命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
育てよう健全牧師(37)
 久々のこのシリーズ。もう37回目であります。牧師が教え、信徒が成長するという一方通行ではなく、牧師と信徒の相互成長を願ってのこのシリーズであります。牧師という働きは極めて特殊であり、自らを見失い、不健全化しやすい要素を多々持っております。そこで、信徒が牧師をそうした不健全化から守り、牧師が健全に育って下さることを願っての今日の記事。

 今回取り上げたいのは、「カーナビ牧師」であります。「カーナビ牧師」と聞いて「カーナビが人工衛星から、運転者を目的地に導いてくれるように、神様の視点から、信徒を見てくださり、目的地に導いてくださる牧師のことか!」と思ったら大間違い。では、「カーナビ」牧師とは何ぞや?

 カーナビ搭載の自動車を運転したり、同乗していてこんな経験はありませんか?

カーナビ音声 「目的地周辺です。案内を終了します。

運転手心の声 「おい、目的地周辺で案内終了かよー!ちゃんと最後まで案内せーよー!

 
 賢明な読者はもうすでにお分かりだと思います。そのように「目的地そのもの」ではなく「目的地周辺まで案内して、案内終了をする牧師」、それが「カーナビ牧師」であります。
 
 具体例を挙げてみましょう。「礼拝出席、聖書を読むこと、お祈り、奉仕、献金」。この五つを教えて信仰生活を導いてくださるのですが、その向こう側にある大きな目的地は示してくださいません。まるでこの五つを実行すること自体がクリスチャン生活のようにとらえてしまう信徒も。この五つはとても大切ですが、それ自体が目的ではないはず。むしろ、その行為を通じて目指すべき本来の目標を意識してこそ、この五つの行為に本来の意味が生ずるのでは?

 「礼拝出席、聖書を読むこと、お祈り、奉仕、献金」。これらは、いわば、「人生を導く五つの目的」ではなく、「人生を導く五つの目的地周辺」と言うべきでしょう。このように目的地周辺まで、信徒を導いておいて、 「目的地周辺です。案内を終了します。」となってしまうのが、「カーナビ牧師」であります。

 カーナビ牧師に導かれても、真実な礼拝者、聖書読者、祈り手、奉仕者、献金者になることは可能です。ただしそれは聖書や交わりを通じて、目的地を教えられたり、自ら発見できた一部の信徒に過ぎません。多くの信徒は牧師が案内してくれた「目的地周辺」を実行しながら、究極的な目的を見出せず、葛藤したり、信仰生活に意欲を失ったりです。あるいは五つの項目を満たしながら、それによって、自分はクリスチャンでだという自己確認をしながら、信仰生涯を継続していくのでしょう。

 そして、カーナビ牧師の最大の問題点は、牧師自身が、職務の目的を見失っていることです。信徒を目的地周辺に導くこと自体を、職務の目的に置き換えてしまっているからです。つまり、牧師自身がナビゲーションを必要としているという状態に陥っているわけです。

 では、どうすればよいのでしょう?牧師自身がこうした五つの事柄の向こうにある本来の目的を悟り、信徒に理解できる言葉や表現で伝えていくことは当然のことでしょう。牧師の役割が「教師」であるなら、そうした責任はあると私自身は考えています。では、その共通の目標に最後まで信徒を導いていくのは牧師でしょうか?

 聖書の示すリーダーシップは多様でしょうが、少なくとも私自身は、「牧師が100%導き手で信徒100%追従者」というのは聖書的ではないだろうと考えています。そこまでの牧師依存体質は、万人祭司に反するのでは?と思うのです。

 聖書が示す目的地を悟りながらも、具体化していくことは簡単ではありません。牧師も迷ったり、時に目的地を見失ってしまうことも。そこで、牧師と信徒が一緒に、常にみことばから、目的地自体を確認しながら、その目的地を共有し、祈りと聖書と交わりによって具体的なことは、ナビゲートされながら、目的地目指して、歩んでいくことかなー、それが教会論的で健全なのだろうなと思うわけです。

 そう、牧師が完全カーナビになり、目的地まで完全に案内する必要はないでしょう。むしろ、聖書が示す普遍的な目的を指し示しながら、信徒と共にその目的地を目指していく交わりに生きること、それが健全な牧師のありかたかな?などと考えるのですが、どうでしょう?

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
 

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| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 09:18 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(36)

 今回、取り上げたいのは、 「飼い犬に手を噛まれた」と愚痴る「信徒飼い殺し」牧師。「飼い犬に手を噛まれた」発言をする牧師についての危惧は「牧師:信徒≠飼い主:飼い犬」という記事で取り扱いました。今回はそれに関連しての記事。

 成熟した信徒に限って、次々と教会を去るというパターンを繰り返す教会があります。未熟なクリスチャンがキリストより牧師につながって、やがて、その牧師が理想どうりでないことを知り、猿のではありません。教会が自分の願い通りにならぬ現実を知り、自己中発想で教会を移動するのではありません。牧師に美しい誤解を持って心酔してしまい、近くで支えながら、やがて牧師の現実を知り、失望をして教会を去るのではありません。むしろ、飼い犬のごとく、情や好き嫌いで牧師につながり心酔し、教会に理想を求める信徒はつながり続けるのです。

