命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
恋愛感情なき結婚は「あり」か?
 以前、ある教会で一人のクリスチャン女性が質問。

恋愛感情なしに結婚してもいいのですか?」

 これ、めちゃめちゃいい質問です!質問のレベルが高いです。

 ひねくれ者の私は素直に応答しません。イエス様のように質問に対してこう質問で返しました。

 「聖書の登場人物で恋愛結婚をした人、誰がいますか?

 賢明なその女性、応えられませんが、「そういえば、ほとんどいないかも?」という顔つき。

 そうです。聖書の登場人物で今日的な意味での恋愛結婚をしたと思われる信仰者はほとんどいません。男性信仰者の中には女性を見初めて結婚した人もいます。肉的な王達の中には外国人女性の魅力に参って恋愛結婚?したと思われる王も。しかし、少数派だと思います。

 特に女性は選ばれる側であり、古代社会では多くの場合、女性の結婚相手は父親が決めていたようです。つまり女性が恋愛感情を抱いて、相手を選んで結婚することは、ほとんどなかったと予測されます。

 もちろん、恋愛感情は神様が人間に与えた尊いもの。雅歌も主にある者どうしの恋愛を肯定的に描いていると思います。恋愛感情は男女を結びつける力を持つ大切なものでしょう。しかし、だからと言って幸せな結婚に恋愛感情は必須だとは考えるべきではないでしょう。

 よく考えてみれば、聖書の結婚についての教えはすごいことです。自分ではなく親が選んだ夫でも、聖書は愛し従うようにと命じているのですから。「好きでもないのに親が勝手に選んだ相手と結婚させられて、その夫を尊敬し、従えなんて、冗談じゃないわ!」と聖書の命令に文句の一つや二つ言いたくないでしょうか?

 やはり、それでも神が結びつけた結婚なのでしょう。それ故に神の命令に従う向こうに祝福の結婚があるのでしょう。女性たちは当時のこうした結婚事情に自らをおいて、結婚や夫婦についての聖書の教えを読んでみると新たな発見があるかもしれません。

 意地悪な質問ですが、「親が決めた相手だから、尊敬できなくて従いたくないのでしょうか?では、自分が選んで決めた相手なら、当然のように、夫を尊敬し従うことができるのでしょうか?」

 多分、恋愛結婚でも、お見合いでも、自分が決めても、親が決めても、全体平均とすれば、「夫を尊敬できるか?」「夫に従えるか?」は、ほとんどかわらないでしょう。現実に「この男性なら尊敬し従える」と判断して結婚した女性の多くは、自分の判断力不足を悔いているようです。

 結婚希望の読者の皆さんは、恋愛感情を抱いて、自分で選んだ異性と結婚すれば、よりうまくいく、喜んで愛すること、従うことことができるとお考えでしょうか?

 結婚が当人同士の自由意志で決められること、特に結婚が女性の主体的な意志に基づくこと自体は、喜ばしいことでしょう。しかし、自分で選び取ったからといって、その相手を生涯苦痛なく、愛し通し従える程、結婚は甘くないですし、私たち人間の選択能力や異性理解は乏しいものです。自己選択の自由と自己責任の遂行をなんなくセットで実現できるほど、私たち人間は立派ではありません。私たちは自分で選択しておきながら、平気で文句を言える程、わがままで勝手でどうしようもない罪人なのです。

 この罪深い現実から出発しないと、ともすれば私たちは次のような愚かな勝利の方程式を信じて暴走しかねないでしょう。

 「強い恋愛感情→盛り上がって結婚→喜んで相手を愛し従い仕えられる祝福された幸せな結婚生活の継続」

 この方程式、全く聖書的ではありません。というか「かなりおばかで危険」です。この方程式を信じて暴走すると以下のようになる可能性が高まるように思うのです。

「強い恋愛感情→盛り上がって結婚→喜んで相手を愛し従い仕えられない現実が判明→聖書の言葉に従わぬ結婚生活→結婚生活の破綻、あるいは形骸化

 
 恋愛感情は結婚の「起爆剤」にはなっても、結婚の「成長促進剤」にはなれません。どころか、保存料にも、結婚の質を高める添加物にさえなりません。

 結婚を祝福に向け、質を高めるのは、聖書が示す結婚の教えを実行すること、結婚愛に基づいた具体的な夫婦間の努力です。恋愛感情を否定する気はありませんが、恋愛感情にはある限界や賞味期限があるようです。文化史的にも恋愛結婚の主流化デートという文化などは、かなり現代になってから特定の文化圏に生じたものかと思うのですが、どうでしょう?

