命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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人権神授説から考えるあれこれ(3) 「主の御名による人権放棄要求名目の人権侵害」
  昨日のテーマは、「人権侵害ならざる人権放棄要求」で、今回のテーマはその逆。つまり、人権侵害に相当するような人権放棄要求、言い換えるなら、「主の御名による人権放棄要求名目の人権侵害」となるでしょうか?

 神様は人権の付与者ですから、人権の停止も放棄要求も正当であります。また、その目的もよいもの。しかし、教会組織も牧師などのリーダーも、人権の付与者ではありません。ですから、間違った動機や間違った方法で、人権放棄を要求すると、(特に強制すると)それは人権侵害に相当するケースもあると私は考えるのです。

 たとえば、モーセの燃える芝の箇所から、牧師が、「私たちを愛し、すすんで神権放棄して下さった主に、応答として、私たちもすべての権利を放棄して従いましょう」と説教をします。それは、正しい説教であり、適切なアピール、チャレンジでありましょう。

 しかし、「進路、職業選択、伴侶選択、財産管理などはすべて牧師に一任しましょう。牧師の指示に従いましょう」となると完全に危ないわけです。権利を放棄して、委ねるのは神様に対してであって、牧師に対してではないからです。しかし、人権の付与者である神様に、霊的指導者ではあっても他者の人権を尊重すべき牧師が、とって替わることは、なきにしもあらずです。

 信徒に人権を放棄させることのできる言葉が聖書にはあります。教会には時に、信徒を権利放棄に誘導できるシステムや権威関係が成立している場合もあります。聖書的な人権放棄要求をもって、信徒を意図どおりに誘導したり、支配し、権利を委ねる対象を神様から祭司職である牧師に変更させることも可能なのです。これを悪用するなら、熱心で純粋で献身的な信徒ほど(冷静さや客観性、聖書的判断を欠けば)、牧師は意図通りにコントロールすることができてしまいます。極端な場合は、進路、職業、結婚、財産などを「主のためにささげる」という名目で、放棄させ自分に益するように誘導できてしまうわけです。

 もちろん大多数の愛をもって信徒に仕える良心的な牧師やしっかりとした聖書的教職観をもっている牧師は、まず、そうした誘惑に負ける事はないでしょう。しかし、それらが著しく欠けた極一部の牧師は、誘惑に負けてしまい、信徒に様々な権利放棄を要求し、意図どおりにコントロールしてしまうことが、なきにしもあらずのようです。さらには、それが「主のため」であるからと人権侵害とは思わないようです。

 「主の御名による人権放棄要求」、それはある意味、聖書的で正しいことでしょう。しかし、「人権神授説」に立って考えると、それが悪用される時、主の御名は名目に過ぎず、実質上は「人権侵害」に他なりません。

 牧師が人権の付与者である神様に取って代わる時、
 牧師が人権の委譲先である神に取って代わる時、
 牧師が愛をもって信徒に仕えず、信徒を支配し、利用する時、 
 牧師が、神と信徒自身の益でなく、自らの益を目的とする時、

 信徒側の献身的な人権放棄は、客観的には、いいえ、神様の目から見ての「人権侵害」になってしまいかねません。カルト教会や不健全で権威主義的な教会には、こうした「主の御名を名目とした人権侵害」現象が起こっているように思えてなりません。

 三回のシリーズが読者の皆さんにとって「何が人権であって、何が人権ではないか?」「何が人権侵害に相当し、何が相当しないか?」の聖書的判断基準を考える参考になればと願ってやみません。それを通じて聖書的な意味で人権が尊重される交わりに生きるお互いに成長できれば感謝です。
| ヤンキー牧師 | 人権問題 | 21:56 | - | - | - | - |
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