命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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脱!「みこころの人」伝説(3)
 一昨日の記事、脱!「みこころの人」伝説(1)にアクセスが殺到。今月で初めての人気記事となっている模様。やはり、中心的な読者のニーズはここですか。

 というわけで、聖書が支持する「みこころの人」は死守しつつ、そこから発生し、異教的な言い伝えと化した「みこころの人伝説」の方は、徹底的に崩壊させたいといよいよ決意を新たにしております。

 政界の壊し屋と呼ばれたかつての小沢一郎のごとく、あるいはプロレス界の破壊王、橋本真也のごとく、いやいや、悪魔の牢獄を打ち壊された解放者イエス様に倣って、この「みこころの人」伝説を破壊し、伝説の囚われ人たちを解放したく願う私であります。

 マレ先生には「運命の人と出会うその日まで・・・」というタイトルの著書があります。タイトルだけを見れば「運命の人」という言葉自体が疑問視されます。しかし、冒頭から、運命の人とは、既に定められた宿命の人ではなく、ベストパートナーのこと、という旨の定義が為されています。背景にはもちろん聖書的な価値観があるのでしょうが、この著書での「運命の人」が「神様が定めたたった一人の異性」とは、私には読めませんでした。背景には神の導きや摂理を想定しながらも、固定的ではないダイナミックな人格的な出会いを記しているように思いました。

 JTJの岸先生もかつて、クリスチャン青年たちの結婚問題に対して「みこころなんて言っているからだめなんです」という大胆発言をしておられました。誤解を招くような発言ですが、もちろん「結婚問題から神様の意志を排除すること」を勧めているのではありません。多分、「みこころ」という観念が、逆に神様の導きや自分の選択責任などを見えなくしたり、現実の異性との出会いを実り乏しいものにしている現実があったのではないかと想像しています。

 「みこころ」と言いながらもそこに「おこころ」を混入し、条件を満たさない相手を最初から「みこころ」外に排除。これは「おこころ」>「みこころ」の典型。

 紹介やお見合いの場合、自分のタイプではないのを、祈りもせず「みこころとは思えない」という理由でお断り。これは、神様への責任転嫁、自己責任放棄なのでは?

 このように「みこころ」は「おこころ」すなわち自己中心の最高の隠れ蓑にもなりうるのです。

 逆に、祈り、聖書を読み、教会の先輩などにも相談し、自分の責任と決断でお断りしたのに、「もしかしたら、自分は、みこころの人を退けたのでは?」と不安になるパターン。お気持ちは分かりますが、それが本当に主にある決定なら、自己責任。神様も基本的に支持して下さると思います。

 そもそも、あなたは「みこころかどうか?」が分かる人なのか?今までの人生、不徹底ながらも、みこころを知り、みこころに従って生きてきたのか?そして、みこころに従うことが祝福だとの実体験を積み上げてきたのか?それとも結婚に際してだけ、まるで一夜漬けのように「みこころの人」を求めているのか?それも問われてしまいますね。

 そのように「みこころの人」という観念が、自己中心の隠れ蓑になったり、主にある自己責任からの逃避、神様への責任転嫁などに、用いられることは珍しくないのでは?特に「神様が私のために供えておられるたった一人の異性がいる」という伝説は、まさに「この人は違う」「この人がそう」と、相手の意志に関係なく、自分と神様の個人的な合議が決定権を持ってしまいます。相手も神様と相談しているでしょうに、それってどうよ?の世界になりかねません。

 クリスチャンであっても、私たち人間は恐ろしいほど罪深いもの。無意識、無自覚の内に、「みこころの人」といういかにも信仰的な言葉に、自己中心や勝手、がわまま、甘え、依存心などを、混入させ、都合よく立ち回ってしまうのでは?

 いいえ、むしろ、そうした混入物があることが、問題なのではなく、それを自覚していないことが本当の問題なのでしょう。そうした混入物を持ちながらも、自分が発する「みこころの人」なる言葉を聞き、自らが信仰的になったような気分で自己満足状態に陥ることもあるのでは?私たちはこうした自らの偽善性、闇の深さ、肉性などを認め、悔い改めることなしに、この「みこころご都合主義」を克服することはなくならないでしょう。

 みこころは大切です。しかし、人間側の主にあっての決断、選択とその責任(種まきと刈り取りの原則など)についても聖書は私たちに教えます。前者を強調し、前者ばかりが信仰的とされやすい日本のキリスト教界。後者を強調するとまるで、不信仰か実存主義者のように言われかねない場合も。

 きっと神学的には深遠な問題なのでしょうが、単純な私は両者の整合性のなかで結婚も考えるべきだと思っています。自己責任も主体性もない奴隷的従順でもなく、神を除外した自己決定や自己責任でもない、聖書的なあり方を模索し、実行すべきだと思うのです。

 では、それはどういうものなのか?その一例を明日は結論代わりに記したいと願います。 
| ヤンキー牧師 | 婚活と伴侶選択のために | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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