命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
キリスト教会イロモネア(5)デシャバル・バイオレット・No.1

 本日の色はバイオレット紫色であります。元ネタは、桑名正博の歌った「セクシャル・バイオレット・No.1

 そこのお若いの、桑名正博をご存じないってか?この方、金持ちのボンボンです。いろいろあって、ロックミュージシャンになりました。メジャーヒットもあります。薬物でパクられたことも。その後、アン・ルイスと結婚し、やがて離婚。二人の長男である美勇士(みゅうじ)は、最近テレビ出てるようですね。両親が、桑名とアン・ルイスですから、生まれも育ちもロックです。現在、桑名さんは、会社を継いで社長さん。実は、かなりの社会慈善活動もしておられるとか。
 
 前置きはここまで。「デシャバル・バイオレット・No.1」であります。これは自分が一番でないと気が済まないクリスチャンのこと。あるいは自分が中心であったり、自分が注目をあびないと喜べない信仰者のこと。逆にいえば、他者が用いられ、評価されるために、支えたり、助けられないクリスチャンです。他者が用いられ評価されるとをそれを素直に喜べなかったりします。
 
 教会はキリストの体、ひとりひとりは各器官ですから、教会の交わりや働きにおいて、個人はチームプレイが当然。自分でヒットやホームランを打つでなく、送りバントを喜んで確実にできることが大切。ところが、デシャバル・バイオレットNo.1は「ここは送りバントでしょー」という場面で、一発長打を狙うのです。自分がお立ち台に立って、ヒーローインタビューをうけることをチームの勝利以上に願っているのです。キリストの栄光のために、送りバントできないクリスチャンは、一器官として機能しないばかりか、体全体の機能を低下させます。
 
 ある学校のブラスバンドでのこと。優秀な成績をあげながらも、伸び悩んでいたとき、顧問の先生はそれまでファーストを吹いていた生徒とセカンドやサードを吹いていた生徒を、役割交代させました。最初は戸惑い、全体の表現も調和を欠きました。しかし、しばらくすると、元ファーストの生徒たちが、自らの役目を自覚し、優れたバンドになったそうです。その後、しばらくして元のパートに戻したとき、そのブラスバンドは、飛躍的に優れた演奏をし、それまで以上に高い評価を受けたのだとか。
 
 言うまでもなく、各楽器で最も力量の高かった生徒が他の生徒を活かすための演奏や表現、心構えを獲得したからでしょう。自己表現を捨てて、控えめな演奏で全体としての音楽表現を高めることを体得したということに違いありません。

 そう考えますと、紫色で目立ちたがりの方は、黒子に徹するように神様に導かれたり、そのように強いられることもあるのでは。でも、それは、本当の意味で活躍し、用いられるために必要不可欠なプロセス。

 そうです。「デシャバル・バイオレット・No.1」は、卒業すべき一過程であって、神様が願われるクリスチャンの継続的なあり方ではおよそないことを覚えたいものです。


 ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉

| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 13:12 | - | - | - | - |
キリスト教会イロモネア(4)不幸せの黄色いドンパチ
  このシリーズ、まだ終わっていません。いろとりどりです。今日は黄色。念のために申し上げておきますが、これ「幸せの黄色いハンカチ」のパロディーであります。

 教会にとってもそこに集うクリスチャンにとっても不幸なのは、黄色いドンパチであります。「ドンパチ」と言っても、銃で撃ち合うわけではありません。銃撃戦の如き論争や言い合いであります。それが熱いものであっても、怒りや憎しみがなければ、有意義なものですし、建徳的な場合もあるでしょう。

 よろしくないのは「黄色いから」であります。それは怒りや憎しみや敵意などを示すカラー。対話を通じて、相手を尊重理解し、一致に向かおうとするのでなく、自分の言い分の正しさを主張し、自分の思いを実現しようという時に、「黄色く」なるのでしょう。黄色は注意信号の色です。聖書にもこんな言葉がありますね。

  「男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」(汽謄皀藤押В検

 「聖書的男前」は「男は黙って〇〇ビール」ではなく、「男は黙って手を上げお祈り」ということでしょうか?祈り不足で論争ばかりというのは、どうも「聖書的いけてない男」らしいですぞ。聖書が示すのは柔和さ、それは反論もできず、相手の意に沿う軟弱さではなく、どのような相手も受け止めながら、自分は折れない柔らさ、ぶつかり合わぬしなやかさ、しなう竹のような強さであります。

 「拍子木は、両方が硬いから音が出る、一方が柔らかければ音は出ない

 そんなたとえを聞いたことがあります。「そうだよなー、片方が拍子木でなくちくわなら、音出ないよなー」と漫画チックなイメージを思い描いたことがあります。

 「黄色いドンパチ防止」のためには「ちくわクリスチャン」になることでしょうか?

 「でも、ちくわクリスチャンって、芯がないから、柔和でなく単なる軟弱なんじゃない?」との反論が聞こえてきそうです。その反論、正しいと思います!
 



  ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
 「小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉

| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 10:52 | - | - | - | - |
キリスト教会イロモネア(3)赤いスリーピー
  熊本城が見えるホテルに宿泊し、馬肉を食し、ご機嫌な二泊三日であります。そして、このところまで、健康面でも支えられ、奉仕も大変手ごたえのあるものとなりました。お祈りいただいた方には感謝するばかり。

 さて、前回から松田聖子つながりで、「赤いスイートピー」のパロディーであります。

 「I will follow you あなたについてゆきたい」と歌うのが、松田聖子の「赤いスイートピー」なら、
 「I won't follow you あなたについてゆけない」と眠ってしまうのが、キリスト教会の「赤いスリーピー」であります。

 「ついてゆけない」と眠ってしまうのは、残念なことに、礼拝説教中であります。牧師説教が難解なのか?自分とは関係なく思える内容なのか?単調な話し方で催眠効果があるのか?とにかく、ついていけいないのです。そして、その結果、スリーピーになってしまうわけです。

 「男と女の間には深くて長い川があるー、(中略)エンヤコラ、今夜も船を漕ぐ」と歌ったのは長谷川きよし。
 「説教者と聴衆の間には、深くて長い川があるー、(中略)エンヤコラ、今朝も船を漕ぐ」となってしまうのが、赤いスリーピー。

 では、なぜ、これが赤いかと言えば、危険信号だからであります。説教者側の課題もないわけではないでしょう。だからと言って、礼拝者側の真実な姿勢がなくていいことにはなりません。やはり、「赤いスリーピー」は、礼拝者として赤信号なのでは?

 具体策としては、前夜は早く眠ること、説教箇所が事前に分かるなら、何度か読んでから礼拝出席されることなのでしょうか?というわけで、赤いスリーピーの皆様に以下の標語を送ります。


 「晩餐館 焼肉焼いても、家焼くな」

 「礼拝中、自転車漕いでも、船漕ぐな



   ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
 「小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 09:12 | - | - | - | - |
キリスト教会イロモネア(2)青い懺悔ショー
 今回の色は前回に続いて「」であります。

「あー、私の恋は南の風に乗って走るわー」と歌うのが、松田聖子の「青い珊瑚礁」であります。

それに対して「あー、私の悔いは、教えの風に乗って変るわー」と歌うのがキリスト教会の「青い懺悔ショー」なのです。

 青く未熟なので、悔改めが、教えの風に乗って変るのであります。客観的に聖書が明示する基準に照らし合わせて、自らの思い、言葉、行動を、罪と認め、悔改めるのではありません。聖書より教えの風に乗るのです。そのために聖書を基準とした真実な悔改めでなく、ころころ変る「懺悔ショー」になってしまうのです。

 「〇〇先生がこういった」と聞けば、聖書の根拠や基準を確認せず、罪として悔改め。逆に「そんなの誰でもしている」「だと思ったら現実生活できない」と先輩に聞けば、聖書が罪と明示していても、悔改めることなく、そのスタイルで信仰生活を続行、やがて、それが定着

 もちろん、指導者や先輩の言葉で、罪を悟ることもあれば、間違った罪悪感に気がつくこともあります。しかし、その言葉の内容が聖書が支持するかどうか?が大切なわけです。罪を認めされるのも、悔改めに導くのも聖霊のお働き。そして、聖霊は聖書の言葉と共にお働きになるとすれば、基準である聖書による確認が、確実な悔改めに私たちを導くのでしょう。

 権威ある人に言われて、「そうかな?」と悔改め。別の人から別のことを聞いて、「やっぱりいいや」と悔改めの撤回間違った罪意識で自分を責めて苦しんだり、罪を罪と自覚せずに、闇の中を歩み続けてしまったり。誰も、青く未熟であれば、「青い懺悔ショー」をやりかねないもの。

 逆に言えば、聖書基準で聖霊主導の罪意識や悔改めこそが、クリスチャンとしての成熟の証でありましょう。


   ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
 「小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉
 
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 08:19 | - | - | - | - |
キリスト教会イロモネア(1)青い杓子定規
 かつて「イロモネア」とかいうお笑いネタを競う番組がありました。多分、語源は「イロモノ」から来ているのでしょう。寄席の世界では講談と落語以外の演芸(漫才)などはイロモノと呼ばれておりました。講談落語は、演目が黒い文字で記され、それ以外は朱色などの色で文字が書かれたことに由来するようです。

 そこで、キリスト教会における「イロモノ」を「色物」とかけて、考えてみようというのがこのシリーズ。

 第一回目の色は「」であります。

「君は何を今、見つめているの?」と歌ったのは、「青い三角定規」であります。
そして、「君は誰を今、さばいているの?」というのが「青い杓子定規」なのです。

 まあ、未熟で青いので、聖書が示す原則や基準を、杓子定規に適用して、他者を安易にさばいてしまうわけです。青く未熟なので、聖書の言葉や基準を、まず、自分に当てはめて、内省することがないのです。すぐに自分を棚に上げて、他者に適用します。また、その適用が杓子定規なわけです。機械的に相手やその判断行動に当てはめて、善悪や是非を決めてしまいます。

 聖書の原則や基準は明確であっても適用は柔軟で、弾力性がなくては、そうした原則や基準さえも御心に反する用い方になりかねません。たとえば、福音書の時代の信仰者達は律法を字義的に、機械的に守ろうとするあまりにかえって律法の目的を喪失していました。自由を与えるはずの律法が信仰者と生活を不自由にしていたようです。

 その革新者として最も過激だったのは、イエス様でしょう。遊女は姦淫の罪、取税人は盗みの罪の常習者です。職業自体が罪ということ。ですから、当時の信仰者は、遊女・取税人とは交わらないことが、聖い神様の喜ばれることと考えて、交際がタブーとされ、職業差別が当然であったわけです。

 「遊女、取税人は職業自体が罪汚れている→交際しないのが御心→社会的タブーと差別

 この発想は一見正しいようです。むしろストレートで単純な「原則と適用」の関係でしょう。そして、これは、青い杓子定規の典型でもあるでしょう。

 そこで、WWJDであります。イエス様は何と!遊女、取税人と食事をし、社会的タブーを破るという過激ぶり。しかも、遊女や取税人に、罪を悔改め、転職するように、直接、勧めておりません。様々な想像ができるでしょうが、私はきっと、イエス様の発想はこうではなかったかと予想します。

 「遊女、取税人は罪を自覚している罪人→それ故に社会から疎外され、最も愛の交わりを必要としてる人々→だから、私がすすんで隣人になろう」

 姦淫と盗みが罪という原則、基準は同様です。しかし、取った態度は正反対愛と義の両立を目指す時、適用は弾力的で柔軟になるもの。

 私自身にも数え切れない程、「青い杓子定規」の覚えがあります。していけば「赤い分度器」になって、様々な角度から他者や事象を観て、愛と義を両立させる対処や判断ができるようになるのでしょうか?


 ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
 「小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 06:46 | - | - | - | - |
育てよう健全クリスチャン(10)〜ブツブツ・ベッタリ・クリスチャン

 ここでの「ブツブツ」とは「文句」「不満」であります。そして、「ベッタリ」とは「依存性」のこと。ですから、「ブツブツ・ベッタリ」とは、「文句を言いながらも、その相手に依存している」というある種幼稚な姿勢であります。逆言えば「依存しているくせにその相手に文句ばかり言っている」という極めてわがままな姿勢であります。

 そもそも「甘え」が容認とされる日本文化では、「ぶつぶつ・べったり」体質は当然で、あまり批判され、責められることなく過ごせてしまいます。「私立大の高額な授業料と仕送りを親に払わせておいて、さんざん親の悪口ばかりいう大学生」、「夫の悪口ばかりなのに絶対に別れて、自立した歩みをしようとしない」、「会社と上司に不満をためながらも、会社に依存した人生以外の選択をしないサラリーマン」、「政府と政治家の批判をしつつも、市民運動など自らの力で政治を変えていく意欲もない国民」。

 こういう「ぶつぶつ・ベッタリ体質」は、人間の罪深さの典型的な現われの一つでありましょう。また、こうした甘えを過度に許容してしまう日本社会はお笑いの世界なら「どうにかしてるぜ!」とのツッコミは必然でありましょう。

 こういう日本社会ですから、日本社会に建てられた教会も例外ではありません。「ぶつぶつ・ベッタリ」体質のクリスチャンは珍しくありません。「牧師が〇〇だから」、「教会が〇〇だから」と不満を言います。しかし、「牧師が〇〇だけど、自分は神の前に・・・・」、「教会が〇〇だけど、信徒の責任として・・・・」という発想や発言、そして行動はないのです。つまり「牧師」という個人や「教会」という組織に依存をしているのです。神の前でのキリスト者個人としての責任を自らに問うことはないのです。要は信仰姿勢が自立をしていないのです。

 牧師の説教が意味不明では、礼拝者はかなりきついです。それでも、一礼拝者として、真実な礼拝をささげる工夫と努力はできずはず。教会が停滞ムードに満ちているのも、苦しいこと。それでも一教会員として、小さな試みを始めることはできるはず。たとえその「ぶつぶつ」が正しくても、「ベッタリ」でない選択は多くの場合ありうるはず。

 逆に言えば、「依存しながら文句を言う」などは、「あなたは神様満足度でクリスチャンしてるのですか?それとも顧客満足度でクリスチャンしてるんですか?」とお尋ねしたいです。

 結局、そのような「ぶつぶつ・ベッタリ」体質での信仰生活はなのです。快適なのです。神様に従わないのも、自分が成長をしないのも牧師や教会が悪いからと責任転嫁できるからです。神の前での自己責任放棄にはこれほど都合のよい言い訳はありません。こうした信仰スタイルを、確立してしまえば、まさに信徒は「お客様」で「顧客満足度」という基準で「牧師というエンターテナー」、「教会というサービス業」を評価して信仰生活を送るのでしょう。神様が発する「トホホ」というため息を聞くこともなく。

 牧師個人に由来する問題、教会が長年積み上げてしまった問題などは、時に克服困難なことでしょう。それでも、「ぶつぶつ」以外の選択肢、「ベッタリ」ではない選択肢はあります。「ぶつぶつ」を建徳的な愛の助言として、きちんと伝えるべき方に伝えることは、多くの場合可能でしょう。また、「べったり」を止めて、信徒の側からの働きかけをすることも、よほど権威主義的な教会でなければ選択肢の一つでしょう。最終的に、諦める、袂を分かつなどの決断にいたるとしても、そうした試みをするというプロセスは、神の前にも教会論的にも誠実な態度かと思うのです。

 神様の御心は明らかに「ぶつぶつ」でも「ベッタリ」でもありません。それと置き換えるべき選択肢神様に喜ばれる選択肢を選び取る健全信徒でありたいものです。

 

| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 13:33 | - | - | - | - |
育てよう健全クリスチャン(9)〜鑑定士・予想屋クリスチャン

