命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
<< 人権神授説から考えるあれこれ(1) 「人権ならざる人権」 | main | 人権神授説から考えるあれこれ(3) 「主の御名による人権放棄要求名目の人権侵害」 >>
人権神授説から考えるあれこれ(2) 「人権侵害ならざる人権放棄要求」
 最近、所属教会の牧師は、モーセの歩みを連続してメッセージしてくださっています。外部奉仕で所属教会の礼拝を休みがちの私は、録音で聴かせて頂いております。先日のメッセージはあの「燃える柴」の箇所。ポイントの一つは、モーセへの「靴を脱ぎなさい」との命令。私は、靴を脱ぐとは聖なる方に対する畏敬の念故の表現だと思っていたのですが、それだけではないというメッセージ。聖書では靴を脱ぐとは「権利の譲渡」を意味するわけです。たとえば、ルツ記などはそれが明確に記されています。

 牧師は「現代は人権が尊重され、権利主張が当然となっているが、神様は時に、神の民に権利の委譲を命じられる」という趣旨の解き明かしをされました。これには現代的適用としても、深く教えられました。

 神様は時にご自身に従うものに、「権利の委譲」、極論すれば「人権放棄」を命じられることも。では、これが不当な人権侵害かと言えばそうではありません。神様が、従うものに要求する人権放棄は、決して人権侵害ではありません。「靴を脱げ」とは「生殺与奪の権利を神に譲ること」であり、「まな板の上の鯉になること」でしょう。しかし、それは、不当なものではありません。その理由をいくつか考えてみました。

 そもそも、神の似姿を与えてくださった神様が人権の付与者ですから、神様には人間の人権を制限したり、奪う権利があるはずです。生殺与奪の権利は神にあるのですから、いつどのようにその権利を神様が行使しても人間には文句のいいようがありません。そう、神様が人権の付与者ですから、その人権を放棄するように求める事は、人権侵害には相当しません。それは「自分のものを返せ」という要求ですから正当なのです。「人権神授説」に立てば、神による人権侵害はありえないのです。

 また、神様が神の民に権利の放棄を命ずるのは、ご自身に従い本当の自由を得させるためです。決して、不自由にして苦しめるためではありません。これは人間を不自由にし、苦しめるための人権侵害ではなく、本物の自由に至らせるための権利放棄要求です。神様の権利放棄を要求は、人間を活かすためでもあります。人権の根拠の一つは神のかたち。神から離れた自己中心の故に神のかたちを失った人間は、神に従う時に、神のかたちを回復し活かされます。その回復のプロセスとして、権利放棄は命じられているのでは?

 決定的なのは、神様の「靴を脱げ」との人権放棄要求が、何より正当な理由は、神様ご自身が、すすんで神権放棄をされたからです。私たちへの愛の故にです。神である権利放棄、天に住む居住権の放棄、天で所有していた財産放棄、最後は、最優先の神権である生存権まで、私たちのために放棄して下さいました。神が人となられ、死なれたとは、そういうこと。

 そして、歴史上最悪の「人権侵害」は、人類がイエス様にした「神権侵害」であります。


 「あなたの靴を脱ぎなさい」。

 それは私たちのために究極の権利放棄をして下さった方から、最悪の人権侵害をした私たちへの愛故の命令。神がすすんで権利放棄をされた!その愛に、私たち人間が、その応答としてすすんで権利放棄をすることは、極めて理に適ったことか思うのですが、どうでしょう?

 神権放棄に対しての応答としての自主的人権放棄。それを愛の故に命じられる神様。

 聖書によれば、神様は、この献身の招きをすべてのクリスチャンにしていると思いますし、すべてのクリスチャンが受け止めるべきチャレンジであるとも思うのです。すべてのクリスチャンは、神のしもべ、言い換えるなら「志願奴隷」であるはずでは?

 「神様ご自身は、絶対に人権侵害をしない!」。その前提の確信の上で、応答するお互いでありたいと願います。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 22:41 | - | - | - | - |
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>
+ RECOMMEND
+ RECOMMEND
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ RECENT TRACKBACK
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE