命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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飲食の神学〜たかが飲み食い、されど飲み食い(2)
 飲み食い自体は「たかが飲み食い」ですが、それが、愛を示す表現方法愛を伝える場面設定となりますと、「されど飲み食い」となるわけです。福音書を読むなら、イエス様は飲食の交わりを通じて、他者に深い愛を示し、食事の場で真実な愛を伝えておられます。主な例として三つだけとりあげてみましょう。

 まず、イエス様は取税人や遊女と食事を共にされました。これは当時の社会的タブー。取税人は職業自体が盗みの罪、遊女は職業自体が姦淫の罪ですから、宗教的理由で職業差別を受けました。食事を共にするなど、とんでもないとされていたようです。ですから、イエス様はタブー破りの非難も、汚らわしいとの攻撃も、覚悟の上で、取税人や遊女に愛を示されたのです。食事の場は、差別や罪、汚れを超えた愛の表現の場面となったのです。

 また、有名な最後の晩餐の場でもイエス様は、深い愛を示しておられます。イスカリオテのユダはイエス様の左隣で右隣がヨハネだったようで、イエス様はユダにだけ聞こえるように話しておられたようです。そして、過ぎ越しの祭りの食事では、主人の左隣が最も栄誉ある席でした。つまり、この場面でイエス様は他の弟子の誰よりも勝る愛をイスカリオテのユダに伝えておられたのです。その愛を受けての悔い改めを最後の瞬間まで待っておられたのでしょう。自分を奴隷として金で売り渡す者さえ、愛されるその深い愛は食事の席で現されました。

 さらにはテベリヤ湖畔で三度目に復活を示された場面です。復活されたイエス様は大漁後に、朝食の準備を弟子たちに命じます。パンと魚というメニューだったようですが、食後にイエス様は三度自分を否認したペテロに三度ご自身への愛を問いかけます。三度も自分を否認した失敗者、挫折者ペテロを、変ることなく愛されたその真実な愛は、復活後の朝食の場でありました。

 これらは食事が、愛を示す表現方法愛を伝える場面設定となった例。こうなれば、「されど飲み食い」となるわけです。

 さて、教会の現場であります。礼拝後の食事をいつ、誰が、何をつくるか?食事を提供する伝道集会でメニューをどうするか?大切なことは間違いないでしょうが、これは「たかが飲み食い」なのか「されど飲み食い」なのか?この判別は結構悩んでしまうのでは?
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 17:54 | - | - | - | - |
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