2011.09.09 Friday
「レディー雅歌」こそ、主にある女性の性愛表現?
愛読しているブログに「雅歌の部分的私訳」を発見。これが現代的感覚にマッチする訳で、自分としては大うけです。この記事に応答してのコメントも見事で「レディー・ガカ」とのオヤジギャグ的オチ。
まずは、この現代的で刺激的で伝わりすぎの名訳をご覧あれ
「伊那谷牧師の雑考」より「雅歌、部分的私訳」
http://zios.seesaa.net/article/223382116.html
私は雅歌を第一義的に主にある男女の愛を描いていると受け止めています。神と教会との関係というのはあくまで、第二義的な解釈か、適用であろうと考える方です。雅歌が描くのは、信仰者相互の敬愛であり、主に男女としての恋愛であり、さらには「性愛」と呼ぶべき要素もあると思います。男性は女性の肉体の性的魅力を褒め称えますし、この私訳の箇所は、女性としての細やかな「心情的性欲」が、見事に描かれていると思います。
本ブログでは、男性に対して「清く正しく美しいスケベ」「御心にかなったスケベ」を目指すよう応援をしてきました。代表的記事は次の二つでしょうか。
http://blog.chiisana.org/?eid=701418
http://blog.chiisana.org/?eid=702885
女性の性欲は男性とはかなり異なりますから、「スケベ」と言っては失礼でしょう。しかし、あえて言えば、この「レディー・ガカ」は「清く正しく美しいスケベ」「御心にかなったスケベ」の女性版でありましょう。それではあまりに下品ですから、「主にある女性の性愛表現」かな?とか思うのです。女性においては、男性よりも、「恋愛」と「性愛」が不分離だと勝手に思っています。ですから、この箇所は恋愛とも性愛とも断定できないけれども、やはり女性ならではの性愛表現ではないかと考えます。
聖書が示す性をとても禁欲的だと思って読んでいませんか?神様が与えた恵みを楽しみ喜ぶ、おおらかさをも、聖書は示していることを覚えたいです。性に対しての聖さは大切、しかし、それは禁欲的なのではなく、神が喜ばれる範囲で、大いに喜び楽しむことと結びつくのでしょう。
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「小さないのちを守る会」
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私は雅歌を第一義的に主にある男女の愛を描いていると受け止めています。神と教会との関係というのはあくまで、第二義的な解釈か、適用であろうと考える方です。雅歌が描くのは、信仰者相互の敬愛であり、主に男女としての恋愛であり、さらには「性愛」と呼ぶべき要素もあると思います。男性は女性の肉体の性的魅力を褒め称えますし、この私訳の箇所は、女性としての細やかな「心情的性欲」が、見事に描かれていると思います。
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女性の性欲は男性とはかなり異なりますから、「スケベ」と言っては失礼でしょう。しかし、あえて言えば、この「レディー・ガカ」は「清く正しく美しいスケベ」「御心にかなったスケベ」の女性版でありましょう。それではあまりに下品ですから、「主にある女性の性愛表現」かな?とか思うのです。女性においては、男性よりも、「恋愛」と「性愛」が不分離だと勝手に思っています。ですから、この箇所は恋愛とも性愛とも断定できないけれども、やはり女性ならではの性愛表現ではないかと考えます。
聖書が示す性をとても禁欲的だと思って読んでいませんか?神様が与えた恵みを楽しみ喜ぶ、おおらかさをも、聖書は示していることを覚えたいです。性に対しての聖さは大切、しかし、それは禁欲的なのではなく、神が喜ばれる範囲で、大いに喜び楽しむことと結びつくのでしょう。
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