命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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自由と平等のための暴力(1)
 最近、鈴木透著「性と暴力のアメリカ」(中公新書¥840+税)を図書館で借りて読みました。個人的には今年読んだ本のベスト3にランクイン。

 本書は、なかなか理解できないアメリカの一面、すなわち死刑制度の存続、軍事介入、銃社会の是認などが、しっかりと考察され、読めば納得です。

 しかも、それらがキリスト教信仰と強く結びつき、時には歴史的に形成されたアメリカ独自の信仰が、それらを容認したり、それらの大義名分にさえなっていることが分ります。つまり「キリスト教国家なのになぜ?」を「なるほど納得」に変えてくれる名著と言えるでしょう。

 著者はアメリカを以下のように位置づけます。
 「(ピューリタンの植民地から始まり)国家も国民も未完成の状態から出発し、人為的な集団統合を宿命づけっれた実験国家」「自由と平等という理念を掲げて出発した理念先行型国家

 そして、性と暴力の問題を、縦には歴史的視野から、横には領域横断的視野から検討、そして、その結果浮かび上がるのは、「エネルギーと未熟さをあわせもつ実験国家」という姿だと言います。

 「死刑大国?アメリカ」ではピューリタニズム自体に暴力容認傾向があるように書いてしまいましたが、実際には、ピューリタニズムが暴力肯定に利用された、あるいは、現実の問題を暴力によって解決する中で、ピューリタニズムが暴力肯定の教えに変貌したと表現した方が適切なようです。(この箇所についてはHATTORI師のコメントをご参照下さい。著者の鈴木師の主張を私が無批判に受け入れた私の不十分さです。)


 本書によれば、アメリカの信仰理解と暴力の関係は明確。次に大まかな歴史的経緯を記します。

(1)17世紀前半。そもそも、植民地時代のピューリタンは神の名において先住民であるインディアン殺戮を正当化。はじめは先住民と移民は友好的な関係。しかし、土地私有の概念の無い先住民と土地を私有する移民との間は対立関係に。
 やがてピューリタンたちは、先住民を約束の地の獲得の障害であるカナン人のように考え、虐殺していきます。非戦闘員である女性や子どもたちまで厭わず皆殺しにしたのは、旧約の主の戦いを自らに当てはめた単純すぎる信仰理解によるのでしょう。

(2)同時にピューリタンたちは自らの内部の紛争解決にも暴力を用います。17世紀末に起こった魔女裁判などはその典型。開拓期は、社会の成熟度自体が低いため、問題解決を暴力に頼らざるを得ない現実も。

(3)18世紀になると独立戦争。独立も戦争という暴力によって勝ち取ります。植民地に過ぎないアメリカは民兵組織によって世界最強のイギリス軍と戦います。著者は「独立戦争は民間に武器を普及させ、アメリカは一般市民による暴力の発動を起点として建国」と分析。

(4)独立戦争後の19世紀も暴力による紛争解決は継続。奴隷制度をめぐって対立した南北戦争、19世紀後半まで続いたインディアンに対する武力弾圧などが挙げられます。

(5)19世紀の開拓のスピードには行政や司法の整備が追いつかず、治安維持のため開拓民は自警団を結成。警察のないところでは、犯人を捕まえ、裁判所のないところでは、その役割を代行。その中でリンチの伝統が始まります。
 著者はリンチを「共同体の安全という大義名分を掲げて、共同体の多数意見を代弁する自警団が超法規的に集団で少数の人間に対して行う私刑」と明確に定義づけます。
 当初は集団に対して脅威となる人物を排除するためのリンチは、やがて処刑を伴うものにエスカレート。白人社会内部では無法者排除の徹底のため、南部では黒人に対して警察権も裁判権も無いままの死刑執行が横行。民衆の中に安全な生活のために暴力を用いる伝統はいよいよ根付いてゆきます。

 アメリカはこうした歴史的背景の中で理想を実現する手段として常に暴力を容認あるいは肯定してきました。私はこの暴力を「自由と平等のための暴力」という内部矛盾的な呼称を差し上げたいです。崇高な理想実現のために暴力とという手段を正当化するのですから。

