命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
キリスト教仏教派?(3)「即身成仏キリスト教」
 このシリーズも最終回、今回扱いますのが、「即身成仏」。地上で生身のままで仏になるという一部の日本仏教で信じられ、実践されている内容です。テレビで見た記憶がありますが、極めて厳しい修行で限りなく死に近づき極限状態の中で究極の悟りを得る壮絶なもののようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B3%E8%BA%AB%E6%88%90%E4%BB%8F

 現世で生身のままで成仏するのですから、これは極めて特別なことでありましょう。無理矢理聖書に同様の事例を探すとしたら、死を見ずに天に上げられたエノクでしょうか?いえいえ、現世で生身のまま、永遠のいのちを得て救済されているのですから、信仰義認こそ、即身成仏に相当するのかもしれません。
 
 そこで今回、問題視したのが、「即身成仏キリスト教」であります。それは、高僧が修行の末、即身成仏するように、偉大な牧師は、生身のままで罪なき完全者とされていると妄信しているクリスチャンのことです。まるで、尊敬する牧師が、地上で生身のままで栄化されているかのように、信じている信徒であります。聖化ではありません。栄化なのです。

 聖化されたら、罪と汚れから遠ざけられ、キリストに似た者と変えられていくでしょう。しかし、どんなに「聖化されたキリスト者」も「過ちがない」、「罪の誘惑がない」、「罪を犯す可能性がない」というステージには達しえません。聖書もまた偉大な神学者たちの聖化論もそうした意味での聖化はおよそ支持していないと思います。

 「過ちがない」、「罪の誘惑がない」、「罪を犯す可能性がない」というのは栄化された後のステージであります。それは生身の現世ではありえません。

 ところが、「即身成仏キリスト教徒」は所属教会の牧師がまるで栄化されているかのように考えています。「自分たちと牧師とは別格」「うちの先生には過ちがない、罪など犯すはずがない」と信じているのです。

 たとえば、「牧師が明らかなミスをしても、決して指摘してはいけない」と信じているのが「即身成仏キリスト教徒」。役員会で牧師が前回の決定事項を理解せずにそれを覆す発言をしているのに、誰も指摘も訂正もしないなどという恐ろしい話を時々お聞きします。

 「明らに牧師の機械的なミスなのに、なぜ、指摘して修正しないのですか?」と信徒に尋ねたら、「私のような者がそんなこと言っていいのでしょうか?」とのお答え。「この人は自分が何で牧師が何と考えているのだろう?」「天皇と臣民かいな?」と心配になります。これは一種の「牧師無謬説」であります。ローマ法王様もビックリのVIP待遇であります。

 また、「尊敬するあの牧師には汚れた思いや自己保身など微塵もなく、大きな罪など犯すことは絶対無い」と本気で信じているのが、即身成仏キリスト教徒であります。マリヤ様が「無原罪の母」として崇められるように、即身成仏キリスト教徒は、尊敬する牧師をあたかも「無限罪の父」であるかのように信じているのです。これまた牧師はマリヤ様もビックリのVIP待遇であります。

 ローマ法王様とマリヤ様を同時に体現しているわけですから、当然、その牧師は既にかなりの程度で神格化されております。ですから即身成仏派は、牧師への愛をもっての建徳的な批判や要望さえ、「暴言」「失礼」と判断し、「先生に限ってそんなことはない」などと逆切れすることも。教会の中に検閲機関が作られ、発言の自由はなくなり、教会の交わりは硬直化の一途へ。

 即身成仏派が一番、教会にとって迷惑になるのが、牧師不祥事が起こった時。「先生がそんなことするわけない!」と本気で主張するクリスチャンがおられます。牧師も赦された罪人です。聖化されていても、誘惑はあり、罪を犯す可能性があるのです。ダビデもアブラハムもそうでしたのに、どうして自分の所属教会の牧師は例外なのでしょうか?

 牧師の罪の被害者に即身成仏派傾向があったり、そのように支配されてきた場合は、「牧師ではなく自分が悪い」と思ってしまい、赦す、泣き寝入りするという対処をするようです。また、不祥事の第三者が即身成仏派の場合は、加害者牧師に関しての事実さえ直視せず、事実に基づいて名乗り出た被害者や主の正義を願い訴えた人々に攻撃さえしかけます。

 聖書の真理や現実に起こった事実より、非聖書的な前提や自分の思い込みや加害者牧師への情で判断し、行動し、全く客観性を失って、教会の自浄作用を喪失されてしまうのが、「即身成仏キリスト教徒」

 随分な表現でしょうが、牧師はただのおじさん(あるいはおばさん)です。自分が牧師ですから、かなりの自信をもってそう言えます。エリヤもただの人だったのですから。ただの人が弱さを覚え迷いや葛藤を経ながらも、神の召しに従って行こうとする意味において牧師は尊敬され、その権威やリーダーシップが尊重されるべきだろうと私は思います。

 むしろ、牧師自身も、信徒からの愛の動機に基づいて、弱点は補われ、過ちは正され、逸脱は指摘是正されるべき存在に過ぎません。牧師もキリストの体の一部に過ぎないのですから。牧師を尊敬するからこそ、信徒がそうした役割を果たすべきというのは筋のように思えてなりせん。

 「牧師を尊敬し、信頼し、従うすること」と、「即身成仏キリスト教徒」になることとは全く別なのです。

 極一部の牧師は、即身成仏派と化した信徒たちの悪い誘惑に負けてしまい、支配的になったり、自己を絶対化させてしまうようです。

 教会のカルト化防止の意味でも、即身成仏キリスト教徒の皆さんは、即、宗旨替えを!
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 06:38 | - | - | - | - |
キリスト教仏教派?(2)「在家キリスト教」
 仏教には「在家」と「出家」という分類もあります。瀬戸内寂静さんや家田荘子さんをご存知の方は、在家と出家の違いが、かなり具体的にイメージできるでしょう。お二人の場合、在家時と出家以降の性生活の激変は、大変な落差であり、それだけに世に強烈なインパクトを与えたようです。

 私は神学生時代にある牧師から、「フルタイム献身は出家ではない」と教えられたことがあります。神様からの恵みや楽しみは感謝して享受し、喜び楽しんで歩むように、間違っても禁欲的であることで自分の熱心さや献身度を確認することのないようにという趣旨だったと記憶します。

 少なくとも、プロテスタント教会の信仰理解ではクリスチャンに「在家」も「出家」もないはずです。宗教改革の柱である万人祭司とは、仏教的にいえば「在家」と「出家」の壁を撤廃する理念であったはずです。

 ♪あーそれなのに、それなのに♪ 日本のプロテスタント諸教会には反宗教改革者の存在がたびたび確認されます。その方々は、信徒は「在家キリスト教徒」であり、牧師とその家族は「出家キリスト教徒」だとお考えのもよう。

 そうした方々は礼拝で「世の楽しみよ去れ、世の誉れ行け」と歌いながら、在家キリスト教徒のご自分は、キリストより世の楽しみを享受し、世の誉れを追及することを優先し、その反面、牧師とその家族には、世の楽しみと誉れをすべて捨てて歩む事を要求します。牧師とその家族には、キリストを第一とした犠牲を当然のこととして要求しながら、自分は自己都合や経済、立場などをキリストに優先して当然と思っているわけです。なおかつ、そうした自己矛盾や非聖書性を自覚もしなければ、なんら悪いとも思っていません。世にも恐ろしきは、在家キリスト教徒

 どうも聖俗二元論的発想で以下のようにお考えなのでしょう。

牧師=聖=出家キリスト教徒 世の楽しみと誉れはすべて放棄すべき。
信徒=俗=在家キリスト教徒 世の楽しみと誉れも状況によって優先。


 聖書はすべてのクリスチャンは世から購い出されたという意味において「出家キリスト教徒」だと思います。同時に地の塩、世の光、散らされた民として世に遣わされ、世に生きるという意味で、「在家キリスト教徒」かと考えています。

 聖書は聖俗二元論ではなく、すべての被造物世界は福音の守備範囲であり、信仰者としての立場にも「在家」も「出家」などないはず。

 どうも仏教的発想が根強く残っているのでしょうか?牧師には聖であることを要求しながら、自らは俗であることに安住してしまう「在家キリスト教徒」の皆さん・・・・。

 牧師は間違っても「世捨て人」ではありません。一般信徒とは異なる「出家」をしているわけでもありません。たしかに信徒に模範を示すべきであり、教師の立場はより厳しい要求が神様からあるかもしれません。しかし、信徒と別の基準で歩む存在ではありません。牧師と信徒の関係は、僧侶と檀家の関係ではないのです。

 牧師とその家族に「出家キリスト教徒」であることを要求し、自らは「在家キリスト教徒」に安住している読者がおられましたら、是非とも「個人内宗教改革」をされることをお勧めします。そして、速やかに宗旨替えを。

 また自戒も含めて、牧師の皆様も自らを「聖者」、信徒を「俗人」であるかのように、いつの間にか考え違いをしないように気をつけたいもの。当たり前のことですが、牧師も信徒も基本的に同じなんですよねー。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 10:14 | - | - | - | - |
映画「ウェイヴ」と「内なる天皇制」
 映画「ウェイヴ」は、キリスト教メディアでは、結構取り上げられました。その一因にはマインドコントロールだけではなく、キリスト教会におけるカルト問題などもあるでしょう。

 その映画「ウェイヴ」をキリスト者の視点からしっかりと、有効な引用を用いて深く考察し、しかも、わかりやすく伝えてくださったブログ記事をご紹介。まずはご一読を。

「伊那谷牧師の雑考」7月31日 「ウェイヴ」
http://zios.seesaa.net/article/157900555.html

 マズローを引用して、人間には他者を支配したいという根源的欲求があると同時に「他者に支配されたいとの欲求もある」との見解には「なるほど」です。

 自信を失った人間が自信を回復するために取る手段は「私は偉大なことを成し遂げることができる」と思うか、「私は偉大なものに帰属していると思う」かの二つであるとの見解も、説得力ありますね。それに、現代日本の場合は余程、能力のある人間かかそう優越感が強くなければ、後者の方が楽でしょうね。

