命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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避けてはならないものを避けること=被支配の人生

  先日ラジオの人生相談を聞いておりますと、相談後にパーソナリティーの加藤諦三先生がまとめの一言。

避けてはならないものを避け続けるなら、それがあなたを一生支配し続けます」

 避けてはならない自分の課題、向き合うべき課題に向きあうのを避け続けるなら、確かにその課題がその人の人生をいつまでも支配し続けること様を、20年弱の伝道者生活の中で、散々見てきました。そしてそれは他人事でなく、自分自身もそうした葛藤を通過してきたと自覚しています。「避けてはならないもの」それは具体的には、生育歴に起因するものが多いでしょう。心の傷、劣等感、人格的ゆがみや欠損でありましょう。そうしたものが、その人を支配し動かし、社会生活、家庭生活などに悪影響を及ぼすものです。

 このことはクリスチャンも決して例外ではなく、クリスチャンとして成長していくため、より豊かな祝福を受けて生きるためには、避けては通れないはずの課題を避けてしまうことがあります。そうすると、そこから先に進めなくなってしまうのです。夫婦関係、子育て、教会や社会での人間関係の問題の原因が、その避けている課題にあることは多いようにお見受けします。

 私は創世記に登場するヤコブが大好きです。神様から常に課題に向き合わされて逃げられなくなり、その度ごとに祝福にふさわしい者に変えられていくからです。自分で避けずに向き合ったのではなく、むしろ一方的に神様から無理やりのように向き合わされていく恵みの中を歩んでいるところが、好きなのです。

 ヤコブの育った家庭は、機能不全家庭であったと思われます。不仲の両親夫婦の下で、母からの溺愛を受けたヤコブは今で言えば、「冬彦さん系クリスチャン」でありましょう。祝福の後継者として選ばれたヤコブですが、その祝福を受けるにふさわしくないような人物でした。内向的で、卑劣で陰険、さわやかさと好感度からは程遠い信仰者でした。そんなヤコブを何とか祝福にふさわしい器に変えようと、神様はヤコブを避けては通れない課題に向き合わざるを得ないように追い込みます。

 「マザコン系男子」であったヤコブを、母からの精神的自立をせざるを得ないようにと神様は彼を一人旅に導きます。母の信仰に間借りをしているような「ボンヤリ系二世信仰者」であった彼は、孤独で不安なべテルの夜に初めて個人的に神に出会う経験をして、信仰的自立をスタートします。人を騙して平気で他者感情への想像力欠如だった彼が、騙される経験をして、自分の卑劣さを思い知るようにと、ラバンに散々騙されるようにします。祝福を受けるためには、避けては通れない兄エサウとの再会と和解にも神様はヤコブを導き、彼も逃げませんでした。兄との再会前夜の信仰の戦いは、彼の転機となったようです。

 ヤコブの人生は祝福にふさわしくない陰険卑劣の冬彦さん系信仰者が、避けてはならないものを避けられないように神様に追い込まれながら、祝福にふさわしい者に変えられ続けたものであっだと思うのです。

 神様は私たちを祝福したくてたまらないので、祝福にふさわしいものへの変えてくださいます。そのためには、どうしても避けて通れない課題があります。その多くは生育歴や育った家庭と両親に由来するもので、正直、向き合うのがかなり苦痛な場合がほとんどでしょう。

 大切なのは、一人旅やべテルの夜やラバンのような人物との人間関係、エサウのような敵対する人間関係におかれたとき、その状況が意味する神様の意図を悟るかどうかでしょう?残念ながら、それを悟らず、出来事や状況や人間関係を「神様信じているのにどうして?」と嘆き、自分の課題からは逃げて、その現象だけが過ぎ去ることを願ってしまう場合も少なくありません。「神様信じているからこそ」の出来事を「神様信じているのにどうして」と受け止められてしまっては、神様も祝福への追い込み甲斐がなくなります。

 そうした場合は、牧師や周囲の兄弟姉妹でそれに気がついた方が、その意味を悟り、避けるべきでない課題に向き合うように、愛をもって導くことが大切だと思うのです。私たち人間が、避けてはならないものを避けるクリスチャンを、避けないように追い込むことは不可能に近いでしょう。しかし、神様は現実の世界で働き、ヤコブを追い詰めたように、信仰者が課題に向き合わざるを得ないように追い詰めます。後は、追い詰められた者が、間違った解釈や応答をしないように、周囲が援助するような交わりでありましょう。

 間違っても「教会で熱心で奉仕に忠実で、よく献金するから、このままでいいだろう、下手に課題に向き合うように助けると決裂、反発が心配だから」と考えないことです。特に牧師が愛する信徒に対して願うべきことは「教会に貢献する都合の良い信徒」ではなく、「祝福にふさわしい者、キリストの似姿へと変えられる信徒」でありましょう。

 「避けてはならないものを避けること=被支配」の世界に埋没することそれは「避けてはならないものを避けること=神の祝福を避けること」をも意味するのでしょう。避けてはならないものを避け続けるなら、そのクリスチャンは聖書の原則や愛や義とは別の避けているそのことに支配をされ、神様を悲しませ、祝福を失うようなる判断、選択、行動をしてしまうように思えてなりません。

 ヤコブを追い込み祝福に至らせた神様が、今日、主にある一人ひとりを愛の故に避けてはならないものを避けられない状態に追い込むその恵みを、改めて覚えたいものです。今の自分の状態を検討し、これまでの人生を振り返るとき、私たちは、あちらこちらに、いわば「強制不可避の恵み」を発見するのではないでしょうか?

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 14:02 | - | - | - | - |
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