命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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育てよう健全牧師(38)
 主に立てられた尊い牧師を「城南教会の宮路牧師」にしてはなりません。「城南教会の宮路牧師」と言ってもこれは、普通名詞であります。決して固有名詞ではございません。ですから、日本に数箇所あると思われる「城南教会」や多くいらっしゃるであろう「宮路姓の牧師」の皆様など、実在の教会と牧師とは一切何の関係もございません。どうか、お気を悪く為さいませんように。

 「城南教会の宮路牧師」と言われても何のパロディーか分からないという読者もおられるのでは?そこで説明いたしましょう。もとネタは「城南電機の宮路社長」であります。それでも、「誰それ?」とか「知らない」という方はこちらをご覧下さい。

wikiphedia「宮路年雄」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E8%B7%AF%E5%B9%B4%E9%9B%84

 突出した商売人根性とユニークで明るいキャラで、タレントとしても大活躍の社長でありました。しかし、wikiphediaの「略歴」の最後にあるように、社長の没後、ご子息が急遽、後継者となったものの、たったの一ヶ月で全店閉鎖という記録的?衰退となったわけであります。

 このことから予想されるのは、宮路社長の超ワンマン経営体質、世代交代と後継者育成の先送り、社長個人の人脈に依存しすぎた経営体質などでありましょう。

 そこでキリスト教界で、時にお見かけするのが普通名詞としての「城南教会の宮路牧師」であります。それは、戦後、開拓から始めて何百名が集う大教会にまで成長を導いた有名牧師であったりします。あるいは、礼拝者数、数十名の教会に就任し、その教会の礼拝者を数百名にまで、増やした有力牧師である場合も。ここまではいわゆる「成功したと言われる牧師」であります。そうです、これだけでは、「城南教会の宮路牧師」ではありません。

 では、何をもって「城南教会の宮路牧師」と呼ばれるのか?その牧師の退任後、あるいは召天後に、教会の礼拝人数が急減したり、人数には反映せずとも、著しい実質的衰退をする時に、この牧師は「城南教会の宮路牧師」だと推定されるのです。つまり、一世代で隆盛を極めながらも、次世代に著しい衰退を招く、それが城南教会の宮路牧師であります。

 牧師の働きは信徒をキリストにつなげるはず。ところがどういうわけか、ご自分につなげてしまうのが、宮路牧師。キリストの弟子となるための訓練が牧師の弟子を育成してしまうのも、宮路牧師の特徴。所属団体や他教会、超教派団体との関係も、教会の代表としてよりは、牧師個人としての関係になってしまいます。こうなると教会員にとって信仰のアイデンティティーは、キリストでなく一牧師となります。そして、教会の働きも、キリストの体としてではなく、牧師個人の働きと同一化してしまいます。

 牧師個人が突出した求心力によって教会形成をした場合、それを、どこかでシフトチェンジして後継者を育成し、責任委譲をしませんと、なかなか大変なことに。当然「自分でなければ」という思いが牧師にはあり、信徒にも「先生でなければ」という思いがあるでしょう。それが「いつまでも自分であってはいけない」という牧師の意識、「先生のご活躍は感謝だが、後継責任を果たしていただければ」との信徒の思いへ必要な時期に、変化すればいいのですが、なかなかそうはいかないのが現実のようです。

 なぜなら、既に牧師が教会のアイデンティティーになっているからです。「クリープを入れないコーヒーなんて」のように「〇〇先生のいない教会なんて」になってしまいます。「〇〇先生がいなくてもキリストがいるのだから立派な教会だ」などと聖書的正論さえ言ってはいけないムードが教会に蔓延してしまいます。

 というわけで、宮路牧師の退任あるいは召天後は、城南電機のような末路になることも。もちろん、一ヶ月で教会が閉鎖になるわけではありません。しかし、偽りの求心力やアイデンティティーを失った信徒は、本物の教会の一致や信仰のアイデンティティーに容易には立ち返れません。立ち返りたくても、どうすればいいのか分かりません。なぜなら、それまで、教えも実践もなかったからです。
 
 ですから、新たな体制になっても、信徒たちはどう教会形成をしていけばよいのか分かりません。前任牧師時代のあり方が全てだからです。たとえ、新たに就任した牧師が優秀で健全であっても、残念なことに正当に評価されません。教会は数の減少とは限りませんが、実質的な衰退に向かうわけです。そこに一見活発に見える活動があったとして、それは単なる過去の機械的継続に過ぎないことも。
 
 この記事を読まれ、「うちの教会、城南教会体質だよなー」、「うちの牧師宮路牧師かもね」と思われたら、どうしたらよいのでしょう?対立的にならずに、教会を健全化することはあまりに深い知恵を要します。愛をもって牧師にお話しをしても、認めて受け入れられることが困難なことも。一旦、教会が城南体質に陥ったり、牧師が宮路化してしまい、さらにそれに、礼拝人数増加というお墨付き?が加わると、これはいよいよどんどん肯定され固定化されていきます。それに異論を唱える健全な信徒が、教会に留まることができなくなり、離れていけば、健全化はますます困難になっていくわけです。こうしたところに、大規模教会が不健全化した場合のどうしようもない困難さがあるように思えてなりません。

 超教派団体で仕える者としていつも願っているのは、教会が健全であること。特にどうしても他教会への影響力が強い大規模教会が健全であることを願っています。「城南教会の宮路牧師」という表現は、もしかすると、日本のキリスト教界のある課題を、明確化する一つの切り口なのかもしれません。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。

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