 残念なことは、キリスト教信仰がこうした暴力を制限したり、克服する大きな力として働かなかったことです。むしろ、暴力が神の義の実現のための正当な権威の行使とさえ理解されているようです。

 昨日は終戦の日でした。キリスト教信仰が侵略戦争という暴力、天皇制支配という暴力に対抗することができず、むしろそれを容認し、協力さえしてしまった日本のキリスト教界です。決して自分を安全地帯において、アメリカ批判をすることはできないでしょう。まずは、類似の歴史を持つ者として、悔い改めの実を結び、それを証しする責務を自覚すべきでしょう。

 明日以降は、差別と暴力、銃社会、軍事介入などのトピックを扱います。乞うご期待。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 08:48 | comments(12) | trackbacks(0) | - | - |
私の言葉遣いが不適切でしたね。今後訂正します。アメリカ教会史は黒人教会を除いては不勉強なので、何とも言えませんが、国民の多数が礼拝出席しない国をキリスト教国と呼ぶのは適当ではないと思います。実はこの言葉を使っている私自身も「キリスト教的背景濃厚国家」だと思っています。ご指摘に感謝し、今後、訂正させていただきます。
| ヤンキー牧師 | 2008/01/08 8:59 PM |
今頃、大変な遅れ馳せコメントでありますが、アメリカをキリスト教国家と表現することには大変抵抗があります。キリスト教の背景が強いだけであって、キリスト教国家とは呼べません。実際のアメリカ教会史を見ても、不信仰なピューリタン二世、三世に、投票権を与えるのかなどの問題が生じ、玉虫色の結論で問題を回避したりしてきた事実があります。入植の早い時期にもうそのような問題に直面してきているのですから、今日、キリスト教国家とは呼べないでしょう。
| 細木 | 2008/01/08 10:55 AM |
ikaponさん、ありがとうございます。期待が膨らむご紹介ですね。私も観てみようと思います。読者への啓蒙を感謝。
| ヤンキー牧師 | 2007/08/29 8:12 AM |
ミーちゃん、はーちゃんさんの映画リストを見てもうひとつぜひ見ていただきたい映画を思い出しました。
「輝く夜明けに向かって」という南アフリカのアパルトヘイトに関する映画です。他のアパルトヘイトや差別関連の映画にはないメッセージがこの映画にはこめられているように私は感じました。映画のラストには私が予想してなかった展開があり、大変感動しました。ネタばれにならないよう内容はふせますが、暴力や差別の連鎖を断ち切るためには、とても大事な何かが必要です。その何かがこの映画には描かれていると思いました。
| ikapon | 2007/08/26 3:08 PM |
ミーちゃん、はーちゃん、ありがとうございます。映画には無知の私なので、ナイスフォローに感謝です。いろいろな立場や視点から差別と暴力を描いているかと思います。いい参考資料になるでしょう。ありがとうございます!
| ヤンキー牧師 | 2007/08/21 11:13 AM |
いつも面白く見せていただいております。

多分、このサイトを見ておられる方に参考になる映画をいくつかご紹介したいと思います。

ミシシッピーバーニング 
南部のリンチがどのようなものであったか、それをアングロサクソン系の人から見ると、こんな感じなのか、ということを見ることができます。

カラーパープル
黒人社会のあり方を丹念に描いていると思います。
ウーピーゴールドバーグが出ている。


ロング・ウォーク・ホーム
60年代の公民権運動の社会がどうだったか、ということを知ることができる作品です。また、これも自分の信念を守ることの大変さ、ということを考えさせられます。これもまた、ウーピーゴールドバーグが出ている。

クルーシブル
初期開拓時代に起きた魔女裁判が一種の集団ヒステリーであったこと、その中で、自らの立場を守ることが以下に困難であるかを描いた作品。集団的な暴力、数の正義の中で、自らの立場を貫くことが困難であることがよくわかります。


評決の時
南部で、黒人の少女がレイプされ、裁判にかかる直前に黒人の少女の父が犯人を裁判所で銃殺する事件を背景にした映画です。裁判とは何か、構成とは何か、と感じさせる映画です。特に、アメリカでは小学生から叩き込まれる、under God, indivisible, with liberty and justice for allというThe Pledge of Allegiance って何だろう、ということを考えさせられる作品でした。 最初はサンドラブロックに惹かれてみていた作品でしたが、引き込まれてしまいました。

遠い夜明け
南アフリカについてのアパルトヘイトの実態の一端を考えるために、見て置かれたほうがいいかもしれません。

これらの作品は、皆さん、ご存知だとは思いますが。
| ミーちゃん、はーちゃん | 2007/08/20 9:23 PM |
私の失点を補って余りあるHATTORIさんの逆転満塁ホームラン級のコメントに感激です。
 ピューリタンに対する正しい理解、聖書解釈と適用の問題、信仰と暴力を論ずる以前の課題がありますね。
 特に「実際問題についてどう聖書を読んだかということが議論の射程に入れられないと」という点はまさにその通りですね。
 私自身も政治的、ジャーナリスティックなレベルまでなので、このシリーズは今朝の時点で潔く撤退を決めました。重ねてコメントに感謝します!
| ヤンキー牧師 | 2007/08/18 8:15 PM |
昨日は外出の時間を勘違いしていて余裕がなく、ぶっきらぼうな文章になってしまい大変失礼いたしました。慌てて書くのは良くないですね。反省しています。(文章の改行もめちゃくちゃですし・・)

文中で「著者」と言ったのはもちろん鈴木透氏のことで、氏のピューリタン理解の画一性(と私には思える)には意見をしましたが、ヤンキー牧師様の文章自体に判断を下した訳では決してありません。甚だ誤解を招く書き方になってしまったことを申し訳なく思っています。

文中で紹介したロイド・ジョンズの本も、パッカーの本も、(私の知る限り)残念ながら邦訳はないようです。ブログ読者の方がもし、パッカー著の『神について(原題 "Knowing God")』(いのちのことば社)を読まれれば、この本は20世紀における正にピューリタンの信仰と神学と霊性の結晶とも言える本なので(そして21世紀を通して読まれ続けられるであろうし、また読み継がれなくてはならない)、ステレオタイプなピューリタン像とは違ったピューリタン信仰の精髄に触れることができるのではと考えます。

ヤンキー牧師様の文章の文脈とはやや脱線しますが、
>キリスト教信仰がこうした暴力を制限したり、克服する大きな力として働かなかったこと
に関して、私は今から20年ほど前に、某キリスト教出版社社主であるA師から一冊の本をいただきました。それはアメリカ福音派の神学者であるロバートK.ジョンストン(Robert K. Johnston)という人が著した『行き詰まった福音派 〜実際問題としての聖書の権威〜("Evangelicals at an Impasse: Biblical Authority in Practice"、John Knox Press, 1979)』という本です。A師の言葉を借りれば、「・・アメリカで聖書無誤論争の盛んなときだったが、聖書の無誤性を信じる人たちの具体的問題へのアプローチがまるで相反する解答を出していることを指摘した本」(『信仰と家庭』復刊1号 p.3)なのです。つまり、「聖書は誤り無き神の言葉」という命題を信じていることと、では、その命題を信じている者が「どう聖書を読むか」という解釈の問題が米国福音派の中では切り離されており、後者(つまり聖書解釈の問題)が置き去りにされていることをジョンストンは鋭く指摘したのでした。(確かに、無誤性論争自体はその後収束し、以後神学界では、ポストモダンの時代の到来と共に、聖書解釈(interpretation)や解釈学(hermeneutics)の問題に議論は移行して行きました。) 置き去りにされた実際問題としてジョンストンが提出しているものの中に、例えば、教会における女性教職者論であり、ホモセクシュアリティの問題があるのです。いやむしろ、実は福音派内の聖書解釈における不一致が最も鋭い形で顕在化したのが上記の実際問題である、というのがジョンストンの主旨でしょうか。とにかくこの本は、脚注を入れても全体で178頁ほどのペーパーバックで、マイナーな出版社から出た本ですが、当時私は多くの示唆を受けました。本を紹介して下さったA師には感謝しています。