 9回目は、「鑑定士・予想屋」クリスチャンであります。鑑定士と言っても、骨董品の鑑定や宝石の鑑定ではありません。イメージとしては、ヒヨコのオスとメスを瞬時に見分けるあの鑑定のイメージに近いでしょう。

 鑑定士クリスチャンはあのヒヨコの鑑定士のごとく、あっという間に、鑑定して、分類します。何を鑑定するかといえば、日々の生活で出会う問題、課題、試練、困難であります。どう、分類するかといいますと、「祈ること」と「祈らないこと」に分類するのです。しかも、瞬時に迷うことなくですからすごいです。

 鑑定士によってその分類は様々、精神的なことは祈るが、現実的なことは祈らない。観念的なことは祈るが、具体的なことは祈らない。教会のことは祈るが、家庭と職場のことは祈らない。自分で努力しても無理な事は祈るが、努力すればいいことは祈らない、などなど。それを瞬時に判断して分類するのです。

 「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい」と勧めた信仰現実主義者ヤコブは、きっと「苦しんでいるのに祈らないなど、宝の持ち腐れ」と激怒するか泣くことでしょう。

 こうした鑑定と分類によって、祈りを通じての神の業は既に半減してしまいます。半分ほどは、「分別ゴミ」のごとく、「ゴミ箱行」きです。「祈りを通じての神の業をゴミ箱ポイしてどうすんの?」と神様の嘆きの声が聞こえそうです。

 ここまででも十分残念ですのに、さらに残念なのが、予想屋までしてしまうのです。予想屋と言っても競馬やボートレースなどの勝者を予想するのではありません。何と、不謹慎なことでしょう!祈りながら、まるでギャンブルのごとく、祈りの的中?を予想をしてしまうのです。

 「どうせ祈っても無理だろう」「多分ダメかも」と思ってしまうことはあるでしょう。それを不信仰の罪として自覚し悔改めて祈り直せばいいのです。そうではなく、単に神の祈りを通じての業をギャンブルのように予想するのです。その結果は当然、多くの場合「無理だろう」と思ったことは無理で、「ダメかも」と思ったことは「やっぱりダメだった」で終わります。そして、極めて高い的中率を誇る予想屋クリスチャンとなり、いよいよ自分の予想に困った自信を持ってしまいます。

 ついには祈りを通じての神の業を、自らの予想的中の範囲に狭めてしまうのです。その信仰生涯は「ありそうなことはあり」「なさそうなことはない」という実につまならなく、退屈で信仰のダイナミズムのかけらもないもので終わっていくことでしょう。

 「祈る前の鑑定士」と「祈りながらの予想屋」。誰もが経験のあることでしょう。「できるものならというのか?信じるものにはどんなことでもできるのです」というあのイエス様の信仰のチャンレンジの前に自らの不信仰を悔改め助けを求めた父親(マルコ9:22,23)のようでありたいと願います。

 そう、「鑑定士・予想屋クリスチャン」という名の不信仰を悔改めながら祈り続ける健全クリスチャンのお互いでありたいですね。

| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 09:58 | - | - | - | - |
育てよう健全クリスチャン(8)〜旗本退屈クリスチャン
 久しぶりのこのシリーズ、過去を振り返れば、こんなクリスチャンたちの課題を扱ってきました。

(1)押尾クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?day=20090820

(2)ゴミ屋敷クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?day=20090821

(3)子泣き爺クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?day=20090822

(4)ゆっていクリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1322767

(5)ムーディークリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1322839

(6)ニンニク醤油だれクリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1322840

(7)結論先行型クリスチャン
http://blog.chiisana.org/?eid=1325103

 そして、今回、第8回目として扱いますのが、「旗本退屈クリスチャン」であります。古過ぎて、元ネタ不明の方はこちらをご参照ください。

wikiphedia「旗本退屈男」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC%E9%80%80%E5%B1%88%E7%94%B7

 別にネーミングは「早乙女主水之介クリスチャン」でもよかったのですが、まあ、インパクトの強い方で。では、「旗本退屈クリスチャン」とは誰か?それは「天下御免のクリスチャン」なのであります。つまり「御免と謝罪すれば全てのクリスチャンは赦すのが当然」という前提でいるクリスチャンであります。言い換えるなら、相手が赦すのが当然、場合によっては赦さなかったら責める予定で、謝罪をするクリスチャンであります。

