命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
中島美嘉「雪の華」に学ぶ「恋愛発・結婚愛着」(3)
 このシリーズも今回で最終回であります。歌詞の全体はこちらをご参照ください。

 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B05168


 今回、伝えたいのはこの歌詞に見る「結婚愛におけるパートナーシップ」であります。つまり「共に生きる」という面です。この歌詞で感心するのは、雪が降り積もっていく外的風景とリンクして、主人公の内的な心象風景の変化と成熟を描く巧みさです。

 「今年最初の雪の華」→「雪の華が降り止むことも知らずに二人の街を染めていく」→「この街に降り積もってく真っ白な雪の華

 そうした積雪量とリンクするように主人公の心情は変化します。

「いっしょにいたい」→「いつまでもそばにいるよ」→「これからも君とずっと

 というように「願望」→「決意」→「約束」と発展しています。

  恋愛者は愛する相手とずっとそばにいたいと願うもの。しかし、相手の現実と自分の自己中心から、一緒にいることが苦痛へと転じてしまいます。やがて恋愛関係は破綻や解消となります。この歌の主人公はそうした恋愛を何度か繰返してきたのでしょう。

 しかし、今、彼の恋愛は結婚愛へと成熟しています。「甘えとか弱さ」ではなく「誰かのために何かをしたいと思えるのが、愛ということ」をと知ったのです。さらには自分の愛の世界における成熟だけでなく、相手との関係も成熟に向かうのです。それは「共に生きる」というパートナーシップです。曲の後半にはそうした歌詞が何度か登場します。

 相手のことをただ好きでいっしょにいたいというだけではなく、2番の冒頭では「君とならどんなことで乗り越えていける気持ちになってる」と人生のパートナーとして相手を見ています。「どんな悲しいことも笑顔に」と相手の人生への責任を持ち、「君を失ったら星になって照らす」と相手のためにいのちをも捨てるパートナーシップを決意しているのです。

 かつては、甘えや弱さを愛と勘違いしていた未熟な恋愛者が、いまや愛が何あり、何でないかを悟り、生涯を共にしたいと願うパートナーと出会い、真実な結婚愛を継続していくまでに成熟しているようです。もはや相手は「出会っては別れていく恋人の一人」ではなく「共に人生を生きるパートナー」となっています。

 この曲が、高尚な印象を与え、他の曲とは異なる感動を与える大きな要素は、単なる恋愛を歌っているのではないことでしょう。説教がましくなく、道徳的な印象を与えず、平凡な主人公を通じて、恋愛を超えた結婚愛を、恋の発展形である真実な愛を描いているからでしょう。最後に、継続的なパートナーシップを予想させていることは、この曲をありきたりのラブソングではなく、美しい希望の歌にしているかのようです。

 三回の連載でつくづく思うのですが、「恋愛発・結婚愛着」を降り積もる雪の情景とシンクロさせ描いたこの歌詞からは、学ぶべきことが多いのでは?
| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 08:39 | - | - | - | - |
中島美嘉「雪の華」に学ぶ「恋愛発・結婚愛着」(2)
 このシリーズの第二回目です。歌詞全体はこちらをご参照下さい。

 http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=B05168


 今回、取り上げたいのは二番のサビの以下の歌詞。

誰かのために何かをしたいと思えるのが、愛ということを知った
 
 これぞ、愛の他者中心性の発見であります。「相手のためにしたい」が愛の本質と悟ったのです。それまで、主人公は「自分のためにして欲しい」や「相手にして欲しい」という愛に終始していたのでしょう。つまり愛の自己中心性に生きてきたのでしょう。昨日取り上げた歌詞「甘えとか弱さ」などは「自分のためにして欲しい」の代表格でありましょう。

 そうです。「甘えとか弱さ」の化身としての愛は「ただ愛している」と言い切れる本物の愛へと成長したのです。「自分のために相手にして欲しいの愛」に生きてきた主人公は今や「相手のためにしたいと思えるのが愛」と悟るに到達します。これぞ、「恋愛発・結婚愛着」であります。私は、前者は恋愛の愛であり、後者は結婚愛の愛であると考えます。

 甘えや弱さから依存的な意識で「相手にして欲しい」という思いが強いまま結婚するとどうなるでしょう。数年もすれば、相手への要求と不満ばかりの結婚生活となるでしょう。「〜して欲しい、なのにしてくれない」、「不満を持っている」「それを伝えても、思うようにはしてくれない」、そうした結婚生活に陥るでしょう。

 甘えや弱さではなく、自立した人間として「相手のために何をしたい」と他者中心の愛まで到達して結婚するとどうでしょう。キリストがご自身を教会に与えたように、夫は自らを妻に与えて、自己犠牲的に愛します。そして教会がキリストに従うように、心から愛の応答として喜んで妻は夫に従います。お互いが自立しており、他者中心の愛に生きるなら、どちらも自分の思い通りでなく、神様の思いを優先し、相手の幸せや益を自分より優先できます。

 まずは、「誰かのために何かをしたいと思えるのが、愛ということを知った」という経験があるでしょうか?そうしたステージに達しているでしょうか?そのことのチェックをと願うのです。「好きな人には、〜してもらいたい」の方が思いの過半数を占めているなら、それはまだまだ未熟な愛、人間としても自立不足なのかも知れません。

 「愛する友のためにいのちを捨てる」「キリストが私を愛し死んでくださった」、そうした他者中心性こそが真実の愛の本質であります。そして、それは「甘えとか弱さ」そしてそれに伴う依存性を一定克服した者、「父母を離れた」自立者こそが、そうした愛の真理を悟りえるし、それを結婚愛の形で実行できるだろうと思うのです。

 結婚を壊すのは、常に自己中心や自立不足であり、結婚を建て上げるのは、相手中心と自立者としての責任感だろうと、いつも考えています。

 もちろん、既婚者が完璧なわけではないでしょう。私自身も結婚生活の中で、このことが常に問われます。甘えとか弱さを愛に置き換えないことは、結婚生活において大切なポイントだと思います。なぜなら、結婚生活とは父母を離れていない男女の協依存関係ではなく、自立した男女間の協力関係、パートナーシップだからです。

 未熟な恋愛者から出発した主人公が、成熟した愛を発見し、結婚愛に到達していくこの歌詞、聖書が示す真実の愛や結婚愛との共通要素を描いているように思うのですが、どうでしょう?
| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 11:05 | - | - | - | - |
中島美嘉「雪の華」に学ぶ「恋愛発・結婚愛着」(1)
 中島美嘉の「雪の華」によくできた楽曲だと感心します。詩の内容が喚起させるイメージと、優れた音楽的側面と歌手のキャラ並びに表現力の三者が一体化した稀に見る傑作だというのが私の個人的評価。

 この歌詞は未熟な恋愛から成熟した結婚愛への成長過程を記していると思われます。雪が降り積もっていく外的風景の変化の描写を通じて、それとシンクロするように主人公の愛が成熟していく内的変化の告白を記すという見事な手法であります。そこで考えたタイトルが 中島美嘉「雪の華」に学ぶ「恋愛発・結婚愛着」というわけ。

 歌詞の詳細については、こちらをご参照下さい。

http://www.utamap.com/viewkasi.php?surl=B05168

 第一回のポイントは「甘えとか弱さとかじゃなく」というフレーズ。この曲の歌詞の一番は「結婚愛とは何にではないか」を示している。そうです。成熟した愛は、「甘えとか弱さではない」のです!

 この男性主人公、これまでは自分でと思っていたら、それが「甘えや弱さに起因する愛ならざるもの」であることを何度も思い知らされてきたのでしょう。甘えや弱さ故に、自立した者として相手を愛するのではない、依存性という自己愛の化身が相手に向けられている割合が高かったということでしょう。

 本当の愛とは「甘え」でも「弱さ」でもなく、「依存」でもありません。未熟な恋愛者の特徴は、「甘えと弱さ」を愛と置き換えながら、自分が正しい恋愛をしていると信じてしまうその悲劇性愚かさでありましょう。

 自立した者こそ、本当の意味で異性を愛することができます。甘えとか弱さとか依存性を一定、克服した自立度がなければ、自らの内に結婚愛を発見することも、結婚愛への到達もありません。さらに言うならば、人格的自立に向かおうとしない人間は、恋愛発さえできないでしょう。結婚愛に向かうことも到達することもなく、きっと、自己愛で停車中なのでしょう。


 創世記2章24節は「父母を離れ」と自立を前提とした上で「妻と結び合い」と結婚を定めています。まずは親への甘えや親に尻拭いをさせるような「甘えとか弱さ」の卒業を目指しながら、恋愛をしていただきたいもの。「甘えとか弱さ」中心の恋愛は、相手に負担をかけたり、傷つけたり、そして、自分の自立をも遅らせかねませんぞ。

 「甘えとか弱さじゃない、ただ君を愛している」と言い切れるステージまで達した恋愛者こそが、本物。そして、それは結婚愛の入り口に立っているだろうと思うのです。

 そうです。「甘えとか弱さ」と「君を愛してる」は、対義語です。右と左、東と西です。もっとも離れて対極的なことなのです。ですから「甘えとか弱さ」に起因する依存性を「相手を愛している」と考えてしまうことは(よくあることですが)実はトンデモナイ事実誤認なのでしょう。

 恋愛中の読者の皆さん、あるいは婚活系男女の皆さん、まずはこの一番の歌詞のステージまで自分が到達しているか?本当の愛が「甘え」とか「弱さ」ではないことを悟っているか?チェックしてみてはどうでしょう。

| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 14:47 | - | - | - | - |
聖書的?別れ方セミナー(4)

 実はこのセミナー記事を思いついたのにはきっかけがあります。以前、ある教会の青年集会で一人のクリスチャン青年から質問。

 「クリスチャンとしてはどんな別れ方がいいのですか?」

 あまりに斬新な質問に驚きました。「御心の人」とか「出会い」などの質問はよくありますが、「別れ方」についての質問とは、スゴイです。この質問はレベルが高いと思うのです。飲むにも食べるにも主の栄光を現すべきなのですから、出会うのも付き合うのも、主の栄光のためであります。そして、もちろん、別れにおいても主の栄光を現すべきでありましょう。


 この質問には私はあれこれ返答したのですが、彼が想定していたのはこういうこと。

クリスチャン同士が結婚を願って交際し、御心と思ってきたのに、そうではないと判断するに至り、別れていく場合、どう別れるか?」「これまでの交際は何だったの?」「空しいと思えてしまう」ということであります。

 当然、これは大きな挫折感や失望感があるでしょう。たとえ独りよがりであっても「御心」と確信していたり、おみくじ的な聖書の読み方でも「みことばが与えられた」となれば、別れていく当人の心情も信仰も大変なわけです。

 ただ、言える事は、二人の出会いや御心と信じての二人の交際、結婚を願って御心を求めてきた事は、決して空しくはないということです。神様は決して、一度の交際で結婚に導こうとはされません。時には何名かとの交際を経て、結婚希望者の信仰や人格を取り扱い、結婚にふさわしく準備をさせます。ですから、「結婚に至らなかったから、この交際は御心ではなかった」と考えるのはちょっと短絡的なのでは?御心でなかったのは結婚であって交際ではありません。

 よく考えますと、最初の人、アダムも、一度で決まりではありませんでした。様々な動物が伴侶候補として連れてこられましたが、全部、破断?だったようですね。そのプロセスは、無意味であったのでしょうか?エバの必要性が認識され、エバが創造され、伴侶として与えられるためにはこのプロセスはむしろ、必要不可欠だったのでは?

 そう考えますと、クリスチャン同士が交際し、結婚に至らなかった場合、考えるべき事は「これでまた一歩、御心の伴侶に近づいた」ということです。自分もそうですが、別れた相手もそうなのです。ですから、「お互い、この後、よき伴侶に出会おうね」と期待したり、励ましあったり、祈ったりして別れてはどうでしょう。

 「これまでの交際を感謝します」と人間的にはつらいでしょうが、神様の目からは大切なプロセスであったことを覚えて感謝をしたり、相手にも「付き合ってくれてありがとう」と感謝を伝えるのがよのでは? 

 というわけで聖書的?別れ方セミナーも今回で終了。

クリスチャンたちよ!別れの時さえも主の栄光を現すのじゃ!

| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 17:24 | - | - | - | - |
聖書的?別れ方セミナー(3)
 醜くて、後まで傷を残すのは、別れた時の暴言であります。もう、別れるから何を言っても、利害関係はないということで、ひどい悪口雑言であります。相手への憎しみ、非難、怒りなどをぶつける。時には「それは愛した異性に言ってはいけない」「それだけは(差別発言等)人格否定になるので言ってはならない」と思われる言葉をぶつけて、相手をズタズタのコテンパン、立ち上がれない程にして、去っていく恋愛者がいます。その時、言われた言葉を一生心の傷として持ち続け、それ以降の人生まで、その傷に影響され縛られてしまう場合も。

 こういうのは恋愛者として失格です。スポーツにたとえるなら、ライセンス剥奪であります。こういう別れ方をする人間は恋愛をする資格はありません。運転にたとえるなら、交通違反での自己常習者であり、免許停止が当然です。

 しかし、現実の恋愛と性の世界では、こうしたライセンス剥奪ボクサーが恋愛のリングに上がっており、免停ドライバーが堂々と一般道を走っているのです。それが性と恋愛の世界の現実であります。

 ですから、自分がそれをすることを避けるのは当然で、それと共に、相手にもされないよう回避を考えたいです。

 そもそも、別れる時は、片方か両者の愛情がなくなっているわけです。好意は憎しみに、共にいる楽しさがなくなり苦痛に、愛し愛される満足は不満へと既に変っているのです。当然、別れる時、二人の間にある感情は、好ましくないもの、それを伝えれば相手を傷つけるものです。

 それを避ける方法をいくつか考えてみました。
まずは、自分がそれを言わないことです。むしろ、これまでの交際についての感謝を伝えるとよいでしょう。「発展的関係解消」として、別れを持ち出して、相手のマイナス感情を引き出すような発言をこちらがしないことです。

 また、修羅場が予想される場合は第三者を同席させる、本来は好ましくないのでしょうが、止むをえずメール、電話などで済ますという手もありでしょう。


 一番の方法は、普段の交際から相手への不満、怒り、改善要求などをためこまないことです。交際の中で上手に伝えるのです。「〜してくれないから不満」でなく「〜してくれるとうれしい」というように。その場で、あるいは、次にあった時に、伝えましょう。一つずつです。ためこんでしまうと、別れの一言が、毒を凝縮した毒矢になります。破壊的エネルギーをためすぎると最後の一言が核兵器並みの大量破壊兵器なりますから、ご注意を。

 実は、これを恋愛時代にしておくと結婚してからも、うまくいくのです。恋愛と違って結婚は嫌になったら、止めてよいというものではありません。それだけに、「もうやっていけない」と決断する前に、日々、小出しにして解消や克服をしていくことを、恋愛時代からリハーサルのようにしていくことをオススメします。

 私は別れに際して相手を傷つける言葉を意図的に言うような恋愛者は、同じ事を結婚生活の中で繰り替えるだろうと予想します。別れベタの恋愛者は、結婚破綻の可能性も高いだろうなと思ったりします。

 拙いアドバイスですが、恋愛者である読者方のお別れが「発展的関係解消」となる参考としていただければ感謝。

| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 08:55 | - | - | - | - |
聖書的?別れ方セミナー(2)
  昨日記しました、性関係を求められて拒否しての別れもかなり辛いですが、これは、神様がよくやったと褒めて下さいます。また、慰めて下さいます。自らの内にも神様に従った誇りと喜びがありますし、そのことへの神様からの報いや祝福もあるでしょう。しかし、そうでない別れのパターンがあります。

 それはクリスチャン女性が、彼氏から性関係を求められ、神様を悲しませる事を知りながら、応じてしまい、性関係成立後にしばらくして男性が去っていくというパターンであります。

 クリスチャンの女性がノンクリの男性と交際を始めます。ノンクリの彼氏は「愛していたらいいだろう」と迫ります。しかし、彼女は毅然とした態度で説得力ある言葉で拒否ができません。

 断る聖書的な根拠を知らないから、知ってはいるけど自分自身に確信がないから、知ってはいるけど具体的な言葉にできないから、伝えたいことを伝えられる十分な伝達力がないから、そもそも結婚前の性関係が罪だと知らない、知っていても、従う意志がない、神様の愛より実感できる彼氏の愛を求めてしまう傾向などなど。

 結局ところ、寂しさに負けてしまって、彼の愛を失いたくないから、彼の愛に答えないと嫌われるから彼の欲望を愛と勘違いして、単にムードに流されて、そもそも性行動について規範意識がなくて、とにかく愛されたがりでインスタントに愛を実感したくて、などなど。

 理由はどうであれ、ここまでは性的罪です。基本的に本人の責任(親や教会の教育指導不足も問題ですが)です。しかし、その罪の上に傷が加わることが多いのです

 性的な関係が成立すれば二人はさらに親密になると思っていたら、やがて彼の本性が!会えばセックスをするだけの関係、デートはセックスをするまでのプロセス、よく観察すればセックスのためにだけ優しくする彼、それができなければ不機嫌になる彼、性的関係が成立すると会話が減り、心の通い愛がなくなりいよいよ寂しくなる現実。やがて関係は消滅。

 特に10代の性的関係は交際を速く終わらせることは統計上も明らか。彼の求めに応じれば、交際は短命になるのです。女性側からすれば「すべて与えたのに、捨てられた」という傷を残します。若い時代はセックスをしてしまうと大抵、半年程度で、ほとんどが一年で別れます。ですから、私は女子大などの講義や青年学生の恋愛セミナーではこう申し上げます。

 「いいか、男を体でつなぎとめられると思ったら大間違いだよ。たかが、半年や一年の賞味期限延長の為に、男に体を差し出すなー!その程度のことに自分を体を使うのか?そんな寂しい女になるなよ!」

 多くのクリスチャン女性がノンクリの彼氏との間で性的罪を犯して、教会を去っています。実はこのことは「神様より彼氏をとった」ことにはならないのです。ほとんどの場合は「両方失う」のです。神様を悲しませてでも彼氏を優先したのにその彼氏との関係もやがて終わるのです

 ここで受けた傷は信仰生活に大きな影を落とします。信仰生活を続けている女性の中にも「どうせ、一度やっちゃんたんだから」という投げやりな態度で別の男性と性的関係を持つ方もしばしば。自己評価の低下や自罰的傾向が現れます。

 女性の性は「始まりの性」と呼ばれます。一度、性体験をしてしまうと次の彼からは性関係がないと愛情を実感できなくなってしまうそうです。教会生活を送りながらも、一度受けた傷のために自己評価が低くなり、自罰的な気持ちもあって性的関係を続けてしまう女性のことを時々お聞きします。

 そのためにも傷に至る前での罪の段階ではっきりと悔い改めるべきでしょう。一人でなく指導者などに導いていもらい、罪の段階で彼との関係を断ち切ること。そうすれば傷を抱えながら性的罪を犯し続け、傷に支配されながらの人生を送る必要はなくなります。

 クリスチャン女性の皆さんに申し上げておきましょう。「愛しているなら、当然だろう?」その言葉に応答するなら、「神様も彼氏も失う」と考えた方がいいですよ。多くの性的傷に苦しむクリスチャン女性を見ながらつくづくそう思います。

 最悪の別れ方、それは三つの悪が重なります。

性的なを犯してしまうこと。
彼氏をもやがて失うこと。
自らの信仰さえ失ったり、ダメにしかねないこと。


 この最悪の別れ方を回避する方法は、昨日同様です。交際前や初期の段階で信仰を明らかにし、結婚前に性関係を持たないことを明確に知らせて、相手の同意の上で交際をすることです。最初のこの勇気を持てずに、あるいは決断を先送りにすることによって、最悪の別れに至る事のないようにと願ってやみません。
| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 10:44 | - | - | - | - |
聖書的?別れ方セミナー(1)

 クリスチャンとしてどんな交際をすべきか?その中で、意外と語られないのが、「よい別れ方」。結婚まで導かれるなら、うまくいけば、別れは死別。しかし、結婚に至らない場合には、「生き別れ」であります。ですから、双方が傷つかずに、別れた後の人生にプラスになり幸いな結婚を目指して、次の恋愛にステップアップできるような別れ方が理想的。

 というわけでまずは、「悪い別れ方とその回避」であります。私がクリスチャンからお聞きしている悪い別れ方を紹介し、その回避方法を私なりに考えてみました。

 よくお聞きするのは、クリスチャン女性が、未信者男性(場合によっては困ったクリスチャン男性)と交際しており、性関係を求められ、それに応じないからということで、別れていくパターン。つまり超下品な言葉で申し訳ないのですが、リアルに「やらせるのやらせないの」という問題で、関係が破綻するわけです。

 男の困ったサガでしょうが、多くの男性は純粋に女性を愛しながら、セックスを究極目標としてしまう面があります。男性によっての違いはそれを当然と思っている男性と、そうとは思わない男性と、結婚までは目標達成をしてはならいと強く願う男性の違いでありましょう。

