命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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脱!「みこころの人」伝説(5)
 今日は、みこころ伝説が捨てきれない方のために、あるいは伝説崩壊が始まらない方のために補足とフォローをして最終回とさせていただきます。

 伝説保持と未崩壊の方の中には、聖書的に正しい根拠があり、自分なりの深い信仰体験から、あるいは尊敬する先輩の証しから、一連の記事に対して的確な反論をお持ちの方もあるでしょう。私自身今回の私見が唯一絶対聖書的だとは思っていません。聖書的であることは画一的ではなく多様で豊かな考え方をもたらすことでもあるでしょうから。

 ただ、現実問題として二つのことは記しておきたいと願います。それは二つの責任です。具体的には「相手への責任」と「自分に対しての責任」

 まずは相手への責任から。マレ先生は以前東海青年宣教大会で御奉仕された際、結婚についてはクリスチャンの「みこころの人」くらい迷惑なものはないとの主旨の発言をされました。「みこころだと言っても相手もいるんだから?相手はどうなるの?お構いなしで決めてしまっては困るよねー。」というような内容だったと記憶します。

 「みこころの人」伝説を保持し続けて、ある時、「みこころの人」に出会ったとします。しかし、そのみこころの人が自分に対して「みこころと思えない」「タイプじゃない」「ごめんなさい」「考えられない」「いい人だけと異性として見れない」「嫌いじゃないけど生理的に無理」という応答であった場合、伝説信奉者はどうするのでしょう。

 即時「みこころの人でない」と判断するか、しばらく「みこころなら相手にも示して」と祈り待ち、ある時点でやはり、「みこころの人でない」と判断して諦めるならそれは自立した大人のあり方。

 ところが「みこころの人」伝説信奉者の中には、主観絶対主義者の方もちらほら。「祈って確信を得ている」「み言葉の裏づけもいただいた」との個人的主観的確信に満ちて、相手にお構いなしのアプローチが継続。これはほとんどストーカーです。自己愛的行為です。
 世界はあなた中心でまわってはいないのです。神とあなたの個人的関係はもちろん大切ですが、信仰とは「あなたの隣人を愛せよ」とあるように人間相互の交わりでもあります。つまり社会的な事柄です。主観絶対主義信仰では通用しません。祈りと御言葉の確信によるストーカー的アプローチは、相手への愛に反する行為です。

 「みこころの人」と確信するなら、相手には「みこころの人」らしく対する責任があると思うのです。それは相手の人格と意志を尊重することです。
 

 もう一つは、自分への責任。「たった一人の素敵なみこころの人」を願うなら、自分もそれにふさわしい者へと成長する責任が生じます。「どうしてもボアズ」と願うなら、それもいいでしょう。でも祈り続けるだけで、神様がボアズ与えると思ったら大間違い。祈りの中で、ボアズにふさわしいルツに成長することなくしては、神様はボアズとの出会いを与えることもないのでは?
 飢え死に覚悟で神に従う信仰、神のために生活困難も厭わぬ献身的姿勢、そんなルツに魅力を感じたのがボアズ。そうです。あなたが「ボアズにとってのみこころの人」になる責任を負うのです。

 イサクと摂理的な出会いをしたリベカも同様です。アブラハムの最年長のしもべが、「お見合いおじさん」としてやってきます。最年長ですから「お見合いおじいさん」だったかも。
 そんなしもべの依頼で、リベカは水を差し出しました。旅人や高齢者をもてなすのは当時の常識。ここまでなら、多くの女性は合格ラインでしょう。

 しかし、リベカは「ラクダのためにも」自らすすんで水を汲みにいきました。水汲みは大変な重労働。しかし、聖書は「井戸野ところまで走って行き」と記しています。しかもらくだは複数いたようです。きっとラクダはかなりの量の水を飲むでしょう。大変な重労働です。リベカが何かの報酬を期待していたとも思えません。

 報いを望まないで、愛の配慮をもって、人に仕える女性、それがリベカです。あの根性の曲がったラバンの妹とは思えぬ性格のよさ!もし、紹介やお見合いで、摂理的にイサクに出会うことを願うなら、まずは、ご自分がリベカになる努力を惜しんではならないでしょう。

 何?イサクの前ならリベカになるけど、見知らぬおじさんの前なら、そうはならないって?だめだよーそれじゃー。誰に対してもリベカでなければ、イサクもお見合いおじさんもやってこないでしょう。

 そうです。ある特定の条件を満たす人物を「みこころの人」と特定し、その方との出会いを信じるのは自由かもしれません。しかし、「そのみこころの人にとってのみこころの人、ふさわしい人」に自分が成長する責任を忘れてはならないでしょう。

 以上が私なりに提唱する二つの責任です。伝説信奉者の方、あるいは修正しつつも維持される方には、そのご判断を尊重しつつも、失礼ながら二つの責任があるのでは?と付け加えさせていただきました。

 一連のこのシリーズはある一面的な真理を伝えているに過ぎないかもしれません。ただ、「みこころの人」が伝説化していないかは検証していただきたく願っての連載でした。
| ヤンキー牧師 | 婚活と伴侶選択のために | 09:54 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
 メチャメチャ充実のコメントです。代わりに記事書いてくれんかなー。
 ぽぽんたさんの意見は「あるある」、また同様の思い込みをしたり、されたりした読者も多いのでは?後輩に役立つ体験談ありがとうございます。
 ペンギンさんへ。「みこころ症候群」ですか?いい表現ですね。かなり蔓延しているように思います。はやり薬は人生のすべての局面を聖書的に乗り越える指導ですよね。まさにこれぞ聖書的正論!
 KARASIDANEさんへ。対象者登場までの事前教育!これまた正論。大正解だと思います。クリスチャン家庭の場合は教会より親の使命だろうなとも思います。
 
| ヤンキー牧師 | 2009/06/29 8:28 PM |
若者クリスチャン達の関心事を知りました。我が家の娘二人はクリスチャンで二人とも結婚しています。長女は「私はクリスチャンの男性と結婚したい」と願い付き合っていた男性が信仰を持つまで8年間待ちました。次女は「神様は必ず夫になる人を救ってくださる。ヨハネ3章16節にそう書いてあるわ」と結婚に至りました。二人とも結婚まで性関係は無く、相手の方もそれを理解してくれた事は神様が守ってくださったからに相違ありません。
子供達を導き教えてくれた牧師は「対称になる異性が現れる前に聖書の価値観をしっかり教えなさい。世の価値観に流されないように」と言ってくれました。
| karasidane | 2009/06/29 5:59 PM |
脱!「みこころの人」伝説 有り難う御座いました。

人生の伴侶と出会う、あるういは決定することへの私たちの基本的な心構えをご教示戴いたと理解しております。

さて、ふと思ったのですが、この(不適切な)「みこころの●●」は仕事とか他の人生の重大事でも当てはまる症状なのではないでしょうか?

「みこころ症候群」とでも言いましょうか・・・。

自信を持って人生のすべての局面を「聖書的」に乗り越えてゆく指導が必要なのではないか?と思わされました。
| ペンギン | 2009/06/29 1:42 PM |
僕は、学校でたまたま出会ったクリスチャンの人に、ある日

「同じクラス、同じ部活で、しかもクリスチャンの異性と出会えたというのは、この出会いは偶然じゃないと思う」とか
「あなたの顔とか性格は別にいいと思わないけど
信仰の面では二人はつながっていけると思う」
というようなことを勝手に言われて
傷ついた覚えがあります。

相手の頭の中で、自動的に
「この人はタイプじゃないけど
こういうタイミングでクリスチャンと出会うってことは、
ぽぽんたは運命の人なんだろうな」
という推測が成り立ってしまっていたようです。

日本社会の中でタイミング良くクリスチャンと出会うと、
ドラマチックな運命かもって思って舞い上がりやすいのかもしれませんね。

でも僕は、
みこころだから付き合うとかじゃなくて、
祈りつつ、自分の責任で相手を選ぶ、という意識が大切だろうと思います。
| ぽぽんた | 2009/06/29 10:24 AM |









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