 先の大戦の敗戦国は帰属欲求が高い、急速な近代化の中、自然の共同体を失った疎外感の着地点は国家=崇高なる共同体との社会学者宮台真司氏の見解も、うなづけます。宮台氏は私のようなキリスト教主義の性教育者の陣営からすると最大の論敵ですが、この件については同意したいです。

 こうした傾向は旧約聖書における神の民にも様々な形で現れているように思うのです。それにしても、宮台氏が、このことを論じたのが、「天皇ごっこ」という著書の解説というのも、いかにもでしょう。

 どうも日本の場合、そうした帰属欲求が「崇高なる共同体=天皇個人」になりがちなのでしょう。そして日本のクリスチャンの場合は「崇高なる共同体≠キリストの体なる教会」と不等号関係になってしまい、その代理として「崇高なる共同体=牧師個人」となるのでしょう。

 その意味で、日本の教会は「天皇ごっこ」が起こりやすい場であり、そうした傾向を強めるシステムが無意識に形成されやすいようにも感じています。

 特に「劣等感をかかえ自信のない牧師」と同じく「劣等感をかかえ自信のない信徒」が出会ってしまうと大変なことが。「偉大なことができると思うこと」により自信回復を願う牧師と「偉大なものに帰属していると思うこと」により自信回復を願う信徒の利害が一致してしまうからです。当然、牧師の「支配欲求」と信徒の「被支配欲求」も両者の要求は一致。牧師と信徒の関係は仕えあい支えあう人格関係ではなく、支配と被支配という非人格的機能関係に堕落します。

 私が「内なる天皇制」と呼んだのも、そうしたこととして解説されるのかもしれません。罪人である人間が持っている根深い傾向性は、対等で人格的で愛し合う交わりを嫌い、「支配と被支配」を好むようです。それは、教会を国家の代理にし、牧師に天皇の代理機能を要求しかねないのでしょう。

 これはあくまで私見ですが、強い劣等感を抱き、同時にそのことを他者に伝えられないタイプ(強く有能に自分を見せようとする)の牧師はとりわけ「天皇ごっこ」をしないように要注意でしょう。牧師の天皇ごっこは聖書的教職者からの暴走行為ですから、暴走族の暴走行為同様、牧師の天皇ごっこについては、良い子の皆さん、健全なキリスト者の皆さんは「しない」「させない」「見に行かない」の三拍子です。
 
 信徒の側も、牧師に「天皇ごっこ」をさせないだけでなく、自らも「臣民ごっこ」しないように願うばかり。常々、団体や教会なりの聖書的な教会論や教職論が信徒に分かる言葉で伝えられ、共有され、深く理解され、実践される事の大切さを思います。それが「天皇ごっこ」も「臣民ごっこ」も阻止し、健全な教会形成に至る最も確実な道かと考えています。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 18:34 | - | - | - | - |
辛淑玉発言、苦言?暴言?それとも金言?(3)
辛淑玉さんは、フェミニストであり、反権力的傾向の強い方のようです。それは天皇制批判に如実に現れているかと思うのです。極端に単純化すると「天皇制=家父長制=悪」のような前提があるわけです。そうした視点から、日本の教会を見た時、辛さんはずばり日本のキリスト教会を「天皇制キリスト教」であると断じます。アメリカや韓国の教会とは全く異なる評価をするのです。

 Ministryはインタビュー記事の後半では「牧師家族の皇族化」との小見出しをつけています。そもそも日本の教会はフェミニストの視点からすれば極めて男性主義的で家父長制的に見えるでしょう。それに加えて生身の人間に過度の清廉潔白さを求めることや、個人に人間や社会の理想を求めることや人間が神格化されかねない危険性などは、まさに天皇と牧師は酷似しています。このことは当然牧師夫人や子弟にも大きな影響をもたらします。その結果、牧師家族も皇族化されてしまうのでしょう。

 私自身はMinistry最新号のコントの中で「教会ゴミ問題」を扱いました。ゴミとかつて本ブログで扱ったようにはパウロが「ちりあくた」と評価した「栄誉、血筋、業績」などです。日本の教会に信徒が持ち込んでいるゴミとして「学歴ゴミ」と「民族ゴミ」を例示しました。「民族ゴミ」の方は、実は辛さんのインタビュー記事の概要を知らせていただいて思いついたものです。
 パウロは民族的な誇りをキリストの素晴らしさゆえにゴミと評価しました。しかし、日本のクリスチャンたちはそうした転機を持たぬまま「民族ゴミ」を持ち込んでいるというのが今回のコントの大きな主張の一つ。それは「日本的肉性」や「内なる天皇制」と呼ばれるべきものであり、権威への依存傾向主体的責任放棄による権威への盲従として現れるという指摘です。この見解はクリスチャン新聞のオピニオンでも本ブログでも示してきたつもりです。

 次のような声はキリスト教会内部からも時にお聞きするものです。

 結局、多くの日本の信徒は天皇制の代理を教会に求めているのでは?

 信徒が牧師に求めているのは「天皇の代理機能」なのでは?

 まるで何者かに魅入られたように、牧師と信徒が支配と依存という関係を形成する傾向がある。そこには心の底に潜在する天皇制志向があるのでは?

カルト問題の根底にはそうした一任もあるのでは?

 そのことが起こるのは神の前で個人として責任ある判断と行動をする重荷からの逃避によるのか?

 自らが聖書から真理を読み取り思索し、判断する煩わしさと苦痛を避けようとする怠惰によるか?

 個の確立がなされず、常に「お上」という権威に従ってきたという歴史的に形成された体質からか?

 主体的に責任もって生きることを要求され続け、それに疲れて飽きてしまった現代人特有の依存性からか?

 単に宗教的未熟さが、目に見えぬ神への信頼と従順と天皇制のごとき個人への依存と盲従を交換させているのか?

 アメリカや韓国の教会にも、その民族や国家の歴史に由来する独自課題があることでしょう。「アメリカ教キリスト派」「韓国教キリスト派」などと批判される要素が皆無ではないでしょう。第三者的立場からそうした批判や評価も可能でしょう。同じように日本の教会が自己を客観視する時に、酷似した課題があり、日本の場合はそれが、政治組織の天皇制とは異なる内面化されたいわば「心の内なる天皇制」につながるのではないかと危惧をします。


 日本の教会をばっさりと「天皇制的キリスト教」と断言されることには、正直、私自身は抵抗を覚えます。

しかし、そう評価されても仕方ない要素は普遍的にまた潜在的に、日本のキリスト教会にはあるのはないか?

キリストに出会いながら価値転換が徹底しておらず、無意識の内にそうした「民族ゴミ」としての「内なる天皇制」を教会に持ち込んでいるのではないか?

「わが心に内なる天皇制はありやなしや?」

そのことだけは、自らに問い、検証すべきではないかと思うのです。

 辛さんの発言が、苦言、暴言、金言のどれになるかは、きっと受け止め手に委ねられているのでしょう。このインタビュー記事の掲載は、受け止めてである読者に対する強い信頼が根底にあるように思っている私です。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:04 | - | - | - | - |
辛淑玉発言、苦言?暴言?それとも金言?(2)
 30代イケメン編集長のブログによれば、辛淑玉さんのインタビュー記事について「笑った」という読者の反応がコメント欄にあります。しかし、私は全く笑えませんでした。きっと当事者感が強く、問題意識が深刻であったからでしょう。

 特に日本のキリスト教会の牧師についての発言は、辛らつながら、本質をついているように思えました。

 「教会に来ることによって自分の気持ちが整理できる違う空間があるというのはいいことだけど、そこにいる牧師がその空間と一体化するというのはナンセンスだよね。」

 「なんで牧師までも神格化されていくのか。清く正しく美しい牧師なんているわけがないだろと思うんだけど。」

 「政治家は汚くてもいいが、天皇と牧師は清廉潔白でなければならない、神聖にして侵すべからず。それは教会の悲劇ね。」

 (最近の牧師のDV問題化を問われ)「人間、生きるためにバランスをとるからね。ストレスはどこかで爆発するよ。『牧師人間宣言』というのはどうでしょうか」 

 「国家の理想を天皇という個人に求めているのと同じように、社会や人間の理想を牧師に求めてどうすんのって。誰でも壊れちゃうよね。かわいそうだね。」

 うーむ、傍目八目とはよく言ったもので、教会内でもあまり自覚されていない課題を、よくここまで見抜いたものと感心します。牧師本来の役割とは別の機能を牧師に要求してしまう信徒たち。聖書信仰と言いながら、実際には、聖書が描くリーダー像とは異なるリーダー像を牧師に投影する教会員たち。それに応答することが信徒への愛であり、神からの使命と「大いなる勘違い」をしていまう牧師たち。あるいは非聖書的牧師像と知りながら、それに応答したくなる誘惑と戦い続ける牧師たち。

 本来「キリストの内に見出すべきもの」を、牧師個人に求め、それを見出せるようになれと要求されても、それは確かに無理。追求すれば破綻です。聖書によれば教会全体が「キリストの身丈に達する」ことが目標設定。つまり集団競技による目標達成。それを牧師の個人技でキリストの身丈に達することを要求されてもねー。牧師はリーダーとして真理に生きる模範を示すべきでしょうが、単独で真理の体現者にはなれませんから。

 こうしたことから牧師が神格化されたり、牧師個人が教会と同一視されたり、キリストに代わって牧師が信徒たちの信仰のアイデンティティーになったり、聖書も読まず、神に祈りもせず、牧師に相談して正解を得ようとする神関係断絶・牧師依存型」のクリスチャンが育ってしまうわけです。

