命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< 本ブログの限界と可能性 | main | 状況に勝ち得ぬタイプの信仰 >>
信仰者の反知性主義は神をも殺す
 昨日に続いてこちらの記事から教えられた事を記します。

「知力も重要である」のらくら者の日記
http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-e7f0.html
 土曜日も二つほどフォローの記事が・・・・。

 現実に痛んで戦っている教会を事例研究の材料のようにしてしまうのは心痛みますが、クリスチャン読者の皆さんにはご自分の所属教会のような気持ちで受け止めていただきたいのです。

 こちらの記事の現場となっている某教会。今までのブログ記事から察するに前任牧師の不正や罪が複数発覚した中での総会であったようです。教会の存続や聖さが問われるのは当然でしょう。教会全体としては健全な判断ができたようですが、ブロガーにとっては驚くほど不健全な声があったもよう。信仰者も反知性主義に陥るとこうした過ちを免れることは困難かと思われます。

 クリスチャンであるなしに関係なく、知性を用いて人は通常以下のようなプロセスを踏みます。
(1)知性を用いて、起こっている事実を観察する
(2)知性を用いて、それについて思索する
(3)知性を用いて、それについての判断、評価を下す

 しかし、反知性主義に陥ると思うに以下のようになるのでは?

(1)まず事実を直視しない
 自分に都合の悪い事実自体を認めません。あるいは「事実などどうでもよい、○○が大切」などと主張します。極めて主観的になります。場合によっては、ありもしない別の事実を作り上げることも。

(2)それについて思索しない
 事実を事実として認めないのですから、当然思索などしません。思考停止状態、思索放棄に入ります。そもそも考えたくないから、考えた結果が好ましくないと予想されるので、事実を認めない場合も。

(3)結論は最初から決まっている
 (1)(2)のプロセスを飛ばしているということは、最初から結論が決まっているのです。言い換えるなら、そこに到達するためには(1)(2)は邪魔なのです。知性を用いない結論に達するためには、知性を用いたプロセスは排除せざるを得ません。

 かくして、神より知性を与えられた人類が為すべき、「事実認識→思索→判断・評価」というパターンは逆転されるのです。つまり「先に結論ありき→思考放棄・思考停止→事実不認定・事実無視」となるわけです。これが反知性主義のパターン。

 これは恋愛にはよくあること。「恋は盲目」の通り、恋愛は人を反知性主義に陥らせます。まず、現実の相手を認識しません。自分の理想を投影して幻想の相手を見ています。現実認識がないので、結婚対象として適切かどうかの正しい思索ができません。知性でなくムード、ノリ、フィーリング、性欲、愛情欲求などが決め手になることも。先に結論が出ているので、考えて判断する気など最初からない場合も。

 まさに「結婚したい、愛されたい→別れる選択を考えない→相手の現実を見ようとしない」というパターンは「先に結論ありき→思考放棄・思考停止→事実不認定・事実無視」と同様。かくして反知性主義の恋愛者は不幸な結婚と家庭を形成し、次の世代まで犠牲にすることも。

牧師の信徒の関係もこうした恋愛と同様になることが。信仰とは本来、盲目どころか真理に開眼すること。しかし、不健全な信仰は人を盲目にします。いいえ、キリストでなく指導者につながっている信仰は恋愛同様、その信仰者を反知性主義に陥れます。

 「牧師の立場や名誉を守る」あるいは「組織を守る」という先に結論ありき。そのためには知性を用いての思索は放棄。牧師についての問題とされる事実は黙殺、不認定。あるいは事実が大切でないという主張が生じます。まさにこれが反知性主義のパターンであります。「先に結論ありき、思考停止、事実を直視しない」?そんなこと教会では「ありえんだろー」と思うのですが、ある時はあるのです。しかも、この典型的なパターンで。

 よくよく考えてみればこれは、人類が最大の罪を犯したときのパターンではないでしょうか?「キリストを十字架につける」の結論ありきとなった群集たち。ピラトの無罪との判断に対しては思考停止、思索拒否。そうです。そもそもイエス様がローマ法において、死罪に相当する罪があるかないか?という事実などどうでもよかったのです。その証拠に群集は「たとえ無罪でもいいから十字架」と暴動をちらつかせて、権力者ピラトに要求し、最後には押し切りました。

 イエス様をローマからの解放者として大歓迎した群集は、宗教指導者たちに扇動され、群集心理の中で、反知性主義の典型パターンへ。「十字架刑の結論ありき→死刑の妥当性についての思索拒否→無罪の事実を黙殺」。

 知性は一定レベル犯罪行為の抑止力となります。知性を放棄するなら、人間のそれは野獣の鎖を解き放つようなもの。

 2000年前、反知性主義は人間の罪の力を解き放ち、神ご自身を殺しました。それを扇動したのは仮にも真の神を信じる宗教指導者であり、最終的に十字架刑に至らしめたのは、これまた真の神を信じる信仰者たちでした。

 今日、教会指導者も信徒も、同じパターンを踏襲し、同じ罪を犯さない保証はどこにもありません。いいえ、2000年前の信仰者たちは、キリストご自身を殺したのですから、今日、信仰者が、キリストの体である教会を傷つけたり、そのいのちを破壊することは、大いにありえることではないでしょうか?

 反知性主義がどれ程、恐ろしいものかが分かります。それに陥った信仰者はを殺し、キリストの体をも殺しかねません。

 「最初に結論ありき→思考停止・思索拒否→事実黙殺

 これは、反知性主義のパターンであり、クリスチャンにとっては、神をも殺してしまった、そして、今もキリストの体を殺しかねないいわば「悪魔の必勝パターン」であることを肝に銘じるべきではないでしょうか?その意味で改めて、訴えたいです。「反知性主義との決別」を。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 08:52 | - | - | - | - |
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>
+ RECOMMEND
+ RECOMMEND
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ RECENT TRACKBACK
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE