命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
飲食の神学〜たかが飲み食い、されど飲み食い(1)

「人はパンのみで生きるのではない」とか「神の国は飲み食いのことではなく」とか、飲食が本質的でないこと、霊的なことに優先するものではないことを聖書は示しています。ですから、たかが「飲み食い」なのです。飲食自体は、生命維持のためには不可欠の本質ですが、霊的ないのちについてはそうでもなさそう。

 確かに飲食自体は、本質的ではないのでしょうが、「表現方法」、「場面」としての飲食は、かなり重要なこととして聖書には記されているように思います。ですから、聖書全体から飲食を評価するなら「たかが飲み食い、されど飲み食い」と言えるのでは?

 先週の土曜日は帰国者クリスチャンの集いで奉仕。会員の方もお出でくださり、実に楽しい交わりでした。神学教育に関わる方も数名おられ、濃い神学論争?というか神学的愚痴のこぼしあいもありました。その中で、興味深い会話がありました。「教会員を一人もこぼさずに会堂建築ができたためしがない」との発言から、「会堂建築どころかもっと些細なことで会員がいなくなる」との応答があり、その中で、聖書にも同様のことがあるとのご指摘。

 執事制度の始まりは、そもそも飲食のことから。ギリシャ語を話すヘブル人のやもめたちが食糧配給で、ないがしろにされているとの苦情があり、それを受けた使徒たちが、自分たちは祈りとみことばに専念すべきと判断し、飲食のことなどを担当させるため、執事を選出したわけです。聖書にあるように昔から、飲食のような本質的でないことが問題となるのが、教会の現実であり、受け止めるべき課題ということでしょう。ある方は、「そんなことからもステパノのようなクリスチャンが出てきたらいい」と発言。

 しかし、帰宅してから考え直しました。これは礼拝後の昼食などでなく、やもめに対しての食糧配給なのだから、結構、本質的なわけです。生活手段のないやもめにとっては、食糧配給はいのちに直結すること。そして、ヘブル語話者とギリシャ語話者で配給に違いがあれば、それは主にある公平性に反するわけです。しかも聖書の記述によれば、どうも、ギリシャ語話者のやもめたち自身の苦情というより、教会における差別待遇を問題視したのだろうと私には読めます。

 ですから、この場合の飲食はまさに「たかが飲食、されど飲食」でありましょう。やもめという社会的弱者の生存権の問題であり、主の交わりにおける公平性や差別排除という教会論的問題でもあります。

 この課題を軽視せず、執事制度を設けたため、使徒は祈りとみ言葉に専念。執事はどちらかと言えば実務担当になったようです。今日、牧師と執事の働きの違いを考えたり、両者のジョブ・ディスクリプションを作る上でこの起源は大きな指針となるのでしょう。教会はよい方向で組織化され、それが機能したように思われます。そして、その中から、ステパノが登場。「ステパノ」はギリシャ的名前なので、ギリシャ語話者で、同じくギリシャ語話者のやもめの利益を守った執事だったのでしょう。よく考えてみれば、殉教者ステパノは執事、つまり信徒であったのです。キリスト教会最初の殉教者は、使徒や伝道者でなく、信徒であったのです。

 以前、愛知県の明治村で、カトリック教会を見学。会堂の中央には、イエス様やパウロやペテロと並んで、「聖ステパノ」の像が。いくらリーダーであったとはいえ、一信徒が大使徒と同列に扱われているのです。

 飲食自体が問題なら「たかが飲食」です。そのために多大な労や教会の組織改革など必要ありません。しかし、飲食の問題がある本質的な問題を意味するなら、それは多大な労と教会の組織改革さえ必要とする課題なのでしょう。その問題性に気がつき、組織改革までして対応するとは「アッパレ」であります。それがもたらした恵みは、信徒ステパノの活躍と悲しくも栄光に満ちた殉教の証でありました。

 教会で飲食が問題になったら、まずは「たかが飲食」か「されど飲食」かの判別が大切なのでは?後者であれば、牧師に依存することなく、執事が主体的に対処をしていくのが、きっと聖書的なのでしょう。すぐに牧師に訴え、解決を求めるのは、聖書的かな?とも思うのです。その意味で、この飲食の問題は、今日の牧師と執事のあり方を考えるよい題材だとも言えるでしょう。まさに「されど飲食」であります。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 10:06 | - | - | - | - |
キレイごとの「福音」がもたらす腐敗?(3)
  「主にすがる我に悩みはなし」という有名な聖歌があります。この歌詞の意味を「クリスチャンになったら悩みなどなくなる」と受け止めている方は、まずいないでしょう。「十字架のみもとに荷をおろせば」とあるように。「今だって、悩みはあるけど、イエス様が負ってくださるから、今までのような悩みではなくなる」などの解釈が普通かと思います。

 イエス様も、トホホな弟子や偽善的なリーダー達、形骸化した信仰、群集の愚かさなどには、随分悩まれた様子。あの強烈な信仰のパウロでさえ、教会への気遣いで、かなり悩んで参っていた様子。そう、信じていても悩むのです。

 「イエス様信じたら、すべて解決、悩みはない」というのは、まさにキレイごとの福音で、人間の罪と弱さと愚かさを除外した、リアリティーのない幻想であります。

 そうした点をずばりと指摘されたのが、みなみななみさんでしょう。「信じてたって悩んじゃう」が評価された要因は、シリアスな課題をマンガというサブカルチャーで扱ったという方法論やコンセプトだけではないと思います。多くのクリスチャンが、「聖書に正解がある」「信じたら問題解決」と信じつつ、抱いていた「信じていたって悩んじゃう」という本音に同著が見事に応えたからでしょう。「イエス様信じればすべては解決、自分も社会もよくある」という幻想にクリスチャンたちが抱いていた違和感に同著は言語化、漫画化しつつも、聖書的建徳的に、ある課題についての聖書的指針を追求していることが、素晴らしいと思うのです。

 福音理解における「キレイごと」の粉砕は決して破壊的行為ではなく、真の福音を明らかにしていくための生産的行為だろうと思うのです。問題の性質によっては、聖書に単純な回答を見つけるより、むしろ、聖書に問いかけ、正しく悩み、祈り、考えることが福音に生きることありましょう。

 30年ほど昔のゴスペルフォークに不正確な記憶ですが、こんな歌詞があったことを覚えています。

 「いろんなことがありましたよ。イエス様信じてからも・・・・・

 当時は、ワーシップソングもなく、まだ、「イエス様信じたら、愛、平安、喜び、希望・・・」というような伝道的な歌詞が一般的でした。もちろん、それが悪いわけではありません。しかし、そうした歌詞が支配的な中で、この最初の歌い出しを聞いた時、深い共感を覚えました。きっとキレイごとではないリアリティーがあったからでしょう。そして、この歌詞の結論は、「これからもイエス様と歩んでいこう」という趣旨だったと記憶します。

 神様の愛、義、聖などの恵みとそれを阻む人間側の罪と弱さと愚かさ、その両者を含むのが福音。それを前者のみを取り上げて、後者に向き合わぬことによってキレイごとにしてはならないと思うのです。自らとこの社会の残念な現実を認めながら、現実的な理想として聖書のみことばに生きる道、その成就に歩む生きかたをできればと願ってやみません。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 22:26 | - | - | - | - |
キレイごとの「福音」がもたらす腐敗?(2)
 「自分探して傷ナメっこして、キズナ深めてONEになって空つながりで明日へGO!のキセキに産んでくれてありがとうウサギ」

 この某音楽評論化が「心も社会も腐らせるキレイごと」と批判するフレーズを福音と結び付けてみましょう。

 「イエス様と出会うこと、それが自分探しの終着点」
 「傷ナメっこはもう必要ないよ。イエス様が傷を癒されるから」
 「キリスト中心なら、お互いのキズナは深まる」
 「キリストにあってこそ、ONEになれるよ」
 「キリストの名によって祈れば、離れていても空つながりさ」
 「キリストに希望があるから、明日へGO!」
 「君は、神様に愛されるために生まれてきた、だから産んでくれてありがとう」

 これは、全部、間違いではなく多分、正解でありましょう。しかし、「キレイごと」との突っ込みは免れません。

 「イエス様とで出合った後も、自分を見失うことあるし、逆にイエス様に出会ってからの方が罪人の自分に出合ったよ」
 「イエス様に出会った後でも、傷は受けるし、傷が痛み続けることもあるのさ」
 「キリストにあっても一つになるのは、大変だよね。異なる相手を受け入れられない自分がいるからさ」
 「祈っていても、やっぱり離れて会えなければ、心も離れがちになるよね」
 「キリストに希望があっても、自分の心に希望が来ないこともあるよね」
 「イエス様信じた後も、産んでくれてありがとうが言えない生い立ちや歩みを持つ人もいるよね」

 神様の恵みを阻む、自分や他者、社会など人間側の罪、弱さ、愚かさもまた、聖書が明確に示している現実的な真理。もちろん、信仰者、キリスト者にもそれがあることを、聖書は明示しています。そう福音とは神の愛と義と聖を示すと同時に人間の罪深さと弱さ、愚かさを示すもの。後者のような聖書の記述を他人事のように読んではならないでしょう。当事者感をもって読まなくては。

 聖書が目標として示すこと、神様が約束しておられる恵みなどは、常に追及し続けるべき理想。しかし、それを阻む、人間側の罪、弱さ、愚かさの考察が欠ければ、聖書的な理想も「キレイごと」に変質

 「キレイごとの福音」には信仰者側の罪と弱さと愚かさの考察が抜けています。それは一見、純粋で熱心に見えますが、聖書的でも、現実的でもありません。「純粋という名の未熟」でしょう。そうした福音理解がもたらすものは、理想と現実のどうしようもない乖離、本音と建前の使い分け、信仰と生活の二元化などでしょう。こうしないと矛盾が解決できないからです。キレイごとのままで保存するにはこれしかありません。これは腐敗させますよね。

「自分探して傷ナメっこして、キズナ深めてONEになって空つながりで明日へGO!のキセキに産んでくれてありがとうウサギ」と安易に歌うJ−Popは、3.11以来、人々の心と社会を腐らせてきたのかもしれません。

 同様に自らや社会の罪、弱さ、愚かさに向き合わず考察もしない「自分探して傷ナメっこして、キズナ深めてONEになって空つながりで明日へGO!のキセキに産んでくれてありがとうウサギ」の福音版は、信仰者の心もその周囲の社会も腐敗させかねません。

 むしろ、自分の罪、弱さ、愚かさ、ごまかしや偽善を自覚し、認め悔改めることから、また、他者や社会の悪についての十分な考察があって、初めて聖書的理想に近づき得るのでしょう。聖書が肯定的に描いている信仰者や教会の姿は、キレイごとの完成形ではなく、罪と弱さと愚かさと向き合いつつ、理想に向かう姿だと思うのですがどうでしょう?
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 15:34 | - | - | - | - |
キレイごとの「福音」がもたらす腐敗?(1)
 昨年の末には「ミュージックマガジン」の1月号を購入。「2011年ベスト・アルバム特集」と記した表紙に、惹かれて手に取れば、各ジャンルのベストアルバムと面白そうな音楽批評に購入決定。一番感動を覚えたのは、保母大三郎なる批評家が「歌謡曲・ポップ部門」で記してた「キレイごと歌謡がピークに」との文章。その記事では、3.11以来、急増した「キレイごと歌謡」について、痛烈な批判をしてます。その歌詞の典型はこういうものだと保母氏は痛烈に指摘。

 「自分探し傷ナメっこして、キズナ深めてONEになって空つながり明日へGO!のキセキに産んでくれてありがとうウサギ」

 こうした歌詞をキレイごとの一刀両断。結論として、「キレイごと=嘘の上塗り」は心も社会も腐らせるんだよ。と結論。

 これは、私もぼんやりと疑問を感じてきたことを明確に言語化してもらったようで、うれしかったです。こうした歌詞の中で本物がないわけではありませんが、あまりに安易なものが多いのは個人的にもウンザリです。では、キレイごとでないならどんな歌詞でしょう。私なりに一例を提示してみましょう。

 「自分探し」って言うけれど、それって今すべきこと、社会的義務を逃れるための口実じゃないの?今すべきことをする中で自分の本当の姿って見つかるじゃないの?それに、見つけ出した本当の自分を、認められるの?本当の自分が嫌な奴ならパスして、「自分の願う本当の自分」を見つけるために、また自分探しの旅に出るんじゃないの?そうして永遠に本当の自分を見つけ出さずに、今、すべきことから逃げ続けるの?

 「傷のなめあい」って何だろう?「いいよ、そのままで」「しかたないよ」、と言いながら、相手を受け入れながらも、いつまでも相手の成長や幸せを願わないことが、友情や愛なの?それって自分が傷つかないための相互協定。友情とは別物でない?

 「絆を深めること」をどうして求めるの?それって神の前での宗教的自我や、近代的な主体的自我を失った現代人の代理機能、それが絆作りでない?本当の絆を深めるためには、まず絶対的な基準での個の確立なんでない?それなくして絆作りで得られるのは、不安定な相対的自我に過ぎないのでは?

 「一つになる」って聞こえはいいよね。でも、価値観、感性、年代、性別、人種の違いを超えての一致、そこに生ずる壮絶なストレス覚悟してんの?何より一つになれない自分の中にある偏見や差別という罪、あるいは一致を妨げる構造的罪を自覚しているのか?

 「明日へGo!」という希望の根拠は何なのか?人間の中にそこまでの希望の根拠があるというのは楽観的すぎるのでは?まず、どうしようもない自分からスタートしろよ。

 何億の精子の中のたった一つが受精卵となるなら、確かにキセキ。生まれてきたことは感謝。でも、素直にそう言えない出生過程や生育暦を持つ人たちのことも、歌詞には出てこなくても、折込済みなの?

 「歌で元気を」という言葉をよくお聞きします。それは否定しません。本気の人、真実な人たちも多くいるのは間違いないでしょう。しかし、便乗や付け焼刃、広告料目当て商売根性でやっている方々もいるのは明らか。

 「リスナーに元気を与えればそれでいいのかよ?真実に眼をそむけ、表面だけのキレイゴトで心理的効果をあげれば、いいのかよ?それって震災支援の前に音楽表現として偽ものだろう?」と思ってしまいます。

 「理想」と「キレイごと」は異なります。理想どおりに行かない人間の罪深さや愚かさとその根深さを自覚し、それを前提とした上で、目指すのを理想というのでしょう。逆に、罪と愚かさという現実を認識せず、あるいはそこから眼をそらし、いや、自分のその部分に意図的に眼を閉ざし、理想を語れば、それは理想ではなく「キレイごと」。そうした、罪や悪や闇、偽善の問題を扱わうことなき、崇高な理想は、多くの場合、理念や言葉だけで、心も社会をも一ミリも動かさないでしょう。それどころか、罪と悪と闇を放置して、保母氏の指摘通り、心も社会も腐らせるのでは?

 そこで思うのです。「同じ現象や課題が、今、福音理解や宣教の実践の中にもあるのでは?」と。明日はそのことを記してみましょう。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 22:10 | - | - | - | - |
「継承すべき言い伝え」と「捨てるべき靴下」
  思考放棄で、ムードや流れや気分で、「検証なき既成の全面的継承」や「展望性なき既成の全面否定」の両極端に走りやすい時代、社会なのではないか?というのが昨日の記事の趣旨。それは大衆社会の本質で、「イエスはローマからの解放者のと全面肯定」から「死刑にすべき、反宗教者との全面否定」へと、一方の極端から対極の極端への瞬間移動したあの群集などは聖書が描いた典型でありましょう。

 福音書の昔から、群集心理やそれが社会を動かしかねない大衆社会の本質はそうしたものかと思うのです。神を見失い真の主体性を失った人間の罪深さはそうした愚かさとなって現われるものでしょう。

 話しは変りますが、「ヘンリーカウ」というロックバンドがかつてありました。ケンブリッジ大学卒の二人が中心となり結成された、前衛ロックバンドで、左翼的思想を歌詞に乗せてアピールするという通常のロックファンにはついていけないバンドです。楽器編成はロックですが、音楽としてはフリージャズや現代音楽に近い気がします。一般のロックファンには前衛的過ぎて、気難して憂鬱に感じてしまう音楽でしょう。

 そのヘンリーカウのデビューアルバムのタイトルは”Legend”、そしてジャケットに描かれているのは靴下。日本版のデビューアルバムのジャケットはこちらでご覧いただけます。

http://991.com/eilcom/gallery/gallery.asp?artistname=Henry-Cow

 同アルバムの冒頭の代表曲がyoutubeで聴くことができます。マニアの方だけにお勧めです。
http://www.youtube.com/watch?v=xwoJ3-_wZOI&feature=related

 タイトルはLegend(伝説)で、ジャケットは靴下・・・・。この意味、わかりますか?つまり”Legend”と”Leg-End”をかけたシャレ、ユーモアなのです。「伝説」と「脚の先」をかけているわけです。どうも、「伝説や言い伝えなど、脚先の靴下程度の価値なのでは?」ということでしょう。まだ、学生運動が盛んな時代の高学歴者による左翼系ロックですから、既成の価値観の否定の意味かと推測します。