 一方で、牧師の欠点も理解しながら、好き嫌いでなく、牧師に敬意をもって支え続けながら、時に聖書から逸脱した牧師のあり方に、正しく柔和で謙遜な愛の忠告をする成熟した信徒がいます。どう考えても聖書的なアドバイスなのに、それを無視したり、応答の弁護も聖書的な反論もなく、時には逆切れしたりする牧師も。その積み重ねから、やがて成熟した信徒から先に去っていく教会。
それを繰り返しながらも、自らの重大な課題を自覚できない牧師。自覚できないからこそ、出てくる言葉は「飼い犬に手を噛まれた」なのであります。

 「見落としてませんか?子どもからのサイン」というフレーズは、子育ての基本。同じく「見落としてませんか?信徒からのサイン」というのは教会形成、牧会の基本。説教中の居眠りも祈祷会の人数減少,力のない賛美なども、信徒の側の怠惰や未熟さ、不信仰によるものとは限りません。それは信徒から牧師の奉仕への無言の評価ということも多々あるのでは?

 それどころではありません。成熟した信徒が、愛の故にはっきり言葉で伝えているのです。それが、受け止められないでどうするのでしょう。成熟した信徒や一番支えてきた役員が去っていくというのは、最後に残す重大なメッセージであります。本来なら牧師から訪ねて行き、謝罪と和解を試み、その言葉を傾聴すべきでしょう。

 それどころか「飼い犬に手を噛まれた」としか解釈できないお粗末さ。牧師という職業、あるいは役割は信徒から想像ができない程、そこまでも、自分を見失いやすいものなのです。そして、明らかに成熟した聖書的主張をする信徒さえ「牧師主観」から「わがままな信徒」「不従順分子」などと、何ら客観性のない判断をしてしまいかねません。

 自分を慕って、肯定し、賛同する信徒ばかり願い、愛の故に聖書的な視点でアドバイスをしてくれる本当に自分にとって幸いな信徒は、いない方がいいのでしょうか?そうした牧師には本当に役立つ成熟した信徒、牧師と共に教会を建て挙げるべき信徒を「飼い殺し」しているケースが多いようにお見受けします。聖書的な自己判断ができず、牧師に安易に依存し追従するだけのイエスマンを、重用する一方で、愛の故に耳の痛いことも忠言する成熟した信徒は「飼い殺し」で、疎ましく扱うばかり。これでは教会は適材適所とはならず、建てあがりません。

 牧師とそれに依存する未熟な信徒が中心で進められるので、牧師個人の限界はいつまでも克服されず、牧師個人の力量以上に教会は成長しません。牧師は、「宝の持ち腐れ」ならぬ「優秀犬飼い殺し」をしているご自分こそが、教会を停滞・衰退させていることも気がつきません。次々と成熟した信徒が教会を去っても気がつかないのですから、ある意味当然でしょう。

 「飼い犬に手を噛まれた」と愚痴る「信徒飼い殺し」牧師・・・・。自覚していただこうと忠告する信徒、愛をもって指摘する成熟した信徒、教会を憂えてこの課題を訴える信徒、その果てに教会を去っていく成熟した信徒たち。同労者として友人や先輩牧師が指摘しても、なおも、認めないことも。教会自治や牧師の権威などの故に、こうした牧師がなかなか戒められることも悔改めに導かれることもなく放置というケースは時々お聞きします。

 安易に「こうした教会については成熟した信徒は去ってゆき、他の教会で活かされたらよい」と判断すべきではないと思います。しかし、同時に「教会に留まりできる限りのことをする」という正論が、常に有効とは限らない現実には深い悲しみを覚えています。結局、こういうことは、教会が私物化されていることではないでしょうか?
 
 こうした牧師については、ただただ、教会をキリストにお返しして欲しいと願います。去っていく成熟した信徒の悲しみを見聞きするたびに思います。 「飼い犬に手を噛まれた」と愚痴る「信徒飼い殺し」牧師を放置しないシステムを教会内部や団体として作っていただきたいと。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。

| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 08:57 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(35)
 今年は仕分けがクローズアップされたこともあり、いわゆる「箱物」が非難の的に。巨額を投じて箱物をつくり、資本回収どころか運営・維持費が自治体の財政を圧迫。税金を使いながら、これでは本末転倒。しかし、キリスト教会も他人事ではないでしょう。「箱物行政牧師」がちらほら。 

 何も会堂建築を否定的に評価しているわけではありません。神の喜ばれる礼拝と交わりの場として、宣教の拠点としての会堂の必要性や必然性は否定しません。

 そうではなくて「会堂という箱物があれば、宣教が進む」とか「会堂がなければ一人前の教会ではない」「信仰をもって大きな会堂を建てるほど、神様は、それを満たす多くの魂を送ってくださる」というような言わば「会堂信仰」を問題視したいのです。こうした安易な会堂絶対主義会堂信仰などの信奉者牧師を「箱物行政牧師」と呼ぶことにしましょう。

 時に箱物牧師はかなりの無理をしてまで、それを「信仰のチャレンジ」と称して、多額の負債をしてまで会堂を建てます。本当に信仰のチャレンジならいいのですが、どうも箱物牧師の場合、「自己実現や安易な宣教理念がありそう・・」と怪しいわけです。

