命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「牧師絶対服従理論」は聖書的か?
 聖書的リーダーシップの形態はきっと多様なのでしょうが、一つ考えて見たいのがタイトルの内容。一例を挙げてみましょう。

 A「牧師の言葉には、間違っていると思っても従うべきです
 B「本当に間違ってもですか?信徒は修正をお願いすべきでは?」
 A「牧師が間違っていたら、神様ご自身が牧師を正し、罰します信徒は責任がないのですから黙って従えばいいのです。」
 B「なるほど、よく、わかりました。そうします。」

 日本のキリスト教界では、「なさそうでありそうな会話」ではないでしょうか?目に見える指導者に従うことを通じて、私たちは神に従うことを学び訓練されます。これは大切なことでしょう。しかし、それは指導者の権威の行使が神にあって正しい範囲においてのみと考えるのが聖書的でしょう。すべての権威の付与者である神が許容しない権威の行使は、それ自体が不当なのです。

 私もかつて信徒であった一時期は、これに準じたことを聞かされかなり本気で信じていました。そう信じることで自分の献身度を確認していたほどです。間違った命令に従っても自分に責任はないと無責任にも考えていたのです。何と不健全な!今考えると恐ろしいです。

 これを「牧師絶対服従理論」と名づけましょう。これは「神→牧師→信徒」という極めて単純化された権威のヒエラルキーによって、「下の者は上の権威者に絶対服従。上の権威者(牧師)が間違っていれば、さらに上の権威(神)によって罰せられる。神は完全で過ちがないから、牧師の過ちはすべて適正に神によって罰せられる」という理論でしょう。

 まず、このヒエラルキー自体が聖書的かどうか疑問です。確かに牧師は神が立てた権威でしょうが、「神→牧師→信徒」という序列は単純化しすぎでは?これは聖書の権威論を単純化、再構築し、非聖書的な従順を信徒に強いる結果になりかねないのでは?

 さらに言えば、牧師の権威の乱用による悪を神が直接裁くというのは何を意味するのでしょう?牧師にが落ちたり、病気で倒れたり、不祥事で失脚するのでしょうか?そうした直接介入的「天罰」でも下るのでしょうか?

 そもそも権力の不当行使による悪を神が直接罰するのなら、警察はいりませんし、国家権力も不要です。ですから、こうした「牧師絶対服従理論」は「教会における無政府主義」「チャーチ・アナキズム」と呼ばれるべきだと思います。自分の権威を主張しながら、教会の権威を否定しているようなものです。牧師自身による教会の権威と秩序の否定、あるいは乗っ取りであります。

 神様は国家権力や警察を用いて、悪の抑制をされます。同じように、牧師の不当な権力行使が生み出す悪への罰も、神様は教会を用いられるはず、教会に付与された権威を用いられるはず。それは教会や団体の規則に定められている場合がほとんどでしょう。

 実際にどうでしょう。こうした単純化したヒエラルキーによって「牧師絶対服従」理論を展開するリーダー達はその大きな不祥事を直接、神様から罰せられて、悔改めているでしょうか?

 まず、教会が正しく裁けません。あるいは正しく戒めても、それを拒否します。団体からの指導を拒否する場合や団体が除名をしてしまい指導ができないことも。つまり、教会の権威が機能しなかったり、機能しても、その権威に服する事を拒否したりです。最終的には仕方なく、裁判になったり、マスコミに取り上げられたりとなるのではないでしょうか?

 「神が裁くから信徒は黙って・・・」の結果は、最悪の場合罪の放置です。教会の権威が重んじられないのですから、神様も適正に裁けない結果になっているではありませんか。これは論より証拠です。牧師不祥事とそれに対しての自浄作用喪失の根底には、こうした「牧師絶対服従理論」が潜んでいることも多いのでは?

 さらに教会論に考えれば、「牧師絶対服従説」は、牧師を教会の交わりの外に位置づけることになると思うのです。牧師は牧師である前に一クリスチャンであり、教会の一員です。教会の交わりに生きるべき一人です。教会の交わりの機能の一つは「戒め合い」「罪を告白し合う」ことです。もし、「牧師は信徒から戒められる必要も罪を認めて告白する必要もない」と主張するなら、それは「牧師は教会の交わりに生きなくて良い」「信徒も牧師との交わりに生きなくて良い」と言っているも同然。

 まさに牧師は特権階級であり、安全地帯にいることになります。信徒から戒められず、罪や過ちを指摘されなければ、牧師はけっこう簡単に自分を見失います。「聖書を読んで神様の前に生きれば、大丈夫」というのは交わりに生きない非聖書的考えです。

 「教会で最も悔改めるべきは牧師なのでは?」
 「教会で最も戒められるべきは牧師なのでは?」
 「教会で最も交わりに生きていないのは牧師なのでは?」

 私は、そうした指摘をどれだけ賢明で謙遜な牧師たちから聞いてきたことでしょう。

 「牧師が間違っていても黙って従うべき」
 「牧師が間違っていたら神様がさばくから
 「信徒は黙って従っていればよい

 強いリーダーシップやカリスマ性を願う信徒と、そのニーズに応答してしまう牧師たち。あるいはリーダーシップの本質を強さと信じ、それを演じる牧師とその牧師の姿に心酔する信徒たち。相互のニーズを満たしつつ逸脱していく教会。「天皇ごっこ」と「臣民ごっこ」の如き「牧師絶対服従理論」。

 多分こういうのは、日本伝統美学、国家神道的美学、軍人美学、儒教的美学、任侠道的美学などであって、「聖書が示す従順の美学」ではないでしょう。これは、よくある福音が福音以前の価値観を転換させるどころか、支持材料とされ、福音が福音以外の価値観に従属するという構造のように思えるのです。でも、イスラエルの民がイエス様に願って拒否され続けたのも、こうしたリーダー像だったのでしょうね。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 08:39 | - | - | - | - |
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