 そうです。「恋愛感情なき結婚」は「あり」どころか、聖書の登場人物、とりわけ信仰者の女性たちにとっては「標準」であったとも推測できるでしょう。聖書に登場する祝福され信仰者達の多く(特に女性)は恋愛感情を土台とせずに結婚し、神に従う事を通じて祝福された結婚生活を送ったのかもしれません。十分な聖書的根拠があるかどうかは怪しいですが、そうした想像も妥当性はあるかと思うのです。

 そこで、「暴論」です。

 もしかすると「恋愛感情なしに結婚するなど異常」と考えるクリスチャンは実は、その結婚観こそがクリスチャンとして異常なのかも?

 「恋愛感情なしに結婚するなど偽善、偽物」と考えるクリスチャンは、もしかすると恋愛結婚の末に形式だけの偽善的な夫婦になりかねないと心配します。

 この記事、暴論として読み飛ばすことも可能でしょうが、ちょっと立ち止まって聖書を基準に一考する価値はあるのでは?

追記:さっそく一読者から、聖書的根拠の薄い暴論などのお叱りを受けました。ただ、一点、こちらの伝達力不足をお詫びしつつ、誤解のないように釈明しておきます。この記事の意図は、恋愛感情の否定や恋愛不要論の主張ではありません。恋愛を絶対視し、恋愛感情を結婚の最優先条件のように考えがちな風潮を聖書に立って再検討していただくことが、この暴論の目的です。おかしなたとえでしょうが、泉谷しげるの「ばかやろー」の真意が「愛しているぞ」であるようなものです。どうか、この暴論は「字義的解釈」でなく「目的論的解釈」に立ってお読みいただければと願います。
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 08:01 | - | - | - | - |
百万人の福音6月号は「結婚特集」!
 恥ずかしながら、私が巻頭メッセージ?を執筆させていただいた「百万人の福音6月号」が発行。5ページにもわたるのですが、これ、どう考えてもメッセージではありません。バイブルエッセイくらいに思って下さい。

 タイトルは「イサク夫妻を反面教師に〜こぎ出そう!独身の岸辺から結婚の大海へ」。本ブログ記事のネタも盛り込みながら、何とかイサク夫妻の聖書記事で無理矢理まとめて説教のように錯覚させた実はバイブルエッセイであります。

 次の二つの言葉が抜き出され、強調されています。

 「聖書全体は『だれと結婚するか?』以上に『結婚後にどう歩むか?』に力点を置き、明確な指針を示しているように思います」

結婚という大海には独身の快適さと決別してでも、こぎ出すだけの価値があるのです。」

 これだけ読むと「聖書的で励ましに満ちているなー」と自分でも感心。見事な編集手腕です。内容は「既成概念に囚われず、しかし聖書的に」というコンセプト。とにかく青年層向けに、結婚に積極的になることを願って記しているので、ご活用を。

特集の主要な目次は以下の通り
・こぎ出そう! 独身の岸辺から結婚の大海へ…水谷潔
・隔ての壁が砕かれて…吉田隆一/祐子
・日本のゴスペルシーンの動向 …… 西岡樹久雄
・神に導かれ、周りの人々に支えられ…福島健男/高嶋恭子
・日本人が全員クリスチャンになるまで…シルバ・カルロス/野田理恵

 私の巻頭説教もどきより優れているのがその後の複数の証し。クリスチャン同士の結婚後の課題の克服、未信者の彼氏が救いに導かれ結婚に至るまでの証し、国際結婚の証し、一旦破綻して回復した結婚の証し、救いに導いてくれた妻を天に送った地上の単身赴任男性の証し、などなど、多面的で様々なパターンを網羅した企画です。

 他にも結婚関係の記事があったり、結婚紹介所の広告も多くあり、これまた実用的

 私の原稿を担当した独身女性編集者も「編集室便り」で「今回の特集で(結婚に対して)少し夢と勇気をもらったように思う」とのこと。私の原稿もきっと「少し」の一部くらいは貢献したのでありましょう。

 と言うわけで、百万人の福音最新号!「結婚に対しての夢と勇気」を必要としている方、また、それを「あの人に与えたい」と願っておられる方は、是非ともご購読やプレゼントを!青年の結婚問題に悩む牧師夫妻の皆様、どうか用いてやって下さい。

 詳細はこちらを
http://www.wlpm.or.jp/100man/index.htm
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 18:23 | - | - | - | - |
20代の「不幸」、男女の性差
 以前にも紹介した「いま20代女性はなぜ40代男性に惹かれるのか」という本から。一万人を対象とした調査で、「幸せではない」と回答したのは、男女とも20代が最高なのだそうです。

興味深いのはその不幸と感じるその理由が、男女で大きく異なるのです。20代男性の典型的なパターンは「やりがい、生きる目標がない」や「あってもそのために努力していない」というもの。それに対して20代女性の典型的な回答は「やりたいことや目標があるのに、忙しくてそのための努力ができない」というもの。

 これでは、20代の女性が同年代の男性に魅力を感じないのも、わからんではないです。同著によれば、40代男性と交際中の20代女性の多くは、20代男性について「話しの内容が浅くて恋愛対象にならない」などと感じているようです。強烈ですね。

 先日、妻と外食、隣の席には20代の交際中と思われる男女。嫌でも会話が聞こえてきます。男性の話の内容は「ニトリでファーつきのスリッパ買って・・・」など、退屈でつまらないブログのような日常の報告ばかり。自分の信念や価値観を感じさせる話や社会や時代をどう見るか?などの姿勢は全くありません。しかも、話にユーモアも落ちも結論もないのです!隣で食事しながら「きっと、このカップル、女性の方からサヨナラだろうなー」と勝手に今後を予想してしまいました。

 社会全体が女性化しているのか?思索しない男性を育てやすい家庭や教育システムなのか?そもそも本質を問わない社会の犠牲に男性がなっているのか?などなど考えさせられます。

 いずれにせよ、この「不幸の性差」は、昨今の恋愛・結婚事情を読み解く鍵の一つではないでしょうか?

 
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 10:32 | - | - | - | - |
聖書おふたりさま道?
 昨日夜と本日朝は大津のホテルが満室でネットがつながりにくく、メールチェックがせいぜい。そこで帰宅して、短い記事を一つ。

 来年の成人の日には、ある団体の某地区での結婚家庭セミナーの講師として奉仕。従来は著名な牧師や牧師夫人、近年は超教派の働き人が講師をしておられたようです。感謝なことに来年度の依頼をいただきました。

 主催者側からはタイトルを求められて熟察。実はそれまでの毎年のタイトルは、高尚なもの、学術的なもの、神学的なもの、上品なもの・・・。主催者の期待はきっと、この継承ではないだろうと勝手に読んでしまって付けたタイトルは・・・・。

聖書おふたりさま道〜結婚って何?なぜ、結婚するの?」

 分かる人にはわかるこのタイトル。話題の上野千鶴子著「男おひとりさま道」のパロディーであります。ふざけています。完全な受け狙い路線です。

 どうも人を創造された際に神様は、「おとりさま」で生きるのはよくないとご判断されたようです。そこで「おふたりさま」で生きるようにと結婚を定められました。そこから、「結婚とは何か?なぜ結婚するのか?」を聖書に学び、同時にこそからの適用で具体的なお話しもしようという試み。

 同時に聖書は「聖書おひとりさま道」とでも呼ぶべき道をも示しています。「独身の賜物」「独身に召された者」など、定義や語義確定に幅や多様性はあるものの、まさに「おひとりさま道」をも他方で示しています。

