命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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弱者の犠牲の上に生きながら、その事実を見ないで済むシステム

 今回の原発事故によって、日本全体が、とりわけ首都圏に暮す人々が痛感した事実があります。それは、「福島原発近隣住民の犠牲の上に、首都圏住民の快適な生活が成り立っている」ということです。「福島の人々の犠牲を知らなかった自分が恥ずかしい」「今度は、自分たちが福島に恩返し」などの声が真面目な人々から起こっています。

 「弱者の犠牲の上に、強者の便利で快適な生活が成り立つ」。このことは、罪深い人間が形成する社会にとっては避けがたく、極めて克服困難な罪の現われでありましょう。「社会構造的罪」とでも呼ぶべき罪の一形態であります。

 原発近隣住民の犠牲に上に成り立つ、都市部の華やかな生活。

 沖縄県民の犠牲の上になりたつ、本土の安全と平和

 被差別部落の犠牲の上に成り立ってきた食肉、その他の産業

 貧しい国における奴隷労働や児童労働になど搾取の上に成り立っている安価な輸入食品

 そして、兄弟姉妹の中絶によって、子ども二人家庭となり親に教育費を注いでもらったかもしれない私たち。
 
 そう、日本では、第三子妊娠の場合は70%が中絶されてゆきます。二人兄弟で、学習塾に通わせてもらい、私立大学や遠く離れた大学に通い親から仕送りなどを受けてきた場合、私たちはそうした兄や姉、あるいは弟や妹のいのちの犠牲の上に、豊かな教育機会を与えられてきている可能性があるわけです。

 そして、こうした構造的罪の恐ろしさは、「弱者の犠牲と引き換えにで自分が何らかの富を享受しているという事実を見ないで済む」というシステムを社会的に構築することです。富を享受している側が、事実を知って、心を痛めないように、平安な心で富を享受し続けられるようなシステムを作るのです。そして弱者の犠牲と引き換えに富を享受することを、悪とも不正とも罪とも感じないで、継続できるように、システムは固定化されてゆきます。 

 富める国に暮す者、とりわけクリスチャンたちが、こうしたある意味「不都合な事実」に目を閉ざされたままで、歩むなら、それは悪魔の思う壺でありましょう。知ろうとしない、知らないでもよいと考える、知っても何も感じないなら、それは「果たして御心だろうか?」と思うのです。

 「それは置いといて、ひたすら伝道、教会行事」だとしたら、それは「教会ごっこ」と非難されかねないでしょうし、「天で御心が・・・地の上でも」との主の祈りをささげるクリスチャンは「平気を嘘をつく人々」と評価されてもしかたないでしょう。

 聖書によれば、神様は、こうした構造的罪に明らかに関心があり、一定の是正や弱者救済について言及をしておられます。イエス様ご自身も「犠牲にされている側の弱者」との交わりに生きておられました。今日、キリストの体である教会や散らされた教会である信仰者個人が、どう歩むかとこのこととは決して無関係ではないでしょう。

 こうした「不都合な事実・兼・向き合うべき罪や悪」について、みなみななみさんは、それを伝わる表現で若いクリスチャン達に伝えた先駆者でしょうし、辻岡健象先生は、本会の働きを通じて、その一つに特化して、キリスト教会の向かうべき課題として示してきた先駆者でありましょう。私は会の代表としては辻岡先生のフォロアーであり、表現者として漫画はかけなくとも、ななみさんのフォロアーなのだというアイデンティティーを持っております。

 今回の原発事故とその影響による首都圏が被った不利益を通じて、キリスト者こそが、こうした不都合な事実を自らの問題として受け止めることを、私は願っています。だから、何か社会運動を始めようとか、教会を変革しようというのではありません。

 現実社会において、御言葉に生きるということを、再考する機会には少なくとも、すべきだろうと思うのです。聖書の言葉を、心の中の観念や感情、神との個人的関係での完結、個人的な倫理道徳、個人内価値観に押し留めながら、いわゆる忠実な教会生活をしていれば、「よいクリスチャン」と自己も他者も評価していてよいのか?などと問い直してみてはどうかと思うのです。 私たちの悔改める罪も個人的な行動や思い、怠惰などだけではないでしょう。望まずとも他者の犠牲の上に豊かな生活を送るこのシステムに、自分は責任なしと神の前に言えるのでしょうか?

 私などは、こうした構造的罪についてまがりなりにも「自分に責任あり」と判断しているから、本会の代表も、させていただているわけです。また、本ブログでは同種の問題について、「犠牲とされている側の弱者」 の問題を取り上げ、発信してきたつもりです。そして、聖書は福音宣教の責任と社会的責任を決して対立的には記しておらず、むしろ包括的に示しているように、私は読んでいますし、現実社会において、教会は包括的に責任を果たすべきだとも受け止めています。

 今回の震災によって、私たちは多くのことに目が開かれてきましたし、これからも開かれることでしょう。しかし、今回、その中でも、強調したい事、それは、日本に見事なまでに張り巡らされている「弱者の犠牲の上に生きながら、その事実を見ないで済むシステム」であります。

 原発近隣住民の苦悩、沖縄県民の痛み、被差別部落出身者の苦しみ、奴隷労働者と児童労働者に対しての搾取、中絶を強いられた女性やいのちを断たれた胎児たち・・・・・

 日本社会は見事に、それらを見ないで、聞かないで、心安らかに富を享受するシステムを構築してきました。それを問題視すべきマスコミも、一時的にだけとりあげて、次の話題や関心事に移ってゆきます。ある件については、利害関係があり、マスコミは本気で取り上げられません。悪魔はきっとこうしたシステムを通じて、クリスチャンたちの信仰を心の中だけ、半径3メートル以内の社会地域限定し、福音本来の豊かな力を奪っているのでしょう。

 今回の震災によって、私自身は、悪魔の惑わしの向こう側にある事実と、そこから導き出される豊かな信仰理解に少しでも近づけたらと願っています。


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| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 22:39 | - | - | - | - |
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