命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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本ブログ紹介の教会が「リバジャパ」に掲載
 「リバジャパ」の最新号で本ブログで紹介した某教会が取り上げられています。そもそもなぜ、この教会をブログで紹介したかといえば、「牧師と信徒の関係が聖書的で理想的と評価したから」です。そしてリバジャパさんも本ブログを通じて某教会を知り、取材されたようです。

 以下の記事がそれらです。某教会の信徒は「褒めすぎ」「褒め殺し」との感想のようですが、私は自信をもって賞賛します。以前に取り上げた際の記事は以下の通り。

 牧師と信徒これが見本かも(1)
http://blog.chiisana.org/?eid=1273208
 牧師と信徒これが見本かも(2)
http://blog.chiisana.org/?eid=1273224
 牧師と信徒これが見本かも(3)
http://blog.chiisana.org/?eid=1273225

 記事の冒頭がスゴイです。
 「北海道は十勝地方・帯広市に、「牧師にさほどカリスマ性が無いのに、教会員がビジョンを共有して成長を続ける教会」があるとの噂を聞きつけ、取材に行って来た。」

 この「さほどカリスマ性が無いのに」というのが、かなり失礼(笑)ですね。でも、私は申し上げたい。某教会の牧師は「さほど」どころではありません。「全く」カリスマ性がありません!これは最高の褒め言葉です。実に聖書的なリーダーシップの一類型を体現している牧師として私は尊敬しています。

逆に言えば「成長している教会の牧師はカリスマ性がある」という固定観念が日本の教会に定着していることの方が、大問題だと思うのです。そういうリーダーを願い、そうした指導者に心酔する体質こそ、日本のクリスチャンが悔改めるべき一つだろうと常々感じています。

 実は牧会ジャーナル最新号にはリーダー自身も信徒も「強いリーダーシップ」を願うことの問題点や落とし穴を扱った記事があります。この記事については後日、是非とも取り上げたいです。

 リバジャパの記事は、ビジョンを明確に示しつつも、忍耐と時間をかけて教会全体で共有し、具体化していく、実に聖書的かつ教会論的なリーダーシップが示されています。

 私は一部の牧師や信徒は、「神が選んだリーダーにヴィジョンが示され、神の民はそれに従う」という旧約時代の単純なパターンをそのまま移し変えたようなリーダーシップ論を聖書的と信じているのでは?と心配になります。教会の時代の牧師のリーダーシップは、教会政治によるでしょうが、そうした単純なパターンではないと思います。

 牧師に与えられたヴィジョンは尊重されるべきでしょうが、共同体の中で吟味され、修正や延期や取捨選択されるべきかと考えています。なぜなら、牧師も罪人であり、牧師自身も「みこころ」と「おこころ」を混同しやすく、旧約時代のように個々の事例についての具体的なみこころを伝え聞くことがないからです。何より牧師は教会の頭ではなく、一器官であり、交わりに生きる一人だからです。

 個人的に祈って思いついた事を、神からのヴィジョンと称して、尊い献金をつぎ込んでまで実現する牧師。ヴィジョンなる言葉を使い、自己実現をこともあろうに教会の場で献金用いて具現化する牧師。いないと信じたいのですが、極一部おられるようなお話しもちらほら。それは教会私物化。信徒迷惑、神様悲劇です。

 あるヴィジョンを発表し、「教会が賛同しなければ辞任する」というのも、考え物。その言葉どおりでないこともあるので、真に受けてはなりません。信徒を意のままにコントロールするためにその言葉を使う誘惑は多くの牧師にあるようです。

 また、「牧師である自分が最終的に責任を負うから、認めて欲しい」というのもおかしいです。責任は教会全体にありますから。これでは牧師が教会論的でありません。ひとりよがりはやめましょう。野田秀先生の「牧師の責任、信徒の責任」読んでください。

 また、ヴィジョンが実際に神様からのものであっても、教会全体で共有する努力をしなくては、ヴィジョンが教会形成にマイナスになることも。つまり「やりたい教会員だけやる」ことになり「教会全体のヴィジョン実現」にはならないのです。こうしたヴィジョンを進め方をすると、願い通りに実現しても、教会は牧師賛同派と牧師批判派に二極化し、牧師自らがヴィジョンを実現を通じて教会を分裂の危機に導くこともなきにしもあらず。

 さらにはこうして大量の信徒が教会を出てもなお、ご自分の非に気がつかぬ牧師先生もおられるように、一部の信徒さんからリポートをいただくことも。

 ワンマンな牧師が与えられたヴィジョンを丁寧に時間をかけて教会全体に説明もせず、共有しようともせず、「黙って俺について来い」は聖書的とは私は思いません。それでついていく信徒も「牧師に心酔しているだけ」で「本当にキリストにつながっているのか?」心配です。逆に、信徒がはっきりと異を唱えることなく、いやいや承認し、やがて教会を去っていくのもキリストの体の一部としては無責任な態度かと思うのです。

 しかし、私が一番問題だと思うのはこうした非聖書的なリーダーシップによって、教会が量的に大きくなる場合があることです。もちろん、それは本当の意味での教会成長ではありません。「不健全な肥満」でしかありません。しかし、残念ながら、そうした教会形成をした牧師が評価されたり、そのリーダーシップが聖書的かどうかの吟味も無く、模倣されてきた面もあるように思うのです。

 私は「黙らずオレについて来い」で牧師と信徒が与えられたヴィジョンが御心であるかどうか共に祈り求め、語り合うことが聖書的で教会論的なリーダーシップかと思います。

 その意味で某教会の牧師と信徒の関係、ヴィジョンの共有と具現化は、参考なると思います。著名牧師や名門教会や大規模教会ではない「誰もが手の届くモデル」として、現地(遠くて寒い!)に視察に行かれることもよいでしょう。この教会での二泊三日の奉仕と交わりは、私にとって日本の教会の未来への希望を与える体験となりました。

 何と、太っ腹!この貴重な記事の全文が「リバジャパ」のサイトでお読みいただけますぞ。他の記事も今回は充実ですから、このサービス精神に応答して「リバジャパ」購読しましょう。
http://www.revival.co.jp/2010/09/post-115.php
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 18:09 | - | - | - | - |
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