命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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牧師:信徒≠飼い主:飼い犬
  牧師の多くは、愛を注いできた信徒が、教会を去ることになり、別れ際に(事実か誤解かは別として)手厳しい批判をされたり、今までにないような罵詈雑言を浴びせられたりすることがあります。牧師夫妻や家族は、それで傷ついたりします。そうした時に、牧師がその心情や出来事を表現する時に使用される諺の一つは・・・。

 「後足で砂をかける」というもの。

 それは、犬や猫が自分の糞に後ろ足で砂をかける動作に由来する諺で、「お世話になった人のを忘れるばかりか、去る時にさらに迷惑をかけること」の意味。牧師と信徒のどちらに非が大きいかとは無関係に、その時の牧師の心情や牧師なりの出来事の解釈を示すときにこのたとえが用いられます。私は多分、数十人もの牧師から、この諺をお聞きしていると思います。

 同様の状況の中で、別の諺が用いられることがあります。私自身はほんの数例だけ、牧師の発言として直接間接お聞きしたにこういうのがあります。

 それは「飼い犬に手を噛まれる」という諺。

 「後足で砂をかける」も「飼い犬に手を噛まれる」も共に、動物の飼い主に対しての忘恩と迷惑行動に由来し、ほぼ同じ意味のたとえであります。

 しかし、私は前者の「後足で砂をかけられた」と発言する牧師には、是非の判断は保留しても、一定、その心情には同情や理解を示したいと思います。しかし、「飼い犬に手を噛まれる」というたとえを使用する牧師には、正直、疑いを感じてしまいます。(事実としてその比喩がピッタリの極端な事実があれば話しは別ですが)

 どちらのことわざを使用するかで、牧師の意識はかなり異なると私は推察します。。

 
 前者は「自分なりに愛を注いだつもりだが、応答してもらえず悲しい」というニュアンスかと思います。それに対して後者は「こんなにも面倒を見てきたのに、恩を仇で返すのか?」というニュアンスかと思います。どうも後者の方が、より主観的で、上から目線で、自分の側の非を考える姿勢に欠けるのように思えるのですが、どうでしょう。そうした牧師の発想には「信徒が自分のような牧師を忍耐してくれて、支えてくれている」という意識がないのかもしれません。

 前者は、犬の行動のたとえとは言え、「」が意識されていませんが、後者は、かなり「犬」が意識されているように思います。どこか「牧師が飼い主で信徒が飼い犬」というような発想があるとしたら心配です。「哀れな野良犬を拾ってやって、牧師の自分が飼い主になってやった」かのような意識があるとしたら、とんでもないことでしょう。ご自分だって神様に拾われ育てられた元野良犬なのですから。

 そう、「牧師:信徒=飼い主:飼い犬」というような発想は、微塵たりとも、あってはならないと私は考えています。そのことは、牧師は当然のこと、信徒もでありましょう。「自分のような野良犬を拾ってくれて、愛し受け止め育ててくださった先生に一生ついて行きます!」、それは間違いです。拾ったのも育てたのも、イエス様ですから。牧師は種を蒔き、水をやりをしただけ、拾ったのも育てたのもイエス様。ですから従っていくのもイエス様。本当の恩人とその補助者を取り間違えてはなりません。牧師は補助者として、尊敬し、信頼しましょう。キリストに従う文脈で指導者に従いましょう。

 もし、どうしてもたとえる必要があるなら、「牧師:信徒=牧者:羊」が聖書的正解でありましょう。
「犬」は聖書の文化では「蔑称」でもあるので、信徒を犬呼ばわりするのは、たとえ問題信徒であったとしても、(異端者でもない限り)聖書的に正しくないでしょう。

 やはり、「犬」ではなく「羊」でしょう。冒頭のような事例があった場合、牧師はそれをどのように形容すべきでしょうか?ケースによるのでしょうが、「わがままな羊が群れから逃げてしまった」「一匹、群れを迷い出た」「逃亡した羊に蹴られた」という表現が適切な場合もあるでしょうし、「牧者側の力量不足です」とか「自分の牧会があの羊には適切でなかったようです」などの自己評価が正解の場合もあるでしょう。

 どうか「飼い犬状態」や「飼い犬意識」になっている信徒の方は、この記事を、お読みになって意識改革を。聖書や信仰とは別の義理や人情中心で、教会につながり、ドッグフード並みの説教や教会教育にも忍耐し、鎖と首輪でつながれているかのようにキリストではなく牧師個人につながっているというのはどうでしょう?それはまさに飼育・ペット状態。しっかりキリストにつながって、まずはご自分が聖書を通じて、しっかりと栄養吸収し、自立に向けて成長愛し仕えあう関係を教会で形成していただきたいもの。

 一方、牧師の側も「牧会」ならぬ「飼育」によって、飼い犬が、自分になつくかのように、教会をまとめていくような牧会手法もどうかと思うわけです。賢明な信徒は「一見、うまく行ってるように見えるけど、実はキリストの体ではなく、牧師のファンクラブ?支援会?組?」と疑問を持ちます。中には、牧師個人への義理人情が求心力となって形成された大規模教会、名づけて「101匹ワンちゃん大集合教会」もあるとかないとか?(牧師の愛を通じて神の愛を知り、それに応答している場合は健全なのでしょうが・・・)

 というわけで「『飼い犬に手を噛まれた』という諺はどうよ?」と思う私です。信徒は牧師の飼い犬ではないし、牧師も信徒の飼い主ではないのです。まずは、当たり前のことを、確認したいです。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:30 | - | - | - | - |
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