 では、なぜそうなってしまうのか?辛さんは、かなり踏み込んである一因を指摘します。それは、私が本ブログやクリスチャン新聞のオピニオンやMinistry最新号のコントで訴えたものとかなり共通しているのです。それは明日の記事で扱いましょう。

 果たして、日本の牧師についての辛淑玉発言、的を得た苦言か?的外れな暴言か?それとも、教会が今こど、傾聴すべき金言でしょうか?
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 21:31 | - | - | - | - |
辛淑玉発言、苦言?暴言?それとも金言?(1)
 「MINISTRY」最新号の辛淑玉さんのインタビュー記事は牛丼の吉野家も真っ青の「スゴイ、怖い、痛い」の三拍子。サイトでは6ページ中最初の2ページだけはお読みいただけます。これだけでも十分その予告編になるでしょう。特に牧師読者については心臓の強い方だけ、どうぞ。

http://www.ministry.co.jp/contents006.html

 男性ではなく女性、日本人でなく外国人、知識階級でなく庶民階級、富裕層ではなく貧困層徹底して弱者の立場と視点から、日本のキリスト教界を論じておられます。それは、もう逆差別的と言われかねないほどの徹底振りです。当然のことながら、人材育成コンサルタントとして産業的視点で教会を批評します。しかし、実際に日本、アメリカ、韓国のキリスト教会での礼拝にも出席しており、全く実情を知らぬままで、世の基準を持ち込んで、日本教会について断定しているとは言いきれない主張の数々。

 誤解や反論の余地がないとは思いません。しかし、個人的には、その多くは「痛いけど当たっているかも」「悔しいけど、その通りだよ!」「分かっているけど、未信者に指摘されると辛い」と言いたくなる内容です。

 今回は三つの発言を取り上げましょう。

「聖書が書かれた当時発せられた教えというものを今の問題に照らし合わせて、どのようにいま生きていく力にするのか、っていう語りができる人には、あまり出会わない。」

 「聖書が古典芸能的な物語になって、それでもう完結している。過去の遺産で食べているだけで、組織としての努力が見えない」

(神学優先で「分かる人だけ分かればよい」との印象を与える牧師たちについて)「そうそう。だから、エリートの趣味なんでしょうね」

 私などは、こうした発言には、賛同と反発、賛辞と怒りが入り混じるような複雑な感情が起こります。

 この感情やまとまらぬ思索をうまく言語化できずに悩んでおりましたら、昨日、「ロゴス会」から機関が届きました。会員の方による巻頭言には経済学者である隅谷三喜男氏の「日本の信徒の神学」からの以下の引用が。

 「日本のクリスチャンは、たとえて言うならば二階建ての家に住んでいるようなものだ。通常は一階で現実の生活をしている。そして、日曜日には二階で牧師の説教を聞く。説教する牧師・神学者は二階に住んでいて、一階の生活との行き来は余りない」

 うーむ、やはり、牧師は二階に住んでおり、一階の生活者に伝わる言葉に翻訳ができていないのか?それでいて一階の生活者に「分かる人だけ分かればよい」と受け取られかねない態度をとっているのか?本当にそうなら、まらに説教は「エリートの趣味」、福音伝達は「伝統芸能」。

 はてさて、辛さんの発言は、一定の事実に基づく苦言か?事実無根の誤解に基づく暴言か?それとも、教会が外部の声として真摯に耳を傾けるべき金言なのでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:35 | - | - | - | - |
牧師が”壊れる前”に信徒ができること
 「いのちのことば」の7月号の特集は「牧師のメンタルヘルス 牧師が”壊れる前”に信徒ができること」。
 
 これは、今、必要な特集を組んで下さったと感謝するばかりです。団体によってばらつきがありますが、今は、多くの団体で牧師や牧師夫人の心の病による休職や退職の多さをお聞きします。

 ただでさえ教職者の減少があり、30代40代の牧師は少ないのです。その少ない年齢層の牧師に併牧や経済的に厳しい教会の担当や団体の激務などが集中し、心の病になり休職。そのためにさらなる教職不足というような悪循環に入っている団体もお見受けします。

 また、私が存じ上げているだけでも、50代60代の牧師にうつ病を患っている方が何名もおられます。有能で真面目で重い責任を負っておられる方に多いようで残念です。

 私自身も他人事ではなく、しばしば自己チェックをしております。基本的に楽天的で非真面目人間なので、重い責任を担わせていただいても、うつ病とは無縁と思ってきたのですが、年齢面から、そうした危惧を覚えることはたびたびです。どうも更年期に入っているようで、「何もやる気がしない」「何をしても楽しくない」「以前のようにぐっすり眠れない」などの前兆や症状がある場合は、「無理はしない」「可能かぎり休む」「休むことに罪悪感を覚えない」など、使命感故の葛藤を覚えながらも、主のためと思い、自己管理をしています。

 こうした現状があるのですが、牧師自身が信徒に「私たち夫婦がうつ病にならないように祈り、適切な配慮と努力をお願いします」とは言えないもの。そこで、信徒は、日本の牧師夫妻の心の病の多さを知らず、自分の所属教会の牧師夫妻については危機感や意識は極めて低いままです。しかし、信徒が気がつかぬ間に牧師夫妻は心を病み、働きを中断したり、退いたりということが起こっていると観察しています。信徒に悪意はないのですが、結果的に「牧師はサービス業で大量消費財」というような扱いを受けかねません。

 こうした状況ですと、牧師が研修会などで自分を守る学びをするなど、「牧師夫妻が自分自身を守る」という面での努力が中心になってしまいます。しかし、本当に必要なのは、信徒側の理解であります。多くの牧師は真面目で献身的で自己犠牲的ですから、心の病に至る危険を冒してまでも、使命あるいは使命以上の無理を果たそうとします。(あるいはそれをしないと献身的でないと自己評価をして罪悪感を抱きます。ひどい場合は信徒もそれをしてこそ献身的であると牧師を評価します)

 信徒の側には、それを「させないシステム」の構築、「しなくてよい相互理解」の形成、「しなくて大丈夫と牧師が思えるジョブディスクリション」の作成などをしていく責任があるのではないかと思うのです。依存的になりがちな現代人です。どうしても「牧師が信徒に果たすべき責任や配慮」ばかりが肥大し、「信徒が牧師対して果たすべき責任と配慮」が顧みられないのは残念です。

 もちろん、成熟した信徒たちは牧師を正しく尊重し、大切にしておられるでしょうが、牧師の働きとそれにともなう大変なストレスを理解して、「信徒が牧師対して果たすべき責任と配慮」を検討されてはと願うのです。その最大の必要の一つは、牧師夫妻の心の病対策でしょう。一組の牧師夫妻のためには莫大な祈りと愛の労と経済的援助が既に積まれており、将来にわたる結実が予想されるのですから、その意味でも決して燃え尽きさせてはならないのです。

 特集記事の執筆者は藤掛先生と丸屋先生。藤掛先生と私は光栄なことに相互のブログの愛読者という関係。しかも某球団を共に応援する同志でもあります。牧師のメンタル面や不祥事についてはご専門のお立場から常に深い考察と具体的な対策を提供しておられます。藤掛先生の「日本社会で最もストレスの高い職業皇族で、二番目は牧師」との見解は、私も賛成ですし、多くの信徒に知っていただきたい内容です。
 
 丸屋先生は、ある意味、私のカウンセリングの先生であります。名古屋でもたれている同師のカウンセリングセミナーには夫婦で出席し、学ばせていただいております。中絶問題の背景には、家庭問題があるケースが大変多いのです。特に父親からの愛情実感できない女性が、代償行為として安易な性関係に走り、そこからの中絶につながる妊娠が起こる事例はその典型です。このことはクリスチャンホームも決して例外ではありません。その意味で、使命に直結する問題として家族カウンセリングを学んでおります。丸屋先生のこの記事における提案内容は、ぜひともそっくりそのまま実行していただきたいです。(それができていないことが、どれだけ牧師夫妻意を追い詰め、PKたちを苦しめ歪ませていることか!)

 この特集は何と感謝なこと!ネット上で全文をお読みいただけます。

(1)信徒がかかわる「牧師のメンタル・ヘルス」(藤掛明)
http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002531

(2)牧師家族のメンタル・ケア(丸屋真也)
http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002532

(3)牧師とその家族の心を守るために読んでおきたい本
http://www.wlpm.or.jp/cgi-bin/db/kiji_t.cgi?keys34=0002533


 この記事については、南国のブログ王子こと久保木牧師が優れた考察を加えてくださっています。特に牧師の燃え尽き予防という視点で、よい示唆を多く下さっています。ぜひ、ご一読を。

信徒がかかわる「牧師のメンタル・ヘルス」を読んで(上)
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/61477523.html

信徒がかかわる「牧師のメンタル・ヘルス」を読んで(中)
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/61487390.html

信徒がかかわる「牧師のメンタル・ヘルス」を読んで(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/61491951.html

 残念なことに、未だに教職の心の病を一括して「信仰的問題」「根性がない」などと評価したり、こうした発言を牧師の被害者意識からの自己保身的発信と見る方々もおられます。それは極めて部分的で一面的な考えにすぎないのでは?むしろ、私はこれは客観的な「不幸な事実」であると思いますし、牧師自らが発信できないからこそ、問題は深刻化しており、牧師家族のみが犠牲者となり、将来のキリスト教界の衰退原因となっているのだと考えています。

 私は信徒の意識変革とちょっとした配慮と努力によって、かなりの割合と確率で「牧師夫妻が壊れる」ことは予防できると考えています。信徒の読者の皆様は、どうかこうした記事を参考にしていただき、牧師夫妻のためだけではなく、主のため、将来の日本の宣教のためにも、深く暖かな理解をもって、できることから始めていただければと願います。牧師が壊れてしまう前に・・・。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:55 | - | - | - | - |
「牧師病」?もしかして「牧師罪」?
 「今ごろ?」と言われてしまうかもしれませんが、牧会ジャーナル2010年春号の連載「牧師とは何か?何をする人か?」から。とくかくこの連載は教えられることばかりです。牧師必読だと常々思っています。

 その中から大変痛かった引用部分を以下にご紹介いたしましょう。

決め付けたり」「評価したり」「類別したり」「判断したり」することを安易にしてはならない。・・・・「自分は分かっている」とか「自分は相談にのってあげている」というような高慢な態度は慎まなければならない。・・・牧師は「教えたがる人」「助けたがる人」「みことばを示したがる人」「祈りたがる人」「切り上げたがる人」になりやすい。

 うわー!痛い!痛い!私など身に覚えが数え切れない程あります。こういうのを「牧師病」と称してそれこそ「類別・判断」する牧師たちがおります。まあ、私もその一人でしょう。私などは自覚症状はあり、治療努力もしているつもりですが、未だ完治にはほど遠く、「また、やってしまった」と発症を悔いることが今もあります。

 この特集記事の本論とは外れるのですが、こういうのを「病気」と称して片付けてしまうのは、どうだろう?と思うのです。牧師は「いやー、牧師病ですからー」と言い訳を言い、寛容な信徒も「先生、病気だからー」で放置されてしまっていいのだろうか?と素朴な疑問が生じたのです。

 いいえ、「牧師病」という言葉はどこか「病気だから仕方ない」とか「病気だからゆるされる」という甘えや怠惰が生じさせかねないように思うのです。本来であれば、「病気だから、神様と信徒のために治そう」「自分は不健康だから癒されよう」と真剣に自己改革を願うべきでしょうに。

 こうした「牧師病」は、放置しておくと、場合によっては、常習化、固定化し、病状も悪化します。そうなりますと「」ではすまないようにも思うのです。

 多忙や疲労の中、「十分傾聴せず、心情に寄り添うことなく、相手を分析診断し、適切な助言、みことば、具体的援助、祈りを提示して一件落着、さようなら。」このパターンが常習的で固定化すれば、これは罪に至るのでは?と思うのです。言うなれば、「牧師病」ならぬ「牧師罪(ぼくしざい)」。
 
 愛し仕えるのではなく処理してしまう、相手を人格としてではなく、持ち込まれた課題として接してしまう、相手が本当に神の御心に生きることより、感情的に満足して帰ってくれるサービス提供を考えてしまう・・・。弱さを持った罪人に過ぎない牧師は、そうした誘惑を受けるでしょうし、そうした過ちを犯さないとも限りません。

 これが常習的で固定化しながら、自覚せず、過ちと認めず、改めようとしないなら、それは「牧師病」というより「牧師罪」と呼ぶべきでしょう。牧師独自の罪深さに陥っているのでしょう。背景には牧師の持つ権力ゆえの優越感や高慢の罪が潜んでいるのかもしれません。

 寛容な信徒はそうした対応をされても、「先生も多忙でお疲れだから」と御赦し下さいます。気の弱い信徒は、傷ついたり、不満を覚えても、牧師にそのことを告げられません。ところが当の牧師は信徒の寛容と忍耐に支えられているとの自覚がない場合も。いいえ、想像だにすることのできない方も。結果的には牧師自らが信徒の不信感を作り出し、分裂などの危険を生み出している場合も。

 ですから、「牧師病」という言葉によって問題を過小評価するのは怖いなーと思うのです。放置自体も教会全体を病気にしかねないので問題ですが、時に「牧師罪」に至るという意味でも危険かと思うのです。

 牧師を愛する役員や信徒の皆様、そして特に牧師夫人の皆様には、「牧師病」の段階のうちに病状を指摘し、自覚を与え、治療の必要を示し、治療に協力していただきたいと願うのです。

 かく言う私も自覚症状があるので、完治を目指して、真剣に治療に専念せねば・・・。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 16:40 | - | - | - | - |
カルト化教会被害者と人権の聖書的根拠
 一人のカルト化教会脱会者の方が、本会のサイトの「聖書が語るいのちの大切さ」を読まれて、求めていた答えを見つけて下さったようです。それは、人権についての明確な聖書的根拠です。

 そのことが以下のブログに記されています。
クリスチャン・スイートピーの日記」5月6日「人権・・・その聖書的根拠」http://angel.ap.teacup.com/applet/sheepsweetpea/20100506/archive

 クリスチャン新聞の論説にも記したことですが「自分を捨ててキリストに従うこと」が「自己判断を捨てて、牧師や教会組織の言いなりになること」に摩り替わりやすい信仰理解いいえ、「信仰誤解」やその危険性は広く日本のキリスト教会にあるようです。