 伝説や言い伝えの多くには古人の知恵や深い真理が込められているものです。ただ、聖書のことばそのものではないのですから、「期間限定もの」や「地域限定もの」もあれば、「賞味期限」や「耐久年数」が付いたものもあるわけです。一部とは言え、それらは時代遅れで無効になり、逆に真理発見を妨げる既成概念に変質することも。ですから、ほとんどの場合、伝説や言い伝えを無条件で全部継承する事は、必要な変化や進歩、成長を妨げるわけです。逆に、全部を否定してしまうと、古人の積み上げを捨てて、一からすべてを建て上げることとなり、大きな損失を生じます。つまり、穴あき靴下となってしまった既成を保存し継承するのも、既成をすべて靴下扱いして捨てるのも、両極端の愚行ということ。

 聖書にも「言い伝え」が登場します。古人が神の御心である律法を守りたいと願い、その具体的行動や判断などを考えて「言い伝え」が生まれます。あるいは間違った解釈や適用が行われてそれが「言い伝え」となります。そうした言い伝えが伝承されるそれらを守ることが神様の御心の実行とされたわけです。

 しかし、御心に歩むための言い伝えが、逆に御心からの逸脱を産んでいた面もあったわけです。それを、律法の完成者であるイエス様が指摘して、訂正され、律法の真意を回復されたということでしょう。

 現在それぞれの教会に伝えられている「伝説」「言い伝え」も同様でしょう。その多くは信仰の先輩が、御心に歩むための具体的な知恵や方法論として伝承してこられたもの。尊重すべきものでしょう。しかし、その一部には穴あき靴下となり、捨てるべきものも含まれていることでしょう。「脱皮できない蛇は死ぬ」と言われるように、捨てないと本質的な生命を弱める場合もありえるわけです。

 逆に、変革を願うあまり、すべての既成のものを、穴あき靴下扱いしてしまうことは、過去から継承されてきた本質まで共に捨ててしまうことになりかねません。それは単なる既成概念や伝統の破棄ではなく、本質の破棄となってしまう場合も。既成のものの破壊の後に築き上げられるのは、新たな姿での真理ではなく、真理ならざる逸脱である可能性も否めません。教会は、意外に容易に「穴開き靴下保存会」や「聖なる伝統遺産破壊団体」にもなりうるのでは?

 新たに登場する教えや方法論、そして枠組み・・・。時代や社会の変化の中で問われる既成のあり方などなど・・・。継承すべきLegendと捨てるべきLeg-Endの判断。「思慮深く、聖書的で進行的な判断でありたい」と言葉で言うほど簡単なものではないでしょう。

 ただ、自覚さえあれば、「現状に目を閉ざした無条件既成保存」と「歴史に目を閉ざした無条件既成否定」の両極端の危険だけは、避けられるのではと思っております。つまり「取捨選択」ならぬ「取取選択」「捨捨選択」の愚行だけは回避できるのでは?

継承すべきLegendと捨てるべきLeg-Endの判断」、このことは、いつの時代も教会の課題であるのでしょうが、昔の数百年の変化を数年で成し遂げる現代社会に建てられた教会にとっては、さらに重大な課題であるに違いありません。
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 21:56 | - | - | - | - |
君はZOEGIRLを知っているか?(1)
 昨日は、レインボーミュージックジャパンの佐々木潤さんをゲストにお招きしてのラジオ収録。その活動や賛美の紹介と共に、迷いや落ち込み、しかし、その向こう側にある平安と希望という内容。

 実は収録前に教えていただいたのが、ZOEGIRL(ゾーイーガール)という名前の女性三人ユニット。佐々木さんによれば、アイドル的存在で、歌やダンスもかなりレベルが高いそうです。特筆すべきは、クリスチャンにチャレンジを与える歌詞であること。たとえば、こんな内容の歌詞があるそうです。

未信者の彼と付き合ってきた。彼に体を求められた。でも、私は神様に従うことに決めたの。もう彼と一緒に歩めない」

 若いクリスチャン女性たちはこうした等身大のクリスチャン女性の歌に、涙を流して感動したり、真実な悔い改めをしたりなのだとか。

 コンテンポラリークリスチャンミュージックには、ノンクリスチャンに福音を伝えようとする伝道的な歌詞は多いし、クリスチャンが礼拝に際して歌うワーシップソングも盛ん、でも、ZOEGIRLのように同世代のクリスチャンにチャレンジを与える存在は、日本にはいないのでは?(少なくとも認知される活動はないと思うのです)

