命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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日本的リーダー像>聖書的リーダー像(3)
今回も続けて日本人好みのリーダー像。辛淑玉さんの見解を分かりやすくするために、その特徴を以下の三つに集約してみました。

〇彖枩、先見性は無用で、共同体の利益第一。
内部の恥は隠し、ひたすらお世話。
8桐原則、公平性を無視してまでのトラブル処理。


 日本のクリスチャンたちが、聖書を学び、聖書が示すリーダーシップや教職者像をきちんと持ちませんと、日本人好みのリーダー像がそれに取って代わります。その中心は神様の御心ではなく、信徒の要求であり、実質的には、神に従うより信徒の要求に従うことを、求めることに。

 さらには、教職者自身が聖書的リーダー像を、教えられず持たない場合はさらに危険なわけです。聖書とは無関係の日本的心情から発した「教会員が求めるリーダー像」に牧師が自らをそれに当てはめようとするからです。こうした神より人を恐れるリーダーシップが、どのような教会形成につながるかは、予想がつきます。いよいよキリストの体らしからぬ、人間的利害を中心とした教会となっていくことでしょう。

 
そこで日本的リーダー像>聖書的リーダー像が教会にもたらす問題のパターンを私なりに幾つか考えてみました。

(1)無自覚による逸脱と教会衰退
 信徒と教職の両者が「日本的リーダー像>聖書的リーダー像」になっている場合がこれです。信徒は何の疑問もなく日本的リーダー像を牧師に求めます。牧師もそれに応答するのが愛であり使命であると信じてがんばります。
 熱心でまめで、そうした資質のある牧師はこれをよくこなし、信徒から愛のある牧師、献身的、熱心と信頼や賞賛を得ます。信徒の牧師の関係は外面上、良好となるでしょう。信徒・牧師共に「これでいいのだ」と思っています。

 こうした教会は快適なので、人は集まり、一定肥大することはあっても、実質的な成長が期待できません。牧師も理念や先見性を捨てているので、教会全体が方向性も目的もなく、従来の慣例やプログラムや行事の繰り返しに終始することも。やがて、停滞と衰退を向かえるでしょう。

(2)無自覚ゆえの破綻
 牧師が正しいリーダー像を持っておらず、信徒の要求に応えようと願うのは、(1)と同様。しかし、それに十分答えきれなかったり、「何か違うぞ」と思いながらも「何がどう違うのか」を言語化できず、信徒にも伝えられず、ひたすら苦悶し続けます。
 信徒の要求に応えきれず、対立関係に入ったり強いストレスにさらされ続けたり。そして、心身の病により休職や異動。
 牧師が聖書的なリーダー像を一定持っていれば、自覚も言語化もできて、状況は変化したかも?と悔やまれるパターン。何が何でも神学校などの準備段階で聖書的リーダーシップや教職論は、教えていただきたいと願うばかり。
 
(3)妥協による召しの喪失
 牧師は正しいリーダー像を持っています。しかし、信徒がそれを望まず、逆に拒否するケースです。信徒は牧師に聖書とは無関係の日本人好みのリーダー像を要求。牧師はそれに快く応じようとしません。
 そこには対立関係が生まれ、牧師にとっては大変なストレスに。あたかも圧力団体のように牧師に不本意な要求をする信徒。ストレス回避や取りあえずの平安のために、正しい信念を曲げてしまう牧師。数回の妥協が将棋倒しのように次なる妥協を生み出し、結局は、日本的リーダー像を演じ続けるはめに。
 「何をしているのかわからない!」「こんなことのために献身したんじゃない!」などの叫びの原因の一つにはこうした要素もあるのでは?こうした妥協は教職者の召しを見失わせ、惰性での使命継続に変質させかねません。

(4)妥協なき決別
 それでは、妥協しなければいいのでしょうか?妥協しなければ、事態が好転するほど、日本人の肉性を甘く見てはなりません。忍耐強く、信徒を愛し、未熟な面も受け入れながら、共に成長するような関係をつくれないと、妥協しないことは対立の深刻化を生み出しかねません。牧師と信徒の両者が長期間にわたり教会に留まること自体が困難となるでしょう。

 妥協すれば召しを喪失させ、妥協しなければ決別に向かわせる。真に恐ろしきは、この「日本的リーダー像>聖書的リーダー像」。短期間でどうにかなるものではないでしょう。長期間を要してでも、忍耐強く聖書から学び続け、語り続け、教会の体質を変えていく王道しかないだろうと私は考えています。

 私の知り合いの牧師には、「生涯をかけてでも、この教会の体質を聖書的にしてから、次の牧師にバトンタッチしたい」と明言する方、「辞表を常に内ポケットに忍ばせながら、教会の体質改善に労苦している」という噂をお聞きする牧師たちも少なくありません。 

 今回のシリーズには私の決めつけや妄想も多くあるのかもしれません。しかし、読者の皆さんにはどうか「自分の牧師に対する要求が聖書的に正当かどうか?」は自己チェックしていただきたいと願うのです。それに際して、「日本的リーダー像と聖書的リーダー像どちらを願っているか?」を評価基準としていただければ感謝。
 
 また、教職などリーダーの方々には、これまでの違和感の明確化・言語化のお手伝いができればと願いますし、召しや正しいリーダー像を見失いかけていた方にとっての回復のきっかけになればと願っています。

 「聖書が示すリーダー像は何か?」はもちろん大切。でも「何でないか」を知り、「そうでないもの」を要求したり、その要求に応答して演じていることの自覚も、それに劣らず重要なのではないでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 07:46 | - | - | - | - |
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