 そのように信徒の心を動かして、かなりの投資をしての会堂建築。立派な会堂が建て上がり、めでたしめでたし。さて、問題はその後にやってきます。

 ひとつは「資本回収?としての宣教」の開始。リアルに迫られるのは宣教の結実より、負債の返済。無意識のうちにも、青年や子どもへの宣教が、二の次にされ、短期資本回収できそうな大人への宣教が主体になることも。純粋に魂を愛し、宣教するのではなく、心のどこかに「資本回収のため」との思いが潜むことも。動機がこれでは、宣教もうまくないでしょう。

 次にかなりの負債をかなり残したまま、牧師が転任した場合、後任牧師はめちゃめちゃ大変になる場合も。負債返済に悩み、労力をかなりそこに割かれます。そのために、牧師の優れた賜物や教会形成理念は活かされず、「宝の持ち腐れ状態」に。会堂は建ったものの、牧師の力量が発揮されず、目に見えぬ本来の教会は、建てあがらないという逆転状態に。

 さらに心配なのが、高齢牧師の引退に関連した場合。「負債完済までは退かない」ように役員から約束させられたり、求められもしないのに自らそのように約束する責任感ある?高齢牧師も。そうなると本来為すべき世代交代は先送りされ、それが教会の弱体化を進めてしまうことも。

 特に求心力の強いカリスマ性のある牧師の場合、引退による信徒減少が心配され、財政破綻の危機も予想されるので、より引退できなくなります。しかし、カリスマ性の強い牧師ほど、適切な時期に引退し、世代交代をしないと教会の将来に致命的な問題をもたらしかねません。「主よ、会堂を礼拝者で満たしたまえ」と祈り、その実現を呼びかけた高齢牧師の働きの継続が、やがて教会員の高齢化を招き、会堂に空席を増やす結果を招くという皮肉な現象もあるとかないとか。

 「家はある家庭がない」とは、建物としての家屋はあるが、家族関係が築き上げられていないという意味。ハードはあってもソフト不在ということ。「箱物行政牧師」がもらしかねない教会の姿は、時に「家はあるが家庭のない神の家族」というもの。

 要は会堂建築自体が自己目的化されたり、それ自体が最優先されることが危険なのでしょう。会堂は箱物ではありません。「何のための会堂か?」「中身の教会形成の理念はいかなるものか?」、そうした本質が二の次にされると心配ですね。くれぐれも「箱物行政牧師」の主張が安易に実現化され、「会堂建築と資本回収」が教会の働きの中心、最重要事項にならないことを願うばかりです。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 19:51 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(34)

  たびたび登場のこのシリーズ、今回も三回にわたりお送りします。「牧師が信徒を育てる、信徒は牧師に育てられるもの」というのは非聖書的な固定観念。牧師と信徒は共に学びあい相互作用で成長するもの。「信徒が牧師を育てる」という側面も実は大切。上から目線で「育ててやろう」ではありません。「牧師の成長のために仕えよう支えよう、交わりを持とう、時には愛をもって真理を語ろう」ということです。

 さてさてよくも続いたものです。34回目は「踊り場なき階段牧師」であります。クリスチャン読者の皆様、所属教会の牧師がそうならないように、牧師夫人の皆さん、夫がそうならないように、牧師読者の皆さんご自分やお知り合いの牧師がそうならないよう、この記事を活用していただければと願うわけです。

 今と違って?某関西の球団が強すぎて、わが軍の同一カード三連敗が心配だった本年は初夏の頃のお話。ラジオで野球中継を聴いていると、「この打線、相手ピッチャーによっては休むところがありませんね」と野球解説者。それを受けてのアナウンサーの返答が見事。

 「踊り場のない階段のようなものですねー

 球場の放送席に山田君が座布団もってきそうな傑作コメントであります。

 そう、「踊り場なき階段牧師」とは、休みなく階段を登り続けるような牧師であります。こうした牧師は「休まないこと」こそが、献身的と信じていたりします。「休息=怠惰=使命放棄」という妙な確信をお持ちの牧師も。明らかにワーカホリックの症状があるのに、認めない牧師、それを放置せざるをえない牧師夫人、それを美徳とさえ評価する教会役員。この状態は病んでいるし、神様の御心でもないと私は思うのですが、どうでしょう?聖書には明らかに「イエスは休まれた」と記されているのですから。

 多忙については藤掛先生が優れた記事を記しておられ、私もそれに触発されて多忙問題について記しております。ご参照下さい。

おふぃすふじかけ「多忙さの周辺」(同日の記事の一番下です)
http://fujikake.jugem.jp/?day=20081223

拙ブログ「多忙は悪魔のローキックじゃ!」
http://blog.chiisana.org/?eid=1013209


 階段を懸命に登り続けるのはよいのですが、踊り場で立ち止まり、考えるべきです。「そもそも何を目指して登っているのか?」という目的確認。「ここまで登ってきた道のりはどうだったのか」という評価や検証。「そしてこれから先はどう登っていくべきか」という考察や検討

