威主義が見られるようです。弟子訓練を行ってきた牧師自らの不祥事は、私が知っているだけでも、いくつかあります。

 だからといって、「弟子訓練導入は教会をカルト化させる」「弟子訓練を行っている教会は危ない」などの考えはあまりに短絡的。弟子訓練とカルト化、権威主義を十分な思索もなく、安易に結びつけた極めて浅薄な発想と言われざるを得ません。

 では、聖書的な基準で考え判断できる自立した信徒を育成する弟子訓練が、本来はカルト化や権威主義とは正反対のものが、なぜ、こうなってしまうことがあるのでしょうか?

 私の従来の仮説は次のようなものでした。「そもそも日本の文化や日本人の肉性には権威主義への親和性がある→信徒は自主的判断を放棄し、牧師に依存する傾向、牧師は信徒に仕えるのでなく支配管理に向かう傾向がある→その傾向が、聖書的理念の実践である弟子訓練を歪め、本来のあり方から逸脱させている」

 ところが、元国際福音の牧師は私とは異なる見解を伝えてくれました。それは「弟子訓練導入は、教会に本来あった体質を白黒はっきりさせてしまう」というもの。

 つまり、「牧師も信徒も聖書の真理の前には平等、牧師が聖書に従う限りにおいて牧師の権威行使は正当であり信徒は牧師に従う」という聖書的な理念をもっていたり、それを目指そうとしているなら、弟子訓練プログラムはそれを助け、いよいよ前進させるのです。

 しかし、弟子訓練導入によって、信徒は自立して聖書を基準に考え物事を判断するようになります。すると当然、牧師の言動や姿勢が聖書的かどうかも問われます。そこで、聖書的なあり方が建前に過ぎない牧師は、信徒を支配管理する必要が生じます。その結果、弟子訓練プログラムが信徒を牧師に従わせるために利用されていくわけです。

 かくして、弟子訓練にマインドコントロール的要素が混入し、神を除外した権威主義に沿って訓練は実行されるのでしょう。キリストに従うはずの弟子達は、牧師に盲従してゆくわけです。

 白と黒、本音と建前、聖書的と非聖書的、既に教会にあった潜在的な体質が弟子訓練導入によって、いよいよ明らかな形で表面化してくるというわけです。弟子訓練にはそうした作用があり、本当に問題なのは、弟子訓練なのではなく、表面化されていない教会の潜在的な問題だというのです。

 よく考えてみれば、これが正しい見解であるとすれば、とても恐ろしいことなのかもしれません。なぜなら逆に言えば、弟子訓練をしないために表面化していないだけで、著しく聖書的でない体質を潜在的にかかえている教会は少なくないのでは?と考えられるからです。

 慎重に検討されるべき見解でしょうが、私自身は従来の自らの仮説は浅かったと評価して捨て去りました。この見解はしっかりと受け止め、検討していきたいと思っているところです。
| ヤンキー牧師 | 教会不祥事&AERA報道関連 | 08:23 | comments(8) | trackbacks(0) | - | - |
本ブログはコメントでご自身の主張や見解を提示されることは好ましくないと判断しています。また、こうした深い神学的なテーマは取り扱わないコンセプトです。
 しかし、あまりに優れた考察で、読者にとって極めて貴重かつ有用な見解と判断し、例外的に公開させていただきました。

 正直申しまして、私よりはるかに深い考察をしておられるので、教えられ、自分の見解を再検討したいと願っています。また、十分な判断材料をお持ちでなく、コメントを書かれたと理解してしまい失礼なご返答を申し上げた事をお詫びします。とりあえず、私なりの応答を。
 1についてはその通りの面はあると思っています。でも、そうでない教会も多くあると観察しています。いずれにせよ安易にブーム化したことはマイナス評価すべきかと考えています。
2については、ご指摘の通りに標準化された全てのテキストに言えることです。私の主張を正確に表現すれば、「弟子訓練システムが他の標準化されたテキストに比してとりわけ問題があるとは思えない」とご理解下さい。安易に問題視する声への反論ですが、同時に安易に「問題なし」とすべきでないと今回教えられました。
3は、同感です。評価には時間がかかりますね。短期間で量的成長を遂げた国際福音が祝福された群れと評価されたこと自体が間違いであり、表面的極まりないと考えています。間違った評価によって弟子訓練ブームに火がついた面があるのでは?とも考えています。そのことはいつか記事にしたいです。
4は、私がもっとも教えられたことです。今回、初めて、こうした見解をお聞きして、本質を考え直す必要を覚えています。読者の皆さんにも非常に有益な見解を示していただけたことを感謝します。

 本ブログは本来そうした場ではないのですが、確かに弟子訓練について健全な議論はあまりお聞きしないので、本当によい機会となったと思います。

 もし、ご自身のブログ等で今回のコメントと同様の発信をしておられたら、ご紹介することも検討したいので、ご一報下さい。
| ヤンキー牧師 | 2009/06/21 11:10 PM |
昨日コメントさせて頂いた者です。
先生のお返事を拝見して、頷く部分も多々あり、また新たに素朴な疑問を感じた部分もありました。僭越ながら以下にそれを書かせて頂きたいと思います。

1.なぜ「プログラム(あるいはカリキュラム)としての弟子訓練」が必要なのか。

あくまでも私の印象ですが、プログラムとしての弟子訓練を使っている教会は、地道な聖書購読、各書研究、教会史、教理の学びなどにあまり力を入れていないのではないかと感じています。…というよりもむしろ、そういう地道な努力はなかなか報われないので、手っ取り早く判で押したような模範的クリスチャンを養成する手段として「プログラム化された弟子訓練」を利用したくなるのではないかと思います。特に働きが行き詰まった時、打開策として飛びつきたくなる。そう動機で取り入れたということはないのかと、問いたくなってしまうのです。

2.弟子訓練で用いられている教材が「聖書的」といわれる、その根拠は徹底的に吟味されているのか。

これは弟子訓練プログラムに限らず、あらゆる類の「標準化されたテキスト」に言えることだと思います。「聖書的」と言うのは簡単ですが、本当に聖書神学的、教理的、釈義的にそれがバランスの取れた、偏りのない、誤りの極力少ないものと言えるのかどうか、ということです。いわゆる流行の教材やプログラムに飛びつく教会は、往々にしてそういう厳密な検証を怠っているように感じます。ですから私は「弟子訓練そのものは悪くはない」という言い方には、一抹の危惧を感じてしまうのです。「弟子訓練プログラム」の全貌を完全に把握した上でそう言うのであれば理解できますが、果たしてそう言い切ってもよいものでしょうか。あのような事態が発生してもなお、「弟子訓練自体には問題は無い」と言い切って良いのかどうか。
私はその判断には相当の吟味と、今後の展開に対する注意深さが必要だと考えます。それが信徒を守る牧者の責務だと思わされています。

3.現在弟子訓練で成功している教会もあるのは事実かもしれないが、その教会が「今後」どうなるかは分からないという現実がある。

日本で弟子訓練がブームになってからまだ15〜20年くらいだと思いますが、最初期に取り入れた教会の(負の)「実」が、ようやく出てきたのが最近だと思います。遅れて取り入れた教会、最近取り入れた教会が今後どうなっていくかは、注意深く見つめる必要があると思います。というのは、国際福音も、10年前は日本で最も祝された群れの一つと言われていたように思うからです。現在祝されている教会は、国際福音の10年後を後追いしている可能性もあり得るということです。

4.牧師にとって「プログラムとしての弟子訓練」のシステムが権威主義を誘発する危険性を内在しているように思われる

カリキュラムとして行う弟子訓練は、どうしても「到達度」という「はかり」が導入されます。受験勉強ならいざ知らず、そのような「信仰のレベル分け」を牧師はしてよいのか。あるいはできるのか。私が「プログラムとしての弟子訓練」に違和感を感じる最大の原因がここにあるのです。
韓国に端を発する弟子訓練の中には、程度の差こそあれ、必ずこのような到達度による区分けが導入されているように思います。それが問題の核心だと思うのです。そこに、牧師の権威主義が入り込む危険が生じるように思うのです。私が聖書の教えと違うのではないか、と申したのは、まさにこの部分です。

