命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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飲食の神学〜たかが飲み食い、されど飲み食い(3)
 「されど飲み食い」の代表格はやはり聖餐でありましょう。飲食が、キリストとの縦の交わりと教会における兄弟姉妹間の横の交わりの両者を体現するのですから。

 聖餐はキリストの血と肉を覚えてること。諸説あるでしょうが、私はそれは単に過去の出来事の記念に留まらず、聖餐の場に臨在されるイエス様とのリアルタイムでの交わりだと考えております。さらには聖餐は横の交わりを意味します。一つのパンと杯から分け合うことは互いがキリストにあって一つであることを意味します。ローマ16:16の「聖なる口づけ」も、聖餐式の場で、同性間でなされた挨拶だったようです。実に濃密な交わりです。聖餐式は英語で「コミュニオン」。まさに交わり

 聖書によれば、コリント教会の信徒たちは、キリストの血の肉を覚えるという本来の目的も忘れて飲食。さらには、兄弟姉妹との一致どころか、金持ちだけ先に集まり飲食を済ませ、貧しい人たちを疎外していました。聖餐の本質を失っっていたどころか、同じ教会の兄弟姉妹に、正反対の行動をとっていたわけです。聖餐がキリストと弱者を疎外する場となっていたとは、超トホホであります。ここまでの逸脱が起こった理由の一つは、当時の聖餐が今日のように礼拝内ではなく、礼拝とは別の飲食の場で行われていたからでしょう。

 キリストが、被差別者、裏切り者、失敗者に深い愛が示された場も、神と人、イエス様ご自身が縦横双方の交わりとして命じられた聖礼典の形式も飲食であることは、大きな意味を持つのでしょう。神の被造物である人間存在にとっては、飲食は単なる生命維持のための栄養摂取手段といった物理的意味を超えた社会的意味、さらには霊的意味さえ持ちうるのでしょう。コリント教会の失敗は霊的レベルのことを社会的レベルに引き下げてしまったことでしょう。

 というわけで、教会の中で、家庭の中で飲食が問題となった場合、「物理的」「社会的」「霊的」のどのレベルの課題であるかの見極めが大切かと思います。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 13:59 | - | - | - | - |
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