 「クリスチャン女性アイドルなんて・・・」と正直抵抗感を覚えた私でしたが、この歌詞、このコンセプトをお聞きして、考えてしまいました。そして、佐々木さんと番組スタッフの間で、まじめなヴィジョンと妄想が混じったような話題で盛り上がっていったのですが、それは次回に記します。

 youtubeで視聴可能ですので、関心のある方は是非。歌詞が表示されるものを少しご紹介。

http://www.youtube.com/watch?v=DfjRa1wWDuM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=7TcwcPcCEi8&feature=related




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| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 09:26 | - | - | - | - |
JEA青年宣教セミナーに学ぶ(4)〜リーダーはラグビー型か?野球型か?

 小平先生からは、リーダーは、二つに大別されるというお話しをお聞きしました。参加者の多くは牧師ですから、この話にはかなり応答があったようです。

 二つのタイプは名づけて「ラグビー型」と「野球型」。「ラグビー」がイメージできないなら、サッカーがそれに準ずるでしょう。同じ「監督」という日本語の言葉でも、英語では異なるのだとか。ラグビーは”Coarch”で、野球は”Manager”なのだとか。

 ラグビーの監督はまさにコーチで、試合に出る前にほとんど、職務は終わっています。チーム作りの理念、チーム内でのその共有、戦術の徹底、それを実行するための練習など、ゲームが始まってしまえば、かなりの部分は選手任せ

 一方、野球の監督はマネージャーで、試合の中でも一つ一つのプレーについてはかなり監督の指示通り。大きな要素を選手が自主判断することはあまりないわけです。サッカーなら、パスかシュートの判断は選手個人が判断決定。しかし、野球では、ヒッティングかバントかは、監督の指示通り。

 また、ラグビーやサッカーでは、監督はグランド外で、背広などを着ております。一方、野球は、同じユニフォームを着て選手と共にグランド近くのベンチにいます。随分、同じ「監督」でも、異なりますね。小平先生はご自分の理想はラグビー方だとおっしゃっていました。

 きっと多くの牧師の理想は、ラグビー型でしょう。聖書の原理原則は伝わっており、信徒に共有され徹底されております。現実社会での種々の場面への対処については、既に練習済みですから、聖書的にどう考えて、どう判断し、どう行動するかは、ほとんど大丈夫。後は、信徒を現実の戦いの場に送り出すだけです。牧師は、グランドには出ないで、牧師室で、聖書が示すとおり「祈りとみことば」に専念

 現実の牧師のほとんどは、野球型でありましょう。選手がルールを知っているように、聖書の原理原則は、ある程度、分かっています。しかし、場面に応じての判断ができないのです。監督の指示がないと、適切な判断ができないのです。課題があるごとに、牧師の指示を仰ぎます。試合中に、多くの監督が喜怒哀楽の世界を味わい、時にはストレスで胃痛になるように、牧師もかなり一喜一憂、ストレスで病気にもなります。

 牧師は聖書中「教師」ですから「コーチ」でありましょう。しかし、羊を牧するのですから、「マネージャー」でもあるのでしょう。「現実の牧師は多機能なのかなー?でも、オール・イン・ワンだと教会論的でない牧師依存的教職観だよなー」とか考えてしまいます。

 青年宣教という面で自分なりに考えてみました。やはり、日本のような「多忙美徳社会」では、社会人となり結婚などすれば、牧師がコーチとして、信徒に関わる事はかなり困難。それだけでに、中高生、大学生、独身社会人など、ある程度、時間の余裕のある人生のステージにあって、牧師や指導的立場の者が、コーチとして若い世代を育てることの大切さを思いました。

 特に御言葉を知的伝達レベルで教えることに終始せず、教会外の現実生活の中で、どう御言葉に生きるかなどの訓練は、まさに学生青年期にこそ、すべきことでしょう。教えられる側も、柔らかく、将来性と可能性に満ちているからです。

 「自分は世代的に野球文化だからなー、もう少しサッカーやラグビーの監督も観察してみようかー」などとも思いました。

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 16:17 | - | - | - | - |
教会のトイレには女神様がいるのかな?〜トイレの神学(3)
 怪しげな「トイレの神学」も今日が最終回。今回、考えてみたのは、WWJDであります。What Would Jesus Do? 「イエス様ならどうされるか?」ということ。

