命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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故・談志師匠に学ぶ真理所有者ならではの謙遜さ

 先日、車中でラジオをつければ、談志師匠の追悼番組。すぐに聞こえてきたのが、在りし日の師匠の名言。

 「正しい人ってーのは、自分の言ってることがもしかしたら間違っているかも知れないと思っている人のことだ。自分の言っていることがもしかして間違っているかも知れないと思うからこそ、その人は正しい人なんじゃないか?」

 なるほどであります。真理を相対化する必要はありません。しかし、真理所有者であっても、自己を一定相対化したり、客観視することができないと、その真理所有者は独りよがり、独善的になり、裸の王様にさえなりかねません。

 クリスチャンは聖書という絶対的真理を信仰によって所有しているからこそ、そうした落とし穴に陥りやすいのでは。特に、親や牧師など一定指導的立場になると、その傾向が強くなりがちことを、私自身も自戒しております。

 聖書と聖書が明確に主張する中心的な内容は真理。しかし、聖書が示すすべての真理を、的確に知っているわけではありません。ですから、聖書が絶対正しいからと言って、クリスチャンである自分の言動や判断が絶対正しいことにはなりません。

 また、聖書のある真理を正しく理解していても、現実の言動や判断において、その適用が正しいとは限りません。聖書の一句を全体の教理や文脈などから切り離して特定の状況や事象に当てはめるのは、よくある間違いでしょう。

 また、真理を正しく理解して、適用が正しく、その言動と判断が正しいとしても、自分自身がそれを否定するような生活をしていれば、つまり模範になっていなければ、説得力がありません。

 さらには真理を正しく理解して、適用が正しく、その言動と判断が正しく、自分自身がそれを一定実行していても、心にがなければ、相手の心に届かないでしょう。

 聖書の真理を疑う必要はありません。

しかし、その聖書の真理を自分は十分理解しているか?
正しく解釈し適用できているか?
自分は一定その実行者、模範となっているか?
真理を語るに際して心にはあるのか?

 これらを疑ってみるのが、正しいクリスチャンだと談志師匠の名言から、反省。

 これら「自分に対しての疑いのチェック」を通過してから、言動や判断ができれば、親は子に、牧師は信徒に、クリスチャンは未信者に、信頼され、真理がより伝達されるのだろうなーと思ったりします。

これらを疑うことは、確信がないのではなく、高慢でないことを意味します。
これらを疑うことは、弱気なのではなく、謙遜であることを意味します。

 真理を語るには大胆であるべきでしょうが、語る者は、どんなに謙遜でなければならぬか教えられます。

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