 何でも日本の代表するフェミニストである上野千鶴子さんは、クリスチャンの母親に連れられて、教会学校に通っておられたのだとか。何らかの反発や反動があったのでしょうか?マルキシズム系のフェミニスムに触れて、その先駆者となってゆきました。その上野さんが、現代の恋愛結婚のライフスタイルをとらえて表現した言葉、それが「おひとりさま」。

 きっと上野さんの本意ではないでしょうが、「おひとりさま」「おふたりさま」そんなキーワードで聖書示す結婚の箇所を読んでみると新たな発見があるかもしれませんね。
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 22:23 | - | - | - | - |
ロマンスは結婚促進剤でなく、結婚抑制剤?
今日は先ほど神戸より帰宅。遅ればせながらの更新です。

 先日いただきました細木氏のコメントに、私は大変教えられました。かつて名著「どこ愛」(「あなたはどこに愛を探していますか?」)で教えられて以来の真理発見。特に女性のロマンス小説が男性のAVに相当するという点には、目から鱗です。以下にコメントを転載します。

 神学院で、霊的成長担当教授(男性)が、結婚カウンセリング担当教授(女性)に、男性にとってのアダルト・ビデオ同様に、女性にとって罠となるのは何かと尋ねたそうです。その答は「ロマンス小説」でした。

 ロマンチックであることは、女性にとっては大事な要素かもしれませんが、アダルト・ビデオが幻想であるように、ロマンチックな在り方も幻想である部分が強いと思います。

 また、ロマンスを演出することに長けた男性が、必ずしも誠実で心配りのある男性ということではないことを思うと、ロマンスを結婚を考える要素にすることは、ただの感性偏重の在り方であって、女性の理解のためには重要な要素であっても、女性自身が結婚を考えるにあたっては、除外するべき要素であると考えます。

 以上です。この見解も男性目線の偏見として、「地雷踏み」なのでしょうか?私としては大いに納得ですね。ロマンスを「除外すべき要素」とまで言い切る細木氏は、私以上に勇気がありますね。

 この見解が正しいと仮定すれば・・・・・。

ロマンスを捨てて、現実の結婚に向かおう。
恋愛志向をやめて、結婚志向でいきましょう。
王子様待望を止めて、身近な男性に目を向けよう。
ロマンス派男性より、無粋でも誠実な男性。

ロマンスは結婚促進剤でなく結婚抑制剤
ロマンスを待ち続ける時間だけ、結婚の時期は遅れる。
ロマンスを追いかけると、結婚は逃げていく
ロマンスは幻想と悟る者こそ、結婚準備完了者

「ロマンスはいらない、幸せな結婚生活が欲しい」と願うあなたになりなさい
「ロマンスを選ぶか、現実の結婚を選ぶか?」正しい選択ができる女性に成長しなさい。
ロマンスを捨てる苦痛こそ結婚準備の成長痛

 こうした幻想ぶち壊しの残酷フレーズが連発となるのですが・・・。ロマンスと結婚のこの関係。果たして女性読者の皆さんの評価は如何に?
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 22:22 | comments(10) | trackbacks(0) | - | - |
陣内・紀香の結婚、総合評価は?
 本ブログでは陣内さん側の問題ばかり指摘して、全体的総合的な評価には至りませんでした本件。久保木牧師が、すぐれた情報収集力と的確な分析により総合的な評価をして下さっていますので、ご紹介申し上げます。私自身もこの評価にはなるほど、納得で賛同です。

「浮気予防薬(応用編)」
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/58952797.html

「浮気予防薬(その1)」
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/58937745.html#58937745
「浮気予防薬(その2)」
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/58946615.html
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 14:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
ロック・ミュージシャン名言集(2)
「結婚が愛の最終目的だとは思っていない。むしろ結婚など時代遅れの形式だと思う。人がお互いに愛し合っていれば、宗教的、あるいは法律的契約などはいらいないはずだ。」(ジョン・レノン)

 ジョン・レノンらしい理想主義的な言葉だと思います。契約なしに男女が愛し合い続けられるそうした愛が、存在すると彼は考え、追求していたのでしょう。

 川内康範は母親から「無償の愛」を受け、それを教えられ、「おふくろさん」を作詞しました。ジョン・レノンは母からも父からも正常な愛を受けられず、その痛みが治療で表面化した時、「マザー」を歌ったようです。