 そう、踊り場で立ち止まり、下の段を振り返り、上の段を見つめて考えないと、多忙さがもたらす問題が生じかねません。

 本質を問わなくなり、歪んだ牧会や教会形成になりやすいもの。「目標喪失型教会形成」「自己充足的教会形成」「牧師自己実現としての教会形成」などをしかねません。

 多くの場合、信徒は働きの対象であり、信徒への配慮は階段のぼりですから、信徒には無関心にはなりません。多忙がもたらす他者への無関心の犠牲者は、男性牧師の場合は第一に妻です。牧師夫人が「黙って夫に従う」タイプですと、改善の必要も自覚されず、結婚自体が交わりでなく機能に堕落します。そうした結婚の歪みは夫婦や子ども達、最終的には教会にさえ影響をあたえることでしょう。

 理屈抜きの充足感は、自分を客観視する視点を奪います。自分を見失わせ、時に牧師にあるまじき逸脱を生み出しかねません。牧師不祥事問題の多くが、有能でかなり多忙な牧師であったことは、無関係ではないでしょう。

 牧師のことが心配になった立派な信徒は、藤掛先生の著書「ありのままの自分を生きる」をプレゼントしましょう。踊り場で休むことなく階段を登り続けて、息切れぎみの牧師、実際はへたばっているのに、まだまだ大丈夫と背伸びをしている牧師先生方には必読の書。

 「次の階に上る途中、踊り場で立ち止まりましょうね」、そんな言葉が牧師を逸脱や歪みから守り、健全な働きに軌道修正されるのでしょう。

 実際、「踊り場なき階段のごとき打線」と形容された某球団も、それ以上の強力打線と評価された在京球団も、今は、わが軍の下。もっとも、わが軍は打線に踊り場が多すぎるのが課題のようですが・・・。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。

| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 20:44 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(33)
 AKB48の総選挙報道をテレビで観ながら、私の中で秋元康に対する評価が激変しました。時代をリードする名プロデューーサー、どんなに悪く評価しても「商売上手」だと思っていのですが、今回の総選挙については行き過ぎた競争原理と安易で露骨な売り上げ向上に、ちょっと人格まで疑ってしまいました。

 CD購入による投票権獲得は当然、特定のメンバーを支持する熱狂的ファンによる個人大量CD購入を誘導します。ファン投票という形で数字化され序列化されるメンバー達。もう、人格扱いされてませんよね。これは。

 芸能界ですから競争原理が悪いとは言いませんが、10代の少女に対してここまでの露骨な競争原理を適用するのは、私の感覚では「若年労働者に対するパワハラ」、「人権侵害に相当」「もしかして不当労働行為?」と思えてしまうのです。

 およそ人材の育成、ユニットの成長を目指しているとは思えません。ユニットも個々のメンバーも商品であり、産業の素材であり、事業拡張と利益拡大を願っているのでは?と危惧します。もともとAKBは画一的無機的で嫌いですが、今度は心配になってきました。アイドルなのにを感じさせません。どうも、売る側にとっては商品であり、ファンにとっても単純な愛玩対象に過ぎないようです。私などは「歌って踊る蟹工船」「平成女工哀史」というフレーズさえ浮かんでしまいました。

 こうした秋元康の手法を分析しながら思いついてしまったのが「秋元牧師」であります。文字通り秋元姓の牧師の皆様ごめんなさい。先生のことではありませんから、誤解のありませんように。この「秋元牧師」は固有名詞ではございません。「普通名詞」であります。ある傾向を有する牧師たちを固有名詞によって表現したあくまで「普通名詞」であります。

 普通名詞である秋元牧師はやはり、過度の競争原理を教会に導入します。もちろん、聖書は競争原理自体を全面的に否定しているとは思えません。むしろ肯定的に評価している記述も多くあります。しかし、そうした競争原理の導入は、教会内部を対象にしているとは読めないと思うのです。

 教会はキリストの体、神の民・家族であって、競争より共生、ライバルよりチームメイト、対立より一致、分裂より調和であるはずです。競争原理によって信徒がより成長し、教会も成長するという資本主義的な産業発想はないだろうと聖書を読んでいる私です。むしろ、お互いが励ましあい、戒めあいながら、共に成長し、一致を保ち、キリストに身丈にまで達することを聖書はすすめているはずです。聖書は競争原理でなく、交わりや相互教育の中での成長を示しているように思えるのでしょうが、どうでしょう?

 ところが秋元牧師は教会内部に競争原理を導入します。すると同じ会社の社員が仲間でありながら敵であるように、スポーツチームのメンバーがチームメイトでありながら、ライバルであるような状態にします。つまり、教会の交わりを非聖書的に変質させてしまうのです。そして秋元牧師はある時は「教会のための一致」を呼びかけ、別の場合には「相互の競争」を強調します。見事に「仲間と敵」「チームメイトとライバル」を使い分け、産業的な手法で、信徒を働かせます。

 AKBの総選挙同様、競争には当然、序列化があるわけで、その基準は「奉仕量」「貢献度」「献金額」「集会出席率」ばかりか、ひどい場合には「牧師への従順度」や「組織への忠誠度」となってしまいます。「権威主義的な牧師」と「熱心で純粋だけど聖書に立っての自己判断能力に欠ける献身者、教会スタッフ」という組み合わせの場合は至って危険であります。極端な場合として牧師が「キリストの弟子」でなく「牧師の弟子」を育成し、弟子たちを組織への貢献度や牧師への忠誠度で序列化するなら、それは既にカルト化開始を意味するでしょう。

 秋元側が政治のノリで「総選挙」なら、AKBも政治的に、ここは「労働組合結成」「団体交渉」をしたら、盛り上がるし、社会的意義もあるだろうと冗談交じりに考えます。名づけて「AKBユニオン」であります。AKBメンバーは、労働者としての意識をもって、「若年労働者へのパワハラ反対!」「人権侵害と秋元による搾取構造粉砕!」などを叫んで秋葉でデモでもすれば、ニュースも取り上げ、オタクの皆様の強力な支持を得て世論を大きく動かすことでしょう。立ち上がれ、組織労働者AKBであります。

 同じようにクリスチャンたるもの、特に主任牧師の下で仕える伝道者や教会スッタフには、「主にある人権感覚」「主にある自己判断」などをしっかり持っていただきたいもの。聖書より秋元牧師の指導を鵜呑みにして、あたかも、その放棄が自己否定であり献身であるかのように考え違いをしてはならないでしょう。そうした健全な信仰理解や意識が、秋元牧師化の予防になることでしょう。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 08:12 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(32)
 「またか」と言われながらのこのシリーズ。今回取り上げたいのは「背負い投げ牧師」。元柔道部で黒帯の体育会系牧師で、不従順な信徒は背負い投げで制裁?そんな牧師はおらんやろー。では「背負い投げ牧師」とは?それは、さんざん背負っておいて、最後は投げてしまう牧師のことです。

 そもそも多くの牧師は「背負い」過ぎます。牧師自ら、責任分担や権威の分散をせず本来なら信徒がすべきことまで背負ってしまいがちなもの。高齢者や教会を離れた方の訪問、教会会計、あるいは庭の手入れや会堂清掃まで。しかたなく、あるいは頼める人がいないので、牧師自らが背負います。あるいは信徒がなすべき責任を自覚できず、結果的にどうかと思う負担を牧師に強いている場合も。

 本来は祈りと御言葉に専念すべきなのに、それ以外の責任ばかりを背負ってしまうことが多いのが現実。「どこか万人祭司やねん?」と自らのプロテスタンィズム喪失状態に突っ込む牧師も。

 背負ってしまった牧師がどうなるか?は次の四つに大別されます。

まずは「背負いやめ牧師
 背負うべきでないものまで背負っている自らを悔改め、背負うのをやめる牧師です。信徒への適切な責任分担や権威委譲をします。それが出来ない場合は時間をかけてもそれができる信徒へと育てようと努力をします。ただし、多くの牧師はこのことの必要とその実現を願いながら、葛藤しているのでしょう。

次には「背負いきり牧師
 信仰(と言う名の根性)や強靭な精神力と体力、そして非凡な能力によって、過大な責任と重荷を最後まで背負いきってしまう牧師です。「重き荷を背負いて」献身者生涯を貫徹することから別名「家康牧師」とも呼ばれます。こうした牧師の生存確認年々減少しているように観察しております。


さらには「背負いつぶれ牧師
 背負いきれずに潰れてしまう牧師です。現われとしては健康問題、精神疾患、燃え尽き、家庭問題などです。場合によって牧師としての働き自体が継続不能となります。柔道で言えば、背負い投げをしようとして相手の重さに押しつぶされ寝技に持ち込まれ一本とられるというパターンであります。社会情勢の変化を受けてこうした牧師が年々増加しているようですが、牧師本人も周囲の家族や信徒もこうなる前に何とか手を打っていただきたいもの。

背負い投げ牧師
 散々背負っておいて最後に投げ出してしまうのがこのタイプ。よく考えてみましょう。牧師は辞職や転任があるのです。牧師とその家族にとってみれば、背負い潰れて再起不能、伝道者生涯を閉じるくらいなら辞任転任という選択もありでしょう。神様にとってもそうかもしれません。

 こういうパターンなら一定納得もいくのですが、一番困るのが、頼みもしないのに牧師が何でも背負い込み、その結果、潰れそうになり最後は投げ出すという、「独りよがり系背負い投げ」であります。こういうのは、「信徒納得ゆかず、教会大迷惑」となるのです。これだけはどうかご勘弁を願いたいもの。

 柔道なら背負い投げが決まれば一本勝ちです。しかし、牧師の場合は牧会、教会形成の視点からは、それは「敗北」を意味するのではないでしょか?

 どうも多くのクリスチャンは牧師が教会の中心、あるいは象徴のようにお考えのようですが、教会に継続的に在籍して責任を負い続けていくのは役員や執事たちの方です。最終的に投げ出されて困るのは、そうした責任ある立場の信徒たちや後任牧師であります。
 
 それを防ぐためにも、そもそも投げ出すほど負わせないこと、あるいは投げ出させず責任を果たすよう助けたり時には愛と柔和をもって戒めることも必要なのでは?

