命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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感動はするものでなく、強制するもの〜感動がもたらすファシズム(下)
 感動の強制、それへの画一的応答の要求異質者の排除・・・・。

 この問題は、教会の外の日本社会だけのものではないでしょう。キリスト教会内部でも、このことは向き合うべき問題であろうと思っています。なぜなら、教会内部では多くの感動が起こるからです。

 そもそも福音自体が感動的なので、聖書の言葉が聖霊の働きと共に正しく伝達されたら、人それぞれとは言えある種の感動が起こるのは当たり前。心を込めての賛美、真実な愛の交わりなど、教会には感動を味わえる機会と場面は多いもの。そして、こうした感動を胸に、応答として神様に従う証しの生活や忠実な教会生活などに向かうわけです。

 しかし、その感動は、いわば「結果」であります。感動自体は「目的」ではないし、ましてや、次の何かに人に向かわせるための「手段」ではありません。

 ところがです!そうした「結果」としての感動を、目的化して、さらに手段化して、ある方向に人々を誘導することが教会では、ありえるのでは?いいえ、気をつけませんと意外と簡単にそうしたことが起こるのでは?

 たとえば、感動させることを目的に説教をすること。解き明かしとして正しいことより、心情的に訴えることが優先します。感動させ、泣かせます。次には、その感動を手段として信仰決心や献身決心、その他の決心に向かわせるわけです。人によっては、決心しないといけないムードの中、思考停止で、手を上げたり、前に出てしまうことも。

 賛美についても、感動させること自体を目的として歌詞内容と曲調を巧みに配列して、ソングリーダーが感情を煽れば、会衆を涙ながらに、ある決心や行動に向かわせることは意外と容易だと思われます。みことばや聖霊によるのではない感情面だけの感動からの決心が、弱いもの、あるいは偽物であることは、多くの読者が体験済みなのでは?

 同じように牧師やリーダーが、感動させることを目的に劇的なヴィジョンや夢を語り、会衆を感動させ、その感動を利用すれば、会衆を特別に多額な献金にも、会堂建築大賛成に、誘導することも可能でしょう。献金についてのことや会堂建築の是非で、教会がファシズム状態になり、”No”が言いたくても言い出せず教会を去る人々も。そこには教会が一つとなって、あるいは個々が責任持ってみこころを求めるプロセスがありません。これでは教会も会員個々もなかなか成熟しないでしょう。

 成熟した牧師の条件の一つは以上三つのことをしない牧師だと私は思いますし、私も常々、自戒しています。

 そう考えますと「感動はするものでなく、強制するもの」とは、教会も例外ではないでしょう。感動が、人を思考停止状態に陥れ、群衆心理状態を作り上げて画一的反応をしない異質者を排除し、結果として、ファシズム状態が訪れる。

 感情的に盛り上がったり、高揚する礼拝自体が悪いとは、私は全く思いません。しかし、その感動自体が目的化されたら、もう礼拝ではないでしょう。少なくとも神様がお喜びになる礼拝ではありません。それは自分が喜ぶための礼拝でしょう。

 その感動や感情高揚の中で、信仰決心がなされ、受洗者が起こされたとしても、それを結実と言えるかどうかは疑問でしょう。なぜなら、感動が手段化されているからです。純粋で熱心な若者が中心の教会や集会ですと、こうした感動の目的化と手段化のシステムに無自覚のうちに陥ってしまう傾向があるようにお見受けします。年長者のリーダーが逸脱せぬよう見守る大切さも思います。

 牧師などのリーダーの中には、この感動の強制によって教会を自分の願う方向に向かわせようとの悪魔の誘惑を感じる方もおられることでしょう。また、実際、大なり小なり悪魔の誘惑に手を染めてしまったという方も、おられるのでは?カルトなどは、「感動の強制」が思考停止やマインドコントロールのために手段化されているように思います。まさに感動の強制による金儲けや政治利用でしょう。教会のリーダーたるもの、この悪魔の誘惑を退け、悪魔の手段に手を染めぬことが、何より。それは偽りの宣教の実であり、偽物の教会形成ではないでしょうか?

 ただし、感動の強制が一件起こったら、すぐに教会が不健全だというのは早急だと思います。それに気がつき、自覚できて、修正し、教会全体に蔓延する前で、部分的なものに留まれば、その教会は健全レベルだと考えます。

 教会内における「感動」。それは優れた説教、真実な賛美、深い交わりなどによってもたらされるあくまで「結果」でありましょう。「結果」としての感動は健全かつ素晴らしいこと。しかし、「目的」、「手段」としての感動不健全、そしてかなり危険であると私は思うのですが、どうでしょう?
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 17:30 | - | - | - | - |
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