先生が仰られるように、「弟子」という言葉自体は中立的な言葉であり、それ自体が悪いというのではありません。けれども、極論になりますが、イエス様は「あなたがたはしもべ(奴隷)になりなさい」と言われたからと言って、「しもべ訓練」とか「奴隷訓練」とは決して言わないでしょう。

ですから「聖書の中でイエス様が用いられたから」と言って何でも用いて良いというわけではないと思うのです。聞く人にそのことばがどういう印象を与えるのか。しかも、国際福音のあの出来事の後、という文脈でそれを用いることが、どういう印象を与えるのか。

そういったことを特に注意深く吟味し、マイナスの方が大きいとなれば、「弟子訓練」という用語の使用は控えた方が良いのではないか。そう私は判断した次第でした。

長文を書き込んでしまい、大変申しわけございませんでした。ただ、弟子訓練について、なかなか健全な議論ができる場がなかったものですから、これ幸いとばかり書き込んでしまいました。ご無礼をお許し下さい。


| nob | 2009/06/21 10:28 PM |
概念をあいまいなまま、問題提起してはならないと思います。そこで、ご指摘の通り、訂正し、共通理解を図りました。
 「弟子訓練」という言葉自体は、本来韓国の教会で普及していた用語が、日本に輸入されたのだそうです。ある意味日本のキリスト教界にとっては日本語ですが、外来語ですね。私はそれがブランド化されたり、他の教育プログラムと差別化されたのだと現時点では考えています。
 弟子訓練の理念の聖書的根拠はイエス様の「私の弟子としなさい」ですから、牧師の弟子とするための弟子訓練は本来ありえません。間違った動機でそうなったり、歪みが生じて結果的にそうなることはあるでしょう。しかし、弟子訓練プログラム一般についてはその背後に自分の弟子を作りたいという野心があるとは、思いません。事実、牧師やリーダー自身が謙遜に共に学びあい成長しているような弟子訓練プログラムを実践している教会もお見受けするからです。ですから「聖書の教えと違う」と判断するのは、どうかと思います。

 ご指摘の通り「信徒教会」でもいいでしょう。でも、「弟子」という言葉を聖書が命じているのですから、また、韓国では普及している言葉なのですから、その用語自体を否定的にとらえるべきではないと思います。

 日本で親しまれている伝統的な教育プログラムの中には、「弟子」と言う言葉を用いて、弟子育成をしているものもあります。また、「信徒教育」の名の下に、信徒を牧師の弟子やイエスマンに育成しているケースもあるようです。

 不祥事を起こした団体や問題視される面だけを見るのでなく、聖書的根拠、歴史的経緯、日本の諸教会で実践されている弟子訓練プログラムの実際などから、ある程度の判断材料を集めてから、慎重に判断をすべきではないでしょうか?

 そうした意味で「弟子」なる言葉を検討する必要はあるでしょうが、必ずしも否定的に評価すべきではないと考えております。
| ヤンキー牧師 | 2009/06/21 5:56 PM |
「けんさん」さんのコメントの1〜2行目に同感です。
「弟子訓練」の定義はあまりにも広すぎて、使う人によって解釈が180度異なるでしょう。多くの人が弟子訓練を語る時、「弟子訓練そのものは悪いことではない」と言います。本当にそうでしょうか? 「弟子訓練」の定義を曖昧にしたままでそのような用語を用いることが、果たして正しいことでしょうか?と問題提起をしたいと思います。

