命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(1の改訂版)
  (1)を読み返してみて、考察が浅くて、的確でないと判断したのと、別の面からアプローチを思いつき、再度、挑戦。考えたいのは、一回目に紹介したこの名言!

 日本の親は「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは「おまえは人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだ。(作者不明)


 この「後ろ向き名言」の教会向けバージョンであります。

 こちらの聖書箇所は「人をつまずかせちゃダメですよ」と教えるが、あちらの聖書箇所では「おまえは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだ。(作者不明)

 聖書は、「自分が他者をつまづかせること」と「他者が自分をつまづかせること」の両面に言及しております。後者は、字義通りの聖句はないかと思いますが、寛容や赦しなどの教えが、それに相当するでしょう。

 どうも「つまづかせること」と「つまづくこと」とは、表裏一体のようです。成熟して、聖書の言葉の前や他者との関係で自己を客観視できるキリスト者は、あまり「他者をつまづかせ」ないし「他者ににもつまづかない」ものです。両面において、聖書的な態度が可能です。

 しかし、興味深いことに、また、困ったことに、「人をつまづかせる」人に限って「人につまづく」という現実があるように観察します。周囲から見れば、「よくもあそこまで自分を棚に上げられるねー」「みことばを、よくもまあ、そこまで自分がスルーして、人に当てはめられるもんだなー」と、呆れたり、感心したりもします。

 ところが、当人は、本気で自分は人をつまづかせているとはあまり思わず、他者につまづいているのです。理由は簡単、主観的だからです。人は成熟すると自己客観視能力を高めるもの。つまり他者の視点で自分を見るのです。これは、よりよく社会参加するために必要な成熟でもあります。

 教会の交わりも一つの社会ですから、信仰以前にこうした人間的成熟度がないと、教会の人間関係にあっても、自己を客観視できません。ですから、「さんざん兄弟姉妹をつまづかせている自分」は見えないで、「自分をつまづかせる兄弟姉妹」だけが見えてしまいます。当人の主観的な世界では、「自分はまともなクリスチャンで、他のまともでないクリスチャンが自分をつまづかせている」という事実が立派に成立してしまうのです。

 こうしたクリスチャンが、聖書の言葉によって、自分を客観視できるようになるかと言えば、人の罪深さと未熟さは、そんなにヤワイものではございません。客観視とは「他者の視点で自己を見ること」です。しかし、神様も「他者」です。ですから、他者である神様の言葉によって、自己を客観視することは、そもそも基本的にできない方なのです。聖書の言葉と共に働き、真理を悟らせ、真の自己を見せるご聖霊の働きも、こうした自己中な罪深さやかたくなさには、返り討ちにあってしまうもの。

 「どうすりゃいいのよ、この私」と昔のヒット曲の歌詞のごとく自分が悩んで下されば、希望もあるのでしょうが、「どうすりゃいいのよ、あの人」と他者につまづき、他者を問題視されては、ほとほと困ります。

 多分、未熟で困ったクリスチャンとは、「あなたは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と言われたとき、「自分は人をつまずかせていない」と本気で「客観的事実とは異なる主観的事実」を主張するクリスチャンでありましょう。

 「あなたは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」との言葉は、クリスチャンの成熟度の指標になるのかな?と思うわけです。どうでしょう?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 21:29 | - | - | - | - |
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