 「先生、それは背負いすぎでは?」「私たちにも背負わせてください。」「投げ出したくなったら、おっしゃって下さいよ。その前に何とかしますから」そんな言葉が「背負い投げ牧師」を防止するのかもしれません。


〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 10:19 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(31)
 新たに首相となった菅直人氏は就任会見で、「最小不幸社会」を目指す考えを明らかに。それに対する評価は様々なようですが、「最小不幸社会」という発想は「最大多数の最大幸福」という近代的かつ資本主義的な思想とは異なるようで注目はあびたようですね。

 そこで考えたこと、それは「最小不幸発想牧師」であります。教会にとっての最小不幸とは何でありましょう?何年かに一人でも救われること?経済的に破綻して閉鎖をせずに済むこと?いいえ、私がこの記事で考えたいのは、「救われた信徒が信仰を離れることを最少に留めたい」との最小不幸発想であります。

 断っておきますが、「一度信仰決心した者が、救いを失うかどうか?」という神学的な論議はここではしません。日本の社会には「元クリスチャン」とか「昔は教会に行っていて洗礼を受けていた」という方々も少なくありません。実際に救いを失うかどうかではなく、そうした「不幸」を最少にしようという発想です。

 これ「不幸最少発想」、それ自体が悪いわけではありません。この発想は聖書的でしょうし、牧師や教会にとっては「最低限の仕事」なのかもしれません。しかし、こうした「最小不幸発」が、教会形成で優先、主流になってしまうのはどうかと思うのです。

 「こぼさないように」「離れないように」「信仰を失わないように」という消極的発想になりますと、どうしても、信徒を訓練する、成熟に向かわせる、教会を建てあげる、地域に向けて宣教していくという発想が後退します。いいえ、厳しい現実があると、そうした発想自体を牧師が失ってしまいます。

 要は守りの姿勢に入ってしまい、聖書的な攻めができなくなるわけです。不幸者を最少に留めることと同様、新たな幸福者を作り出すことも、教会本来の使命、牧師の責任。聖書は攻守両面を命じているはず。

 確かに、日本社会にあっては、信徒の訓練や成熟、教会形成や活発な宣教が極めて困難となる現実があるでしょう。「最大幸福」や「最多幸福」を目指すなど、夢のまた夢という地域や教会があるのも確かでしょう。

 そうした中で失望し聖書がしめす目標を見失い、「最小不幸発想牧師」になってしまった牧師に対しては読者の皆様からの励ましが必要でしょう。「最小不幸と共に、最大幸福の方も目指しましょうよ」と。そして、限られた時間や力であっても、そのために自ら協力し労することができたらと願うのです。それが、牧師を「最小不幸発想」への埋没から守ることになるでしょう。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 21:09 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(30)
 1990年代以降、日本においては音楽プロデューサーが注目を浴びるようになり始めました。音楽プロデューサーには二種類に大別されると聞いたことがあります。一つはアーチストを自分色を染めるタイプ、もう一つはアーチストの持ち味や個性を引き出すタイプ。そして前者の代表は小室哲哉氏であることは間違いないでしょう。

 小室氏の場合はアーチストが小室であって、アーチスト自身は「手段化」していたようにさえ思えます。自分の願う音楽表現やビジネス的成功を実現させるための「素材」として、アーチストを選び、自らの意図に沿ってパフォーマンスをさせていたと個人的には観察していました。

 音楽評論家の渋谷陽一氏は全盛期の小室氏の配下にあったアーチストについて「みんな小室のあやつり人形安室だけが唯一例外。本物のアーチスト」と評価していました。今、振り返ると当たっているのではないでしょうか?

 そこで読者の皆様におすすめです。主に立てられた牧師が「小室牧師」というのはいかがなものか?と思うのです。小室牧師は信徒を自分に結びつけ、自分色に染めてしまいます。そういう手法で教会を形成し、自分への求心力をもって一致を図ります。さらに、自分の信仰理解ばかりか感性や好き嫌い、聖書とは関係ない文化や表現方法まで、自分と同じようにしようとします。まさに自分色に染めてしまいます。

 極端になると、牧師にとっての信徒は愛し仕える対象としての人格でなく、牧師の聖なる?自己実現や自己表現の「素材」、「手段」となります。意図的、意識的ではなくともこうした傾向に陥る誘惑や危険は多くの牧師にあるように思うのです。

 キリストを中心とした一致や信仰理解や教理、ヴィジョンにおける一致でなく、牧師を中心とした一致。第一コリント12章が描く、「多様性における一致」は、牧師色に染められた「画一性という擬似一致」に置き換わります。牧師と同じであること、牧師の意図どおりの判断と行動が一致の根拠になってしまいます。このことはカルトや特別権威主義的でなくても、平均的な教会でも起こりうる、あるいは部分的に起こっていることではないかと思うのです。

 こうした「小室牧師」の引き起こす問題は、「小室哲哉氏」の場合と同様です。いわゆる「親亀こけたら現象」が起こります。音楽プロデューサーが枯渇し衰退すると、アーチストも枯渇衰退するのです。つまり、牧師が衰えれば、教会全体も著しく衰退し、牧師が転任等でいなくなると、信徒たちも教会を離れてしまうのです。自立した音楽表現をする一人前のアーチストである安室さんが例外のように、こうした牧師のもとで自立したクリスチャンに成長することは困難となります。こうなると時に、規模の大きな教会で一致しているように見えても、本当の意味において信徒は自立しておらず、教会も建て上がってはいないという現象が起こります。

