命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「人類滅亡まであと三分!作りかけのカップ麺はどうなるか?」的信仰からの脱却
 昨日に続いてこの記事から。

一キリスト者からのメッセージ「わかりやすさがもたらすもの」
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=270


 今回取り上げたいのは、この記事に対してのはちこさんからのコメント。以下に引用する箇所がある本質を言い当てていると思うのです。 

 聖書の提示する福音は、「私と私の救い」を中心に据えたものではなく、神の義の実現の歴史としての福音であるということ。つまり、救いとは、私が罪に定められないこと、私が天国に行けるようになること、ではなく、神の義の実現としての救いなのであるということ。中心は神であるということ。だからThe King Jesus Gospelなんですよね?

 うーん、これは、私たちが陥りやすい、いや、既に陥っているかもしれない落とし穴の正体を、明言しているのではないでしょうか?「私と私の救い」を中心とした信仰理解とそれに基づく信仰実践ということでしょう。

 そこで今回のタイトルです。「神の義の実現の歴史としての福音」を「私と私の救いのための福音」に置き換えることは、何を意味するでしょうか?それは喩えるなら、「人類滅亡まであと三分!作りかけのカップ麺はどうなるか?」的信仰と言えるでしょう。

 「創造の初めから、被造完成までの神様を主人公とした壮大な歴史物語が進行しているのに、、自分が主人公になってどうすんの?」ということです。


 これはたとえるなら・・・。

 何巻にもわたる壮大な歴史小説を、個人日記系四コマ漫画に書き換えるようなこと。

 90分にわたるブルックナーの交響曲を、三分足らずの自己感情伝達系四畳半フォークに編曲すること。

 地球が太陽の周りを廻っているという地動説を、この21世紀において、否定し、地球が宇宙の中心だと天動説を唱えるようなこと。

 そう、本来、ありえない程の愚行であります。こんなありえない愚行をしてしまいかねないのが、救われた後にも残る恐るべき自己中傾向を持ちかねない罪人の悲しさ。

 もちろん、天地万物の創造者にして完成者であり、歴史のすべてを支配している方が、歴史の一瞬に生きる60億分の一人である自分を愛し、一人子を遣わし、自分の罪のために代償の死に至らしめ、自分を救って下さったという事実は福音の示す真理の実現であり、個人的な経験でもあります。多くのキリスト者はこの事実を知り、感動し、応答し、イエスを主と告白するのでしょう。しかし、救われた者は、そのような神を中心とした信仰理解と生活へと歩むように聖書は勧めているのは間違いないでしょう。

 福音提示の単純化が、こうした福音の中心点を省略化しているわけではないでしょう。しかし、洗礼後も、単純化された福音を、聖書の福音全体として、信じ続けるなら、確かに福音の中心は「私と私の救い」となってしまうでしょう。何より、クリスチャンになっても継続する私たちの恐るべき自己中心性は、福音の中心まで私物化しかねないのは悲しい現実。ありえないことをしてしまうのが、私たち罪人。

 でも、大切なのはそんなトホホな自分を神様やみことばの前に客観視できるかどうか?自覚して悔改めができるかどうか?なのでしょう。

 というわけで、「作りかけのカップめんを手に苦悶する信仰者の意識と関心を、どう、人類滅亡の危機に向けさせるか?」霊的指導者の使命の一つはそれなのかもしれません。一クリスチャンが成熟と結実に向かうか否かの分岐店もそこなのでしょう。
 
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:46 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化

 このタイトル、あるブログ記事に触発されて思いついたものです。同じブログばかり紹介して恐縮なのですが、やはり大変有意義な議論がなされているので、またまた紹介。

一キリスト者からのメッセージ「わかりやすさがもたらすもの」
http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=270

 記事はもちろんのこと、コメント欄も充実しております。私自身も触発を受けて、こうしたタイトルを思いついたので、少し記します。

 四つの法則やそれに類するような福音の本質を理解しやすく提示すること、それ自体には、問題はないだろうと私も考えています。むしろ、洗礼後に福音理解を広げ深め、と福音に生きる生活へと導けていないことが、教会の大きな課題だろうと思っています。

 福音をわかりやすくするための福音提示の単純化は、言葉は適切ではないでしょうが、宣教の効率化につながります。特に日本のように、十分なカトリック宣教もキリスト教の基盤もほとんどない社会にあっては、初めて聞く福音入信に必要最小限の本質に絞って単純に提示する意味は大きいと思います。もしかすると二度と福音を聞く機会がないかもしれないですし。

 では、福音提示の単純化が、入信後の福音理解や福音実践の乏しさを招いているか?といえばどうでしょう?罪ゆえの永遠の滅びへの恐れが、動機となって、キリストを信じた方は、その後も、愛ではなく恐れが、信仰生活の動機になりやすいとの指摘をお聞きしたことがあります。また、「あるがままで愛されている」に感動して、信じた方は、「あるがままでいるのではなく、御心のあなたに成長して欲しい」という神様の御心に歩み出すことが、困難になる傾向があるとの声もお聞きします。

 だからと言って、「罪ゆえの滅び」や「あるがまま愛する愛」という福音提示が悪いという論理にはならないでしょう。もちろん、それらがより本質的な福音の要素に著しく先行したり、極端にバランスを欠いて「そればっか」なのは問題でしょうが、そうでなければ、許容範囲かと思うのです。

 要は、こうした福音提示に応答した福音理解のままで、終わらせないということでしょう。「そのまんま東」ならぬ「そのまんま天国」にしては、あまりにもったいないわけです。「生涯初心者コース」で終わらせてはならないでしょう。


 言い換えますなら、「点をもって線と思うな」「線をもって面と思うな」「面をもって立体と思うな」です。
いくら中心、本質とは言え、ヨハネ3:16が聖書全体を完全に代弁しているわけではありません。本質的とは言え、一部を全体像として、受け止めてしまえば、福音の持つ、線の長さ、面の広さ、立体の深さや多面性を捨て去ることとなります。 これでは、「天国行きの切符をもらってうれしいな」で一生を過ごさなくてはなりません。そうなれば、やはり、3年が寿命でしょう。

 福音提示の単純化は、「キリストとの出会いへのショートカット」にはなれても、「キリストと共に歩む生活のショートカット」にはなれません。むしろ、逆効果の場合も。

 福音提示の単純化は「天国行きの切符獲得」には有効でしょうが、「乗車後の正しい旅路」にまではその効果は及びません。

 福音提示の単純化は「福音の最大公約数の理解」には役立ちますが、「福音の深さと広さの理解と実践」には、役立ちません。

 福音提示の単純化が悪いのではありません。その「有効期限が洗礼まで」であることが意外と自覚されていないことが問題なのでしょう。こうした有効期限が自覚されていれば、教会(教職も信徒も)は、かなりの労力を裂いて、福音全体提示やそれに生きるための教育をすることでしょう。

 こうした福音提示の単純化の有効期限が自覚されてないと、起こるのが、やはりクリスチャン寿命三年未満現象、あるいは、3年を超えて生き残ったクリスチャンの信仰理解と実践の乏しさでありましょう。

 救拯論から先のない先のない福音理解、教会生活以外の現場なき信仰生活、神との個人的関係に終始する交わり、政治や環境問題など社会事象を適用外とする信仰姿勢、他者を宣教対象としか見ない隣人愛、その他、信仰の内心化や観念化など、そうした状況に信徒が留まっていることを、安易に容認しながら、他方で、礼拝出席、聖書、お祈り、奉仕、伝道、献金というマニュアルは、しっかりと教育し、実行に導くとしたら、それはどうかと思うわけです。

 これは、真理の授与者である神様の目からご覧になれば、一種の愚民政策と評価されかねないでは?と危惧します。万人に啓示されている聖書の膨大な真理の一部だけを信徒に提供し、逆に信徒には教会への忠誠?貢献?とそれに伴う労(本来は恵みへの応答のはず)を要求するわけですから。

 もちろん、意図的に愚民政策をする牧師など、まずいないでしょう。しかし、指導者側の福音理解の不十分さや、伝達力の欠如、信徒が賢くなることへの劣等感や恐れ牧師が望む信徒像神が望む信徒像への優先などが、ある時に、あくまで、無意識のうち、結果的に、教会のあり方を愚民政策化してしまうことは、決して少なくないのでは?と思うのです。少なくとも、わが身を振り返れば、30代の頃の自分は、愚民政策的な教職だったとなーと反省するばかりです。信徒の側にも依存的で自立を願わぬ体質、霊的向上心の欠如など、愚民政策化されやすい体質はあるのだろうとも思います。