 イエス様が御忍び?で現代の日本のキリスト教会の会員になられたら、教会の奉仕は何をすすんでされるでしょうか?私はイエス様はきっと、自らすすんでトイレ掃除をされると想像するのです。

 何と言ってもイエス様は弟子たちの足を洗われた方。これは当時は外国人奴隷の仕事だったのだとか。つまり、「奴隷」「異邦人」と二重の意味で人権を認められない社会の最底辺の人間の役目を、すすんでなさり、互いに愛し合い、仕えあうことを、模範を伴って教育されたわけです。そこで、弟子の足を洗ったキリストは今日の日本の教会なら、トイレ掃除をされるだろうなーと想像するわけです。

 「イエス・キリストのトイレ掃除」

 この光景を想像してみて下さい。福音書に記されている通り、キリストに足を洗われたペテロが「ありえないー!」とパニックに陥った心情が分かるでしょう。教会のトイレに入るとキリストが掃除をしておられる!私たちは呆然とするか、パニックに陥ります。

 さて、ここで質問です。我に返った時、私たちはイエス様に何と申し上げ、どういう行動をとるのでしょう?WWJDから考えるWWYD(What Would Jesus Do? )であります。

 話は変りますが、ある男性牧師は信徒がいくら反対しても、トイレ掃除を譲らないのだとか。きっと、弟子の足を洗うキリストに倣っておられるのでしょう。これを聞いて「そうだそうだ、牧師は仕える模範を示すべき、トイレ掃除をすべきだ」と思う信徒は超残念です。聖書のみことばを自分が先に従おうとせず、他者に従うことを要求しているからです。「誰がしているか知らない」「牧師夫人がすればいい」という信徒の皆様は即悔改めかも。「トイレ掃除は女性がするのが当たり前」と思っている男性諸氏、トイレ掃除をしてくれる妻に「ありがとう」の一言も言ったことのない夫の皆さんも、これを機会にご一考を。

 どうも、すすんで喜んでトイレ掃除をするなら、それはキリストの似姿に生きることになるのでは?などと短絡的なことを考えてしまいます。もしかすると、「トイレの神学」は実践神学であり、トイレ掃除は実践的聖化の歩みなのかも。

 救い主は神であられたのに人となり、今なら、トイレ掃除までして、私たちに愛を示し、仕えることを教えてくださる方なのです。なんとありがたい、パニックになるほど素晴らしい主では、ありませんか。その主の愛と仕える姿勢に、私たちはどう応答し、どう倣うのでしょう。トイレ掃除はその一例に過ぎないでしょう。キリスト者としてどう応答と模倣に生きるのでしょう?

 トイレにはそれはそれはきれいな女神様はおらんのやで。トイレではそれはそれは素敵なイエス様が掃除してるとしら、あんたはんは、どうすんの?

 「トイレの神学」は、私たちに仕える事、キリストの似姿に生きることを問いかけるもの。そして、「誰が教会のトイレ掃除をしているか?」はリアルに、その教会の教会論や教職論を一定反映しているのでは?と思うのですがどうでしょう?これを機会にトイレ掃除のことを考え、そこから見えてくる自分のこと、教会の事を考えてみてはどうでしょう?
| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 10:23 | - | - | - | - |
教会のトイレには女神様がいるのかな?〜トイレの神学(2)

 「トイレの神様」に学ぶ、「トイレの神学」、第二回。「トイレの神様」を聴くたびに思い浮かぶのは一人の女性クリスチャン。もう、8、9年ほど前のこと。東海青年宣教大会が某教会で開催。私は会場係でした。土曜日の開催と言うこともあり、終了後には使用箇所の掃除があります。終了後の片付けの際、集まったボランティアスタッフに掃除を割り振ります

 「トイレお願いできる人!」

 誰もすすんで手を上げてくれませんでした。数秒後、笑顔ではっきりと一人の女性が「私やります」と意思表示。彼女は某学生団体のスタッフ

 帰宅してから、彼女の祝福を祈りました。彼女の結婚を覚えて、「この姉妹が持つ本当の美しさを評価できる男性が現れて幸いな結婚に導かれますように」と祈りました。その後も何度か祈りました。

 今年になって、その学生団体の一男性スタッフが結婚をされると聞きました。彼は共に奉仕したこともある兄弟。個人的に好感を持ち、将来を期待していたスタッフです。そして、しばらくして分かった事は彼の結婚相手が、トイレ掃除を申し出た彼女だということ!主の御名を崇めて、大喜びしたのは言うまでもありません。

