2007.08.16 Thursday
自由と平等のための暴力(1)
最近、鈴木透著「性と暴力のアメリカ」(中公新書¥840+税)を図書館で借りて読みました。個人的には今年読んだ本のベスト3にランクイン。
本書は、なかなか理解できないアメリカの一面、すなわち死刑制度の存続、軍事介入、銃社会の是認などが、しっかりと考察され、読めば納得です。
しかも、それらがキリスト教信仰と強く結びつき、時には歴史的に形成されたアメリカ独自の信仰が、それらを容認したり、それらの大義名分にさえなっていることが分ります。つまり「キリスト教国家なのになぜ?」を「なるほど納得」に変えてくれる名著と言えるでしょう。
著者はアメリカを以下のように位置づけます。
「(ピューリタンの植民地から始まり)国家も国民も未完成の状態から出発し、人為的な集団統合を宿命づけっれた実験国家」「自由と平等という理念を掲げて出発した理念先行型国家」
そして、性と暴力の問題を、縦には歴史的視野から、横には領域横断的視野から検討、そして、その結果浮かび上がるのは、「エネルギーと未熟さをあわせもつ実験国家」という姿だと言います。
「死刑大国?アメリカ」ではピューリタニズム自体に暴力容認傾向があるように書いてしまいましたが、実際には、ピューリタニズムが暴力肯定に利用された、あるいは、現実の問題を暴力によって解決する中で、ピューリタニズムが暴力肯定の教えに変貌したと表現した方が適切なようです。(この箇所についてはHATTORI師のコメントをご参照下さい。著者の鈴木師の主張を私が無批判に受け入れた私の不十分さです。)
本書によれば、アメリカの信仰理解と暴力の関係は明確。次に大まかな歴史的経緯を記します。
(1)17世紀前半。そもそも、植民地時代のピューリタンは神の名において先住民であるインディアン殺戮を正当化。はじめは先住民と移民は友好的な関係。しかし、土地私有の概念の無い先住民と土地を私有する移民との間は対立関係に。
やがてピューリタンたちは、先住民を約束の地の獲得の障害であるカナン人のように考え、虐殺していきます。非戦闘員である女性や子どもたちまで厭わず皆殺しにしたのは、旧約の主の戦いを自らに当てはめた単純すぎる信仰理解によるのでしょう。
(2)同時にピューリタンたちは自らの内部の紛争解決にも暴力を用います。17世紀末に起こった魔女裁判などはその典型。開拓期は、社会の成熟度自体が低いため、問題解決を暴力に頼らざるを得ない現実も。
(3)18世紀になると独立戦争。独立も戦争という暴力によって勝ち取ります。植民地に過ぎないアメリカは民兵組織によって世界最強のイギリス軍と戦います。著者は「独立戦争は民間に武器を普及させ、アメリカは一般市民による暴力の発動を起点として建国」と分析。
(4)独立戦争後の19世紀も暴力による紛争解決は継続。奴隷制度をめぐって対立した南北戦争、19世紀後半まで続いたインディアンに対する武力弾圧などが挙げられます。
(5)19世紀の開拓のスピードには行政や司法の整備が追いつかず、治安維持のため開拓民は自警団を結成。警察のないところでは、犯人を捕まえ、裁判所のないところでは、その役割を代行。その中でリンチの伝統が始まります。
著者はリンチを「共同体の安全という大義名分を掲げて、共同体の多数意見を代弁する自警団が超法規的に集団で少数の人間に対して行う私刑」と明確に定義づけます。
当初は集団に対して脅威となる人物を排除するためのリンチは、やがて処刑を伴うものにエスカレート。白人社会内部では無法者排除の徹底のため、南部では黒人に対して警察権も裁判権も無いままの死刑執行が横行。民衆の中に安全な生活のために暴力を用いる伝統はいよいよ根付いてゆきます。
アメリカはこうした歴史的背景の中で理想を実現する手段として常に暴力を容認あるいは肯定してきました。私はこの暴力を「自由と平等のための暴力」という内部矛盾的な呼称を差し上げたいです。崇高な理想実現のために暴力とという手段を正当化するのですから。
残念なことは、キリスト教信仰がこうした暴力を制限したり、克服する大きな力として働かなかったことです。むしろ、暴力が神の義の実現のための正当な権威の行使とさえ理解されているようです。
昨日は終戦の日でした。キリスト教信仰が侵略戦争という暴力、天皇制支配という暴力に対抗することができず、むしろそれを容認し、協力さえしてしまった日本のキリスト教界です。決して自分を安全地帯において、アメリカ批判をすることはできないでしょう。まずは、類似の歴史を持つ者として、悔い改めの実を結び、それを証しする責務を自覚すべきでしょう。
明日以降は、差別と暴力、銃社会、軍事介入などのトピックを扱います。乞うご期待。
本書は、なかなか理解できないアメリカの一面、すなわち死刑制度の存続、軍事介入、銃社会の是認などが、しっかりと考察され、読めば納得です。
しかも、それらがキリスト教信仰と強く結びつき、時には歴史的に形成されたアメリカ独自の信仰が、それらを容認したり、それらの大義名分にさえなっていることが分ります。つまり「キリスト教国家なのになぜ?」を「なるほど納得」に変えてくれる名著と言えるでしょう。
著者はアメリカを以下のように位置づけます。
「(ピューリタンの植民地から始まり)国家も国民も未完成の状態から出発し、人為的な集団統合を宿命づけっれた実験国家」「自由と平等という理念を掲げて出発した理念先行型国家」
そして、性と暴力の問題を、縦には歴史的視野から、横には領域横断的視野から検討、そして、その結果浮かび上がるのは、「エネルギーと未熟さをあわせもつ実験国家」という姿だと言います。
「死刑大国?アメリカ」ではピューリタニズム自体に暴力容認傾向があるように書いてしまいましたが、実際には、ピューリタニズムが暴力肯定に利用された、あるいは、現実の問題を暴力によって解決する中で、ピューリタニズムが暴力肯定の教えに変貌したと表現した方が適切なようです。(この箇所についてはHATTORI師のコメントをご参照下さい。著者の鈴木師の主張を私が無批判に受け入れた私の不十分さです。)
本書によれば、アメリカの信仰理解と暴力の関係は明確。次に大まかな歴史的経緯を記します。
(1)17世紀前半。そもそも、植民地時代のピューリタンは神の名において先住民であるインディアン殺戮を正当化。はじめは先住民と移民は友好的な関係。しかし、土地私有の概念の無い先住民と土地を私有する移民との間は対立関係に。
やがてピューリタンたちは、先住民を約束の地の獲得の障害であるカナン人のように考え、虐殺していきます。非戦闘員である女性や子どもたちまで厭わず皆殺しにしたのは、旧約の主の戦いを自らに当てはめた単純すぎる信仰理解によるのでしょう。
(2)同時にピューリタンたちは自らの内部の紛争解決にも暴力を用います。17世紀末に起こった魔女裁判などはその典型。開拓期は、社会の成熟度自体が低いため、問題解決を暴力に頼らざるを得ない現実も。
(3)18世紀になると独立戦争。独立も戦争という暴力によって勝ち取ります。植民地に過ぎないアメリカは民兵組織によって世界最強のイギリス軍と戦います。著者は「独立戦争は民間に武器を普及させ、アメリカは一般市民による暴力の発動を起点として建国」と分析。
(4)独立戦争後の19世紀も暴力による紛争解決は継続。奴隷制度をめぐって対立した南北戦争、19世紀後半まで続いたインディアンに対する武力弾圧などが挙げられます。
(5)19世紀の開拓のスピードには行政や司法の整備が追いつかず、治安維持のため開拓民は自警団を結成。警察のないところでは、犯人を捕まえ、裁判所のないところでは、その役割を代行。その中でリンチの伝統が始まります。
著者はリンチを「共同体の安全という大義名分を掲げて、共同体の多数意見を代弁する自警団が超法規的に集団で少数の人間に対して行う私刑」と明確に定義づけます。
当初は集団に対して脅威となる人物を排除するためのリンチは、やがて処刑を伴うものにエスカレート。白人社会内部では無法者排除の徹底のため、南部では黒人に対して警察権も裁判権も無いままの死刑執行が横行。民衆の中に安全な生活のために暴力を用いる伝統はいよいよ根付いてゆきます。
アメリカはこうした歴史的背景の中で理想を実現する手段として常に暴力を容認あるいは肯定してきました。私はこの暴力を「自由と平等のための暴力」という内部矛盾的な呼称を差し上げたいです。崇高な理想実現のために暴力とという手段を正当化するのですから。
残念なことは、キリスト教信仰がこうした暴力を制限したり、克服する大きな力として働かなかったことです。むしろ、暴力が神の義の実現のための正当な権威の行使とさえ理解されているようです。
昨日は終戦の日でした。キリスト教信仰が侵略戦争という暴力、天皇制支配という暴力に対抗することができず、むしろそれを容認し、協力さえしてしまった日本のキリスト教界です。決して自分を安全地帯において、アメリカ批判をすることはできないでしょう。まずは、類似の歴史を持つ者として、悔い改めの実を結び、それを証しする責務を自覚すべきでしょう。
明日以降は、差別と暴力、銃社会、軍事介入などのトピックを扱います。乞うご期待。