 求められていたのは性と体と知って失望する女性、愚かにもそれを愛の求めだと信じ、それに応えられなかった自分を責める女性、神様に従ったとは言え、一時的に愛を失った孤独に苦しむ女性とそれぞれです。

 こうした悲惨な別れ方の回避方法は簡単です。交際を始める前や交際の初期段階に、自分はクリスチャンであること。性的関係は結婚まで持たないことを明言することです。そして、相手がその条件でよいなら、交際をスタートしたり、継続するのです。

 このことは早ければ早いほどよいのです。最初に言いそびれてしまうと、交際が深まるほどに言い出しにくくなるもの。今の未信者は「クリスチャン=結婚まで純潔を願う人」とは思っていません。ですから、「自分はクリスチャン」「洗礼を受けている」「教会の礼拝行っている」だけでは、不十分です。伝わりません。はっきり結婚まで性関係を持たないポリシーを伝えましょう。

 これはクリスチャン女性が未信者男性と交際する場合だけではありません。相手がクリスチャン男性でも愛し合っていたら当然と思っている男性、罪だと知りながら求めるクリスチャン男性は残念ながら存在します。クリスチャン女性の皆さん、くれぐれも相手がクリスチャンだからと安心してはなりません。誠実なクリスチャンであるかどうか?しっかり観察しましょう。

 また、今は男性が草食系で女性が肉食系というパターンも少なくありません。クリスチャン男性が未信者の彼女(時にクリスチャンの女性)から迫れることも少なくないのです。ですから、このことは男性にとっても大切な回避方法と言えるでしょう。 

 彼女から迫られて「意気地なし」とか「据え膳食わぬは男の恥」とか「女に言わせて恥をかかすのか?」など言われても、きっぱり拒絶。それができないなら、さっさと分かれなはれ。危険ですし、罪を犯せば、将来の結婚にもマイナス。将来の妻への不貞でもありますぞ。

| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 14:09 | - | - | - | - |
最高のプロポーズ!妻一筋、これぞ男の花道じゃ!

 昨日は、カナダで中絶防止の働きをしておられる日本人女性が名古屋で恋愛と性のセミナーを開催。私もご招待頂き、出席。大変、学ばされるところが多かったです。その一つをお分かち。

 その女性は、ご自分が今の夫となった男性から受けた「最高のプロポーズの言葉」をご紹介くださったのです。それは・・・・。

 「ボクはキミと出会う前から、ずっとキミのことを愛していたんだ

 なぜ、これが彼女にとって、最高のプロポーズの言葉だったのでしょうか?実はこの夫となった男性は、将来、結婚する女性のために、35歳まで純潔を貫き通していたのです。

 まさに、出会う前からまだ見ぬ妻を愛し、その愛の故に、誘惑や危険を退けてきたのでしょう。単なるロマンチックな言葉だけではないのです。そこには、感動して泣けるほどの真実な愛の事実が込められているのです。

あんたは偉い男の中の男妻一筋、これぞ男の花道であります。

 自分が女性なら、こんなプロポーズが最高だなーとも思いました。

 さて、「何でこんなに苦しんでまで・・・」と葛藤の中におられる童貞クリスチャン男性の皆さん。最高のプロポーズのためにも頑張って行きましょう!

| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 08:52 | - | - | - | - |
恋愛もエコの時代、めざせ無駄恋愛削減!(4)
 大学時代のバイト仲間に、慢性で重い腰痛に苦しむ男子学生がおりました。その原因は高校時代にボート部であったから。彼の話では、高校時代という体が出来上がっていない時期に、ボート競技をハードに続けると、高校生時代から腰痛持ちとなり、一生苦しむケースも少なくないのだとか。

 同じことが恋愛でも言えるでしょう。人格形成も異性理解も不十分な高校時代に、手当たり次第に恋愛をしてしまうと、一人の異性と関係を深めたり共に生きていくことができなくなってしまいかねませんぞ。

 ボート競技に打ち込みすぎて一生腰痛に苦しむように、高校時代などに恋愛にのめり込みすぎると、「結婚不適応者」あるいは「異性交流欠落者」として一生悩まなくてはならなくなるのでは?と危惧を抱く私です。

