命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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総論「共に生きる」、各論「精いっぱい出会う」
 一昨日は3400を超えるアクセス。「いいね」も多くいただいているので、この記事にアクセスが集中したと思われます。

言葉だけの「寄り添う」「共に生きる」よりリアルな「精いっぱい出会う」
http://blog.chiisana.org/?eid=1408361

 キリスト教界でも、「寄り添う」「共に生きる」が、安易に使われていることへの違和感や批判的思い多くの方が持っておられたということでしょう。また、そうした美辞麗句による実質以上のに過剰評価。時にそこに潜む自己満足や自己宣伝。純粋な被災者支援、キリストの愛とは異なる要素の存在。そうしたものを感じてきた方々の問題意識にはまった記事であったのかもしれません。そうした意味でも今回のクリスチャン新聞「オピニオン」は高く評価されるべきだと思うのです。

 このオピニオンを受けて、考えた事、それは、「キリストは、寄り添い共に生きたか?それとも、精いっぱい出合ったか?」という問い。

 「イエスに出会った人々」という書物があります。福音書から説教する時には、参考にすることのある私にとっての愛読書です。日本基督教団の高田栄治牧師が著しておられます。そこにはイエス様に出会った人物25人がピックアップ。東方の博士から始まって、十字架の犯罪人まで、さらには復活後のイエスに出会ったとして、マグダラのマリヤ、エマオの旅人、パウロまでで、合計25名。

 25名の中のほとんどは、イエス様と出会っただけで、生身の主と共に何年かでも歩んだわけではありません。東方の博士や羊飼いは幼子イエスを一度礼拝しただけ。でも、「別の道から」とか「賛美しつつ帰った」とか、その人生が一変したように聖書は暗示しています。サマリヤの女やザーカイ、ゲラサの狂人などは、出会いの前後の変化が分かりやすい例。十字架上の罪人などは、まさに「一度きりの出会いで、パラダイス入り第一号かい!?」とツッコミたいほどの神様の恵み深さ。ポテオピラトなどは一地方政治家に過ぎなかったのに、一度の出会いによって、使徒信条にまで、名前が挙げられ、半永久的かつ国際的悪役扱いであります。

 たしかに神は人となり、国を失った弱小民族国家の労働者階級に生まれ、貧しさを味わい、途中からは母子家庭の苦しみも経験されました。まさに「共に生きてくださった」わけです。でえすから、福音書全体は「神が人となり共に生きてくださった記録」とも言えるでしょう。しかし、福音書に書かれている事例の一つ一つは「精いっぱい出合った記録」が多いわけです。

 そこで、強引にまとめたのが、タイトルのフレーズであります。

 福音書が描くイエス様は、総論共に生きる」、各論精いっぱい出会う」であったのでは?

 今日のキリスト者の多くにとって、心寄り添い共に生きるべき第一の隣人は伴侶でありましょう。特別な使命がない限りは、家庭に大きな犠牲を強いてまで、遠方の苦しむ弱者のために「寄り添う」とか「共に生きる」とかはすべきだとは思いません。あくまで、これは原則論ですが、むしろ、日々の出会いを主の導きとして受け止め、「精いっぱい出会う」ことを心がければよいのでは?

 キリストに似た歩みとは「寄り添い共に生きる場面一辺倒」ではなく、むしろ、「精いっぱい出会う場面が大多数」の歩みではないかと思うわけです。

 総論共に生きる」、各論精いっぱい出会う」。

 これは、今日のキリスト者がキリストに似た者として歩む際の指針のようにも思えます。「たとえ、寄り添えなくても、共に生きられなくても、精いっぱい出会うキリスト者でありたい!」。優れたオピニオンに触発され、そんなことを考えております。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:15 | - | - | - | - |
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