 こうした天下御免連発の旗本退屈クリスチャンに周囲では、極めて非聖書的な現象が、起こりながらも、周囲は、そのおかしさを指摘できない異常な状況になることが。

 それは「罪を犯して赦しを乞う者」が「罪の被害を受けた者が自分を赦さないこと」を「罪と断罪し、その罪を赦さないぞ」とういこと。言い換えるなら、「自分がこうして謝ったのに赦さないのはクリスチャンとして間違っている」というわけのわからない理論を自信満々で主張するクリスチャンであります。

 つまり、この「天下御免ワールド」に入ってしまうと、加害者クリスチャンは謝りさえすれば、絶対優位に立てるのです。加害者クリスチャンの赦しを受け入れない被害者クリスチャンの態度を「罪を赦さない罪」として指摘し、断罪できるからです。しかも、本人は赦さない相手が悪いと本気で信じているのですから、怖いです。一種の詐欺師のようなものですから。実は、こうした詐欺的展開にはめられて、「クリスチャンなのに赦さない自分が悪いのでは?」と悩む被害者クリスチャンは少なくありません。真面目で謙虚なだけにかわいそうすぎます。

 要は、「赦しましょう」との聖書の言葉を自分でなく、相手に適用して、相手が聖書に従わないと、聖書を盾に、加害者と被害者の関係を一発逆転するという実に卑劣な手段であります。これは、罪を犯した側び聖書悪用による逆切れ、開き直りパターンでもあるのでしょう。

 自分が罪を犯して、他者を傷つけながら、それを自分に指摘してくるクリスチャンに対して、「あなたは裁いている」と逆に相手を断罪するのも、同様。これも「聖書悪用型逆襲・自己保身」でありましょう。

 そもそも罪について「謝れば赦してもらえるのは当然」とするその前提が異常です。神様は罪を言い表せば赦してくださると約束されています。しかし、これは本来ありえない恵みなのです。なぜなら、「罪は赦してはならないもの」だからです。確かアウグスティヌスだったと思います。彼は罪をこう定義しています。

 「罪とは赦してはならないもののことである

 罪とは「本来、絶対赦してもらえない」とするのが当然の前提なのです。神様は不正ができません。ですから、無代価では、赦すことができません。そこで、赦しの代価として神の一人子のいのちが犠牲にされたのです。神がご自身の一人子を十字架につけてまでして達成された罪の赦しを「赦されて当然」と前提にするとは、・・・

 もう十字架をなめていますね。これは!

 そうです。罪を赦されるなどは、本来、「ありえない恵み」なのです。本来、クリスチャン達は一つ一つの罪を告白し、赦されるごとに、「ありえない恵み」として、涙流して感謝すべきなのでしょう。

 神からも人からも、「謝ったのだから赦されて当然」と思っている旗本退屈クリスチャンの皆さんは、どうか、ご自身の十字架をなめたその態度を、悔改められ、まず、ご自身の罪を神様に御赦しいただくことを、お勧めします。そして、その「天下御免体質」を主の助けにより改められますよう切に願います。そうでないと、罪赦されている恵み自体が分からず、罪を犯して他者を傷つけても、相手を責めて、自分は悔改めもなく最後は完全に自分を見失った「裸の王様クリスチャン」になってしまいますから。

 聖書によれば、「教会は赦しの共同体」というのは正解でしょう。しかし、聖書は「罪を告白しあうこと」と「戒めあうこと」を命じています。明らかに教会の交わりは「戒めと悔改めの交わり」であるはず。こうした「天下御免」がまかりとおれば、教会は戒めと悔改めの交わりを失い、罪の放置、許容の交わりと変質し、コリント教会のように聖さを喪失してしまうことでしょう。

