命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
伴侶採点は顧客満足度?

  先日、独身クリスチャン女性から質問を受けました。「先生は奥様を採点するとしたら何点ですか?」
 「うーん、100点以上ですね」と返答。

 それを受けてこの女性さらに質問。「では、奥様が先生を採点したらどうですか?」
 「きっと百点と言うと思うよ」と即答。

 この女性、感心していたのか、呆れていたのか分かりません。ただ、「うちの夫婦はお互いを減点法では採点しないことにしていますから」という言葉で納得したもよう。

 こうして結婚相手を採点する場合、読者の皆さんは何を基準に採点をしますか?自分の願う伴侶と現実の伴侶の差を減点して採点しますか?それって、もしかして「オレ様基準」「顧客満足度発想」なのではないでしょうか?

 私は妻に対して「もっとこうして欲しい」と願うことは10項目程度あるでしょう。妻が私に対しては、もっと強い不満を持ち、項目も何倍かに達するでしょう。それは多くの夫婦と大差ないでしょう。ただ、私たち夫婦は「不満がないから満足」という次元で結婚を評価していません。逆に言えば、何一つ不満がなくても、冷めたり破綻する夫婦もあるかもしれません。結婚の評価を自分の満足度で計ること自体が、本質をはずしているように感じている私です。

 真実にお互いをパートナーとして尊重し、大切にする気持ちがあり、聖書の結婚についての教えを実践しようと一定努力しているなら、そしてその努力が伝わっているなら、私たち夫婦は相互の採点は100点です。(ただ、多くの優れた結婚についての信仰書が示すように性差からくる行き違いなどは、考慮されるべきだとは思います)

 もちろん、結婚関係の改善や向上のために、「お互いの正しいニーズを満たしているか?」という視点で満足度を数値化して、自らの結婚を評価するのは、大賛成です。専門家による客観性のある採点なら、それは意味あることでしょう。

 そうではなく、自分の願望や理想を基準として(それは間違ったニーズである場合が多い)結婚相手を採点するというのは、「顧客満足度」発想かと思うのです。妻は夫の商品で、夫は妻の顧客ではありません。同様に夫は妻の商品ではなく、妻も夫の顧客ではないのです。結婚とは消費行動ではありません。

 あー、それなのにそれなのに、罪深く堕落し、なおかつ産業社会に毒され、すっかり「お客様=俺様=神様」のごときアイデンティティーを持ってしまった私たちは、結婚という聖なる制度さえ、経済行為のごとく考え、こともあろうに結婚相手さえ、「顧客満足度」で採点してしまうのでしょう。
これは、もう呪われていますね。

  また、逆に神様が与えてくださった伴侶なのだから一切不満を感じてはいけない、相手に伝えてはいけないというのも非聖書的で擬似信仰的態度でしょう。結婚は孤独の解消、心の通じ合い、性的満たしなど聖書が示す正しいニーズを満たすものであるはず。正しいニーズを満たしあえる夫婦に成長するためには、むしろ不満感とそれを上手に伝えることは必要かと思うのです。神より与えられた伴侶を感謝し、喜ぶのが優先で、基本。しかし、不満禁止ではないと思うのです。神が与えた伴侶に不満を持ってはいけないというのは、きっと擬似信仰的な抑圧となり、逆に結婚を不健全化、形骸化させたり、場合によっては精神疾患の要因にさえなりかねないと危惧します。

 私は、「神様満足度」で自らの結婚を採点したいと願っています。お互いに不満や改善点があれば、それを賢く愛をもって伝えること。同時に相手のために自分を変革し、成長させていくこと。そのように夫婦が向かい合い、交わりに生きて、成長し合っていれば、神様は合格点を下さっているだろうなと考えています。夫婦で奉仕するとか使命を果たすとかの「パフォーマンス」は二の次、神様は第一に夫婦の関係性に関心がおありで、それこそが採点対象だろうなと思っています。

 程度問題でしょうが、相手への不満や満足度は、結婚にとっての決定的な要素だとは思いません。むしろ、そうした不満や要求を伝えられないことへの不満、不満を伝えられた伴侶が自分を変えようとしなことへの不満、そうした関係性における不満こそが、本質的な不満であり問題となるのでしょう。夫婦が向き合えない関係に陥っていること、それは不満レベルではなく、本質喪失の故障状態であります。不満を募らせている場合ではなく、危機感を持つべきだと私は思うのですが、どうでしょうか?自分を含めて、本当に多くの男性はこの危機感がないのがトホホです。

 既婚者の方は伴侶を採点してみてはいかがでしょう?「自分の採点基準は何か?」を考えると、自分の本質、結婚生活の本当の課題が見えてくるかもしれません。

| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 09:46 | - | - | - | - |
全米普及率No.1、結婚心理テストのご紹介
 西岡まり子先生を通じて、夫婦関係改善や結婚準備に大いに役立つ心理テストをご紹介いただきました。何でも全米普及率トップなのだとか。その日本語版なので、大いに注目です。信徒の結婚問題で頭を悩ませている教職の方や結婚前カウンセリングをされる方々、さらにはご自分の夫婦関係の改善・向上を願う方々には役立つのでは?

 以下に主催者側である西岡まり子師(ホーリネス下山口キリスト教会)からの紹介文を掲載します。(太字は水谷の編集)

 夫婦の問題があることは分かるけど、どう介入したらよいか悩んでいる牧師や、または、結婚後、問題が起こるだろうと思えるカップルに的確に、具体的に指導するためにお役に立てるプログラムがあります。

 結婚の準備に用いられる関係診断プログラム「プリペアー」、結婚後の夫婦診断プログラム「エンリッチ」、全米一の普及率を持ち、1980年から200万組以上のカップルの助けとなってきました。

 ミネソタ大学の家族心理学者デイビッド・オールソン博士 (ご自身は敬虔なクリスチャン)の開発されたプログラムで、長年の研究をもとに作られた心理テストですが、牧師、カウンセラー、教会の働き人、結婚をサポートする人々など、2日間の研修の受講により、このプログラムを使う資格を持ちます。

 この心理テストは、カップルが125問の質問に答えられることにより、お二人の価値観、コミュニケーション、対立の解決法のパターンなどを、客観的に見えるかたちで表されます。
 二人の陥りやすい問題に働きかけ、結婚を祝福されたものとする、一つのツール(道具)にしか過ぎませんが、牧会や、結婚カウンセリングに携わる皆様の働きをより実り多いものに、そして夫婦という現実の中で実を結ぶことを願い、日本でこのプログラムを牧師、牧師夫人、教会の働き人、カウンセラーへ紹介するにいたりました。一人でも多くの方にこの貴重な機会をお用いただければと願っております。

 なお、主催者の臨床牧会研究会は、とても無名なグループで、どんなバックなのか心配になられるかもしれません。臨床牧会研究会は、有田モト子氏(臨床心理士、埼玉工業大学講師、横浜いのちの電話スーパーバイザー東京聖書学院講師)のご好意により、有田氏の下で臨床的な牧会のケースを学ばせていただいている数名の牧師たちの集まりです。
 不思議な導きにより、このプログラムを日本語の版権を持っている方から紹介され、今は、教会関係を中心に紹介させていただいております。(すみませんボランティアグループです。)なので、このような口コミでしか紹介できませんが、結婚に悩んでいる多くの方の少しでもお手伝いをできたらと願い活動しています。ご賛同、ご協力いただける方は、以下の事務局のアドレスまでご連絡ください。

臨床牧会 Marriage Counseling
メールアドレス  rbmarriagecounseling@yahoo.co.jp
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 22:47 | - | - | - | - |
妻の愛は線香花火、夫の愛は打ち上げ花火
 よく男女の愛情言語の違いが指摘されます。働くこと、家事を手伝うことで愛情伝える夫。会話を通じて気持ちを受け止められることで愛情実感する妻。パフォーマンスとコミュニケーションの違いです。そのために夫は妻を十分愛しているのに妻は夫から愛されていると実感できず苦しみ、愛し合っている夫婦にもかかわらずうまくいかなくなる。そうした行き違いはかなり普遍的なこと。

 同様に、色々な面で妻たちは、男性理解が足りないため、「自分が夫を愛するようなあり方で夫も自分を愛してくれるはず」と考えます。そうではないと「愛していない」と判断してしまいます。妻たちが「夫も自分と同じように伴侶を愛するもの」と決め付けてしまうことは、夫婦の愛情関係を現実以上に悪いものと錯覚させてしまいます。

 私が思うにその一つは、男女の愛情における時間使用についての違いです。妻はいつも常に夫に感心があり、心配したり、思いやることができます。つまり持続的に、切れることなく気持ちがあるのです。

 しかし、多くの夫はそうではないようです。よほど強い恋愛感情を持たない限りは、夫の妻への感心、思いは断続的です。ポイント、ポイントの瞬間風力でになりがちで、ポイントとポイントの間はスカスカ状態なのです。十分愛情深い夫であっても、職場や教会にいうる時、使命や趣味にかかわっている時は、あまり妻の事を思い浮かべません。女性にとっては、「冷たい」「無関心」と評価されるかも知れませんが、これが多くの夫の愛の時間使用の形態ではないかと思うのです。

  先日はキャンプで花火を楽しみながら、その種類の違いを実感。ちょうど夏ですから夫と妻の愛の時間使用を花火にたとえてみしょう。

 「妻の愛は線香花火、夫の愛は打ち上げ花火

 もしかするとこれは男女の脳の性差に原因があるのかもしれません。脳が分業化されておらず、統合的に脳を使い、一度に複数のことを考えられる女性は何をしていても、夫のことを思えます。しかし一方、脳が分業化しており、一つのことに集中して考える男性はそれが困難です。そうした違いに由来するのでしょうか?

 私も以前、妻に「私はどこにいて何をしていても、あなたの事を思うのに、あなたはそうではない。完全に私のこと忘れているでしょう!」と指摘されたことがあります。これは図星です。私は認めざるを得ませんでした。

 打ち上げ花火の発火と発火の間は、完全に火がないのです。いいえ、私の場合、火の気さえないので、妻を悲しませてしまったのでしょう。また、打ち上げと次の打ち上げの時間間隔が長すぎるので、妻は不満を抱いたのだと思われます。

 今は意識的に打ち上げのインターバルを短くし、今、していることが一段落したら、妻のことを考えるようにしています。

妻の愛は線香花火、夫の愛は打ち上げ花火」。このことは多くの日本の夫婦に共通ではないかと勝手に予想しています。妻は男性理解をもって寛容になっていただき、夫は妻の心情を理解して、線香花火にはなれなくても、「打ち上げ花火なりの努力」をすることかと思います。そうした両者の相互理解とそれに根ざした歩み寄りの努力が、こうした男女の行き違いを克服してくれると考えるのですが、どうでしょう?
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 08:22 | - | - | - | - |
「アンパンマン夫婦」と「バイキンマン夫婦」
 私はクリスチャンであるなしに関係なく、結婚の幸せを決めるのは夫婦二人が「目に見えるものを優先するか?それとも目に見えないものを大切にするか?」ではないかと最近思いつきました。

 「目に見えないもの」を大切にするとき、「目に見えるもの」を大切にできるのではないかと思うのですたとえば「神」、「愛」、「真理」、「正義」、そうした目に見えないものを大切にする人ほど、目に見える身近な妻や夫、家族を大切に出来るのではないでしょうか?

 逆に「目に見えるもの」を「目に見えないも」のに優先してしまうと、結局、「目に見えるもの」を大切できなくなるように思うのです。たとえば、お金、財産、仕事、マイホーム、地位、名誉、世間体、そうした目に見えるものを優先した結果、破綻する結婚、崩壊する家族、機能不全となる家庭があります。

 目に見えないものを大切にする夫婦はいわば「アンパンマン夫婦」です。アンパンマンは「愛と正義」が最重要事項です。その結果、アンパンマンと仲間達の間には信頼しあい支えあう関係ができています。同じように目に見えぬものを大切にする夫婦は愛と信頼に満ちた関係が構築されてゆきます。

 一方、目に見えるものを優先する夫婦は「バイキンマン夫婦」となってしまいます。バイキンマンにとっては目に見えるものがすべて。そしてすべてを「世界のすべてをオレ様のモノ」にすることが人生の最終目的。そのような夫婦に生ずる関係はどうでしょう?それはバイキンマンとドキンちゃんのような関係です。愛も信頼もないのです。あるのは「共通の利害関係と欲望」だけです。「バイキンマン夫婦」とはそうした共通の利害関係やそれぞれの欲望だけで結びついている寂しい結婚関係であります。

 あるフェミニストは過激な趣旨の主張をしています。「結婚という制度は、男の金と女の顔と体を交換するシステムである」と。まさに目に見えぬものの価値を認めないなら、結婚の本質はそうした殺伐とした一つのシステムに変質しかねないと私は思うのです。

 目に見えぬ神を信じるクリスチャンこそが、「目に見えるもの」と「目に見えぬもの」のどちらを大切にし、優先するか?それがクリスチャンにとっても自らの結婚を決定付けるに違いありません。

 「自分たちはアンパンマン夫婦か?バイキンマン夫婦か?」「目指そう!アンパンマン夫婦!」今回の記事は、そんなコンセプトで、教会でのメッセージ、交わりでの分かち合いや小グループやセルの学びに用いていただければ感謝です。(引用の際には「小さないのちを守る会」の名前を出していただけると感謝です)
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 09:01 | - | - | - | - |
「愛されたい妻と尊敬されたい夫」はホントにスゴイ
 先日、ファミリー・フォーラム発行の「愛されたい妻と尊敬されたい夫」(1700円)を購入。読んでみてびっくり!引き込まれてしまいました。

「あーそれそれ!」
「クリスチャン妻たちはそこが分かってないんだよなー」
「自分が妻にこんな反応をしてしまうのはこれだからか!」
「妻がああいう応答をするのはそういう意味だったのか!」

 次から次へと納得、気づき、発見が・・・。

 正直あまり期待をせずに「一応、抑えておこう」程度の気持ちで買ったのですが、これが予想外?の大収穫でした。本ブログでも「夫が尊敬できない」「マジカルヒステリー妻」などを記事にしましたが、同著ははるかに聖書的で深い洞察に満ちています。

 妻の必要は夫からの「」、しかし、夫の必要は妻からの「尊敬

 エペソ5:33は命じます。「あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻も自分の夫を敬いなさい。」

 なるほど、同著のタイトル通り、夫と妻への命令はそれぞれ「」と「尊敬」という異なる内容。

 同著の著者によれば、この命令にしたがわず、夫婦それぞれの正しい必要が満たされないと結婚相手が何らかの反応を始め、結婚関係が悪循環に入るとのこと。

 著者のセオリーはとても現実的で興味深いです。引用してみます。
「私のセオリーは、妻は夫が侮辱と感じるような反応をしがちで(だから「尊敬しなさい」という命令がある)、夫は愛がないと妻が感じるような反応をしがちである(だから「愛しなさい」という命令がある)ということです。」

 これには納得、大賛成、そして大絶賛。

 「どうして妻はああなんだろう?」それは愛がないと妻が感じるような反応を夫がしているからであることが多いと結婚20年を超えていよいよ思います。
 「どうして夫はああなんでしょう?」それは夫が侮辱と感じるような反応を妻がしているからということが多いと男性の私は思います。「そんな覚えはないのに、うちの夫婦はうまくいかない」と思う方は一番危ないのでは?同著が必読ですぞ。

 愛を求める妻と尊敬を求める夫、その愛と尊敬の相互関係を深く考察し、現実の結婚関係の問題原因であることを明確にし、結婚の祝福に活かしていくのが同著の素晴らしさ。

 詳細は、こちらのサイトで。目次や前書きなど本論に入る前の15ページをPDFファイルで読むことができますよ。
http://www.ffj.gr.jp/new/books03.htm
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 13:06 | - | - | - | - |
「立派なクリスチャンホームを築きたい!」に潜む罠
 熱心で献身的なクリスチャン女性が、家庭の中で陥りがちな危険を、自らの体験をもとに見事に言語化している記事を発見。

とりわけ、妻であり母であるクリスチャン女性にはお勧めします。
はちことぼぼるの日記〜「無条件の愛、支配という暴力」
http://d.hatena.ne.jp/mmesachi/20100406#c

 聖書の言葉に従った夫婦関係の構築を願う妻が、夫を萎縮させたり、大きなストレスを与えて苦しめたり。信仰継承を願う母が、子どもを疎外抑圧し、ゆがめてしまったり。典型的な事例は「母親からの信仰を継承を果たした自立度の低い男性クリスチャン」でしょう。不幸にも時に熱心で献身的なクリスチャン女性たちが、最も身近な夫と子どもたちを犠牲にするケースをときにお見受けします。

 その一因は、この記事が示している「巧みに隠された自己中心」ではないかと思うのです。

 現に夫が苦しみ、子どもが歪められていても、愛に根ざして聖書的信仰的なことをしているのですから、当人は自分が悪いとは気がつきません。周囲が愛をもって指摘しても自覚できません。そもそも牧師も、夫も、子どもも「言っても無理」「とても言えない」「自覚できるのを祈ろう」などの態度に。

 ある牧師は「罪を悲しむのでは甘い、自分の罪に呆れなくてはならない」と「自らの罪に呆れる」という表現で、クリスチャンとしてあるべき認罪の深まりをアピールしています。

 聖書的な生活を目指そうとするその最高のことの中にさえ潜む自己中心
 聖書的な夫婦になって満足したい自分
 子どもへの信仰継承を果たして達成感を得たい自分
 聖書的な家庭を築き上げて喜びたい自分

 クリスチャンとなった自分がなお「呆れるほどの罪人」であることはこうした「巧みに隠された自己中心」によって明らかにされるのでしょう。女性がリーダーシップをとってのクリスチャンホーム形成は、外見上は成功に見えても、夫婦関係や子どもの人格の深い部分に歪みが生まれやすいように観察します。女性にとっては、こうした罪や自己中心を自覚して、夫や子どもとの本音の交わりがスタートすることから、本当の意味での主に喜ばれるクリスチャンホーム形成があるのでは?と考えさせられました。
 それ以外の面でも、大いに教えられ、気づきを与えられるブログ記事でしょう。
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 13:13 | - | - | - | - |
逃げない、ごまかさない夫、責めない、あきらめない妻(6)
 最後は「諦めないこと」についてです。多くの日本の妻たちは、どうも「責めることを止めて諦めることによって」心の安定を保っていたり、「諦められないので責め続けて」ストレスを溜めるかのどちらかに傾いてしまうように思います。

 夫を責める事を止めるのはよいのですが、次には夫に対する愚痴息子や娘に漏らす一部のクリスチャン女性たち。クリスチャンである母親から、それを聞かされる子ども達はどんな思いになるのでしょう?こうした被害にあい「親を尊敬しなくなった」「そのおかげで自分は健やかに育たなかった、歪んだ」「自分はクリスチャンにはなるまいと思った」「クリスチャン同士で結婚したいとは思わなくなった」という親には言えないクリスチャンホームの子どもたちの本音を、何度お聞きしてきたことかと思います。

 親としての責任という面からも、諦めて子どもに愚痴るようなことは絶対に避けなくてはなりません。もちろん、悪いのは妻だけではありません。妻がそうなるのは、妻と真摯に向き合わぬ夫の責任です。妻から「逃げること」、夫婦の問題を「ごまかすこと」が、最終的にどれだけ、子どもを苦しめ、子どもの成長を歪めていくか父親でもある夫たちは自覚しなくてはならないでしょう。

 多くの教会でご奉仕をさせていただき、クリスチャンホームのお子さん達から本音を聞かせていただく中で、浮かび上がってくる大きな問題の一つはことのことです。信仰継承が破綻する大きな原因の一つはクリスチャンである両親夫婦の問題。クリスチャンでありながら、結婚についての聖書の教えを知らない、それに生きようとしない夫婦。当然、そこにあるのは「逃げる夫」「ごまかす夫」「責める妻」「諦める妻」なのです。そして、それらを引き起こすそもそもの根本原因が、妻に対しての夫の側の不誠実さ、「仕事と信仰は家庭に持ち込まない」というポリシーだったりするのです。本当に残念でなりません。

 ですから、クリスチャンホームの信仰継承のためにも申し上げたいのです。神様が聖書を通じて、妻たちに願っていることは「責めないし、諦めない妻」だろうと思います。もちろん、結婚の本質は交わりですから、夫婦は人格としてしっかり向き合います。しかし、夫の問題の故に夫を責めるのではなく、夫婦の問題として共有して協力して克服の努力をすることが、聖書的な夫婦のあり方だろうと私は考えています。

 逆に、夫が問題を認めないから、向き合ってくれないから、未信者だから仕方ないと、夫の変化や成長を期待しないというあり方も神様の願いとは異なるだろうと思うのです。聖書は「夫に対して諦める妻」を肯定、支持しているようには私は読めません。

 私は聖書全体が示す御心の妻の姿勢は「責めない、諦めない妻」だと受け止めています。夫を責めるか、夫については諦めるかの両極端で自分の感情を落ち着かせてしまおうとする肉性とは別の道にチャンレンジするのが御心ではないでしょうか?いわば「責めと諦めの間の中道」であります。この道に歩むことが、神の御心のように私は聖書の原則を適用するのですが、どうでしょうか?たとえば、聖書の次の言葉はそのことを一定、支持しているように思えます。

「たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。」(汽撻謄3:1)

 「妻が夫を責めることによって」ではありません。それどころか「妻が夫を教えること」「妻が夫に言葉で福音を伝えることによって」でさえないのです。どうも夫たちにとっては「無言の振る舞い」が最も効果的だと神様はご判断されたのでしょう。多くの夫は妻に教えられるのが嫌いです。中学生の80%が「親から勉強しなさいと言われるとよけいにやる気を失う」と答えるのと似ています。男性が大人になってもどこか妻を母親の延長線上で見ているからでしょうか?そもそも妻が夫に教えるということ自体が神の秩序に反するのでしょうか?夫は「妻に教えられる」のでなく「妻から教わる」べき立場なのでしょうか?難しいですね。

 男の横暴、がわままとの非難はごもっとも発言でしょうが、「太陽と北風」の「太陽のような妻」が夫を変えます。「責める」「教える」より「無言のふるまい」を選びチャレンジする妻が、夫を変え、夫婦を変え、子々孫々にまでその祝福を伝えます。未信者の夫でさえ、根本から変えられます。劇的変化さえ珍しくありません。

 また、この御言葉は「妻は夫に従うべき」という文脈の中で語られています(「従う」とは「言いなりになること」ではありませんよ)。間違っても「夫に対して諦める」という文脈ではありません。「未信者なんだから、言っても分からないから無言のふるまい」なのではありません。夫たちには普遍的に「無言のふるまい」が有効、そして、回り道のようで最短距離なのです。

 未信者だけではないでしょう。ボクシングにたとえるなら、クリスチャンも含めて夫たちにとっては「妻の無言の振る舞い」程の有効打はないのです。夫たちは「妻の責め」という連打や「御言葉の教え」というストレートパンチではダウンしません。見事なスウェーバックで「逃げる」、あるいはガードを固めて「ごまかす」という「のらくら戦法」でかわし続けます。

 しかし、「妻の無言のふるまい」というボディーブローの連打には勝てません。男の弱点はです。腹筋が弱いのです。顔を打たれるのが怖いのでガードもできません。確実にKOに持ち込むのです。この御言葉は「逃げる夫」「ごまかす夫」「未信者の夫」であっても、諦めず「無言のふるまい」というボディーブローの日々の連打で勝利せよとの希望のメッセージとして受け止めることもできるのではないでしょうか?

 まさに「責めない、かといって諦めない妻」がここでは命じられていると思うのです。「責めない、でも諦めない?じゃあ、どうすればいいの?」との問いに「無言のふるまい」というチャレンジをもって答えているように私は読めるのです。

 確かに「逃げる夫」「ごまかす夫」は悪いです。だからといって、その妻は「責める」「諦める」のは当然の権利とはならないでしょう。「夫が御言葉に従おうとしないなら、妻も従わなくてよい」という許可は聖書のどこにも書かれていません。むしろ、夫が御言葉に従わないなら、神様にとっては妻が最後の砦です。汽撻謄3:1の言葉は、夫が逃げてもごましても、御言葉に従わなくても、妻は御言葉に従い「無言のふるまい」にチャレンジすべきことを、神様の御心として示していると受け取るべきでしょう。

 夫を責め続けて夫の改善の芽を摘み取るのか?それとも責める事を止めて、夫婦の問題として共有し夫を援助して改善を試みるのか

 夫の変化も成長も諦めて、神様の御心と異なる形骸化した結婚生活を送るのか?それとも、諦めずに聖書が示す御心の夫婦に成長するように、まず、妻の側から御言葉に従い具体的な努力をするのか?

 夫がクリスチャンであるかどうか?誠実であるかどうか?に関係なく、決めるのは妻。その責任を問われ、刈り取りをするのは自分たち夫婦。しかし、その影響は子どもと教会の次の世代に及ぶ事を忘れてはならないでしょう。
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 10:53 | - | - | - | - |
逃げない、ごまかさない夫、責めない、あきらめない妻(5)
 妻が夫を責める際には、場合によっては夫が深く傷つき、改善意欲を失って著しい逆効果となることも。また、責められる夫の側も、その態度によっては火に油を注ぎ、夫婦関係をよりややこしくしてしまうことも。その繰り返しは、結婚の破綻につながりかねないもの。

 本来は、本日の記事は「諦めない妻」で最終回の予定でしたが、上のことについては追記の必要を覚えました。そこで、本当に拙い私見に過ぎませんが、妻が責める際、夫が責められる際の注意事項を。

 まずは、責められる夫の側の態度。これは「心からの誠実さ」しかないと個人的経験?からも思っています。「逃げる」「ごまかす」は最低。クリスチャンの夫として「キリストが教会を愛したように」とは正反対の態度。明らかに神の御心に反していると私は思います。まずは、逃げずごまかさず、妻と向き合うのが、いわば「最低限の仕事」であります。

 では、苦痛とストレス覚悟で、向き合ったとしましょう。責めてくる妻に対して夫が取るべきではない態度がいくつか考えられます。
(1)妻をバカにする態度。
「女はこれだから」「感情的になると手がつけられない」「あーあ、また、始まった」そういう心の声が妻に伝わるようではNG。妻はそれを感知すると、怒りは倍増。感情的を露にするのが悪いというのは多分男性の世界だけのルール。夫婦関係は異種格闘技です。妻には妻のルールがあります。統一ルールで戦いましょう。

(2)黙って嵐が過ぎるのを待つ態度
 恐縮しながら、妻の嵐のような感情的攻撃が過ぎるのをひたすら待つという態度は、多分、妻にはミエミエです。多くの妻は責めても改善しないことを知りながら、責めているのですが、やはり本心は改善を願っているのです。黙っているその態度を妻は責め始めます。真摯に受け止め改善しようという意識がないと、火に油でしょう。

(3)ひたすら謝る専守防衛
 日本国憲法9条のように平和を願う夫たちは、「ごめん」「すまない」を連発し、専守防衛を貫きます。これは妻にとっては「真剣に向き合っていない態度」と受け取られたり、「感情的になっている妻をなだめているだけ」と解釈されるようです。

 要は、テクニックでなく、真剣に向き合うことです。よほど、根性が曲がっているか病的人格の妻でない限り、妻が責める内容は一定正しい根拠を持っています。男性である自分にとって不当、些細と思えても妻にとっては正当で重大であるという認識をもって、受け止めるべきだと思います。愛は相手本位です。知性と想像力も用いて妻の心情に立ちましょう。
 もちろん、訴える内容を理解し、改善を試みることは大切ですが、責める妻の心情を、受け止めることが、取りあえず大切なように思います。(極論すれば、真剣に向き合い、感情を受け止めれば、改善しなくてもよい場合さえあるようです)

 一方、責める妻の側に求められるのは禁句を心得ることと、言い方の問題。
(1)夫が恐れる禁句集
 「あなた結局マザコンなのよね」「いくじなし」「卑怯」「男らしくない」などは禁句です。なぜなら、多くの場合、当たっているからです。これらの言葉を聞きたくないから、夫は逃げるのです。ごまかすのです。「妻は自分を責めてもこれらの禁句は絶対に言わない」。この前提がなければ、夫は妻に向き合うのがかなりきついのです。

(2)夫を見放す姿勢
 「もう、あきれた」「あなたには期待しない」「何度言っても結局変らない」などの責め方は止めましょう。そうした予想や実績がどんなに正しくても、夫は改善意欲と自己変革力を決定的に失います。また、強がっている夫も実は、妻に見放されるのは、かなりの恐怖。こうした責め方をしながら、夫が変らないなら、それは妻にも大きな責任があると自覚すべきでしょう。

(3)大切なのは「内容」以上に「言い方
 よく言われることですが、「あなたは○○」と「あなた」を主語にして相手の人格を決め付けるような責め方は、夫を深く傷つけ頑なにします。「あなたは結局○○なのね」「あなたって人は本当に○○ねー」と言われると、夫はもう妻の話を聞きたくなくなります。
 せめて「あなたは」でなく「あたなの」にしてみてはどうでしょう?「あなたは・・・」と仮にも人生のパートナーの人格を否定する発言はいかがなものか?「あなたの・・・」とパートナーの言動や姿勢の問題を指摘するのが正しいあり方でしょう。
 また、「あなたは・・・」を「私は・・・」に変えるのもいいでしょう。夫は妻のニーズがよく分かるからです。「私は○○して欲しいのよ」「私は○○を願っている」などは、自分が何をどう改善すればよいのかが明確化します。その前に「あなたは○○」と言われてしまうと、もうダメなのです。

 夫が恐れているのは「あなたは」なのです。これが責められている気分を生んで、逃げとごまかしを呼ぶのです。「あなたは」を「あなたの」や「私は」に変換するだけで、夫は「責められているのでなく、改善を求められている、妻からお願いをされている」と受け止めることができ、妻とより楽に向き合えるし、改善点を自覚し改善する力も湧いてくるようです。

 以上、「責められる夫たち」と「責めてしまう妻たち」への私なりのアドバイスでした。参考にしていただき、向き合い相互成長できる夫婦となっていただければ、最高に感謝。
 
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 14:06 | - | - | - | - |
逃げない、ごまかさない夫、責めない、あきらめない妻(4)
 妻が夫を感情的に責める件については以前に「 マジカルヒステリー妻」、「サディスティック妻バンド」という記事で扱っておりますので、ご参照を。多くの夫にとって、感情的になり自分責める妻はマジカルヒステリー妻で理解不能の恐怖。家庭の中は、サディスティック妻バンドと化し、居場所のない帰りたくない場所となってしまいます。これは結構リアルかつ深刻な問題。

 責めるタイプの妻はとことん責めるようです。まずは、自分と向き合わず逃げようとする夫のその不誠実さを責めます。問題の核心に迫ろうとするとごまかそうとするその卑怯さを責めます。責めれば、自己保身に走り、言い訳ばかりの夫の反応を次には責め始めます。「御免」「すまん」を連発するばかりの卑屈な態度に腹が立ち、さらに責め続けます。ついには、黙り込んでしまう夫の沈黙にむかついて、また責めます。追い詰められて「オレはどうすればいいんだ」と問いかける夫に「そんなこと、自分で考えなさいよ」と冷たく突き放して責めます。ついには孤立して苦しむ夫にとどめを刺すように攻めます。

 さんざん責めた挙句の果てに、ふと我に返り、空しさを覚えて、今度は責めすぎてしまった自分自身を責め始めます。中には、そもそも今の夫と結婚した自分の愚かさや未熟さを責める妻や、夫を紹介した牧師、役員、先輩、友人までも責める妻たちもいるとかいないとか・・・・。

 「自分はすぐに夫を責めてしまう」「責めても解決しないとわかっているのに責めてしまう」「責めたら夫は逃げるだけと知っているにやってしまう」。そんな声を、クリスチャンの妻たちからお聞きすることがよくあります。これは、本当に正直な葛藤だと思います。

 そして、こうした妻たちは、大いに成長する可能性があり、夫婦関係改善の希望は大いにあると私は判断します。なぜなら、そうした妻たちは「夫は責めても変らない、逃げてしまいいよいよ向き合わなくなる」と夫に対して正しい理解をしているからです。これが、あるとないとでは大違い。これさえあれば、後は、信仰に基づいたやる気、努力、あるいは周囲の助けやアドバイス次第でしょう。

 天道よしみは「なめたらあかんー」とCMで歌っています。この歌の通り、なめていいのはだけです。人生は「なめたらあかん」です。そして、夫は「責めたらあかん」のです。結果は見えています。心閉ざし自己改善能力を失い、いよいよ妻を避けるようになるばかり。

 夫を責めても効果がなく、むしろ逆効果をもたらすのは、子どもを感情的に叱った場合と同じです。感情的に叱る母親は、大抵、目的意識を失っています。本来の目標は子どもの成長や改善のはず。それが自分の感情発散やストレス解消にシフトします。間違った目標設定となれば、発言内容も、変ります。「何が悪かったか」を示し、「今後どうすればよいか」を共に考え、「改善に向かって励ます」はずが、その三つをしないまま終わってしまうのです。その結果、当然、同じ過ちを繰り返す子どもに「また同じこと」「何度言ったら分かるの」とまた、叱る母親。

 妻が夫を責める場合も同じ構造があります。いいえ、夫婦の場合、相手が大人だけに親子より厳しさを増します。妻は夫に対して「何が悪かったか」を示し、「今後どうすればよいか」を共に考え、改善に向かって励ます」のが本来のあり方。

 ところが責めてしまえば、目標設定は夫の成長や夫婦関係の改善から、自らの感情処理へと逸脱。夫に対しては「自分はどんなに怒っているか」を示し、「どうしたらいいかくらい自分で考えろ」と突き放し、「改善できるものならやってみろ」と見放すのです。自分の感情中心で、夫婦の協力関係や援助を放棄してしまうわけです。

 結局、何が悪いか分かりません。どうすればよいか分からず、妻の協力も援助もないので、変るはずがないのです。夫は孤立してしまい、より頑なになったり、場合によっては強いストレスから、暴力、酒、ギャンブル、女性などのお決まりの「逃げ道コース」へ。

 そこで「責めたがり系クリスチャン妻」や「常習性のマジカルヒステリー妻」の皆様に、私なりの提案です。責めないための知恵と工夫。こんなのはどうでしょう。

 まずは、責めたくなるまでストレスや怒りを溜める前に、夫とコミュニケーションを取る具体的努力をしましょう。向き合う時間がないから、携帯メールなどを用いて、少しでもストレスと怒りの蓄積を軽減してみてはどうかと思うのです。

 それができない場合やそれでも責めたくなるケースも多いのが現実でしょう。そうした場合は「責めるための夫婦会話」と「絶対責めない夫婦の会話」を明確に分けることをおすすめします。つまり、妻の感情処理目的と夫婦関係改善目的とを明確に分けるのです。

 夫たち男性は目標が最初から明確であるなら、ある程度忍耐できるのです。この二つが渾然一体となってしまうので、夫は妻の感情をぶつけられて傷つきながら何の改善もできないのです。二つの目的を同じ機会に果たそうとするとそれは夫にとっても妻にとっても、空しい結果になりやすいように思います。つまり「一石二鳥」はないのです。「二兎を追う者一兎をも得ず」が現実なのです。

 妻から「今日は私の気持ちを伝えたい、気持ちを受け止めて欲しい」と最初に宣言してもらえば、ある程度誠実な夫は覚悟をして受け止めやすいもの。そして、妻は気持ちの話だけをすべきです。別の話題を話すと夫の心は閉ざされます。約束と違うからです。夫にとっては妻の側が不誠実なのです。

 また、「今日は神様に喜ばれる夫婦に成長するために話をしたい、絶対にあなたのことは責めない、夫婦共通の課題として一緒に考えましょう」と言われたら、これまた誠実な夫は、自分を守りストレスに耐えるのにエネルギーを注がずに、夫婦関係の改善に全力投球ができるのです。

 この提案はいかがでしょうか?何?「それは男の理屈」「男性中心主義的発想にすぎない」「女性には無理、できない」「そういう提案をするアンタの女性理解が浅いのよ!」ですって?トホホ、そんなに責めないで下さいよー。
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 13:11 | - | - | - | - |
逃げない、ごまかさない夫、責めない、あきらめない妻(3)
 男は逃げるだけでなく「ごまかし」ます。よりよき結婚関係のために向き合うべき問題に向き合わないために様々なごまかしをやりかねません。結婚で起こる問題の原因は、親子関係などの生育歴に由来したり、クリスチャンであっても認めたくない偽善性や深い罪の問題などの場合が多いようです。

 妻に知られるのが怖い、その欠点や弱さを受け止めてもらえず拒絶される恐怖。知られて軽蔑されるのが怖い、見下されるのが恐怖。

 そうした恐怖状態の中で夫たちは、「もう、これ以上突っ込まないでくれ」「もうこれくらいで勘弁してくれ」などと言葉で明確に伝えます。それができない場合は表情や態度で、妻がそれを察するように仕向けます。

 このごまかしは確か卑怯です。夫婦関係改善のために自分の問題に向き合おうとしないのは確かに不誠実で責任放棄です。しかし、私は妻たちがここで強行突破をすることには反対です。問題の本質を指摘して一度で改善をしようなどは、かなりの無謀で、プラスより決定的なマイナスや破綻につながりかねないのでは?と危惧をします。特に妻が夫の成長を願う愛とは別に怒りをもってそれをすると、血みどろ劇にさえ発展しかねないでしょう。

 ある限界より先に踏み込むと、夫たちは、やはり暴力、依存行為、浮気などに走りかねません。夫たちは追い込まれると手負いの獅子のように凶暴化する生き物なのです。妻たちには是非とも夫たちの生態を知っていただき、落ち着いて対処をしていただきたいもの。

 太陽と北風の太陽のように、夫の成育歴に起因する深い問題や認めがたい罪深さなどを、夫婦共通の問題として受け止め、解決のため夫を助ける姿勢を先にしめすことだと思うのです。妻は夫に向かって「あなたのどんな弱さや愚かさや未熟さも受け止める覚悟で結婚しているの。常に私は北風と太陽の、太陽なのよー」と先に宣言をしておくことかなーと考えますがどうでしょう?これは、あまりに男の身勝手でしょうか?

 逆に、もう夫の問題に触れないとなると、夫婦の関係の成長はそこまで止まりです。それに触れると、怒るから不機嫌になるから。それは夫側の逃げであり、ごまかしです。「弱さに触れるな」「問題の指摘をするな」「自分はこのままでしかいられない」「あなたはそれを容認すべきだ」・・・それは、「弱さを利用して他者を支配する」という典型的構造です。

 賢明な妻である皆さん、夫のこうした「弱さを利用しての妻への支配」に騙されてはなりません。中には「愛は寛容です」「ゆるしあいなさい」「夫に従いなさい」など、自分のことは棚に上げ御言葉を誤用乱用してまで、妻への支配を試みるクリスチャン夫さえ存在するようです。

 そうして自己成長や自己変革を拒否して、結婚を継続させようという夫の言いなりになることが「夫に従うこと」だとは、私は思いません。強者の不当なわがままに弱者が言いなりになるのは、結婚の本質どころか、創世記3章に描かれた「呪われた結婚の典型」だと私は思います。結婚とは主従関係や機械的な権力関係でなく、愛に基づく人格的な交わりなのですから。賢明なクリスチャン妻の皆さんは、聖書が示す結婚を本質を見失わず、夫のトリックやごまかしを見破っていただきたいと願うばかり。

 夫のためにも夫婦関係のためにも、さらには子どものためにも、結婚した者は神様が喜ばれる夫婦に成長する責任があるのです。ごまかしによって、向き合うべき問題、克服すべき課題を、際限なく先延ばしにしてはなりません。その間にも夫婦は歳を重ね、子どもは成長し、両親を見ながら人格形成をしていくのです。

 どこかでしっかり向き合うか、少しずつでも向き合える方向に歩んでいかなくてはと思うのです。そうは言うものの「夫の絶対拒否姿勢」を崩すのは並大抵ではありません。どうしても妻の側の豊かな愛が必要となってくるようです。

 夫の弱さ未熟さ愚かさを受容する愛、そうした課題を共有する愛、協力して克服をしようと願う愛、これまた並大抵のことではないでしょうが、妻の側もこうした豊かな愛の人へと成長することの必要を覚えます。チャレンジせずあきらめるのではなく、とにかく慎重に準備をしてからチャレンジだと思います。また、一度のチャレンジで結論を出すのでなく試行錯誤の中で妻の愛も成長する歩みを継続することの大切さを思うのです。
| ヤンキー牧師 | 夫婦相互の課題と成長 | 11:25 | - | - | - | - |
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