 よく考えてみれば、聖書の記述のほとんどは「いかにして救われるか」ではなく「救われた者が、いかに生きるべきか」についてです。そのバランスから考えると、牧師の仕事も、「未信者をいかに救いに導くか」より「救われた者をみことばに生きるようどう導くか」の方が重要なのかもしれません。

 きっと、福音提示の単純化が問題なのではなく、その有効期限の無自覚が問題なのでしょう。あるいは、福音提示の単純化が愚民政策化をもたらしているのではなく、福音の豊かさを伝え、それに生きることを目指す意識の欠如が課題なのでありましょう。それは決して牧師のような指導者側だけでなく、教会全体の課題かと思うのですが、どうでしょう?

 というわけで、タイトルに戻って、まとめるなら・・・。

 「福音提示の単純化=宣教の効率化≠宣教地の愚民化」であります。

 福音提示の単純化の有効期限は、洗礼前後まで。大切なのはシフトチェンジ、洗礼後は、福音の豊かさを提供し、その豊かさに生きるための、牧会、教育、交わりなどであります。もちろん、その実行は、およそ簡単な事ではありません。多くの場合は抵抗勢力が起こるでしょう。しかし、このシフトチェンジをするか否かは、将来において、いいえ、長い日本の教会の歴史において天と地との差が生ずるのだろうとは思うのですが、どうでしょう?

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 16:05 | - | - | - | - |
新たなる牧師ユニット、その名称は?

 昨年、お世話になった某牧師より、年賀状をいただきました。「今年の目標」として、いつくかのことが記されていたのですが、その一つが牧師の交わりをつくること。その牧師の交わりの名称がすごいのです。その名も・・・

 BKS48

なのであります。

 きっとフラットな関係で正直に弱さも失敗も語り合えるような交わりをお考えなのでしょう。間違っても、歌って踊れる牧師のユニットではないと思います。それにしてもネーミングが最高ですね。招待状が来たら、どうしようかと、新年早々、考えてしまいました。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 19:00 | - | - | - | - |
キリスト教会ユニットAKS48のススメ
  昨日は、忠臣蔵で知られる赤穂浪士討ち入りの日であったそうで。ラジオの投書にこんなアイデアが。

 「赤穂浪士」では若い世代に受け入れられないので、「AKU47」と改名しては?

 これは名案であります。赤穂浪士は47名、ちょうどAKB48にたとえるには好都合。武士道精神の美学を歌って踊って表現するおじさん浪人ユニットAKU47!暑苦しいユニットですが、話題にはなるでしょう。やはり、解散コンサートでは、やはり切腹するのだろうか?年末限定ユニットで秋元さんが実現してくれるかも。

 私も以前にサタンの会議企画で、クリスチャン男子を堕落させる萌え系美少女ユニットAKM48を考えました。AKUが赤穂ならAKMは悪魔であります。その記事はこちら。

サタンの会議〜AKM48計画
http://blog.chiisana.org/?eid=1351863

 忠臣蔵がAKU48で、悪魔がAKM48となれば、教会は・・・・?

 そう!「AKS48」であります。

AKSとは「証し」のイニシャル。キリストの証し人として、教会から派遣される48名です。使徒たちは言わばAKS11(AKS12-AKS1)でありました。ペンテコステ時に証人となったのは、AKS120となるでしょうか。

 教会員数や礼拝出席者数が48前後の教会の皆さん!チャンスです。「私たちは、AKS48だ」と宣言して、証しに励みましょう。中高生キャンプや学生団体の集会でも48名規模になったら、AKS48宣言をしてみては?このユニット、歌って踊れなくてもかまいません。老若男女を問いません。教会が秋葉原スタジオ、そこから派遣され、言葉と生活でキリストを証しする思いがあれば、誰でもオーディション通過なのです。

 さあ、あなたもAKS48のメンバーに、あなたの教会、集会もAKS48宣言を!
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 18:09 | - | - | - | - |
当世新入社員気質から考えるクリスチャン二世
 先日紹介したブログのキリスト者2世問題は、さらに発展しております。質量共に充実しすぎていて、コメントできないほどです。大変、有意義かと思いますので、ぜひ、ご一読を。
 http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=278

 本日は金山で放送伝道関係の会議。その帰り、車中のラジオから報告されていたのは、近年の大学新卒社員の気質。どうも、21世紀以降は、2005年を境に、大きく新卒社員の気質は変化しているらしいです。

 2005年までは、新入社員の三割が三年以内で辞めるという従来にない、現象が問題視されました。「若者はなぜ三年以内で辞めるのか?」とかいうタイトルの書物が話題なったことも。当時は、新入社員の5割は転職を考えていたそうです。しかし、追跡調査をしてみれば、一目瞭然。新卒が優先される日本の企業では、転職によってよりよい職場に転じたのは一部に過ぎません。

 これは、キリスト教会における「クリスチャン三年寿命説」とか「三年以内に転会、次の教会もまた不満」などに通じるものがあるのかもしれません。

 そんな上の世代を見てきた今の新入社員世代は、入社した会社に留まり続けることを8割が希望、転職を考えているのは一割に過ぎません。その特徴としては、大変、「まじめ」だというのです。しかし、注目すべき特徴は「真面目だけど頑張らない」ことだそうです。

 リポーターによれば、「会社に入ること自体が目的だから」入ってしまうと、もう頑張らないのだとか。もちろん、真面目ですから決められたことや指示されたことはするのですが、それ以上の頑張りはしないのです。

 この世代は、ゆとり教育を受けて、大学も4割は推薦入試で入学したのだとか(中高一貫教育も多いのでしょう)。つまり、激しく厳しい競争を経験しないで社会に出てきたのが特徴。そして、競争心を持たず、厳しい競争社会で努力することがなく育ってきたので、厳しい競争に勝つため努力や発想などに欠けるのだとか。

 このことは何か、クリスチャン二世の特徴と共通項があると思うのです。
会社に入ること自体が目的」は「クリスチャンになること自体が目的」に通ずるのでは?天国行きの切符を手に入れることが最終目的で、切符を持つものとしての使命や責任、地上生涯の目的や為すべき歩みは眼中にありません。

 中高一貫とか、推薦入学での大学入学も、未信者家庭に育った私の偏見やひがみかもしれませんが、クリスチャンホーム育ちの特権に似ているように思えるのです。

 そして、信仰を継承したクリスチャン二世は大抵真面目です。そして、教会で決められたことに従順ですが、新たな発想やその実現の意欲に欠けていると、若い世代が、教会を「伝統文化保存会」や「前例踏襲イベント継続団体」にしてしまいかねません。「真面目だけどがんばらない」が、クリスチャン二世の特徴とリンクしているなら、ちょっと残念。

 でも、現実にこうした新入社員が入社し、クリスチャン二世が信仰継承をしているなら、批判や文句を言っていても、なんら生産性がありません。真面目なのは良いことなので、それを活かし、生育歴で欠けた部分を新入社員教育で補えばよいのであります。こうした現状分析がしっかりできている企業では、まず最初に、新入社員に競争社会の厳しさ生き残るための努力の必要性など教えるそうです。

 そうかんがえますと、受洗後の学びも、「クリスチャンになること自体が目的」に留まらぬために、クリスチャン生活の目的を聖書から示すことが肝心でしょう。つまり、「クリスチャンとされた者の目的」であります。なおかつ、その具体的アウトプットのイメージを示し、教会でも先輩をモデルと提示できるといいでしょう。何よりクリスチャンである親が、不十分でもそうしたモデルでありたいと願うわけです。

 決められたこと指示されたことに忠実なことは、最大限評価しながらも、試行錯誤をさせて、新たな発想やあり方を若い世代に期待するような寛容な態度が、先輩にあったらよいかと思うのです。「今まで通り、決められ指示されたことをしているのが優等生」と褒められているだけでは、教会の先は見えてしまうでしょう。

 そのためには前の世代が「継承すべきこと」と「そうでないこと」をしっかり、分別して次の世代にしめすことでしょう。クリスチャン二世の中には、身を持って教会の課題を実感し、改革を願っている者も多いのは事実。そうすれば、真面目なクリスチャン二世は「継承すべき本質」を立派に継承し、「継承すべき本質を継承するために捨てるべきこと、変えるべきこと」については、ちゃんと変革してくれることでしょう。上の世代は、その期待を次の世代に抱き、見守り、逸脱せぬよう導くことかなと思います。

 私を含めて、一定年齢を超えるクリスチャンの課題は、若きクリスチャン二世に対して、その声を聞き、積極的理解に努めず、試行錯誤を許可する寛容さに欠け、継承についての分別を伝えないことではないかと思っています。これでは、クリスチャン二世が持つ若き可能性をつぶしているのも同然でありましょう。

 私もつい心に抱いてしまう「最近の若者は・・・・」「自分の若い頃は・・・・」「これだからクリスチャン二世は・・・」などは、まさにベテラン勢の罪、肉性であり、悔改めて捨てるべきだと最近になり自然に思えるようになりました。この悟りの遅さは、何ともトホホなことであります。

 クリスチャン二世の問題は当人にも責任はあるでしょう。しかし、そうした問題をより一層、固定化し、深刻化させているのは、親などその上の世代のクリスチャンではないかと、いよい責任を痛感している私です。

 当世新入社員気質とクリスチャン二世、ちょっと強引でしょうが、共通項があるのでは?そして、そこから、ベテラン勢こそが、謙遜に学ぶべきことがあるのでは?と思わされました。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:45 | - | - | - | - |
「恋人がサンタクロース」は冒涜系クリスマス・ソングか?

  以前の記事でユーミンの持つシャーマン性に触れました。
http://blog.chiisana.org/?eid=1407599


 この記事の元になった書物を記されたジャーナリストさんによれば、ユーミンが日本の大衆を魅了する根源的要因は、「シャーマン性」、そしてその特徴の一つは「性に対しての大らかさ」なのだとか。

 このジャーナリストが一例としてあげているのが、「恋人がサンタクロース」であります。この曲のリリース時には、まだ、親の世代などはクリスマスイブに未婚カップルがホテル予約してデートなどという行為に嫌悪感を持っていた時代。ところが、「恋人がサンタクロース」と平然と「聖夜」を「性夜」に一括変換してしまったユーミンの性に対しての大らかさが日本大衆を魅了したと分析しております。

 改めて歌詞をチェックすると、「冒頭」からして「暴投」であり、「冒涜」であります。

 ♪昔となりのおしゃれなおねえさんはクリスマスの日私に云った
今夜8時になればサンタ
が家にやって来る
 ちがうよそれは絵本だけのおはなしそういう私にウィンクして
でもね大人になればあなたもわかるそのうちに
 恋人がサンタクロース本当はサンタクロース
...♪

 
こらー!子どもになんちゅうこと教えるんじゃ!間違ったクリスマスの過ごし方とサンタの意味を伝えてどうするんじゃい!しかも、自分が悪い見本示してどうすんの?純朴な小学生女子が、あんたみたいなフシダラ女になったらどうしてくれるん?ちゃんと、「クリスマスは、教会で」とか「サンタの起源は聖ニコラスで・・・」とか、教えるのが大人の役目だろーが!

 とか、架空の歌の主人公に文句言ってもしょうがないか・・・・

 じゃあ、作詞者のユーミンに言おう!こら、ユーミンこの記事読んどるか?(絶対、読んでないだろーなー)。
貧しい人々に施しをした聖ニコラスに由来するサンタクロースを、クリスマスに女の家に忍び込む不届き男に置き換えるとはどういうつもりじゃ!それでは、霊的姦淫と性的姦淫を一体化したカナンの偶像礼拝と同じじゃないか?キリスト礼拝を、偶像礼拝にするつもりか?

 異教に由来する日本の性的奔放さを、異教の祭りではなく、クリスマスを名目にするとは何事ぞ。これでは、土俗的な「祭りの夜に夜這いしよう」ではないか?まるで、「現代版・夜這い推奨ソング」だぞ、これは。

 おじさんは、こんな歌、絶対にクリスマスソングとして認めんぞ。

この記事を読んでおるクリスチャン青年たちよ。カラオケとかで歌うなよ!

聖ニコラスに対する名誉毀損で訴えてやる!

・・・・などと怒ってしまう私はキリスト教原理主義者なのだろうか?でも、この歌詞、よく考えてみるとかなりヤバイと思いますよ。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 20:05 | - | - | - | - |
美容師伝道(結果的に婚活も)成功例をご紹介
 昨日の記事をお読みになった某牧師よりメールを頂きました。牧会しておられる教会の一クリスチャン女性が、行きつけの美容室にて男性美容師に伝道をして、彼は救いに導かれ、しかも、二人は現在婚約中だとのこと。実は、私もお会いしたことのあるお二人です。某牧師からのご報告を私なりに編集して、要約して、(実はほとんどそのまんま)お伝えします。

 彼女はクリスチャンホーム育ちのお嬢さん。そして、奉仕熱心で、誰からも好かれるよきクリスチャン。牧師としては、きっと、キャンプの奉仕などで交わりのあるよい青年と導かれるに違いないと誰もが思っていたようです。

 そんな彼女が、ある日、行きつけの美容院の美容師を連れてきたのです。「クリスチャンでなければ付き合いません」、「クリスチャンとして尊敬できる人でなければ結婚も考えません」という彼女、「彼女のことは抜きで、一から聖書を学ばせてください。わかるまで、会いません」とまで言う彼。(どっちもすごいなー、これ。優先順位が明確ですね)

 この日以来、彼は仕事のために早天礼拝10分前に必ず来たのだとか。休みの火曜日には牧師と一対一で聖書の学び会を毎週。8月から来はじめて、盆と正月が休みというので、今年の元旦に洗礼を受けたそうです。そして、彼はこんな素晴らしい信仰に出会えて本当によかったと言うのです。

 彼は田舎の跡取り息子、そのために、芸能人も通う都心の美容室を辞めて実家の田舎に帰ってきたのです。その中で信仰を持つということは簡単なことではありません。それでも、真理に出会ったと喜んでいるのだとか。

 さて、クリスチャンである彼女のご両親は美容師ということで、最初は多少の戸惑いもあったようですが、今は「うちの娘でホントにいいの?」と言うほど、彼を気に入っておられるそうです。私も実際にお会いしたのですが、彼の第一印象はさわやかで誠実で落ち着いた男性。

 牧師夫人の見解によれば「美容師は究極の客商売。女性にとっては、心許す美容師のいるところに通うもので、「全然アリ」だとか。

 昨日の記事は「彼氏いる?」からの証しですが、美容室での美容師とお客という関係作り伝道もありなのですね。好感をもっている男性美容師に伝道して、結婚という離れ業も、ありかもね。いえいえ、不謹慎でした。結婚はあくまで結果。これは、単なる美容室での男女の出会いではなく、真理を求めていた男性と真理を伝えたいと願っていた女性の出会いでしょう。

 娘が美容師と結婚と聞いたら自分はどう思うだろうかとも妄想。「狩野英孝」や「オリラジ藤森」のようなチャラ男しか、思い浮かばない、自分の偏見と決めつけに気がついて、悔改めました。

 来春結婚予定だそうで、私は当人を存じ上げているので、泣けるほど感動です。こういう実例をお聞きして思います。美容師とは愛すべき隣人、真理を必要とする職業人、日曜休みでないことは、とりあえずは関係なし、そして、美容室とは、かなり有効な証しと宣教の場なのでありましょう。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 21:23 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(13)民主三首相クリスチャン
 一旦、同様を離れて、思いついたので、記事にしました。今回考えみたいのは、民主三首相クリスチャンであります。つまり鳩山元首相、菅前首相、野田現首相のお三方ようなクリスチャンであります。「つまり」と言いながら「もっと」、分からなくなってしまいました。

 そもそも、これを思いついたのは、野田総理の所信表明演説に対しての小渕優子議員の質問にあります。その中に次のような名プレーズが。

 民主党政権が誕生してから、「できもしないことを言う元総理」、「思いつきを言う前総理」と続きましたが、今は「何も語らない総理」というのでは、言葉を武器にする政治家としてあまりに悲しいことです。

「できもしないことを言う元総理」
「思いつきを言う前総理」
「何も語らない総理」

 もう、かつて総理候補を「軍人」「変人」「凡人」と断じた田中真紀子議員を彷彿させる辛辣なフレーズであります。

 でも、これって教会の中で起こっているなーと思うのです。

「できもしないことをヴィジョンとか信仰とかの名目で言うクリスチャン」

 神様に由来するのをヴィジョンとか信仰というのだと思うんですけど。自己欲求に由来する自己実現を神様にも周囲のクリスチャンにも、支持応援していただこうとして、ヴィジョンとか信仰とか称するのは困るんですけど。一つ間違うと、聖書が示す「大言壮語」の罪なのではないかと心配。

「思いつきをみこころとか、導きとか称して表明するクリスチャン」

 聖書を読んで、祈って思いつたこと=御心、導きではねー。「おこころ」を「みこころ」に置き換えて自己欲求を正当化されてもちょっとねー。自己実現のために、自分が神様を導いているのを「導き」といわれてもねー。自分が神様に導かれるのが導きだと思うんですけど。

「発言責任を問われるのを恐れ、本物の信仰や御心でも何も語らないクリスチャン」

 本当に神様からのものなら、時には、大胆にヴィジョンを宣言し、信仰に立って発言し、御心や導きに従うことを表明するのは、教会の徳を立て、周囲にも信仰の励ましになるはず。こうしたことにおいて、慎重であることは大切ですが、臆病になってしまっては残念ですね。

 私も含め、多くの読者は、大なり小なりこうした未熟さや肉性に由来する失敗を通過しているのでは?

 このことは、牧師や役員なども例外ではないでしょう。リーダー的立場の方が、、民主三首相クリスチャンですと日本国民の政治不信ならぬ、牧師不信や教会不信につながりかねませんから、ご注意を。

「できもしないことを言う元総理」
「思いつきを言う前総理」
「何も語らない総理」


うーん、辛辣です。お互いは政治批判をする前に、聖なる自己批判をする必要があるのかもしれません。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 17:14 | - | - | - | - |
クリスマスケーキ不要説?

イタリヤのナポリにナポリタンスパゲティーはない。ナポリタンは日本が発祥の地なのだとか。

台湾には台湾ラーメンはない。台湾ラーメンは、名古屋の名物だそうです。

同じく聖書のクリスマスにクリスマスケーキはない。発祥はフランスのブッシュ・ド・ノエルで、日本では不二家の創業時かららしいです。

 「我が家では、絶対にクリスマスケーキを買わない」という聖書に忠実な?クリスチャンホームの父親にお会いしたことがあります。本当のクリスマスを家庭でというポリシーからでしょう。クリスマスとは何より「クリスマス礼拝」だと私は考えています。楽しい交わりも伝道の機会も、それに比べれば、二次的なのでは?

 ナポリタンや台湾ラーメンの話しを聞いて思いました。クリスマスケーキの是非はともかく、まず、クリスチャンが、神様の望まれるクリスマス礼拝をささげることが最重要性なのだと。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 14:59 | - | - | - | - |
説教フィードバックとしての家庭訪問

 「聖書をとりついでも、信徒がみことばが従う生活をしない」「みことばを伝えているのに、信徒が価値転換していない」。そんな不満や嘆きの声が、牧師先生から聞こえてくることも。

 本日お会いしたある方は、牧師側がもう一歩すべき努力として、家庭訪問があるのでは?との見解をお話しくださいました。何でもその方によれば、あのカルヴァンは、すぐれた説教者であると同時に、信徒の家庭訪問をよくしたとのこと。つまり、語られた説教が、信徒の家庭で生活化しているかの確認、評価のため家庭を訪ねたということだそうです。

 不勉強な私にとっては、初耳で、少し意外でした。説教が発信であり、牧会がフィードバックということでしょうか。その方は、教会の規模が大きな場合はせめて役員家庭だけでも訪問することがいいのでは?と提案されました。

 そこで思い出したのが、以前ある説教者の説教集で読んだ有名牧師の家庭訪問。その牧師が役員宅を家庭訪問。家族全員でお祈りをささげた後、その牧師は役員を戒め始めます。

 「あなたは教会の役員だというのに、家庭では食前の祈りさえしていないのですか!」

 最初は否定していた役員も、やがて、そのことを認めて悔改めます。そして、「先生どうしてわかったのですか?」と質問。

 牧師は「ですよ」と返答。「全員で祈ろうとしたら猫が驚いて逃げ出した。食前のいのりをしていたら、そんなことはないはず」と説明。

 牧師の家庭訪問モードで、武装?しても、猫は正直です。観察眼の鋭い牧師なら、家庭訪問の中で、「語られたみことばの生活化」を一定評価できてしまうのでしょう。

 こうなると家庭訪問は、心情的には牧師も信徒もうれしいような、悲しいような。

 個人主義化して、家庭のプライベートが重んじられる時代と社会では、どうしても「みことばの生活化」が問われなくなりがち。「説教+家庭訪問」は、そうした時代と社会の弊害を超えて、信徒を育て、教会を建て上げる一つの知恵かもしれません。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説読みきり) | 22:15 | - | - | - | - |
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