 ですから、旗本退屈クリスチャンの周囲のクリスチャンの皆さんには、どうか危機感を持っていただき、「天下御免の不思議ワールド」に巻き込まれず、冷静に聖書的視点をもって、退屈クリスチャンの自分を客観視され、対処されますようにと。指導的立場、あるいは親しい関係にある読者の方々には、大変なご苦労かと思いますが、旗本退屈教会員に対しては、忍耐をもって、罪の自覚と悔改めに導いていただければと願います。


 ※サイト本体を経由せず読まれた方はこちらをクリックお願いします。
 「小さないのちを守る会」
〈ワンクリックが小さないのちを守るサポートになります〉
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 12:21 | - | - | - | - |
建て上げよう!健全教会(3) 名球会教会?
 プロ野球名球会の会員資格は投手なら200勝か250セーブ以上、野手なら2000安打以上です。非常に分かりやすいのです。しかし、本塁打数、盗塁、守備などは評価対象になりません。2000安打に満たなくても500本塁打や1000盗塁したらOKでしょう。捕手なら1500安打におまけして欲しいと思うわけです。ちょっと「単純すぎ」という印象は否めません。

 そこで、「名球会教会」であります。それは二つの条件を満たす教会のこと。一つ目は、礼拝人数200名を超えること。野球で言えば200勝投手です。100名を超える教会は都市部では少なくありませんが、200名を超える教会は稀です。日本では「大教会」と呼ばれるようです。

 もう一つの条件は、礼拝人数200名という数字を根拠に「わが教会は祝福されている」「聖書的に正しいことをしている」「他教会より優れている」と教会員たちが本気で考えていることです。

 礼拝人数が200名を超えれば日本では大教会。建て上げてきた牧師は大御所や著名牧師となりがち。私自身も年に4,5回程度は200名を超える礼拝人数の教会で礼拝奉仕をさせていただきます。大規模教会が悪いとは全く思いません。むしろ、私は肯定的です。

 ただ、「大教会必ずしも健全教会ならず」ということだけは、経験上言えると思うのです。名球界の選手は間違いない偉大な野球選手ですが、礼拝人数200名を超えた教会すべて優れた教会、健全な教会とは言えません。まれに200名を超えた教会に「救急救命教会」や「AC/DC教会」ではないかと思わせる例があるからです。また、日本でもカルトとして問題になる教会の中には、200名を超える教会が含まれています。あのコーラン償却騒ぎの牧師もドイツにいた時は、その牧会していた教会は1000名の会員であったと言います。これはドイツの福音派教会としてもかなりの大規模教会でしょう。

 健全な信仰理解、堅実な教会形成、熱心な伝道、聖書的に信徒教育などにより、結果として200名を超えた場合を問題視しているのではありません。こうした教会は他教会の励ましになることでしょう。

 逆に200名以上を目標として、不健全な信仰理解、人集めのような教会形成、信徒を脅したり、支配したりで進められる伝道、指導者に服従させるための非聖書的な信徒教育などによって目標達成した教会です。つまり、結果と目標を取り間違え、なおかつ、目標達成のために間違った手段を用いた教会が、「名球会教会」の仲間入りしやすように観察します。

 200名を超えると該当教会の会員は、どうしても自分たちの教会を「祝福された正しく健全な教会」と考えがち。より小規模な他の教会もそうした教会を同じように考えてしまう傾向は否めないでしょう。

 しかし、冷静になって考えてみましょう。名球界が単純に勝利数、安打数、セーブ数だけを条件にすることに異議があるように、礼拝人数や受洗者数で、教会を評価するのはあまりに安易で不正確でしょう。

 それは3RのうちのRescueに対しての評価に過ぎませんから。せめて、RaiseとRebuildも点数化すべきでしょう。礼拝出席者数は1点、その中で一定の教育と訓練を終えたら2点。一定、価値転換された新生活をしていると評価されたら3点のように、数値化して合計点を出したら、もう少し正確な評価ができるかも?