 稀にクリスチャンホーム育ちのイケメン男子高校生やモテ系女子高生から、こんな相談を受けることも。

 「付き合っても長続きしない。すぐ終わってしまう。どうしたらいいでしょうか?」

 もてなければ、こんなことで悩むこともないでしょうに。へたにルックスがいいと、高校時代は軽薄な恋愛に、そして将来の結婚不適応につながりかねません。

 相談の中で、「長続きしなくて心の通いあいを深められないと、将来、一人の人を愛し続けて共に生きるのが難しくなるのではないかと心配だよ」とお話しすると、「もう、そうなっています」とか「実は、それを心配しているです」と応える高校生たちも。

 中高時代に、モテ過ぎたり恋愛しすぎたりすると、こうした「反エコ恋愛」にはまり、「恋愛の大量生産、大量消費、大量廃棄」を繰り返し、結婚不適応者に育ってゆきかねません。クリスチャンホームの親である皆さん!特に息子さん、娘さんがモテ系の場合は要注意ですぞ!放置しておくと、大切なお子さんが、高校生にして壊れますよ!結婚不適応者になるかねないのですよ!



 私のアドバイスはだいたい以下のいつくかです。

 「将来のために、立ち止まって、そういう恋愛のあり方を考え直そうよ。自分にとってよかったと思う?将来の自分にいいと思う?」と問いかけ。

「神様が恋愛を与えたのは結婚のため、恋愛は結婚の準備体操だよ。準備体操で怪我したり疲れ果てたら、おかしいよね?」とウザイお説教。

 「とりあえず付き合う」というのは止めよう。付き合う前によく観察してから「この人!」と思える人とだけ、付き合おうよ。

 あるいは「将来結婚するならこんな人かな」と思える人とだけ、付き合ったら?そうした準備体操らしくなるよ。

 簡単に彼女や彼氏を作らないのもカッコイイのでは?「自分はこの人と思える子としか付き合わない」と周囲に言えるのもかなりカッコいいのでは?

 モテるのは実証済み。彼氏や彼女がいなくても、十分いけているのは周囲も認めているのだから、無理に作らなくてもいいでしょう不動産じゃないんだから、空家でも、別にいいでしょう。いつも、ひっきりなしに彼女・彼氏がいるべきという考え方は変えようよ。

 もてるから次があると思えてしまうし、実際にあるよね。だから、長続きしないのでは?「次はない」と思って、相手を心底、大切にしようよ。嫌なことも忍耐して、人格交流を深める世界に踏み出してみては?

 うーん、こうしたアドバイスどうなんでしょうね?反エコ恋愛者に通ずるのでしょうか?その大量生産・大量消費・大量廃棄の恋愛ライフスタイルからの転換に有効なのでしょうか?クリスチャンホームの親御さんや中高生のリーダーや指導者の皆様のお役に立てれば感謝です。
| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 13:34 | - | - | - | - |
恋愛もエコの時代、めざせ無駄恋愛削減!(3)
 「初めて付き合った人=結婚相手」、こうしたエコ恋愛の達人をまた発見。しかも男性芸能人!本日のニュースによれば「タカ・アンド・トシ」のタカが高校時代に初めて交際した女性と16年の交際期間を経て、正式に結婚したとのこと。

http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/marriage_and_divorce/?1274688296

 芸能界では、ブレイクしてしまうと支え続けれくれた女性を捨てて、乗り換えるのが通常。結婚していても、いわゆる「糟糠の妻」を捨ててまで、別の女性に走る男性は少なくありません。そんな芸能界にあって今回の結婚は、よい意味での異例。トシの誠実さが伺われます。

 16年というのは長すぎるとは思いますが、高校時代の交際が途切れることなく結婚に直結というのは「究極のエコ恋愛」であります。

 ゴルフで言えば、「ロングホールでホールインワン」に相当するようなミラクルショットであります。

 コツコツと真面目な恋愛を重ねて、刻んで刻んでカップに入れるのも悪くないでしょう。しかし、結婚というカップを無視して、やたらとクラブを振り回すような無思慮な恋愛は考え物でしょう。それでは、カップに近づくどころか、コースから外れて茂みの中へ。

 そんなカップの方向関係なく振り回してばかりのゴルフのような恋愛をしているとトシに言われますよ。

OBかっ!
| ヤンキー牧師 | 聖書的恋愛論 | 17:10 | - | - | - | - |
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