 多くの男性は母から受けた愛を、異性に求めているように思います。しかし、彼女も妻も母ではありません。自分と同じ愛においても不完全な罪人です。結局、その期待は破綻し、子どものように母の愛を異性に要求するのではなく、大人として責任をもって愛し合うように成長するのだと思います。その責任が契約関係なのでしょう。

 ジョン・レノンはもしかしたら、受けられなかった母の愛を、女性に求め続けた純粋な少年のままだったのかも。結婚という契約がなければ、男女が愛し合っていくことなどできないという罪人としての悲しい現実を認めずに、どこまでも、子どものように現実にはありえない理想の愛を求めていたのかもしれませんね。


 「愛が結婚を持続させるのではなく、結婚制度が愛を持続させる」という趣旨の言葉をボンフェッファーが残しています。

 「お互いが愛し合っていれば契約はいらない」という言葉は「相手を思いやる気持ちがあれば、交通ルールはいらない」という発言と同じくらい非現実的に私には思えます。

 交通ルールがあって初めて思いやりの気持ちは現実化します。同じように結婚という契約があって初めて、愛の乏しい私たちも伴侶を愛し続けていくことができるのでしょう

 権威や秩序や形式のない愛と自由と平和は、はかない幻想。ラブ&ピース幻想はもう30年以上前にウッドストックで崩壊しているはず。人間が罪人であるという事実を排した理想のはかなさは既に実証済みなのでは?

 傷ついた純粋な少年のような理想主義の叫びは、ロックの魅力の一つでしょう。冒頭の言葉はロックとしては名言。まさにロックの美学です。でも、美学によって男女の愛は成長しないし、現実に愛の幸福には生きられないでしょう。

ロックがもたらす幻想の美学は魅力的。でも、聖書が示す現実的な結婚愛こそ確実な幸せへの一本道。
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 08:53 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
本ブログがまたまた縁結び?
 先日、ある方からお礼をいただきました。私がある場所で配布した小さないのちを守る会の機関紙「ぷろらいふ」の記事がきっかけとなり、結婚に導かれたというのです

 その記事は「恋愛の後出しじゃんけん」についての記事。お礼をいただいたのはひとりのクリスチャン男性。実は、今、婚約中の女性は、この記事を読んで、「後出しジャンケンはいけない」と思い、彼にはっきりと好意を伝えたとか。そうです。記事の通り勝負に出たのです。その結果が、来春の結婚! 

 その記事の元となったのは本ブログの2007年4月12日の記事。関心のある方はこちら→http://blog.chiisana.org/?day=20070412
この記事から、恋愛後出しじゃんけんのシリーズも始まっています。

 恋愛は勝負。勝って結婚に至るか、負けて次の導きを求めるか?いずれにせよ、明らかなことは「勝負をしなければ勝てない」ということです。

 本ブログが縁結びブログ?になることを願いつつ。
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 10:32 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
当世結婚事情に突っ込み!(3)
 これまた、最近あるクリスチャン女性からお聞きしたお話し。高校の同窓会でのこと。同級生の女性の一人は現在同棲中。結婚したいと願っているのですが、男性の方がなかなか決断してくれない状態だとか。

 「結婚したいなー」と訴える彼女に、同じく同棲を経て結婚した別の女性がアドバイス。

 「赤ちゃん作っちゃいなよー

 結婚を願うその女性は、「そうしよう!」と応答していたとか。

 これを聞いたクリスチャン女性が、心を痛めたのは言うまでもありません。

 「あかちゃんできたから結婚できた」
 「あなたのいのちが私たちを結びつけた」
 「あなたが私たちを結婚に導いた小さな天使」
 
 どんなに美しい言葉を使っても、事実は子どものいのちを利用して、自らの結婚願望を実現させたのには変りはありません。

 ヤンキー牧師的には、こう申し上げたい。
「この子のいのちの意味は、男の引止め役かい!」
「自分の要求実現のために子どもを利用するとは、母親としてスタートから最悪じゃないのかよ?!」