 いいえ、キリストの体である教会の要素を数値化して評価しようという試み自体が無理な話なのでしょう。「キリストの身丈指数」、「結び合わされ度指数」なんて、どう考えたって無理ですからね。有機的でいのちに満ちたキリストの体を数値化して評価するのは土台無理なことでしょう。

 黙示録の1,2章のようにきっと神様は日本の各地域教会をご覧になり、評価しておられるのでしょう。この箇所を読む限り、神様が礼拝人数200名で「名球会」認定をしていないのは、間違いなさそうですね。私たちは神様の視点と基準で、自らの所属教会を評価できたらいいですね。

 数値化できそうな結果よりも、健全な信仰理解、堅実な教会形成、熱心な伝道、聖書的に信徒教育というプロセスを大切にすることが、神様が喜ばれることであり、結果は主に委ねることかと思うのですが、そういう結論ですとあまりに正論過ぎてつまらない記事だと言われてしまうのでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 09:46 | - | - | - | - |
建て上げよう!健全教会(2) AC/DC教会
 クリスチャン読者の皆さん、キリストの体をAC/DC教会にしてはなりませんぞ。AC/DCとは何ぞや?それは通常、電気の「交流と直流の兼用」のこと。そんな名前のロックバンドもありましたな。

 でもこの“AC”は「アダルト・チルドレン」のこと。そして、“DC”とはWashington D.C.のD.C、District of Columbia(コロンビア特別区)の略称で政治の中枢部。ですから、AC/DC教会とは、「霊的なアダルト・チルドレンが教会運営の中枢を占めている教会」のことであります。

 実はこの「AC/DC教会」とは、昨日の「救急救命教会」が、一定機能して教会の規模が一定レベルに達した場合に時に見られるタイプの教会であります。救急救命隊員の多くは3年で離職するのですが、離職しないで、年数を経ると、その救急隊員は「霊的アダルト・チルドレン」とでも呼ぶべき信仰者になりやすい傾向が。

 Rescueはしても、RaiseとRebuildをしないなら、それは子どもを自立に向けて育てようとしない親と同じです。教会が神の家族であることを思えば、このタイプの神の家族は「機能不全家庭」です。せっかく救われて神の子となった信徒たちも機能不全家庭で育ってしまうと、何年か後には霊的アダルト・チルドレンとなります。

 教会の文化やしきたりはよく分っていますが、意外と聖書の真理そのものは理解しておらず、文化が真理に先行してしまいます。聖書の教理は知識として知っていても、御言葉に生きる知恵はありません。指導者には従いますが、自立していないので、神様の御心を求めて、責任ある決断をすることができません。教育・訓練をされず、建て直しをしてこなかったのですから、当然そうなるでしょう。生まれたままで、教育訓練を受けずに、家のリフォームのようにクリスチャンらしい教会生活をなぞるだけなら、その末路はアダルト・チルドレンでしょう。

 こうした信仰者が教会の中心となり、今度はアダルト・チルドレン・マザー、アダルト・チルドレン・ファーザーとして教会を担います。こうした信仰者が結婚し子どもを育てたり、教会学校の教師をしたり、役員となり若い信仰者のモデルとなっていきます。まさにACがDCとなってしまうわけです。
 
 かくして教会の「機能不全家庭体質」は、固定化され、世代を超えて継承されていくのであります。あるいはクリスチャンホームの子どもたちや、若い純粋なクリスチャンたちはこうした「不健全体質」を見抜いてしまい、教会を離れる決断をしていくのでしょう。

 実際の機能不全家庭が自身では改善困難なように、AC/DC教会も自己治療はきわめて困難かと予想されます。多くの該当教会は病気の自覚もなさそうです。まずは今回の記事を通じて自覚症状を持っていただきたいもの。

 また、自覚症状がおありなら、謙遜に「家族治療」を受けていただきたいと願うばかり。でも、誰が、各個教会に家族治療を施す精神科医やカウンセラーなのでしょうね?家庭に対しては治療者がいるのですが、教会については、団体ごと、教会観ごとなのでしょう。

 日本の家庭が持つ深刻な問題と同様の課題が、かなり深刻なレベルでキリスト教会の中に生じていると感じているのは、私だけでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 09:30 | - | - | - | - |
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>
+ RECOMMEND
+ RECOMMEND
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ RECENT TRACKBACK
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE