命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
妻子に感心のない男ってどうよ?
 結婚をして喜び、子どもが与えられて喜んでいた夫。でも、結婚しばらくすれば、驚くほど妻に無関心に。子どもの誕生後数年で子どもにも無関心に。仕事はするものの、自分の趣味や楽しみに一人で没頭する夫。

 最近、よくお聞きする悩みです。一概にはどうこう言えませんが、多くの場合は、夫の人間としての著しい未熟さに起因するように私は考えています。

 未熟さの現われの最たるものは自己中心性。つまり、未熟な人間は自分しか愛せません。妻を愛し子どもを愛しているように見えたのは、単なる自己愛の裏返し。妻を得て自分を喜ばし、子どもを得て自分を喜ばせているのでしょう。新しいゲームソフトや携帯、フィギュア、新製品と同様、獲得すれば、しばらく楽しい思いをして、やがて飽きて、別の関心事へ。要は妻子というかけがえのない人格さえ、新商品同様にしか扱えないということでしょう。

 人格的関係を深めていく、その中で自分が成長していく、深い心の通じ合いが深い癒しや自己改革をもたらす・・・・。そんな経験をすることなく、年齢と体と社会的立場だけが、大人になってしまったのでしょう。

 まずは、賢明な女性となり、そうした男性を見抜いて結婚しないことです。どんなに自分を大切にして、犠牲を払ってくれても、それに騙されてはいけません。自分以外との彼の人間関係や家族関係を見れば、不安材料や自己愛性の強さを感じされる要素はあるはずですから。要は、恋愛にのぼせず、冷静に自分と経験豊かな第三者の目で観察と判断ですぞ。

 結婚してしまった方は、どうか、諦めるという解決をなさいませんように。自分は楽ですが、幸せにはなれません。本物の夫婦にはなれませんし、それが子どもに悪影響を与える可能性も高くなりますから。

 夫が自分の本当の問題に気づき、認めて、向き合えるようにしてあげること。それは、決して容易ではありません。指摘しても、責めても、第三者に諭してもらってもなかなか事態は進展しないことも。

 日本の社会は男性が一生、人格的に未成熟でも能力があり社会的責任さえ果たせば、大人扱いされてしまいます。周囲は誰も、その未熟さを指摘したり、責任追及をしません。ですから、男性本人は妻だけが自分を責めるので、妻を「うるさいやつ」「困りもの」「唯一の敵」扱いしかねません。

 それはキリスト教会も時には例外ではありません。熱心な奉仕と集会出席と献金と聖書知識があれば、「成熟した男性クリスチャン」と判断されかねません。(聖書は役員や監督に成熟した家庭人であることを求めているのに!)。時にそうした自分物が牧師となることも。

 日本の社会、今の時代、日本の親子関係はそうした「永遠の男の子」、真の意味では大人になれないまさに「日本男児」を生み出し容認しやすいとつくづく思います。

 こうした一部の日本男性の未熟さとされに由来する自己中心性、さらには、それが、いとも簡単に見過ごされてしまう環境。課題を指摘することはできても、「どうすればよいか?」と尋ねられたら、困ってしまいます。正直、私もどうすればよいか?悩んでばかりです。
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 08:46 | - | - | - | - |
妻限定!自己愛性人格障害?(3)
 「キリストがご自身を教会に与えたように」。それが夫の妻に対する愛の標準、あるいは達成目標。ところが「釣った魚に餌はやらない」とばかりに、結婚してしまえば、「夫自身を妻に与えよう」としなくなりがちな男性たち。自分を楽しませることより妻の喜びを優先させることの難しさ。妻を悲しませ苦しませてでも、自分を楽しませようとしがちな罪深さ。私自身もこうした葛藤の中で、み言葉に生きるチャレジをし続けているに過ぎません。

 私の知人の男性クリスチャンは、かつてロックバンドでキーボードを担当。マニアックでこだわりのプログレ派で、主にカルメン・マキ&OZ(フォークのイメージが強いが実は日本初本格的女性ロックボーカルで、プログレの要素も強い)のコピーをしていたとか。イエスなどもコピーしていたというから、かなり硬派と言えるでしょう。

 その彼が、一人のクリスチャン女性に恋をします。その女性が大好きだったのが、何と「オフコース」。この彼は、以後、オフコースを演奏して、好きになってしまったとか。恐るべし恋愛の力!恋はリック・ウエイクマンを小田和正に変えてしまうのか?

 硬派ロックファンからは、「悪魔に魂を売った」「ロック・スピリットを捨てたのか?」と非難轟々のご乱心なのでしょう。しかし、このお話を聞いた私は「偉い!」と絶賛。「愛する女性のためなら、ロック・スピリットなんかポイだよなー」と共感。

 結婚前に彼女のために多大な犠牲を払うのは多くの男性にあること。しかし、このクリスチャン男性が偉いのは結婚後も同様の真実な愛を妻に注いでおられる(ようにお見受けする)こと。

 これぞ、クリスチャン夫であります。私も妻が「どうしても」と言えば、さだまさしを喜んで一緒に聴き、鳥羽一郎のコンサートに出かける夫でありたいと願っています。妻のためにはプログレも、モダンジャズも現代音楽もポーイできてこそ、クリスチャン夫。

 きっと神様は、男性たちが「妻限定・自己愛性人格障害」なのをよくご存知で「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたうように」という見本を示し、標準や目標として命じておられるのでしょう。どうも、み言葉に従う決断をして、聖霊の力に助けられ実行することなしに、この病気の葛藤は困難なようですね。 
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 09:47 | - | - | - | - |
妻限定!自己愛性人格障害?(2)
 以前も取り上げましたが、湘南の風の「純恋歌」にはこんな歌詞が。

お前は俺のため。なのに俺は俺のため。」

 愛していると言いながら、相手を大切に思いながらこうなってしまうのが、妻(または彼女)限定・自己愛性人格障害の症状なのかも。

 日本の男性たちの多くは、どうしてこうも自分を楽しませるために生きてしまうのか?しかも妻や子どもを喜ばせることや妻と共に楽しむことより自分が楽しむのを優先してしまうのか?時には妻や子どもを悲しませ苦しませてまで、自分を楽しませてばかりの男性も。

 先日、不覚にも「26時間テレビ」の一部を観てしまいました。12時間三輪車耐久レースとやらでえした。お約束の無理矢理感動させパターンです。厳しいレースを完走する姿は確かに感動的に見えます。完走したチームのメンバーは完走をを機にあることをするのです。ふられた彼女に再度プロポーズする男性や、自分を温かく受け入れた仲間に感謝状を読む外国人など。

 その中に完走した夫の姿を見て、ある決意をする妻がいました。この妻、夫が趣味の自転車に熱中するあまり、夫婦の心の通い愛がなくなり、もうやっていけないと思っていたとか。その冷め切った夫婦関係は小学生の息子さんにも悪影響を及ぼしていたと証言。「もうやっていけない!」その思いから、彼女はこの二年間、離婚状を常に持ち歩いていたこと公共の電波に乗せてカミングアウト。
実はこの妻が夫の完走に際して実行したのは、その離婚状を破り捨てることでした。

島田紳助に「ご主人の完走する姿をみてどう思いました?」と尋ねられ「私も我慢して最後までがんばろうと思いました」と答える妻。それを見て泣き出す長男。妻に向かい「息子さんのこの涙を忘れたいかんよ」と訴える紳助。肝心の夫は謝罪するわけでもなく、妻に歩み寄るのでもなく立ち尽くしているだけ

これは腹、立ちましたね。

「レース完走と結婚完走は別やろ?」

「夫のレースでのがんばりと妻に向き合う努力は別分野でしょ!」

「夫の謝罪も改善もなく、具体的解決になってないでしょ!」

心情だけの改善なら、また、同じ問題が起こるよ。これからも、子どもを犠牲にし続けるよ!」

「離婚状持ち歩くくらいなら、それを提示して、きちんと夫と向き合えよ!いや、夫こそ逃げてはならないだろう。卑怯だぞ!」

「夫の反省も謝罪も具体的改善もなく、妻一人が我慢すれば、家庭がうまく行き、息子は健やかに育つとでも思っているのかよ?」

「私一人が我慢すればと考え、夫婦関係に向き合わず、あるいはむあおうとしても夫が逃げたままで、子どもを犠牲にしている不幸な日本中の母親たちをますます本当の解決から遠ざけてしまうだろーが!」

「テレビがそうした偽りの家庭問題解決をして、どうするの?」

「そもそもテレビの企画に乗せられてそんなことするなよ!」

 企画のうそ臭さ、偽善性、無理矢理な感動の演出も手伝って、久しぶりにテレビを見て大いに立腹。

 妻を心を通い合わせる人生のパートナーとは思っていない男性も多数。趣味や仕事に生きるために生活の面倒を見、子どもを産み育てる存在程度に思っているのでしょうか?

 離婚状を突きつけられても、なお、本当の意味で何が悪くてどう改善するか分からない男性は日本には少なくないのが現実。

 ただ、自転車に割く労力や時間を妻に向ければいいだけなのに、その重要性、必要性がわからない男性たち。

 日本の既婚男性には、なぜここまで妻に対してだけは自己愛性人格障害的なのでしょうか?日本の男性はどうしてこうも自分を楽しませるために生きてしまうのか?妻との心の通い合いを捨てて、子どもを情緒不安に陥れてまでそれをして、なおかつ無自覚でいられるのか?

 それが趣味・道楽なら程度によっては非難されることはあります。しかし、それが使命や職業など社会的に価値があり、所得を伴う場合などは、容認され問題視されないことも。これを単に「日本男性の原罪」という言葉で片付けてはならないように思っています。

 少しリアルに考えてみましょう。妻にとってそれが著しい苦痛であれば・・・
「酒・タバコ・ギャンブルなどを止める事を願うか?」
「食べすぎの習慣を止めて、健康と病気に悪い食物摂取を止めようとするか?」
「趣味のバイクに一生乗らない決断ができるか?」
「大好きなクワガタムシを全部人に譲るか?」
「某球団の熱狂的ファンを止めて、野球中継を今後一切見ない約束ができるか?」

 うーん、厳しいですね。でも、それがキリストが教会を愛したように妻を愛するという御言葉に生きうる夫かどうか?の試金石なのでは?こうした問いかけこそが、クリスチャンである夫が本当の意味で、御心に生きようとしているかどうかを明白にするのではないでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 09:00 | - | - | - | - |
妻限定!自己愛性人格障害?(1)
 これは自分自身を含めてのことですが、日本の男性の多くは、「妻限定」の「自己愛性人格障害」ではないかと時々思います。人類愛や隣人愛、社会的な弱者への愛や家族愛はあるのですが、なぜか妻に対してその愛が自発的でなかったり具体性がなかったり。むしろ、妻に対してだけは、自己犠牲的な愛が実行できないような傾向が、日本社会で生きてきた男性にありはしないかと危惧をしています。

 たとえば、一般社会や教会生活では、注意されたり改めるようにすすめられた事柄は改善しようとつとめるでしょうし、改善できる場合も多いでしょう。しかし、私などは妻の嫌がる生活習慣、癖、言動などをしたくないと願いながら、たびたびしてしまいます。私の自己診断は「軽度の妻限定自己愛性人格障害」。

 そんな私が申し上げるのは恐縮なのですが、残念ながら、妻が本気で心配したり、耐え難い苦しみにあるのに、食生活や消費などの生活習慣や言動を変えようとしないクリスチャンの夫も。変えようとして変えられないのではなく、「妻のために変えよう」とは思わないクリスチャン夫たち。

 少なくとも神を愛すると言いながら、妻が本当に嫌がる事、苦しむことを止めようと願わないのだけは、どうかと思うのです。しかし、現実には、それが、まかり通ってしまう夫婦も。社会的経済的弱者である妻の側も「諦める」以外の解決を試みない場合も。

 「キリストが教会のためにご自身をささげられたように妻を愛せよ」と聖書は命じています。クリスチャンの夫たるものは、本来、妻のために「捨てられないもの」、「止められないもの」があってはならないはずなのに・・・。

 どうして、クリスチャン夫婦の間でそれがまかり通ってしまうのでしょう?結婚生活にとってかなり重大な問題となっていても、どうしてそれが戒められたり、悔い改めの対象にならないのでしょう?どうして、教会や牧会においてそうした夫婦のあり方が課題ともされず、「仕方ないこと」にされがちで、クリスチャン妻達の不満や愚痴の対象以上になることがないのでしょうか?素朴な疑問を持ってしまう私です。

 そうしたクリスチャンの夫たちは、聖書の教えと現実に妻のために自分を変えたり、何かを捨てたり止めたりすることが、結びついていないのでしょうか?それとも、それが、妻にとって「婚姻を継続しがたい事由」となりうる程の問題に発展しかねないという重大性を理解していないのでしょうか?

 妻の「苦痛軽減」や「結婚問題解決」よりも、「自己改革に伴う苦痛の回避」や「自分の快適さの継続を優先」してしまうこの「病気」。

 名づけて「妻限定・自己愛性人格障害」。自分自身を含め思うのですが、この病気の患者は日本社会に生きてきたクリスチャン夫にも、少なくないのでは?
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 10:36 | - | - | - | - |
「嫁」ってどうよ?
 ここ数年テレビに登場するお笑い芸人たちから耳にする古くて新しい言葉が「嫁」。「ウチの嫁が・・・」などと使うわけです。従来なら「ウチの奥さん」とか「家内が」「ウチの妻が」「かみさんが」と表現したのに取って代わっています。さすがにキリスト教界ではあまり耳にしませんが、テレビ文化に影響されやすい日本社会やある世代には広まったり、普及しているのでしょうか?

 興味深いことには、どうも「嫁」という言葉に、女性蔑視や差別、あるいは封建的な思想、家制度の名残などが込められてはいないようです。懐古趣味でも、保守反動思想でもないようには思えます。お笑い芸人達の話し振りを見ていると、以下のように感じています。

「嫁」という言葉にある程度の愛情や時には敬意を込めているらしい。
「嫁」は、真面目で照れくさい「家内」に代わって用いられている可能性がある。
「嫁」は「妻」という機能的で客観的な呼称より、人情味があるように思われる。

 「嫁」=「女」+「家」→封建的、女性蔑視

 そんな連想は既に過去のものでしょうか?文化は言葉を生みますが、しかし、一旦普及した言葉は思想や文化を形成します。「嫁」という言葉にはどんな思いやニュアンスが込められているのでしょうか?それは現在の日本の結婚観を表現しているのでしょうか?それとも今後の結婚観を形成するのでしょうか?

 それはもしかしたら「専業主婦」だけを指しているのでしょうか?フルタイムの労働をしていても、専門職でも、やはり「嫁」と呼ばれるのでしょうか?「うちの母ちゃん」や「ウチのママ」よりは、好ましい表現なのでしょうか?考え始めるとキリがありません。

 男性側の主観としては、あまり悪意や蔑視傾向はなく、むしろ善意として使っているように思うのですが、「嫁」と言われる女性たちはどうなのでしょう?特に既婚者女性の意見は、お聞きしてみたいものです。

 どう思います?あの「嫁」って言葉?
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 10:10 | comments(7) | trackbacks(1) | - | - |
悩めるかな夫の未熟さ(4)
 「未熟な夫とどうつきあうの?」の著者である心理カウンセラーの山崎雅保さんは、「未熟さ=コミュニケーション能力の未発達」と考え、さらに「コミュニケーション能力=情報をやりとりする能力」とし、人間がどうしてもやりとりしなければならない情報の本体は「感情に他ならない」と断言しています。しかも実験によってそれは確認されていると主張されます。

 私個人としては完全に同意はしないまでも、「そうだろうなー」とは思います。結婚の本質が「親離れした者としての妻との交わり」であるなら、成熟度とコミュニケーション能力の関係は表裏一体だろうなーと考えたりもします。実際に深い交わりは知的なものよりも感情面のものでしょうから、かなり説得力のある主張として私は受け止めています。

 山崎さんは「感情」ということについてのユングの見解をこうまとめて記しています。

 「感情は決して非合理的なものではない。たとえば、好き嫌い、快不快といった感情にも、その表出にはそれなりの筋道があって、理由なく現われるものではない。けれど思考的な人感情の脈絡を不可解に思うのであって、本来は無意識の表面化という意味では極めて合理的であるはずの感情を非合理的であると評価してしまうのだ」

 いかにもユングですね。もちろん知性軽視や、感情の安易な肯定は、聖書的ではありません。心理学を聖書に優先させるべきではありません。しかし、いわゆる福音派の信仰理解はともすれば、感情を不当に低く評価しがちで男性主義的傾向になり、福音の豊かさを失っているのでは?との内部からのご指摘も時にお聞きします。そう言われると神様もイエス様も「感情の脈略、感情の論理性」でのご判断や行動があったのでは?考えてしまいます。

 少なくとも「男性は論理的、故に合理的。女性は感情的、故に非合理的。故に男性の方が理屈では勝っている」と単純な結論を出すのは、どうかと思うのです。ましてや、それを理由に女性を見下げたり、対等に扱わないのは、おかしいでしょう。

 また、私も昔はそうした傾向が強かったのですが、「妻の話は感情的で非論理的故に苦痛に満ちている」というもっともらしい理由をつけて妻と向き合うことを避けてしまいがちなのでは?

 結婚生活20年を過ぎ、あちこちで偉そうに「夫婦の会話」について講演する私ですが、いまだに妻と感情交流をするのは、大の苦手。でもチャレンジはしています。多少なりともそれが男性クリスチャンとしての成長につながってはいるかな?と自己評価。

あのルターも「結婚生活は修道院以上の訓練」との主旨の発言をしていたはず。妻との交わりが男性を成熟させるのは間違いなさそうです。優秀、有能と言われるだけなら、仕事や使命に励めばよいでしょう、しかし、本当の意味で成熟した男性になりたいのなら、妻の話を聞くことかと思いますよ。

 どうか、男性の皆さんは恐れずに逃げずに、妻との感情交流にチャレンジしてみてはどうでしょうか?ある意味、それは自分の未熟さに向かい合う苦痛も伴いますが、それは男性として夫として成長するための「成長痛」でもあります。そして、それは聖書が約束する結婚生活の豊かさを実体験する幸せ、福音の豊かさを生きることですらあると私は思います。

 妻である皆さんはそうした男性の未熟さを責めたり、不満をぶつけたりするよりも、ご自分が何ができるかを考えてみてはどうでしょう?まずは、男性理解でしょう。愛は他者理解です。理解されることより理解することを願うのが愛

 そうした暖かな理解という愛の前提の上で、夫が殻を破り、どうコミュニケーションの場に出てきて成長するように導くかが、妻のやりがい、妻の腕の見せ所と言えるでしょうか?

 夫を成長させるのは愛が豊かで賢い妻です。そして、そのためにも妻は自らが愛と賢さにおいて成長せねば!
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 08:45 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
悩めるかな!夫の未熟さ(3)
 未熟な夫、それに対処できない妻、相互で成長できない夫婦。そこから派生する子供たちへの悪影響。これは、確かに難しい問題です、しかし、希望はあります!神様は生きておられます。実際に神様はそんなイサク家を見捨てませんでした。

 イサクとリベカは、信仰者どうしてありながら、かなりまずい夫婦。さらに残酷なことには子どもまでが負の遺産を背負わされていきます。献身的信仰者兼鹿肉好き偏愛系トホホ父親の悪い影響か?神の祝福である長子の権利を軽んじ、異邦人と結婚したがるエサウ。聖書は神の祝福を軽んじる彼をズバリ「俗悪な者」と評価しています。外に出かけ、神様より父を喜ばせ、神の祝福を軽んじるエサウは、今風に置き換えて強引に名づければ、俗悪系世俗派クリスチャン

 片や、ヤコブといえば、家庭で料理をするなど内向的な性格、母の偏愛を受け、どうも母子密着的な匂いがします。神様の選びと祝福の約束のゆえに彼は神の祝福を重んじる者でしたが、性格は「せこい、ずるい、暗い」サイテー三拍子?同じく今風に命名すれば、オタク系冬彦さん型クリスチャン

 しかし、祝福の基となる家庭がこうした状況でも神様は決して見捨てません。神様には再生計画があったのです!まずは、神様はきっちりとヤコブに罪の刈り取りをさせました。神様は、同時にそれを通じてヤコブを霊的にも人格的にも成熟した者へと導きます

 エサウに恨みを買ってしまい、リベカは可愛い子に旅をさせざるを得ない状況に。そして強制的な母子分離の一人旅へ。旅の途中のべテルでは石を枕に眠る中、主に出会います。これは、今日で言えば、クリスチャンホームの男子が神様と人格的に出会う体験でしょうか?親離れあっての信仰的自立です。

 目的の地では、おじのラバンから自分が兄にしたように騙され続けます。14年もかけて、ようやく、罪の自覚や罪責感他者の痛みが分かる大人になったのでしょう。

 故郷に帰るには、エサウとの和解は避けられず、兄に殺されて当然の悪行を思いながら、命がけのヤボクの渡しでの神様との深い交わり。命がかかれば神様に文字通り命がけで向き合わざるを得ません。そして、兄との和解は現実となり活きて働く神をリアルに体験。

 ヤコブは神様から強制的に、霊的にも人格的にも親離れをさせられ、自立と成熟の道を歩まされます。もちろん、後にヤコブも偏愛の罪を犯します。ヨセフの偏愛から問題が生じます。けっして完璧とは言えませんが、確実に回復は得ているのです。負の遺産は、大幅な減額です。

 そうです!神様はクリスチャンホームを祝福しようと願っておられます。たとえその家庭が機能不全であっても、アブラハム・イサク・ヤコブの家庭を祝福続けた神は、今日も信仰者家庭を祝福してくださいます。

 神様は信仰者家庭に育って歪んでしまった男性を、放置しておくはずがありません。長い年月をかけて忍耐強く愛をもって取り扱い、霊的にも人格的にも成熟したものと変えてくださるのです!要は周囲が過保護や過干渉で神様のそうした手厳しいお取り扱いを邪魔しないことかとも思います。「神様は自分の家庭を決して見放してはおられない」、「再生計画を持っておられる」、だから、「それを示して頂き、従おう」ということかと思うのです。
 
 大切なことは、男性の未成熟さが夫婦の問題となりそれが世代を超えてもたらすマイナスを、聖書の御言葉に従って自分の世代で断ち切ること。自分の次の世代にそれを継承しないこと。少なくともヤコブのように負の遺産を減額することでしょう。

 神様はこんな悲惨なイサク家さえも約束どおり祝福し、用いてくださいました。どうか、家庭人としての未熟な夫たち、父親たちに絶望することなく、神様の祝福の約束に立ち、神様の再生計画を受け止めながら祝福の基へと成長することを願ってやみません。

 そのための男性本人の自覚や自己開示妻の暖かな理解と助け、周囲の大人たち、教会の指導者たちが知恵を出し合って助け合える交わりの大切さをも思います。
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 09:08 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
悩めるかな!夫の未熟さ(2)
 教会では献身的で熱心なクリスチャン、一方でどうかと思える家庭人神様のとの関係は濃密そう、しかし、妻と向き合えないクリスチャン夫。こうした悩みがクリスチャン妻やこの子どもたちからはちらほら。

 しかし、以前にも記した通り、聖書はそのことを既に私たちに啓示済み。ある牧師はアブラハム・イサク・ヤコブの家庭は三代続いた機能不全家庭だと指摘します。私はそこまでは言い切る自信はありませんが、その要素は十分だとは思っています。にも、かかわらずその家庭を、契約どおり祝福し通し、祝福の基とされた神様の忍耐と真実さには、参ります。

 イサクは、神様との個人的関係については、実に献身的であったようですね。アブラハムがイサクをささげたとき、イサクは18−20程度であったはず。児童や幼児のように父親の言いなりでも、自分が何をされるか理解できない年齢ではなかったようです。ささげられるのが嫌なら、今風に言えば、「オヤジ、自分をささげろよ!」とアブラハムは息子に焼死させられていたかも。

 想像とは言え、アブラハムの信仰を受け継いだイサクは文字通り自らを神にささげうる程の信仰者であったと思われます。そのイサクが明らかに神様の導きと信仰の応答としてリベカと結婚。ここまでは非の打ち所がありません。

 しかし、その二人が形成した家庭は破滅的でどうも機能不全家庭っぽいわけです。その理由はイサクが鹿肉好きで猟師エサウを偏愛したためという「ありえんだろー」というもの。これは先日も記したようにやはり男性特有の未成熟さに由来する部分も大きいのでは?それに反応するように、リベカはヤコブを偏愛。家庭は、プロレスのタッグマッチ状態に。

 聖書にははっきり書かれていませんが、こうなった背景には多分、イサクとリベカが向き合えず、信頼しあえない夫婦であったことが想像されます。夫婦関係が充実しないと、男女とも好きなもの(鹿肉)や子ども(ヤコブ)に対して不健全なレベルで入れ込むもの。さらに聖書に書いてないことを妄想すると、やはり、リベカがイサクの家庭人としての幼児性や未成熟さに愛想を尽かしたのでは?と予想もできるのでは?夫の未熟さとそれに失望するばかりで対処できない妻、お互いが成長する必要を覚えなくなった夫婦ということでしょうか?

 クリスチャン男性にとっての大人とは何でしょうか?神様との個人的関係を構築して、狭い意味で神に従い、忠実に働くことも確かに自立の一面でしょう。それは評価されるべきことでしょう。これを便宜的に「霊的自立」「霊的成熟」と呼びましょう。

 しかし、聖書は、「男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となる」(創世記2:24)と明記しています。つまり男性の成熟度は「どれほど親離れしているか?」と「どれほど妻と深い交わりを持てるか?」で測られるはず。また、両者には密接な関係があり、親からの自立度が妻との関係を深さを決めるのだとか。自立不足の男性は母親とは異なる妻という新たな家族との関係構築がぎこちなくなりがちなのだとか。(その意味で昨日の未熟度チェック項目は結構、聖書的なのでは?)私はこちらを「人格的自立」「人格的成熟」と名づけましょう。

 本来信仰とはこの両面にわたる包括的なものでしょうが、私たちは霊的な面ばかりを重視しやくしのでは?言うまでもなく、「霊的自立」と「人格的自立」が両立しているとはかぎりませんし、「霊的成熟」と「人格的成熟」とが同時進行するとも限りません。

 「霊的成熟度」と「人格的成熟度」を混同し、安易に同一視するところから、イサクを育ててしまったり、イサク家を形成し兼ねない。それが信仰者の家庭が聖書から読み取ることの一つなのかもしれません。両者の混同から、安易に「忠実で熱心な信徒だから」「いいクリスチャンだから」と相手の本質を見極めることなく結婚を決めてしまうクリスチャン女性たちもいるようです。

 勉強、訓練、仕事といった社会を中心に生きる男性たちは、どうしても家庭人としての成熟が困難な面があります。それは、多分、人類にとってかなり普遍的な傾向なのでしょう。

 特に、日本社会は勉強やスポーツなどができれば、よしとされ、家庭人としての訓練を受けない社会です。さらには長時間労働のため父親が家庭に不在で、男性家庭人の身近なモデルに触れることなく育ってしまうことは重大な欠けといえるでしょう。ですから、日本の男性たちが自らの未熟さを自覚できなかったり、向き合うことを恐れるのは、ある意味、当然とも言えるかも。意識するにせよしないにせよ男性自身も苦しみ葛藤しているのです。ですから、それを家族などの周囲がどう、理解し、助けていくかも大きな課題でしょう。

 イサクを反面教師として、霊的にも人格的にも自立に向けて男性を育てるクリスチャンホーム。結婚後も夫が人格的にも成熟し、それを励まし促進するために妻自身も成長する!そんなクリスチャン夫婦であれたらと願います。 
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 11:56 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
悩めるかな!夫の未熟さ(1)
 「夫の未熟さに悩み苦しめられる妻」という図式は、教会の外ではよくお聞きします。そして残念ながら、教会の中にも、決して珍しくはないもの。そもそも日本社会に、男性を未熟なままで大人にしてしまうような親子関係や文化があるとすれば、ある意味、必然でしょう。

 最近、丸屋真也先生の書籍に紹介があった山崎雅保著「未熟な夫とどうつきあうの?」(リヨン社)を中古で購入。これは、本ブログのネタが満載です。聖書的な価値観に立つものではありませんが、未熟な夫を理解し、受け止めるのには実に有効な書物。

 その中に「夫の未熟度チェック」というのが、あります。全部引用してはいけないと思うので、代表的なものを要約して掲載します。そして、それぞれに私なりのコメントを記してみました。

(1)妻が風邪で寝込んでいても、妻(あるいは子ども)の食事を作らない

 先日までの記事で扱ったことですね。これは幼児性の現われの代表である自己中心でなのでしょう。また、食事を作れないように育ってしまったことは現実生活での未熟さを意味するということでしょうか?

(2)子どもと遊ぶことが少ない。遊んでも過剰にからかい泣かせることが多い。

 私も子どもと遊べない父親は未成熟だと思います。子どもだから子どもと遊べず、大人げない関わり方をして、子どもを泣かせるのでしょう。

(3)妻を名前で呼ばず、「お母さん、ママ」などの言葉で呼ぶ。

 自分の人格が確立していないので、妻を人格扱いできないのでしょうか?それとも、妻に求めているのは、母親の代理機能ということでしょうか?それなら、間違いなく母親と心理的なへその緒が切れていませんね。

(4)嫁と姑の問題では、妻の味方に徹することをしない。
 親離れをできていない典型的な現われですね。未成熟な男性は、妻と子どもを泣かせても、母親を泣かせられませんから

(5)自分の都合や状態を言葉に表さなくても、妻が察して当然と思っている。
(6)家にいる時は、テレビ(ゲーム、パソコン)やビール(アルコール類)が仲間。
(7)外面(そとづら)はとてもいいが、家では横暴か、家族に配慮しないマイペース。
(8)妻の愚痴や相談ごとにはほとんど耳をかさない。
 
 これらは幼児性故の自己中心と、他者との関係構築やコミュニケーションができない未熟さの表れということでしょうか?私に言わせれば、基本的に男子小学生のライフスタイルと同一です。

(9)お金を稼ぐことが家事や育児などより大切だと考えている。
 これまた、お金儲けを勉強やスポーツの成績に置き換えれば、小学生と同じ価値観と生活形態ですね。

(10)「やっぱり女は」「これだから女は」など女性蔑視発言が目立つ。

 自分が確立していないと女性を人格として尊重できません。女性に見下されること女性より劣ることを恐れるが故の発言ということかと思います。

 などなど全部で20項目あるのです。さっそく私は自己チェック。該当項目はゼロでした。念のため、妻にもチェックしてもらったら、やはり、私は該当項目ゼロ。それで、いい気になって強気でこの記事を書いているのですが、次のページを読んだら、「ゼロ」は大したことではないと判明

 つまり、日本の男性は、二極化しているのだとか。ほとんどゼロの男性と20のうち10項目前後に該当する男性のどちらかに極端に偏るのだそうです。ですから、この記事でも、多分、私のようにゼロか一つ程度の男性と、半分近くが該当する男性に二分されるのでしょう。

 実際に教会の中でも、そうだろうと予想します。さすがに既婚者クリスチャン男性にはかなり少ないでしょしょうが、信仰熱心で教会を支えるクリスチャン男性や男性牧師の中にも、この半分程度が相当する方には、ちらほらレベルでいらっしゃるのでは?

 こうした未熟な男性のあり方を、「男の美学」だとか「硬派」だとかのレッテルを貼って妻を言いくるめる男性もいるようです。それは単なる「幼児性のカモフラージュ」や、「未熟さの合理化」に、過ぎません。妻の皆様は決して騙されてはなりませんぞ。該当する既婚者男性は自らの幼児性と未熟さを自覚し妻に対して認め、とっとと悔い改めるべし

 というわけで、まずは男性読者は自己診断、あるいは妻による評価を。既婚の女性読者は夫の診断?を。未婚の女性は、これを基準に男性を観る目を養っていただければと願います。
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 22:04 | comments(8) | trackbacks(0) | - | - |
「ちゃんぽん」から「おかゆ・梅干、ゼリー付き」へ
 高熱で寝込んだ妻に「メシは?」と問う夫の問題を昨日は取り上げました。すると、典型的、なおかつ模範的な?ケースを紹介して下さるコメントをいただきました。以下に転載します。

 結婚してからは私の男性理解も深くなったと思います。悪気はないんですよね(笑)

 ある時私も熱を出しました。(結婚前ですが)その時一人で寝込んでいた私に主人が買ってきてくれたものはコテコテのちゃんぽんでした。こんなの食べれるかー!と。その事について私達はよく話し合いました。テーマ『病気の時に食べたいもの!』。これは今まで育ってきた環境も大きく影響しますし好みもあります。

 今では笑い話です。以前先生のブログで異国人夫婦のコミュニケーションがのっていましたが、まさにそうです!話さないと分からない事だらけです。しかも相手にわかるように・・・。

 こういうつらい時は特に察してくれよ〜と思いたいのですが、やはり教育はお互い必要ですね。今では主人はおかゆを作れるようになり、梅干も付けて、ゼリーも買って来ることが出来ます。かなりの進歩です。私の厳しい指導を甘んじて受けてくれる夫に感謝しています。

 
 以上が転載箇所。私が思うに男女は異国人、結婚は異文化交流。いいえ、もしかしたら、男女は異星人、結婚は異星間文化交流くらいに思ったほうがいいでしょう。結婚20年を超える私も妻から時々言われるのは「20年も一緒に暮していて何でわからないの?」という言葉。自分でも「なんでだろう?」と不思議でなりません。

 「クリスチャンどうしだから」、「御霊の一致があるから」言わなくても分かるはずというのは、聖書の神話化に近いでしょう。むしろ、聖書は、様々な事例と共に男女の一致や和解の困難さを示していると思います。

 ですから、男女間では、特に結婚関係では「察してくれよ」とか「言わなくても分かってくれるはず」は、かなり危険な発想。知らぬ間に二人の心は大きくずれてしまいかねません。むしろ「こんなこと言わなくちゃ分からないのかよ」ということを言う決断や勇気が大切なのかも。

  ちゃんぽんを買ってきたこの男性、きっと聖書の黄金律「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしないさい」(マタイ7:12)を字義通り、杓子定規に実行したのかも知れません。コテコテ好きの男性である自分なら、熱で寝込んだ時にちゃんぽんで温まって、栄養をつけたいと考えたのでしょう。

 理念は正しいのですが、この場合は「自分にしてもらいたいことと相手がしてもらいたいことは異なるのだから、黄金律は柔軟に応用し、実行に移しましょう!」という実行上の注意事項を思いつかなかったのでしょう。

 私自身も同じ失敗があります。妻が体調不良で寝込んでいる時「何か気分が楽になる音楽を」と言われてかけたCDが冨樫雅彦の「スピリチュアルネイチャー」(日本の自然と霊性を描いた前衛的なフリージャズ)!妻に「気持ち悪くなる」とヒンシュクをかったのは言うまでもありません。私も「自分にして欲しいことを人にしなさい」という黄金律を無思慮に実行してしまったわけです。音楽については、私は前衛好き、妻は健全保守派、「自分にして欲しいこと≠相手がしてもらいたいこと」は明らか。

 夫婦というのはこうした行き違いを、対話によって克服しながら、相互理解や信頼関係を深めていくもの。「私のためを思ってちゃんぽん買ってきてくれたのだから、違うなんて言えない」と思って、何も言わないままでは、夫婦は波風立ちませんが、成長もしません

 「ちゃんぽんを買ってきてくれた愛はうれしい。でも、私が寝込んだ時、食べたいのは・・・」と、愛の配慮をしながらもはっきり自分の思いを伝えるのが賢い妻。そして、それを、謙虚に受け止めて自己変革できるのが成熟した夫

 スタートが「ちゃんぽん」で、「おかゆと梅干、ゼリーつき」にまで到達したのですから、アッパレなご夫妻だと思います。そうです!昨日のちゃんぽん夫も妻次第で明日のおかゆ夫に成長するのです!

 妻の病気一つを通しても、亀裂を生む夫婦もあれば、逆に相互理解を深める夫婦もあるわけです。今日の記事が妻が寝込んだことさえ、夫婦のプラスに変換できる変換キーとなれば感謝。
| ヤンキー牧師 | 夫の課題と成長 | 09:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
+ RECOMMEND
+ RECOMMEND
+ SELECTED ENTRIES
+ RECENT COMMENTS
+ RECENT TRACKBACK
+ CATEGORIES
+ ARCHIVES
+ MOBILE
qrcode
+ LINKS
+ PROFILE