2010.03.20 Saturday
妻:夫=教会:国家
またまたブログ「のらくら者の日記」に、どうしても紹介したい記事を発見。この記事、基本的には後藤敏夫先生の書物を紹介。私自身も後藤先生の書物からは何度か(特に社会的責任について)教えられてきた一人です。
まずは記事をお読みください。
http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-194d.html
この記事をお勧めする理由は二つ。一つは結婚関係について聖書的で深い示唆を与えているから。もう一つは聖書的で健全な権威の教理と行使について教えられるからです。本ブログおなじみの「結婚」と「牧師不祥事」という二つのテーマについて同時進行的に学ぶことができるでしょう。
聖書が命ずる「従う」が「愛の故に従うこと」であり「言われた通りにすること」「いいなりになること」ではないということ自体が、理解できていないクリスチャンは驚くほど多いです。クリスチャンホームの中高生はこのことを教えられておらず苦しんでいますし、未信者の夫を持つ既婚者クリスチャンも、明確な教理理解ができておらず、混乱していることが本当に多いですね。
神から委譲された権威の明らかな誤用乱用、不当な行使に対してはこの記事にあるように「祈って『否』と言うことが御心」であると、私自身も理解しています。つまり不当な権威行使に対しての抵抗や不従順が神への従順となる場合もあると考えるのです。
パロの命令に反して男の赤ちゃんを活かした助産師、王の命令に反して礼拝をささげたダニエル、「この名によって教えてはならない」との当局の命令に反して宣教した弟子たちの記事へとそれへの是認は、こうした信仰理解を支持する根拠になると考える私です。
本ブログ的には「クリスチャン妻:ノンクリ夫=日本の教会:日本の国家」という視点からの考察は、本当に教えられます。また、この記事は「権威と従順」全般に応用できるため、牧師と信徒、教会とクリスチャン個人という関係にも当てはめるべき原則となるでしょう。
しかし、この記事を私が絶賛したい理由は後半の記述であります。ここに記されていることは「権力全般に対して、対立軸を前提とした発想をしてしまうことの非聖書性」に対しての危惧や警告かと思います。
信仰の自由を脅かす国家権力、妻に暴力を振るい悔改めの実を結ばぬ夫、与えられた権威を乱用する牧師、極度に権威主義的な教会・・・・。今の日本社会、家庭、教会には「否」を言うべきケースも多々あるでしょうし、そうすべきだと思います。
だからと言って、立てられた権威に対して「愛の故に主にあって従う」姿勢を失ってしまっては、逆の意味で聖書的でなくなってしまいます。
根拠なく国家権力に対立する教会、未信者の夫を軽蔑するクリスチャンの妻、牧師の正当な権威を認めぬ信徒、教会の聖書的権威を軽視する教会員・・・・。これもまた、神様の御心から大きく逸脱することでしょう。
盲目的従順でもなく、敵対的姿勢でもない、その両極の間にある「愛の故に主にあっての従順」。国家や政治の問題から、夫婦関係や牧師不祥事、教会のカルト化問題に至るまで、クリスチャンたちは常に、聖書が示す「愛の故に主にあって従う」という基本原則、基本姿勢を決して忘れてはならないでしょう。
最近、年下の優秀な牧師とお話をしていて同じような指摘を受け、私自身大いに考えさせられました。特に今後福音派内においては、「権威と従順」についての信仰理解が成熟し、聖書的な人権意識や個人の主体性と責任が強調されることが予想されます。しかし、罪人である私たちは、逆方向の極端である聖書的権威とその行使への不従順や聖書的根拠なき権威への恒常的対立姿勢に陥りかねないことを危惧します。
その意味でも聖書的ストライクゾーンを明確に伝えるこの記事、超オススメです。
まずは記事をお読みください。
http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-194d.html
この記事をお勧めする理由は二つ。一つは結婚関係について聖書的で深い示唆を与えているから。もう一つは聖書的で健全な権威の教理と行使について教えられるからです。本ブログおなじみの「結婚」と「牧師不祥事」という二つのテーマについて同時進行的に学ぶことができるでしょう。
聖書が命ずる「従う」が「愛の故に従うこと」であり「言われた通りにすること」「いいなりになること」ではないということ自体が、理解できていないクリスチャンは驚くほど多いです。クリスチャンホームの中高生はこのことを教えられておらず苦しんでいますし、未信者の夫を持つ既婚者クリスチャンも、明確な教理理解ができておらず、混乱していることが本当に多いですね。
神から委譲された権威の明らかな誤用乱用、不当な行使に対してはこの記事にあるように「祈って『否』と言うことが御心」であると、私自身も理解しています。つまり不当な権威行使に対しての抵抗や不従順が神への従順となる場合もあると考えるのです。
パロの命令に反して男の赤ちゃんを活かした助産師、王の命令に反して礼拝をささげたダニエル、「この名によって教えてはならない」との当局の命令に反して宣教した弟子たちの記事へとそれへの是認は、こうした信仰理解を支持する根拠になると考える私です。
本ブログ的には「クリスチャン妻:ノンクリ夫=日本の教会:日本の国家」という視点からの考察は、本当に教えられます。また、この記事は「権威と従順」全般に応用できるため、牧師と信徒、教会とクリスチャン個人という関係にも当てはめるべき原則となるでしょう。
しかし、この記事を私が絶賛したい理由は後半の記述であります。ここに記されていることは「権力全般に対して、対立軸を前提とした発想をしてしまうことの非聖書性」に対しての危惧や警告かと思います。
信仰の自由を脅かす国家権力、妻に暴力を振るい悔改めの実を結ばぬ夫、与えられた権威を乱用する牧師、極度に権威主義的な教会・・・・。今の日本社会、家庭、教会には「否」を言うべきケースも多々あるでしょうし、そうすべきだと思います。
だからと言って、立てられた権威に対して「愛の故に主にあって従う」姿勢を失ってしまっては、逆の意味で聖書的でなくなってしまいます。
根拠なく国家権力に対立する教会、未信者の夫を軽蔑するクリスチャンの妻、牧師の正当な権威を認めぬ信徒、教会の聖書的権威を軽視する教会員・・・・。これもまた、神様の御心から大きく逸脱することでしょう。
盲目的従順でもなく、敵対的姿勢でもない、その両極の間にある「愛の故に主にあっての従順」。国家や政治の問題から、夫婦関係や牧師不祥事、教会のカルト化問題に至るまで、クリスチャンたちは常に、聖書が示す「愛の故に主にあって従う」という基本原則、基本姿勢を決して忘れてはならないでしょう。
最近、年下の優秀な牧師とお話をしていて同じような指摘を受け、私自身大いに考えさせられました。特に今後福音派内においては、「権威と従順」についての信仰理解が成熟し、聖書的な人権意識や個人の主体性と責任が強調されることが予想されます。しかし、罪人である私たちは、逆方向の極端である聖書的権威とその行使への不従順や聖書的根拠なき権威への恒常的対立姿勢に陥りかねないことを危惧します。
その意味でも聖書的ストライクゾーンを明確に伝えるこの記事、超オススメです。