鈴木氏の『性と暴力のアメリカ』におけるピューリタンへの言及で決定的に欠落しているのが、つまり「ピューリタンたちはどう聖書を読み、そしてどう実際生活の中で適用していたか」という視点なのです。つまり氏は学者として、ピューリタン自身の著作や説教という一次資料にどこまであたってどう評価したのかということが少なくとも私にはさっぱり見えてこないのです。(私自身は学生時代、ロイド・ジョンズやパッカーなどが信仰のヒーローでしたから、彼らが研究していたピューリタンについて自ずと関心が沸き、当時バナー・オブ・トゥルース社(Banner of Truth)から刊行されていたピューリタンの著作を買い集め、17世紀や18世紀の英語と格闘していました。リチャード・シッブス、リチャード・バクスター、ジョン・オーウェン、ジョナサン・エドワーズ、ジョージ・ホイットフィールド、etc. etc.  今となっては良い思い出です。笑) これが私が鈴木氏のピューリタン像をステレオタイプと評した理由です。

倫理の問題を政治的にまたジャーナリスティックに論じることは誰にでもできることです。実際問題について「どう聖書を読んだか」ということが議論の射程に入れられないと、クリスチャンが倫理を論じる意義が半減するのでは・・と私は思います。

乱筆乱文、誤字脱字にて失礼いたします。

| HATTORI | 2007/08/18 5:38 PM |
太郎さんのご意見、ごもっともです。私はブログ初心者ですので、こうしたアドバイスはありがたいです。さっそく採用することとします。
| ヤンキー牧師 | 2007/08/17 7:39 PM |
インターネットの世界で、「師」とか「先生」とかの縦(たて)社会の価値観を持ち込むのは、わたしは好きではありません。個人の好みなので自由でしょうが、日本語では、どうも、尊称、敬称が、上下関係を持ち込んでしまいます。
それなら、ロイドジョンズ先生、パッカー先生と言わないと矛盾しますし、著者の鈴木透氏も、バランスを考慮してか、「師」をつけざるを得ません。どこからが師で、どこから先生になるのでしょう? 

せっかくの貴重な働きをしておられるです。若者も、ベテランも、神の前に同じ地面に立って、率直、対等な意見交換ができればと願います。
きっとヤンキーな牧師さんなら、自分を「先生」と呼ばれるのは遠慮したいのでは?

・・と、日本の教会の人間関係が、もっと福音化されないかと、はかない夢を描いている一信徒のつぶやきでした。
| 太郎 | 2007/08/17 2:56 PM |
本ブログの良心であるHATTORI師のコメントに感謝します。不勉強の故に鈴木透師の主張を無批判に受止めてしまったようですね。
 今回も逸脱しそうなところを助けて下さり、感謝です。どうも、私の学識では、論じ切れないようですから、このシリーズでは信仰理解との関係は言及しないようにします。
 読者の皆さんも詳しく学びたい方は、コメントに挙げられた資料をご参照下さい。
| ヤンキー牧師 | 2007/08/17 2:34 PM |
米国のプロテスタントが特異な歴史を持つことには同意できるものの、著者の「ピューリタン」についての認識は
いささかステレオタイプ。少なくとも、D.M.ロイドジョンズ著『ピューリタン("The Puritans"』や、
J.I.パッカー著『敬虔への渇き("A Quest for Godliness: The Puritan Vision of the Christian Life")』に
おいて考察されたピューリタン像とはかけ離れた印象です。思うに著者は、1)ピューリタンの一部(それなりに
大きなセクトであったかもしれないが)を、あたかも全体のように見なしている、2)専門家による最近のピューリタン研究に精通しておられるかどうかが見えてこない、などがステレオタイプと映る印象でしょうか・・。

>現実の問題を暴力によって解決する中で、ピューリタニズムが暴力肯定の教えに変貌したと表現した方が
>適切なようです。

確かに、ロイドジョンズも指摘するように、アメリカ大陸に渡ったピューリタンと、そうでなかったピューリタンとの
間には霊的・神学的に大きな違いが深層にあったのかもしれません。

アメリカにおけるプロテスタント(とりわけファンダメンタリズムや福音主義など)の歴史は、単にピューリタニズム
だけでなく、様々な要因が絡み合った複雑かつ特異な過程であることは間違いないようです。
| HATTORI | 2007/08/17 11:18 AM |









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