 特に権威主義的なリーダーは意図的かどうかは別にして、こうしたすり替えによって教会を支配することがあるようです。カルト化した教会などはそれが徹底して固定化しているのでしょう。

 そうした場合は「自分を捨てること」が「自己判断放棄」「主からの人権放棄」「聖書的自己尊厳の放棄」までに、すげ替えられたり、拡大解釈、拡大適用されているように思えます。

 カルト化教会被害者の方々は、脱会しても、正常な自尊感情や正しい人権感覚を取り戻すのが困難なのでは?と危惧をします。そうした回復のために、聖書から客観的な人権の根拠を示すことは、有効なのでしょう。

 今回のご紹介したブログ記事は、過分なご評価だとは思いますが、もし一人でも多くのカルト被害者の方、自己価値を見出せない方、自分の存在の価値を実感できないで苦しんでいる方のお役に立てればと願いご紹介申し上げます。

 何年も前に記したもので、硬い文章ですが、力になれば感謝です。よろしくければご一読を。

聖書が語るいのちの大切さ
 http://www.chiisana.org/life/
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 07:15 | - | - | - | - |
妻:夫=教会:国家
 またまたブログ「のらくら者の日記」に、どうしても紹介したい記事を発見。この記事、基本的には後藤敏夫先生の書物を紹介。私自身も後藤先生の書物からは何度か(特に社会的責任について)教えられてきた一人です。

 まずは記事をお読みください。

http://seikouudoku-no-hibi.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-194d.html

 この記事をお勧めする理由は二つ。一つは結婚関係について聖書的で深い示唆を与えているから。もう一つは聖書的で健全な権威の教理と行使について教えられるからです。本ブログおなじみの「結婚」と「牧師不祥事」という二つのテーマについて同時進行的に学ぶことができるでしょう。

 聖書が命ずる「従う」が「愛の故に従うこと」であり「言われた通りにすること」「いいなりになること」ではないということ自体が、理解できていないクリスチャンは驚くほど多いです。クリスチャンホームの中高生はこのことを教えられておらず苦しんでいますし、未信者の夫を持つ既婚者クリスチャンも、明確な教理理解ができておらず、混乱していることが本当に多いですね。

 神から委譲された権威の明らかな誤用乱用、不当な行使に対してはこの記事にあるように「祈って『否』と言うことが御心」であると、私自身も理解しています。つまり不当な権威行使に対しての抵抗や不従順が神への従順となる場合もあると考えるのです。

 パロの命令に反して男の赤ちゃんを活かした助産師、王の命令に反して礼拝をささげたダニエル、「この名によって教えてはならない」との当局の命令に反して宣教した弟子たちの記事へとそれへの是認は、こうした信仰理解を支持する根拠になると考える私です。

 本ブログ的には「クリスチャン妻:ノンクリ夫=日本の教会:日本の国家」という視点からの考察は、本当に教えられます。また、この記事は「権威と従順」全般に応用できるため、牧師と信徒、教会とクリスチャン個人という関係にも当てはめるべき原則となるでしょう。

 しかし、この記事を私が絶賛したい理由は後半の記述であります。ここに記されていることは「権力全般に対して、対立軸を前提とした発想をしてしまうことの非聖書性」に対しての危惧や警告かと思います。


 信仰の自由を脅かす国家権力、妻に暴力を振るい悔改めの実を結ばぬ夫、与えられた権威を乱用する牧師、極度に権威主義的な教会・・・・。今の日本社会、家庭、教会には「」を言うべきケースも多々あるでしょうし、そうすべきだと思います。

 だからと言って、立てられた権威に対して「愛の故に主にあって従う」姿勢を失ってしまっては、逆の意味で聖書的でなくなってしまいます。

 根拠なく国家権力に対立する教会、未信者の夫を軽蔑するクリスチャンの妻、牧師の正当な権威を認めぬ信徒、教会の聖書的権威を軽視する教会員・・・・。これもまた、神様の御心から大きく逸脱することでしょう。


 盲目的従順でもなく、敵対的姿勢でもない、その両極の間にある「愛の故に主にあっての従順」。国家や政治の問題から、夫婦関係や牧師不祥事、教会のカルト化問題に至るまで、クリスチャンたちは常に、聖書が示す「愛の故に主にあって従う」という基本原則、基本姿勢を決して忘れてはならないでしょう。

 最近、年下の優秀な牧師とお話をしていて同じような指摘を受け、私自身大いに考えさせられました。特に今後福音派内においては、「権威と従順」についての信仰理解が成熟し、聖書的な人権意識や個人の主体性と責任が強調されることが予想されます。しかし、罪人である私たちは、逆方向の極端である聖書的権威とその行使への不従順聖書的根拠なき権威への恒常的対立姿勢に陥りかねないことを危惧します。

 その意味でも聖書的ストライクゾーンを明確に伝えるこの記事、超オススメです。
| ヤンキー牧師 | 権威・リーダーシップ、牧師と信徒 | 09:48 | - | - | - | - |
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