 同棲とは、男性にとってはすべてしたいことをできてしまう反面、結婚の責任や煩雑さや拘束力のない実に快適な生活形態です。あえて、結婚に踏み切る理由はあまりありません。当初は結婚を前提の同棲も、男性の場合には相手に性的なマンネリを感じて、気がすすまなくなる場合も。

 そう考えると同棲とは、女性には圧倒的に不利な生活形態です。そこで、形勢不利の中で一発逆転が狙える方法のひとつが「妊娠させた責任をとらせる結婚」なのでしょう。

 それは、子どもの尊い命に対しての侮辱ではないでしょうか?
そして、もう一つ、同棲相手の男性が結婚しない、できないと応答したらどうでしょう。妊娠を告げた時、こう言われたらどうなるでしょう?

「実は他に好きな女性ができた。結婚できない」
「会社が倒産する予定。結婚して子どもを育てる自信がない

 こうした展開となれば、授けられた尊いいのちに対して責任を取るのは彼の方だけではなくなります。結婚という形での責任は取りえません。その時、女性はどうするのでしょう?

 結婚のために利用しようとしたいのちは、次には利用価値がなくなれば、闇に葬るのでしょうか?

 いのちの手段化、いのちを利用するとは、いのちに対しての最大の冒涜であることを覚えなくてはなりません。

 「結婚したければ、赤ちゃん作っちゃえばー」

それは、あまりに恐ろしいいのちへの冒涜の言葉だと思います。
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 07:54 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
当世結婚事情に突っ込み!(2)
 今回の突っ込みは「結婚というバンジージャンプができないのは半人前だからじゃないのかよ?!」という手厳しいもの。

いきなり暴論。「結婚とはバンジージャンプである。」もう、恋愛はしない、浮気はしない、生涯この人と心も体も一つとして共に人生をきるという決断。後戻りできない自己犠牲的な愛の決心!これはある意味、かなりの無謀さか、勢いか、勇気が必要。間違っても、自己中心的な恋愛感情だけでは無理。

 そこで、登場するのが「同棲してから結婚」という時間差攻撃。このシステムは、結婚の持つバンジージャンプ的な恐怖を緩和するためでしょう。日本的に言えば、清水の舞台から飛び降りのを坂道を下る程度の恐怖にレベルダウンをしているのでしょう。

 もちろん、恐怖の緩和などは当人の勝手な都合であり、同棲が結婚のお試しにならず、かえって結婚のマイナスになることは既に何度かこのブログではお伝えしたはず。

 そもそもバンジージャンプはある島の民族が行っていた通過儀礼に由来します。つまり、あれは、成人式のようなもの。あの地面ぎりぎりで止まる落下という危険に向き合う勇気があってこそ、一人前の男性と認められるのです。そしてようやく大人の男性として、社会に受け入れられるのです。

 よくも悪しくも、かつては徴兵制や厳しい新入社員研修などが、通過儀礼的な機能を果たし、男を一人前にしてきました。いまや、徴兵制はなく、企業も人材育成に投資する余裕などなく、男性が一人前になりにくい社会に。

 そんな中で、やはり結婚はバンジージャンプなのかも。自立した人間しか、生涯責任持って一人の異性を愛することはできません。あるいはそうした誓約は半人前にはできないはず。

 同棲を経た結婚の増加には様々な要因があるでしょう。しかし、私はその一つは男女ともが結婚に耐えるだけの成熟ができない家庭や社会になっていることが大きな要因ではないかと思います。さらに言うなら、結婚は自立した両者の契約関係との認識もないからでしょう。

 そう考えると、同棲を経ない結婚は、現代の通過儀礼、バンジージャンプであり、それが決断できる男女は、一人前であることをある程度、表現しているのかもしれません。

 「同棲してから結婚」と考える皆さん!それは単なるリスク回避なのか?それとも勇気と責任ある愛の決断ができない未熟さに由来するのか?一度、お考えになってみては?
| ヤンキー牧師 | 聖書的結婚観と今どきの結婚観 | 07:54 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
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