 キリストの弟子を見るときにその個性や多様性に驚かされます。同時に、全員がキリストに似るものとされてゆきました。キリストに似ることは画一的に成ることではなく、御心にそって個性的になり多様化することでしょう。イエス様はいわば、クリスチャンの内にいてその聖なる個性を引き出すプロデューサーと言えるのかも。
 一方、牧師色に染めることは没個性や画一性を意味します。擬似的一致企画製品的信徒の大量生産を生み出しかねません。

 牧師本来の職務を、強引に音楽プロデューサーにたとえるとするなら、それは信徒を自分に結びつけ自分色に染めることではなく、信徒をキリストに結びつけ、キリスト色に染めることでしょう。いいえ、信徒の「内なるキリストが発色」するように、助けること、それが牧師の職務かと思うのです。

 例によって「先生、小室入っていますよ」「最近、小室ってませんか?」「そんなに小室ってると信徒はいつまでも自立しないですよ」など、意味不明フレーズでも用いて、愛する牧師を謙遜な思いで育ててみては?そんな失礼なこと言えないって?

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。

 
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 19:28 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(29)
 久しぶりのこのシリーズです。自虐的な牧師先生、自己観察意欲のある牧師の皆様からは好評をいただいておりますが、きっとヒンシュクもかっているでしょう。

 読者の皆さん、主がお立てになった牧師を「押尾学牧師」にしてはなりません。「うちの牧師そんなイケメンじゃないぞ」「うちの先生に限って薬物疑惑なんかありません」だって?そういう意味ではありません。「押尾学牧師」とは押尾学語録の一つと伝えられる以下のような発言が示す体質と同様の体質を持つ牧師のことです。

「押尾学の『』は、オレが何かを学ぶんじゃなくて、おまえらがオレから学ぶってことなんだ

 もちろんこの通りの高慢な牧師はめったにおりません。しかし、牧師がこうした体質になることはあるのでは?「信徒が自分から学ぶのであって、自分は信徒から学ぶ必要はない」と無意識のうちにも思ってしまっている牧師はいらっしゃるのでは?

 謙虚に御言葉から学ぶ牧師、著名な主の器や優れた神学書や信仰書から学ぶ牧師だからと言って、「押尾学牧師」ではないとは言い切れません。牧師が学ぶべきは信徒からなのですから。

 特に信徒である牧師夫人に学ばない牧師は「押尾度」が高いように思います。「妻は神学校でていないから」「聖書の深い理解がないから」と妻から学ぶ姿勢のない牧師は、独りよがり路線まっしくらの危険性が。

 説教の最高の批評者は妻です。第一の会衆は妻です。牧師にとっての本当の信徒代表は妻です。教会の女性の声を届けるのは妻、女性の感性や視点、そして生活実感などから、働きを評価できるのは妻です。

 そもそも「男は一人でいるのがよくない」から男には妻が必要であったのです。神が助け手として与えた妻から学ばない牧師は最も非聖書的な家庭生活をしていると言えるでしょう。つまり実生活において、およそ信徒の模範ではないわけです。聖書によればリーダーの権威は模範を示すため(汽撻藤機В魁砲任△襪箸いΔ里法

 自分の子どもから学ばない牧師も「押尾度」は高くなります。子どもの年齢に応じて、それは教会教育や信仰継承についての子どもの視点、現場感覚からの大きな示唆を与えてくれるはずです。あるいは、最も痛い牧師の偽善家庭人としての罪過ちを指摘してくれます。妻でさえ指摘できない課題を子どもは時にズバリ示してくれます。

 さらには若い世代の信徒に学ばない牧師も「押尾度」は高め。未熟さは免れず、問題も多く、その発言は玉石混交でしょう。しかし、そこにはベテランクリスチャンが見落としている「」が「石」の様な未熟さに隠れて輝いているのです。その輝く宝を見落とすことは大変な損失

 聖書と書物と偉大な先輩から謙虚に学びつつも、妻や子供や若い世代のクリスチャンから学ぼうとしないなら、意外と「押尾学牧師」になっているのかも?牧師はただでさえ、自分を見失いがちな職業であります。自己完結や独りよがりの世界に入りがちなもの。それを防止するのは、交わり、特に身近な生身の人間との交わりに生きながら実生活の中で学ぶことかと思います。

 押尾学症状が進行中の牧師がおられたら、交わりの中で、「先生、押尾学入ってますよ」「あなた最近、押尾度高くない?」「親父、押尾症状進行中じゃないのかよ」など、愛と柔和とユーモアをもって、ご進言されてみてはどうでしょう?

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 22:03 | - | - | - | - |
育てよう健全牧師(28)
 敬愛する牧師を「頭部付け違い牧師」にしてなりません。では、「頭部付け間違い牧師」とは?