なぜなら、最も重要なことは「誰の弟子とするのか」ということだからです。聖書の教えは「わたし(キリスト)の弟子としなさい」であって「牧師の弟子」ではない。牧師は信徒をキリストのもとにお連れすることが役割であり、自らは黒衣に徹する。それがあるべき姿だと信じます。そういうことが徹頭徹尾、貫かれていないならば、「弟子」などということばを使うべきではないと考えます。

そのうえで、そもそも「弟子」という言葉の一般的意味を考えるならば、キリスト教サークルの外にいる人は、あくまでも私の印象に過ぎませんが、「弟子」といえば「牧師の弟子」と理解するに違いない、ということも考える必要があります。それは聖書の教えと違うことです。

「弟子」ということばには、そもそもがそういうふうに誤解される危険性をはらんだ用語であって、だからこそ教会は「牧師」「信徒」という用語を生み出したのではないでしょうか。

あえて「弟子『訓練』」という言葉を使う必要がどこにあるのか、解せません。「信徒教育」や「信徒養育」ではなぜいけないのか。なぜ「弟子」という言葉を使いたがるのか。

その背後にあるものは「自分の弟子をつくりたい」という野心ではないかと、問われるべきではないでしょうか。
| nob | 2009/06/20 11:19 PM |
愛と善意をもって改善を提案しても、聖書の言葉の間違った適用によって、門前払いにされるというケース、時々耳にします。カルト化した教会がみ言葉を用いて権威を絶対化したり、正しい批判さえも封じ込むのと基本構造と同じと言えるかもしれません。
 こうした現状が何を意味するのか?どの程度危険なことか?どれほど聖書信仰や福音主義に反していることか?じっくりと考えてみる必要があると思います。
| ヤンキー牧師 | 2009/06/19 8:34 PM |
伝統的な福音派の教会員と
牧師や教会について、
「これは改善したほうがいい」と思うことを話し合おうとすると、

「人を批判してはいけない」とか
「人を裁いてはいけないんだよ」とか
「人は上に立つ権威に従わないといけないのよ」とか言われて、
相手が不機嫌になって会話が終了する、ということを
何度か経験して来ました。

でもいつでも
自分の群れを客観的に見たり、
聖書から外れている、と思ったら声を挙げることが
必要なのだと思わされました。

これからも、色んな人に嫌われたり怒られたりするかもしれませんが、
教会をよくするために、祈って、問題提起はしていきたいと思います。
イエスさま中心の教会になってほしいです。
| ぽぽんた | 2009/06/19 1:55 PM |
 適切なご指摘とフォローをありがとうございます。ここでの弟子訓練は狭義の「弟子訓練」です。「いわゆる弟子訓練」「弟子訓練プログラム」と言い換えてもよいでしょう。「教会などが組織的体系的に行う実践面を含めた訓練」と定義すればいいでしょうか?
 けんさんがお考えになる聖書的かつ広義の「弟子訓練」ではないことは、確かです。記事がより適切になりましたこと、また、読者に一歩深く弟子訓練を考える機会を与えてくださったことを感謝します。
| ヤンキー牧師 | 2009/06/19 1:07 PM |
いつもよい記事を感謝です。

弟子訓練についてですが、ことばの定義が大切かなと思います。いわゆる「弟子訓練」が何を指し示しているのか、今までのものとどこが違うのか。それを見極める必要があるように思います。

日本では、これまであまりにも「教え」が多くて、その実践が足りなかったという声も理解できます。「教えと実践」を組み合わせたプログラムの必要も覚えます。

ただ、私は、「訓練されるのは主ご自身」という思いが強いです。主は、「毎日の生活の中で」みことばに従おうとする神の民を訓練する(ときに40年も!)、それがもっとも大切な「弟子訓練」ではないかと思うのです。もちろんキャンプのような非日常な場も必要ですが。

そして書かれてあったように、いわゆる「弟子訓練」を導入するならば、教える側も、受ける側も、聖なる神の前でその動機と目的を深く探られることが、大切ではないかと考えています。

長くなってすみません。
| けんさん | 2009/06/19 10:12 AM |









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