2008.08.09 Saturday
不倫は偽装愛の代表格
芸能人はもちろんのこと、女子アナばかりか男子アナまでも、スポーツ選手も、政治家や経済界のリーダーたちも、まあ、不倫報道の多いことよ!
ある会社のある部署での合言葉は「人の不倫見てわが不倫直せ」だとか。
不倫くらい愛のように見えて、愛に反する恋愛の形態はないでしょう。私に言わせれば、不倫とは「偽装愛の代表的形態」「愛の相互勘違い劇場」「自己愛性恋愛障害」であります。
愛とは自分を犠牲にしても相手の幸せを願うこと。
欲とは相手を犠牲にしてでも自分の幸せを願うこと。
不倫関係とはお互いに愛し合っているのではなく、お互いが求め合っているに過ぎません。本当に愛しているのは、きっと自分。
以前、ある集会(中高生と青年)で興味深い質問を受けました。「妻子のある人を好きになってしまったらどうしたらいいですか?」
私の回答は「もし、そうなったら、その妻子のある人を心から愛してください。」というもの。つまり逆説的真理、しかも聖書的真理のつもりなのです。
妻子のある男性を好きになること、魅かれることはありでしょう。しかし、それは本当の意味では愛とは呼ばれません。それは欲、執着、自己愛。
本当に妻子ある男性を愛するなら、その女性はその男性の本当の幸福を考え、その実現のために努力をします。自分を犠牲にするまでの痛みや苦しみを伴って。
神様が喜ばれない、祝福されないことは言うまでもありません。そもそも、不倫を愛と呼んでいいのでしょうか?本当の愛は相手の幸福を願います。相手の家庭円満を願います。相手の家族の幸福を願います。そのためなら、自分がその人を諦めるという最もしたくない決断を下します。愛とはそういうものでしょう。
異性への絶ちがたい執着心や押さえ切れない愛情欲求や性的欲求を安易に「愛」と呼んでしまい、自分も愛しているつもりになってしまうのが、現代日本社会における「自己愛性恋愛障害」なのでは?
ローマ13:10は教えます。「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」と。不倫が愛に反するのは聖書によれば一目瞭然。義しさを伴わぬ愛は愛ではなく、愛なき義しさも義しさではないでしょう。
確か、ジョン・ストットがこの聖書の言葉についてこう解説していたと思います。「律法が愛のガイドラインであり、愛は律法を行うためのエンジンである」と。つまり、愛はルールを守ることで愛でありえるし、本当の愛は相手のためにルールを守ろうとするはず。
ならば、結婚は男女の愛のガイドラインであり、愛が結婚をするためのエンジンなのでしょう。不倫は愛の暴走行為、交通違反。また、結婚のための愛という強力エンジンを暴走行為のために用いてはならないでしょう。
不倫報道の連続に、「本当の愛とはなんなのか?」が問われている日本社会。聖書の正解をお伝えしたいものですね。
ある会社のある部署での合言葉は「人の不倫見てわが不倫直せ」だとか。
不倫くらい愛のように見えて、愛に反する恋愛の形態はないでしょう。私に言わせれば、不倫とは「偽装愛の代表的形態」「愛の相互勘違い劇場」「自己愛性恋愛障害」であります。
愛とは自分を犠牲にしても相手の幸せを願うこと。
欲とは相手を犠牲にしてでも自分の幸せを願うこと。
不倫関係とはお互いに愛し合っているのではなく、お互いが求め合っているに過ぎません。本当に愛しているのは、きっと自分。
以前、ある集会(中高生と青年)で興味深い質問を受けました。「妻子のある人を好きになってしまったらどうしたらいいですか?」
私の回答は「もし、そうなったら、その妻子のある人を心から愛してください。」というもの。つまり逆説的真理、しかも聖書的真理のつもりなのです。
妻子のある男性を好きになること、魅かれることはありでしょう。しかし、それは本当の意味では愛とは呼ばれません。それは欲、執着、自己愛。
本当に妻子ある男性を愛するなら、その女性はその男性の本当の幸福を考え、その実現のために努力をします。自分を犠牲にするまでの痛みや苦しみを伴って。
神様が喜ばれない、祝福されないことは言うまでもありません。そもそも、不倫を愛と呼んでいいのでしょうか?本当の愛は相手の幸福を願います。相手の家庭円満を願います。相手の家族の幸福を願います。そのためなら、自分がその人を諦めるという最もしたくない決断を下します。愛とはそういうものでしょう。
異性への絶ちがたい執着心や押さえ切れない愛情欲求や性的欲求を安易に「愛」と呼んでしまい、自分も愛しているつもりになってしまうのが、現代日本社会における「自己愛性恋愛障害」なのでは?
ローマ13:10は教えます。「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」と。不倫が愛に反するのは聖書によれば一目瞭然。義しさを伴わぬ愛は愛ではなく、愛なき義しさも義しさではないでしょう。
確か、ジョン・ストットがこの聖書の言葉についてこう解説していたと思います。「律法が愛のガイドラインであり、愛は律法を行うためのエンジンである」と。つまり、愛はルールを守ることで愛でありえるし、本当の愛は相手のためにルールを守ろうとするはず。
ならば、結婚は男女の愛のガイドラインであり、愛が結婚をするためのエンジンなのでしょう。不倫は愛の暴走行為、交通違反。また、結婚のための愛という強力エンジンを暴走行為のために用いてはならないでしょう。
不倫報道の連続に、「本当の愛とはなんなのか?」が問われている日本社会。聖書の正解をお伝えしたいものですね。