バイキンマン「ハヒフヘホー!アンパンマンやっつけてやる!」
アンパンマン「ワー、顔が汚れて力がでないよー」
バイキンマン「ざまー見ろ。アンパンマン」
バタ子さん 「アンパンマン、新しい顔よ
アンパンマン「元気百倍・・・・、あれ、これカレーマンの顔やないかーい!」
バタ子さん「ごめん!つけ間違えちゃった」

 こういうことではありません。これもかなり致命的な「頭部付け違い」ですが、同様に致命的なのが、牧師による頭部付け違い。そこで、質問。

問:以下の二つの項目において、聖書的に正しい「頭部」は誰でしょう?
(1)教会
(2)夫婦

正解を発表します。(1)の正解は「キリスト」、(2)の正解は「」ですね。よい子の皆さんは、きっと正解だったと思います。

 では、日本のキリスト教会とクリスチャン家庭の現実はどうでしょう?特に教師はより厳しく判断をされます。そこで、問題となるのが、「頭部付け違い牧師」です。それは、上の問いに対して、講壇からは正解を取り次ぎながらも不正解の現実を生きている牧師のことです。つまり、教会ではキリストではなく自分が頭となり、家庭では夫である自分ではなく、妻が頭になっている牧師。それが「頭部付け間違い牧師」。

 教会では、ご自分が頭となり、すべてを決定し、信徒の主体的な判断や自主的な交わりを嫌い、対話拒否姿勢で支配的な牧師。一方、家庭のことは全部妻に任せて、聖書が示す夫や父としての責任は放棄。妻が家庭のすべてを負い、自分は使命に専念するという実に非聖書的な夫婦分業。家庭の現場では妻が頭となり、御言葉に生きない家庭生活まっしぐら。

 教会においては当然、信徒は思考停止で、主体性を失い、依存的に。本当の意味での霊的成長は望みえません。また、妻が頭となってしまった牧師夫婦は、様々な夫婦間の問題を生じます。妻が頭になってしまった夫婦は外面上はうまく機能していても本質を失い、地震のように破綻するエネルギーを地下に蓄積し続けるものです。

 牧師の子ども達はそうした夫婦の歪みの犠牲者となってしまいかねません。それは、信徒の子どもたちも同様のこと。自分たちの親が、活発に活動はしていても本当の意味で成熟したクリスチャンではないことを見抜いてしまいます。

 また、男性牧師が頭となっていない牧師夫妻は、教会の信徒全体に逆のメッセージを伝えてしまいます。それは「クリスチャンホームでも、聖書と違って、妻が頭でもうまくいけばいいのだ」というメッセージです。つまり、聖書的でなく外面だけうまくいく夫婦関係を肯定、奨励してしまうのです。信徒は聖書的とは言いかねる牧師夫妻をモデルとします。

 そうした教会に集うクリスチャンホームの子ども達は母親が頭となった家庭の犠牲者となります。これでは世の多くの家庭と同様ですから、家族で教会集っていても、家庭礼拝をしていてもクリスチャンホームとしての祝福を実体験できないのです。これが信仰継承の大きなネックになってしまうのは必然でしょう。

 以上をまとめるとこうなるでしょう。
(1)牧師による頭部の付け間違い
(2)牧師が頭となった教会、妻が頭となった家庭
(3)依存的で成長しない信徒たち、非聖書的家庭形成をする信徒たち
(4)クリスチャンとしても家庭人としても模範にならぬ親
(5)子ども達の信仰継承の大きな妨げ

 もしかしたら、こうした流れで、牧師の頭部付け違いが、きっかけになり、教会の歪みや衰退が起こっているのでは?との仮説を思いついてしまいました。名づけて「教会危機、頭部付け違い牧師起源論」であります。

 もちろん、私たちの多くは不徹底で不十分です。私自身も読者の立場だったら、今回の記事は「ドキッ」とするでしょう。自分が当てはまると思い、自覚できたり、悔改めたりできる読者や牧師は健全なのです。自浄作用が教会にも家庭にもあるのです。御言葉に立ち返り実行すれば、祝福の回復の希望があるのです。

 問題なのは、「教会の頭はキリスト、家庭の頭は夫」と講壇からは正解を発表しながら、不正解の現実を生きており、なおかつ、自覚症状のない極一部の牧師であります。指摘しても認めないなら、さらに状況は危機的です。

 多分、本ブログの読者のうち数百名は牧師夫人であると推測されます。

「あなた、この記事読んでごらんなさい」と勧める牧師夫人
「あなた、自覚症状ある?」と問いかける牧師夫人
「教会の頭はあんたじゃないの、キリスト!夫婦の頭は私じゃなくって、あんたなの!」と叱責する牧師夫人

 私自身は現実的な対策として、そうした賢明で勇気ある牧師夫人たちの行動に期待したいです。「妻は黙って祈るべき。主人が悟るまで祈り続けます」という方法は、私は聖書が示す夫婦のあり方(言葉を通じて交わりをもつパートナー)としてはどうか?と思いますが、いかがでしょうか?

 アンパンマンのように主の愛と正義に生きる教会であるために、何としても冒頭のバタ子さんのような過ちは避けたいものです。

〈追記〉
 このシリーズの記事は、特定の牧師あるいは教会について言及するものではありません。あくまで、一般論として記しております。また、批判材料としてではなく、健徳的に用いていただけるよう願います。
| ヤンキー牧師 | 「育てよう健全牧師」シリーズ | 17:38 | - | - | - | - |
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