 すすんでトイレ掃除をして下さった彼女もあっぱれ、その彼女を伴侶に選んだこの男性スタッフもあっぱれであります。あっぱれ女にあっぱれ男カップルであります。私はヒット曲にあやかり、この結婚をユンソナ婚ゲゲゲ婚に続いて「トイレの神様婚」と呼びたい!(おいおい、失礼だろー)


 教会のトイレにはそれはそれはきれいな女神様はおらんのやでー。教会のトイレは、それはそれはきれいな女神様のような女性が掃除してるかもしれんのやでー。

 以上、トイレの神学、第二回、実例編をお送りいたしました!

| ヤンキー牧師 | キリスト教界(論説シリーズ) | 11:19 | - | - | - | - |
教会のトイレには女神様がいるのかな?〜トイレの神学(1)
  「トイレの神様」などという「道徳ソング」と言いますか、「歌う人情噺」みたいなのが、はやりましたな。まあ、「女神様が登場する歌など異教的」などと目くじら立てると「超原理主義者」になってしまいますから、そういう話はしません。むしろ、この歌が持つ道徳的機能を評価しながらも、教会に適用してみたわけです。

 そこで思いついたのが何と「トイレの神学」であります。あー、また、怪しげな論説が始まってしまったとの心配をよそに、数回にわたり連載なのであります。そもそも考えてもみて下さい。

 「誰が教会のトイレ掃除をしているか?」

 これは、結構鋭いポイントではないでしょうか?このことは、その教会の体質や文化ばかりか、教会観、教職観、信仰理解なども一定反映しているのでは?

 そこで第一回目は、大阪弁でスタート。

 教会のトイレにはそれはそれはきれいな女神様なんぞおらんのやで。教会のトイレにはなー、それはそれは本物の神様がいるんやでー。まあ、聖書が示す神様は「遍在」言うてな、空間に限定されずどこにもおられるんや。だから教会のトイレにもおらはるんや。

 ところであんたはんの所属教会のトイレ、誰が掃除してはるの?えっ?知らんの?それは無関心過ぎとちゃう?愛の反対は無関心やで。それってどうなん?兄弟愛に反してない?トイレに入ったら、そこを掃除してくれてる誰かを覚えてその祝福を祈るのが、兄弟愛ちゃうの?少なくとも、掃除してくれはる人を思いやってきれいに使うのが当然でっしゃろ?

 えっ?「牧師夫人がしてるんじゃないの」だって?「してるんじゃないの」はないでしょう。していただいてるなら、それを感謝して、御礼申し上げたり、励ましたりしないの?あんた、牧師夫人を何だと思うてんの?教会の家政婦ちゃうよ。

 そもそも毎週牧師夫人がトイレ掃除して、それでええと思うとんの? それが牧師夫人の使命感やポリシーなら奪ってはあかんし、信徒と共にしておられるなら、それもいい交わりやろ。でもなー、信徒がしないから毎回牧師夫人ちゅうのは、どうなん?こういう「トイレの神学」もいっぺん考えてみてーな。

 それであんた、教会のトイレ掃除したことあるん?ええっ!一度もないの?

 何?「トイレ掃除したら、私もベッピンさんになれるなか?」って。おい、そっちかい!さすが婚活系女子は発想が、違いまんなー。まあ、「クリスチャンのいい男おらん」と愚痴っていても、心がブサイクになっていくだけやからなー。

 聖書はご利益信仰じゃないからなー、トイレ掃除したらベッピンさんになれるかどうかは分からんけど、喜んでできたら、心はベッピンさんに近づくかもなー。まあ、エステ行ったり化粧品に凝るよりは、金もかからんし、神様の役には立つし、あんたも学ぶことや気づきがあるだろうから、お勧めやでー。

 教会のトイレには、それはそれは本物の神様がおるんやでー。誰が汚して、誰が掃除してるか見てはるんやでー。それについて関心か無関心か、心の中までお見通しなんやでー。きっと、天国の入国に際しての地上生活評価でも、評価対象になるんやろうなー。だから、「トイレの神学」についてちょっと考えてみたらいいんとちゃいます?

 以上、「教会のトイレには女神様がいるかな?〜トイレの神学(1)」を大阪弁でお送りしました。

 
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