命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
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不倫は偽装愛の代表格
 芸能人はもちろんのこと、女子アナばかりか男子アナまでも、スポーツ選手も、政治家や経済界のリーダーたちも、まあ、不倫報道の多いことよ!

 ある会社のある部署での合言葉は「人の不倫見てわが不倫直せ」だとか。

 不倫くらい愛のように見えて、愛に反する恋愛の形態はないでしょう。私に言わせれば、不倫とは「偽装愛の代表的形態」「愛の相互勘違い劇場」「自己愛性恋愛障害」であります。

 とは自分を犠牲にしても相手の幸せを願うこと。
 とは相手を犠牲にしてでも自分の幸せを願うこと。

 不倫関係とはお互いに愛し合っているのではなく、お互いが求め合っているに過ぎません。本当に愛しているのは、きっと自分

 以前、ある集会(中高生と青年)で興味深い質問を受けました。「妻子のある人を好きになってしまったらどうしたらいいですか?

 私の回答は「もし、そうなったら、その妻子のある人を心から愛してください。」というもの。つまり逆説的真理、しかも聖書的真理のつもりなのです。

 妻子のある男性を好きになること、魅かれることはありでしょう。しかし、それは本当の意味ではとは呼ばれません。それは欲、執着、自己愛。

 本当に妻子ある男性を愛するなら、その女性はその男性の本当の幸福を考え、その実現のために努力をします。自分を犠牲にするまでの痛みや苦しみを伴って。
 
 神様が喜ばれない、祝福されないことは言うまでもありません。そもそも、不倫を愛と呼んでいいのでしょうか?本当の愛は相手の幸福を願います。相手の家庭円満を願います。相手の家族の幸福を願います。そのためなら、自分がその人を諦めるという最もしたくない決断を下します。愛とはそういうものでしょう。

 異性への絶ちがたい執着心や押さえ切れない愛情欲求や性的欲求を安易に「」と呼んでしまい、自分も愛しているつもりになってしまうのが、現代日本社会における「自己愛性恋愛障害」なのでは?

 ローマ13:10は教えます。「愛は隣人に害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」と。不倫が愛に反するのは聖書によれば一目瞭然。義しさを伴わぬ愛は愛ではなく、愛なき義しさも義しさではないでしょう。

 確か、ジョン・ストットがこの聖書の言葉についてこう解説していたと思います。「律法が愛のガイドラインであり、愛は律法を行うためのエンジンである」と。つまり、愛はルールを守ることで愛でありえるし、本当の愛は相手のためにルールを守ろうとするはず。

 ならば、結婚は男女の愛のガイドラインであり、愛が結婚をするためのエンジンなのでしょう。不倫は愛の暴走行為、交通違反。また、結婚のための愛という強力エンジンを暴走行為のために用いてはならないでしょう。

 不倫報道の連続に、「本当の愛とはなんなのか?」が問われている日本社会。聖書の正解をお伝えしたいものですね。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 09:47 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
多くの論点がありすぎて、また、多様性もありすぎて、正直責任ある見解は難しいですが、将来的にはチャレンジしたいですね。
| ヤンキー牧師 | 2008/08/12 5:49 PM |
信仰に対する反発から結婚に反対されるケースはクリスチャン・カップルにとって一番起こりやすく、また困難なものでしょうね。
この問題については、結婚に関して、まさに例外のケースですね。
も、その男女がともに熱心に祈る機会でもあると思います。
むしろ信仰に反対する人が救われる機会かもしれませんし。
まぁ言うは易く、行うは難しですけど。

駆け落ちや親の反対を押し切っての交際を、親の視点からみると、(まぁ僕は未婚なのですが・・・)子どもがノン・クリスチャン(場合によっては他の信仰を持つ人)と結婚を望んているケース、子どものノン・クリスチャンとの交際を禁じることについての是非、など結構多くの論点がありそうですね。
このあたり、できれば水谷先生の分析を聞かせてほしいなぁと思います。
(僕は駆け落ちしようなんて思っていませんけどね!)

今日は日曜日ですね。
それぞれの場所での主への礼拝が守られるように祈っています。
僕もすっかり「命と性の日記」の常連となりつつあります。
| とある学生 | 2008/08/10 9:00 AM |
学生さん、駆け落ちについてのご指摘は興味深いです。私も親などの同意や祝福を得るよう最大限の努力や忍耐をするべきだと思います。同時に、ご指摘のように親に問題がある場合は例外でしょう。

 また、最終的には当人の自己責任なので、どうしても同意や祝福を得られない場合は、許容されるのは?とは思いますよ。あくまで当人のわがままではないという前提です。恋愛中は冷静や判断、信仰的な判断が困難ですから、要注意です。あくまで慎重に。

 私は駆け落ち同様の結婚をした牧師夫妻を存じ上げています。このケースでは、信仰への無理解など不当な親の支配があったようです。
| ヤンキー牧師 | 2008/08/09 9:09 PM |
不倫や浮気は本当に倒錯した愛ですね。
そもそも愛でも何でもないです。
なぜ、それを「愛」と呼び始めたのか不思議なくらいです・・・。
サタンの甘く狡猾な罠ですね。
「本当の愛、真実の愛」。
こればかりは、キリストにある無限の愛を知ることなしに理解することは難しいのかもしれません。

ちなみに、結婚や交際に反対された場合に起こりうる、「駆け落ち」については聖書でもあまり語られない事柄かもしれませんが、これも自己愛のひとつだと思います。
(聖書で語られないのは、当時、駆け落ちなんて誰もしなかったからだと思ったりします。)
そもそも両親や周囲の人の祝福を受けての結婚するのが本来の姿であるし、自然とそれを望むものでしょう。
それに、親は子の将来を案じて結婚や交際に対して意見したり時に反対するのであると思いますから、婚姻関係を結ぶにふさわしい者となる必要があると思います。
相手を親から引き離す以上、親を安心させた上で、夫婦となる責任があると感じます。
一方で、親が子を支配したいがためや、子の交際相手の職業や社会的な身分など世間体を気にするがゆえ、結婚や交際を過剰に禁じる場合もあると思います。
これについて、親はその子に対する取り扱いがつまづきとならないように十分注意しなくてはいけないと思います。
あ、なんか釈迦に説法(牧師に説教?)みたいな話になってしまいました・・・。
| とある学生 | 2008/08/09 10:47 AM |









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