命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「親子別教会」という選択肢(4)
 さすがは南国のブログ王子であります。久保木牧師が私が結論として提示しようと計画していた内容を既にご自身のブログで記事にされました。しかも、私が記すであろう内容の10倍は深い内容と適切で平易な表現で。ブログ王子はハンカチ王子同様「持っています」な、きっと。これは必読ですぞ。
 
 牧師である父親を見ながら、牧師を志願する場合もあれば、「牧師だけにはなりたくない」と決意する場合も。親と別の教会に集う中で、信仰が自立して牧師となる方もいれば、親と別の教会に集いながら、教会を離れてしまう方もいることでしょう。


 とにかくこちらの記事をご一読下さい。

 「親子別教会という選択肢」を考える。
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/62523042.html


 これで、結論部分を自分で書く手間が省けていいや。現代の日本やアメリカのキリスト教会は、歴史的に見れば、特殊な状況。久保木牧師ご指摘の通り、「宿命の時代」から「選択の時代」に移っているのですから、聖書だとか歴史だとかいう視点は確かにきついでしょう。

 私などは、そうした日本やアメリカの特殊性、現代の特殊性が考察されないままで、ピューリタニズムの影響が色濃い日本の(とりわけ福音派)教会が、「1950年代アメリカ白人教会」のファミリー宗教的イメージを無自覚の内に聖書的スタンダートとしているのでは?と考えているわけです。(別件ですが、アメリカ黒人教会はさらに特殊ですから、それを十分に考慮しない日本におけるゴスペル宣教やゴスペル礼拝なども、幻想追求に終わりかねないだろうと私は常々考えております。)

 結論は久保木牧師に代行していただいたので、予告どおり、最終回として「親子別教会に予想されるマイナス面」に触れておきましょう。

 鎖国が解かれたり、輸入牛肉解禁されるとのは違うのでしょうが、「親子別教会」という選択肢が、一般化されるなら、日本教会は「市場開放」「自由経済」の如き様相を呈するのでは?と予想します。既成教会が相互に次世代を託すなら、それに乗じての安易な教会移動が起こるでしょう。たとえば、若いクリスチャンが教会内の交わりで対立や傷つくことが起こると、許しや和解に向かう聖書的に正解であろう努力もせず、安易に転会してしまうなどです。これは若い世代の自立と成長の妨げで逆効果。さらには、既成教会ではない場合が心配です。つまり、次の世代を専門に受け入れようとする新興勢力の登場となるとさらなる心配も。

 未信者の若者を中心的ターゲットとして教会は、わかります。しかし、クリスチャン子弟を一定のターゲットした教会が登場することでしょう。そこには過度の競争原理が働き、次世代を表面的な魅力で呼び込もうとすることも。当然、「浅い信仰理解、感性中心の賛美、成長がなく、人は集まるが教会形成がない」などの乏しさは免れないと予想されます。また、若い世代も未熟さの故に、安易な教会移動によって、かえって自立や成長の機会を失うこともあるでしょう。これが日本のキリスト教会の将来によいとは思えません。(これがアメリカや韓国では問題視されているとの声も聞きます)

 そうなると、片や優れた教会形成を実践し、次世代へも着実な信仰教育をしている教会からも、若いメンバーが移籍して、そうした健全な教会が高齢化して衰退するという理不尽なことも。これは将来における大きな損失でありましょう。

 若者に特化した教会が悪いとは全く思いません。同世代ばかりというのは、特化した効率のよい教育やプログラムも可能。しかし、信仰共同体に不可欠な世代間信仰継承、上の世代がモデルとなっての自然的教育機能が欠けるのでは?と危惧するのです。教職者や教会スタッフしかモデルとなる夫婦がいないなどは、あまり健全ではないと思うのです。(「うちは、ベテラン信徒夫婦が多くいるが、一組もモデルにならないぞ」との実に辛辣なツッコミが若年クリスチャンから聞こえて来そうで怖いですが・・・。)

 また、日本においては、親子別教会という選択肢が可能なのは、せいぜい地方都市まででしょう。「県」の次が「村」や「郡」や「町」となるような地域では、未だに「宿命の時代」に近い状態もあるわけです。ある意味、「親子別教会」は都市部クリスチャンの贅沢な選択肢なのかもしれません。

 思うに「親子別教会」という選択肢が、論じられない背景には、こうした「過度の市場原理」や「若者の人気取り」「若きクリスチャンの安易な教会移動」の横行などで、健全な教会形成が妨げられるという恐れがあるからだろうと推察しております。(これまた、「そんな文句をいうなら、健全な教会形成と次世代育成をちゃんとしろよ!」との若きクリスチャンからの抗議の声が聞こえてきそうです)

 結論部分は久保木牧師に代弁いただいたので、ここまでにしましょう。こうしたマイナス面も考慮にいれていただければと願います。

 そこで改めて提案。

 「自立したクリスチャンの育成」とその手段としての「親子別教会という選択肢」。是非や結論はともかく、検討されるべきことではないでしょうか?


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| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 14:00 | - | - | - | - |
「親子別教会」という選択肢(3)
 このシリーズも明日、親子別教会の想定されるマイナス点なども記して、まとめて終わろうと思っています。このシリーズについては、三つほど牧師や牧師夫人から重要な応答があったので、記しておこうと思いました。

 (1)一つ目は「親子別教会」という選択肢が、キリスト教会できちんと議論されていないことの問題視。これだけ青年の減少、信仰継承の衰退がありながら、是非は別として議論されず、あたかもタブー視されていること自体を問題としているわけです。

 つまり、議論せず、タブーとされる原因が、聖書的教会論や地域での教会間の秩序など純粋な動機とは異なる要素があるからだろうと考えているわけです。他の事柄については「聖書が禁じていなければ、可能性を考えよう」とする大胆自由な発想は、しばしばお見受けし、是非が論じられるのに、この件については例外のようなのは、どうしたことか?というわけです。オープンに議論できる場の必要性などは、私も思います。

(2)ある牧師からは、自分の子どもたちについて「教会里子にしたい」との発言。これは、面白いです。別に教会に子どもを大いに躓かせる大問題や厳しい対立があるわけではありません。しかし、牧師子弟がややこしい「しがらみ」やプレッシャーを受けずに、他の教会で「牧師の子ども」ではなく「普通の子ども」として、過ごせたら、信仰継承や自立にはプラスとなる場合も多いのでは?

 これは私見ですが、子どもには見せたくないような継続的修羅場のある教会、信徒の子どもと一緒に悪いことをしても、牧師の子どもだけが叱られるような教会、牧師の息子が「お世継ぎ」のような発言を聞かされ続けるような教会の場合は、「教会里子」は、親として子どもを守る意味でも選択肢の一つかも知れません。

 この牧師、「教会里子」と表現し、「教会養子」とは言っていません。里子は親権が続き、養子は親権が放棄されます。もしかするとこの牧師は、信仰的に自立するまでは、他教会に集わせて、自立後には、母教会に返してもらって・・・・などと悪巧みのような妄想をしていたのでしょうか?

(3)ある牧師夫人からは「教会内での世代間分離の重要性」を示唆するご意見をいただきました。どうも、教会という神の家族には「子離れできない方々」が。既婚者で役員をしているような間違いなく自立したクリスチャン男性を「○○ちゃん」と呼ぶ上の世代。結婚して、夫の所属教会に転会したら、夫は「○○さんの子ども」「○○さんの孫」であり「○○ちゃん」と呼ばれており、自分の夫が子ども扱いされる妻たち。これらはその牧師夫人が提示された実例。

 そう言えば、某学生団体のスタッフは、いつまでも、教会のおばちゃんに「あなたのオムツを替えてあげた」といわれ続けて、その屈辱を作り笑いで覆い隠す青年たちのことを話しておられました。

 こうした例示を見ると、どうも、教会には、「信仰的全人的自立を阻害する要素」があると言えるのでは?と心配します。ある程度、信仰継承が順調に見えても、「三世代分離ができていない不健全家庭のような神の家族」になってはいないか?という自己点検は必要を感じます。

 この牧師夫人のご指摘を受けて考えてしまいました。「信仰継承はなされているが、信仰面でも人間的にも自立不足」という問題においては、当人やその親だけでなく、教会の上の世代の側にも大きな責任があるのではないかと。次世代を主にある自立した一人格として、認めず、どこか子ども扱いしている言葉、時にそれが「○○ちゃん」や「○○さんの息子、娘」であることも。また、その言葉は、それを耳にする教会員たちに、「その人は半人前」「あの人は上の世代の付属物」というような意識を植えつけかねないようにも思います。

 三世代分離ができていない家庭は、不健全なシステムであり、子どもを自立に向けて育てる力を持ち得ないと言われます。神の家族である教会にも同様のことが起こっているのでは?と危惧をせざるを得ない私です。指導的立場の方や、教会において先輩世代にあたる方々には、課題として受け止めていただければ感謝。

 そして思うのです。その克服へ具体的な第一歩は、自立しているクリスチャンに対しての「○○ちゃん」「○○さんのお子さん」「○○さんの孫」との呼び名や意識を、「○○さん」や「○○兄弟・姉妹」という固有名詞に置き換えることから始まるのかも知れません。

 今回、ご紹介した三つの応答が、信仰面、人格面の両面において自立した信仰者を教会が育てていく参考になればうれしいです。


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| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 10:23 | - | - | - | - |
「親子別教会」という選択肢(2)
 私が信徒であった頃のお話し。近隣教会の牧師の娘さんが半年か一年ほど、礼拝に来ておられました。「何でまた?」と疑問に思っていたのですが、「親以外の説教を聴いて教会生活を送ってみたい」との希望があり、親である牧師の理解を得て来ておられたと判明。

 当時、この方は20代前半だったと思いますが、きっと、ご自分なりの信仰的な自立親を客観視する必要、クリスチャンとしての自らをも客観視する必要を感じられたのでしょう。しばらくすると、目標を達成したように、父親が牧している所属教会に戻って行きました。

 クリスチャン子弟、特に牧師子弟の中には、/仰的自立、⊃由陛自立、親の客観視、ぜらの客観視のために、(聖書的是非は別にして)こうしたプロセスを一時的に体験する必要のあるケースも多いのでは?と思っています。それが中高生時代なのか?青年期なのかはそれぞれでしょうし、それが必要のない子どもやクリスチャン親子、教会もきっと多いことでしょう。

 進学や就職などで、牧師である親を離れて、他の教会に集い、そこで、信仰的に目覚めたり、自立的な信仰にステップアップするというのは、時々お聞きすること。牧師である親にとっては多少複雑な心境でしょう。しかし、残念なようですが、実はうれしい話ではないでしょうか? 

 ある牧師に冒頭の他教会で一時的に礼拝を続けた牧師の娘さんのことをお話しました。その牧師は、正直に「そういう方法もあったのか?もっと早く、そのことに気がつけばよかった!」とおっしゃりました。人間的には自立した善良な男性なのですが、信仰を持たないまま、未信者女性結婚間近の息子さんについて、そのように悔やんでおられたようです。その牧師の判断では、自分が牧するとは別の近隣教会行ってくれてもよいので、子どもには信仰を持って欲しかったということでしょう。

 「親子は同じ教会で礼拝」、これは聖書的根拠を持つものか?それとも、日本福音派教会に刷り込まれた「1950年代アメリカ白人教会の幻想」なのか?また、一般論ではなく、もう少し、限定して、ある自立などの目的のために、思春期青年期限定で一時的に親子別教会という選択肢は、どうなんでしょうね?


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| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 18:36 | - | - | - | - |
「親子別教会という選択肢」(1)

 団体によるのでしょうが、昨今のキリスト教界における「信仰継承率」の低さにはいろいろな心配をしてしまうわけです。韓国やアメリカなどでは、子どもが信仰継承するためなら、思春期などには、親とは別の教会に行くこと対してかなり寛容であるとお聞きしたことがあります。

 つまり、中高生ともなれば、親よりも友だちとの関係が優先。他教会のクリスチャン友人がクラスや近所に何人もいるような社会ですから、親を離れて友だちが集っている教会に行きたくもなるわけです。日本なら問題視されがちなこうしたことが、韓国やアメリカの多くの教会では、一定寛容な評価をされているのだそうです。

 親とは別の教会で、信仰が生き生きとしたり、自立的な信仰を持ったり、若者に特化した教会で、信仰が育まれたりするわけです。逆にこのことには、少なくない弊害も予想されますが、それは後日に記事で記しましょう。

 以前、キリスト教教育の専門家の方とお話しました。その方は、昨今の二世クリスチャンが、信仰面でも人格面でも親からの自立が不足していることを、大きな問題と考えておられました。私も日頃から「現代日本のキリスト教会とクリスチャンホームが生み出すのは、自立不足のクリスチャンと自立しているノンクリスチャン」との辛辣な見解を持っておりますので、大きく同意。

 その方は、信仰継承のためではなく、クリスチャンホームの子弟が、親から人間的にも、信仰的にも自立したクリスチャンとなるためには、親と違う教会に通わせることも一つの選択肢との見解を示されました。

 「その見解は牧師やクリスチャンの親から猛反対を受けるのでは?でも、聖書には親子が同じ教会で礼拝をささげるべきとの直接的な言及はないですね。」と私が応答。

 それに対しては、親子で同じ教会というのは、福音派の教会に強いある種の幻想ではないかとのご指摘。

 この指摘に対して私が確認。「家族全員で同じ教会で礼拝というのは、1950年代、アメリカ白人教会的幻想ということですか?」

 その確認には「そう思います」とのご返答。

 うーん、「親子同一教会」というのは、1950年代アメリカ白人教会幻想なのか?それとも、一定、聖書がスタンダードとして描いている姿なのか?当たり前、それが聖書的と思っていることを、再検討してみることは意味があるでしょう。そして、二世クリスチャンの自立不足についても、課題として受け止めてみてはどうでしょう?



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| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 19:51 | - | - | - | - |
JEA青年宣教セミナーに学ぶ(3)〜三人の偉大な教師
 ブログ記事が軽く10個書けるほどのネタ満載、いいえ、失礼しました教えられることばかりでブログに書ききれない程の内容超充実のJEA青年宣教セミナーでした。今日は小平先生の講演からもう少しだけ、小さなポイントでお分かち。

 「コミュニティーの中で人を育てる」との項目の一つに、「二人の偉大な教師から学ぶ」との文字が。レジュメには、「授業料の高い先生?」「授業料の安い先生?」と二行にわたって書いてあります。私はさっぱり何のことか分かりませんでした。

 そこで、小平先生が解説。授業料の高い先生とは「経験」。特に「失敗挫折経験」。これは授業料は高いですが、私たちがよく学ぶ教師です。恥をかく、痛い目に合う、信頼を失う、望んでいたものを失うなど、犠牲は大きいですが、それだけに、身にしみて学ぶものです。

 それに対して小平先生が示してくださった「授業料の安い教師」とは何だと思いますか?

 それは「聖書」。たったの数千円で、最も大切なこと、役立つことを学べるのですから、聖書は人類歴史上、最高のコストパフォーマンスを誇る書物とも言えるでしょう。しかし、残念ながらあまり学ばないわけです。

 この説明を聞いて、わが身を省みてしまう私です。「読んで→正しく理解し→正しく適用し→実生活において従って→祝福される」というルートをいつも素直にたどれる程、私たちは上等ではありません。正しく理解できずに、あるいは従おうとせずに痛い目にあって、聖書の真理の正しさや現実性を体験を通じて思い知ることも多々あるのでは?結局、高い授業料を払って、安い授業料で済む学科を習得しているトホホな自分に出会うわけです。

 さらに小平先生は、レジュメにはない三人目の教師をご紹介くださいました。それは他人に高い授業料を払わせておいて、自分が学ぶという教師。何だと思いますか?


 それは「歴史」という教師です。兄や姉の失敗を見ながら、したたかさを身につける第二子から、過去の人類の繁栄と衰退から学び、国家や人類をリードする思想家や政治家に至るまで、人は歴史に学びます。しかし、ビックリするほど学ばず、同じ過ちを人類は繰返してきたという事実もあるわけです。

 これについても考えてみました。信仰武勇伝であれ、恥ずかしすぎる失敗談であれ、先輩クリスチャンの体験は歴史となり、青年クリスチャンたちが大いに学ぶ対象となることでしょう。これは私なりの再解釈ですが、こうした視点から考えると証しとは「神様が私にして下さったことの発表」をはるかに超えることでしょう。後進のクリスチャンにとっては、先輩クリスチャンの証しとは学ぶべき偉大な個人史であり、聖書の真理の信頼性と現実性を、世代を超えて伝達することでしょう。

 聖書の学びはもちろん大切。しかし、現実生活での体験や他者の証しを通じて、青年クリスチャンはつくられるのでしょう。教会教育とは聖書を教えるのみならず、そうした生活や交わりに生きるなかで、人が成長することを意味するのだろうと改めて、考えさせられました。逆に言えば、生活と交わりの場なき教会教育は、信仰を観念化させかねない、「みことば丸投げ」、「聖霊丸投げ」とでも言うべき責任放棄かもしれないと、ふと思いました。
 
 青年クリスチャンが体験を通じて学ぶ生活の場、先輩クリスチャンとの交わりの場を提供することも、忘れがちな信仰継承の重要項目であることを痛感させられました。
| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 19:49 | - | - | - | - |
JEA青年宣教セミナーに学ぶ(2)〜挫折を経てつくられる「有益な人」

 今回、主講師である小平牧生先生からは、教えられることばかり。部分的なポイントだけをお分かち。

 競謄皀藤押В横韻砲茲譴弌⊃斥佑、教会が必要とするのは、有力・有能な人よりも、「有益な器」。そして、生まれながらに有力・有能な人はいるが、生まれながらにして有益な人はいない。有益な人はコミュニティー(交わりとしての教会や生活の場としての家庭など)の中で生み出され育てられるとのこと。

 そして、大いに教えられたこと、それは、教会が青年クリスチャンを「有益な人」に育てるためには、挫折失敗をしないように教え導くこと以上に、そこからの回復が大切ということ。つまり、挫折、失敗を経験しても、そこからの回復によって、有益な人に育つこともあるということ。

 そして、小平先生は、「挫折経由の有益化」というパターンの例としてテモテが示して下さいました。パウロと同行した伝道旅行での離脱(使徒13:13)、同行しなかった者は連れて行かないとのパウロによるマルコへのダメ出し評価(使徒15:37,38)、しかし、パウロに「私の務めのために役立つ」と評価逆転させるまでのマルコの有益化(競謄4:11)

 聖書の記述から、マルコは資産家の金持ち育ち、しかも、父をなくして母に育てられたお坊ちゃまタイプかとも推測されます。激しく厳しい伝道旅行での脱落は生育歴上は、無理もないかも。しかし、パウロには、使命を投げ出した根性なし、ヘタレ、軟弱者扱いされたのかも。

 小平先生によれば、パウロのテモテに対する評価逆転の言葉「役に立つ」と訳されている言葉「ユウクレストス」は、聖書中三度しか登場しないのだとか。しかも、それが用いられているのは、マルコとオネシモとのこと。オネシモも逃亡奴隷で、以前は「役立たず」(ピレモン11節)であったはず。

 私としては「なるほど、納得」であります。若いクリスチャンを一度や二度の挫折や失敗で、評価を定めて固定化し、今後期待をしない、二度と働きの場を与えないでは、どうかということです。もちろん、場合によっては、悔改めに専心し、回復のプロセスを踏むために、働きを一時的に退く必要はあるでしょう。しかし、それもあくまで回復のための一時的な過程という意味なのです。

 そう考えますと、青年クリスチャンが有益な器へと成長するために必要なのは、トホホ状態であったマルコを励まし、有益な人への成長を助けたバルナバのような先輩なのです。また、一時的には厳しくダメ出しをしても、ちゃんとその後の成長を評価して逆転評価をできるパウロのような指導者であります。

 若さとは未熟さとは表裏一体。失敗挫折を経験しやすいと同時に、それを通じての成長の可能性も大きいのです。そして、やり直せることが若さの最高の特権でしょう。

 性的な失敗も含めて、失敗挫折によって、青年クリスチャンを、見切ってしまってはならないでしょう。悔改めと回復へ導かれるなら、将来「有益な器」へと成長するのです。また、先輩のクリスチャンは、若き挫折者・失敗者を回復に向け、支え祈り助けるバルナバでありたいと願うのです。

 そのことは、青年牧師も同様でしょう。私の周囲の30代の牧師の多くは、働きの場に仕えつづけられずに、辞任、転任、精神疾患、留学、不祥事で教会を去っております。マルコタイプであったとしても、年上の役員たちにバルナバが多くいれば、避けられたケースも中にはあるのかも。

 また、一時的には残念な結果になったとしても、先輩牧師や団体にバルナバがいれば、将来は、「有益な器」へと成長してくださるでしょう。そうした「野村再生工場」ならぬ「バルナバ再生工場」がキリスト教界や団体にあればと願います。そうでないと、ただでさえ少ない牧師は、さらに少なくなるでしょう。

 召しが本物かどうか、職業適正の有無の試金石として、教会が持つ厳しさが機能することには、一定よい面もあるでしょう。パウロ的発想の全てを否定してはいけないとは思うのです。しかし、「本物で適性のあるマルコ」まで、「はい、それまでよ」にしてはなりません。

 自分自身も50歳となりました。青年信徒や30代牧師を、どういう目で評価し、どう期待し、支え、その成長を助けるか?問われます。若いクリスチャンや牧師を理解しようともせず、愚痴ばかりいうウザい牧師になるかどうかの分岐点に自分がいるようにも感じています。大切なことを学んだと共に自らの「パウロ指数」や「バルナバ度数」も、そして「パウロでもバルナバでもないうるさ型係数」まで問われたように思います。

| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 15:53 | - | - | - | - |
JEA青年宣教セミナーに学ぶ(1)〜問われるのは上の世代?
 今日は奥多摩バイブルシャレーからのアップ。JEA青年宣教セミナー分科会のご奉仕で来ております。昨日、最初のメッセージは、KGK山崎総主事から。ご本人の許可を得ての記事化です。

 教えられたことの一つは、「問われて答える」というのが、聖書を代表する信仰継承の方法だということ。たとえば、「この石はどういうもの?」と子どもに尋ねられたら意味を答えるようにとヨシュア4:6などは命じております。

 主事によれば、現代の若いクリスチャンが支配されている思想は「自己実現」。天国行きの切符は手に入れたのだから、後は自分の好きなように生きたい、自分の願う自分になるという考え方が、支配的だというのです。たとえば、こうした非聖書的な価値観なども、若い世代が、上の世代に尋ねると、修正の可能性は大となるわけです。

 熟年信仰者の中でも、高齢になってからの信仰決心者などは、「遅く信じてよかったそれまで自分の願う生き方でよかった」という方はおらず、「もっと早く信じればよかった」とそれまの自分中心の生き方を悔いる方がほとんどのはず。あるいはクリスチャンでありながら、青年期や中年期を、自分中心で生きてしまったことを晩年に悔いる方も。だから、若い世代に問われて上の世代が答えることが信仰継承となるのです。

 うーん、なるほどの具体例です。若い世代が先輩クリスチャンに尋ねるなら、天国の切符を持ちながらの自己実現的人生を送れば、将来、自分が後悔することをリアルに想像できるでしょう。

 山崎主事はここで、問われるのは、若者の側でなく、先輩世代だというのです。つまり「問われて答えられるか?」というわけです。もちろん、教理知識の問題ではないでしょうから、失敗や後悔も含めて「問われて答えられる生き様か?答える正直さがあるか」なども問われるでしょう。青年宣教の課題は、青年に触れる大人たちが変わること、それが20年先の結実につながるとの趣旨の発言を重く受け止めました。

 このメッセージを受けての参加者(ほとんど牧師)の分かち合いの中では、青年たちは、先輩クリスチャンからの話を聞くのを願っているという意見が多数。私も、それだけに問われるのは、先輩世代だろうなーと思うのです。
 
「様々な疑問を教会の先輩に尋ねてはいけない雰囲気が教会に充満」

「教会の大人は聞いても、逃げる、隠す、ごまかす

わからないから牧師に聞いてとの返答」

「根拠や理由を示さず、とにかくそういうものだからとの上から押し付けの返答」

 下の世代に問われた時が、信仰継承、絶好のチャンスなのに、もし、こうした事実があるなら、かなり残念。事実でなくても、若い世代がそう感じているなら、それももったいないと思うのです。

 「どうして礼拝をしなきゃいけないの?」を筆頭に、「どうして結婚までセックスしてはいけないの?」「中絶はなぜ、いけないの?」などまで。

 今回の青年宣教セミナーのテーマは「聖書的世界観の継承」。子どもが、次の世代が「クリスチャンになる」というレベルの信仰継承ではなく、聖書的世界観を継承していくためには、「問われて大丈夫な大人のクリスチャン」でありたいし、そうした大人のクリスチャンを育てることの重要性と緊急性を思いました。それは、これから20年後のための今の緊急性と重要性でしょう。
| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 09:15 | - | - | - | - |
「うっせー、ばばあ」は母子密着破壊の言葉?
 「うっせー、ばばあ」シリーズも最終回。

 今日は極めて真面目、そしてシリアスなお話し。

 実際に昨今は息子との距離感が分からない母親が増加中と聞いております。各方面から聞いているのですが、中学生の息子と風呂に入る母親が信じられない程、多いそうです。。息子さんも母親を悲しませたくないので「嫌だ」と言えなくなるのです。こうした母子密着から、母子が性関係になる事例も日本社会では意外に多いそうです。これは極めて深刻な問題でしょう。

 このことは異常、不健全、破滅的、そして亡国的にさえ、私には思えます。この件については信頼できるデータや統計をマスコミが取り上げて、日本社会に警鐘を鳴らして欲しいです。

 こうした現象は「日本の父親が母親と息子の間に割って入る本来の機能を果たしていないのが原因」というのが専門家の定説のようです。日本は世界でも極めて特異な母親と息子間の母子密着がおきやすい社会なのだとか。その意味で「うっせー、ばばあ」は日本の社会にあっては母子密着を打ち破る幸いな言葉とさえ言えるのかも。

 そう、日本の家庭における重大問題は、息子が母親に「うっせー、ばばあ」と言うことではないでしょう。それを言えないような親子関係、いいえ、言えるまでに育てられない親子関係が問題なのでしょう。その原因である母親の距離感のなさ、さらにそれを生み出す父親の機能不全・・・。

 「父母を離れ」という聖書の大原則を逸脱する時、どの文明、どの社会であっても、その逸脱はかなりの混乱や衰退をもたらすだろうと危惧をしております。
| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 08:22 | - | - | - | - |
「うっせー、ばばあ」へのベストアンサー?
 誤解なさらないで、何も「うっせー、ばばあ」なる暴言奨励してるわけではありません。見逃しがちなメッセージを受け止めて欲しいと願うのです。また、この言葉の持つ、プラス面での意味も考えていただきたいのです。

 ちなみに、この暴言に対しての私が選ぶベストアンサーはこちらです。

息子「うっせー、ばばあ!」

母親「うっせーだろうけど、あたしゃ、ばばあじゃありません。れっきとしたおばはんですー。」

息子「おい、そっちかい!」


 なぜ、これがベストアンサーかと言えば、前もって準備していたからです。子どもの親離れを想定して、ユーモアで応答できるほど、余裕と力量のある母親だと思うのです。こういう賢い母親は、これを気に、距離の取り方を考え、実行し、自分は子離れ、息子は親離れに向かっていくことでしょう。

 もしかすると、こんな母親に子どもは「かなわない」と親の大きさを知り、心ひそかに尊敬するかも?いいえ、余計ウザイかも。
| ヤンキー牧師 | 育児・信仰継承シリーズもの | 19:53 | - | - | - | - |
「うっせー、ばばあ!」は独立戦争布告の言葉?
 反抗期をどう評価するか?は難しい問題。聖書に明言されているわけではありません。これは自説に過ぎませんが、もし反抗期に一定言及している言葉があるとすれば、それは創世記の2章24節の「父母を離れ」でしょう。

 親を離れていく過程で、未熟な人格で罪人である子どもは、親とのつながりや同質性を否定することによって自らの自立を獲得せざるを得ないのでしょう。ですから、私自身は決して、反抗期をマイナス評価しません。

 子どもが本格的に自立を開始して軌道に乗るまでは、揺れ動き荒れることもあるでしょう。それは、空に向けて離陸した飛行機が、安定飛行に入るまで、一旦不安定な飛行状態に陥るようなことでしょう。

 反抗期が絶対必要とは思いませんが、必要な反抗期を経ないが故に、自立できない子どもも少なくありません。父親の心理的不在と母親の過干渉のセットで、そうした犠牲にあっている子どもの事例も近年は増加しているのでは?クリスチャンホームでも、聖書の言葉や神様を盾に、子どもに芽生えた自立心の裏返しである反抗心を押さえつけてしまい、自立不足の大人に育てかねない危険は自覚したいものです。それを自覚的ない親には指導者や周囲に愛と知恵をもって気付かせてあげたいもの。

 そこで考えたいのが反抗期の男の子が母親に対して発するこの言葉

うっせー、ばばあ

 クリスチャンの母親にお聞きすると、これに対しての反応は実に様々。「ありえない!ショック!」と寝込みそうな母親や「とんでもない暴言」と叱り付け大問題と考える母親、から「覚悟していた通り、ついに来たか」と受け止めたり、「うるさいけど、私はばばあじゃないよ」と余裕でボケる母親まで多種多様。


 もちろん、親に対しての悪い言葉ですから、叱ること、正すことを否定しません。しかし、もっと大切なのはこの言葉に込められた激しい思いやメッセージです。これを受け止められず、暴言としてしかるだけでは、親としては50点の対応だと私は思います。

 では、そこに込められた思いとメッセージとは?三つ考えました。

 屬Δ辰察次△个个◆廚話忙劼ら母親への「自立宣言」であります。あるいは「独立宣言」だと思いましょう。属国扱いが耐え難くなり母国に対して独立戦争の布告をしている。それが「うっせー、ばばあ」なのであります。要は従来の母子関係が耐え難い苦痛なのです。本格的に母親から離れ始めているのです。この言葉を発したということは、順調に自立に向かっていることを意味します。ある意味、感謝なことなのです。

◆屬Δ辰察次△个个◆廚話忙劼紡个靴討諒貎討痢距離感変更要求」の言葉であります。これは「もう、今までのように介入しないでくれ!オレにはオレの世界があるのだから」とうことです。あるいは「おふくろ、いいかげん少しは子離れしよろ!」というお叱りの言葉あります。こうした怒りは、軍事的政治的に置き換えるなら「領空侵犯」に対しての怒りかと思われます。

 要はそれまで母親がKYだったのでしょう。男子は既に、「もう少し距離を取って欲しい」というサインを出していたはずなのに、読み取り損ねていたのかも。母親はこれを最終通告として受け止め、「距離感の変更」や「介入の際のルール決め」、「部分的不介入条約の締結」などのご検討を。

「うっせー、ばばあ」が「恋愛対象変更宣言」であるケースも。これは私のフロイト主義的仮説に過ぎません。男子はどこかの時点で、母親を恋愛対象、性対象としない決断を強いられます。私は男子によっては「うっせー」は排除の言葉、「ばばあ」は恋愛対象・性対象外であるとの通告だと思うのです。

 母親との心理的近さや密着が、性的恋愛的心情に発展しないためにこの言葉を発している男子もかなりいると予想しています。こうしたプロセスを経ないとマザコンになったり、彼女を作ったり、結婚をできない男性に育ちかねないのかも?と思うわけです。

 こうしてみると「うっせーばばあ」は「父母を離れ」を具現化するという面においては意外と聖書的な言葉では?などとトンデモない評価をしてしまう私です。

 そこで男児をお持ちの母親の皆さん。かわいい坊ちゃまがいつか「うっせー、ばばあ」との暴言を吐きかねない(少なくともほとんどは心の中で叫ぶ)という事実を、今から受け止めましょう。そして、その言葉の意味を、予習しておきましょう。さらに言われた時の自分の応答をイメージトレーニングしておきましょう。くれぐれも予習も準備もしないで抜き打ちテストをされた学生のように、その場に遭遇してパニック、白紙答案になりませんようにと願います。
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