命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
ノンクリスチャンからの相談に学ぶ〜「塩気なき塩」問題
 前回、好評だったので、続編です。本ブログの読者にはノンクリスチャンも少なくありません。そして、実はクリスチャンの性や恋愛のあり方で逆にノンクリスチャンが困ったり、疑問を感じて相談をいただくというトホホなケースも。

 是非ともそうした相談を読んでクリスチャンの皆さんに現状を知っていただき、問題意識を高めていただきたいと願ってのこの企画。

 以下はクリスチャン男子大学生と交際中のノンクリスチャンの娘さんを持つ母親(ノンクリスチャン)からの相談。太字は私が編集したものです。もちろん、相談者の許可をいただき、なおかつ個人が特定できないように一部編集しての転載です。


 「先生のブログを偶然見つけ読ませて頂きました。宗教的な生活をしておりません私にとりましては教えて頂くことも多く楽しみにさせて頂いております。さて、ご相談と言うほどでもないのですが・・・
私どもには高校生の娘が居ります。娘には何年かお付き合いをしている大学生のボーイフレンドがいまして、男女交際に関しまして少々悩んでおります。
 
 ボーイフレンドはクリスチャンのご両親から愛情たっぷりに育てられ、本当に良い坊ちゃんで、ほとんど毎週ご家族で教会に通っていらっしゃるようです。ご両親は社会的にも尊敬されるお仕事をされていますし、教会でもご尽力されていらっしゃるようで。クリスチャンでもない私たちにも娘にも本当によくしてくださいます。娘は教会に行く習慣が無く育っておりますので、ボーイフレンドから誘って頂いているようですがなかなかご一緒できないようです。

 伺いたいことは、もし、このまま二人が「将来を一緒に」と言い出したとすると、私どもは特に問題もなく了承できますが、クリスチャンの先生からご覧になると越えなくてはならない壁がたくさんあるとお思いになりますでしょうか?というより「無理!」と言う事になりますでしょうか?お恥ずかしいのですが二人は性的にも関係があり、私がそれに気付いた時に二人に「娘はまだ高校生だしセックスが必要かどうか考えてほしい。また、今後のこともよく考えて必ず避妊はしてほしい」とだけは伝えました。うまく伝わったかは何とも言えませんが・・・

 ただなんとなく二人はこの先どうなるのかしら・・・と、思っただけで、なるようにしかならないでしょう。それこそご縁というものですから。
逆のパターンのお話は目にするのですが、クリスチャンの男の子とそうでない女の子の組み合わせの場合のアドバイスを頂ければありがたいです。長くなりまして申し訳ありません。どうぞよろしくお願い申し上げます。」


 以上が、相談メールの一部です。こちらこそ申し訳ありませんです。日本のクリスチャンの一人としてお詫び申し上げるしかございません。大切な娘さんがクリスチャン学生とこんな無責任で危険な交際をしているのに、なんと丁寧で謙遜な文面でしょう。クリスチャンや教会を誹謗中傷してもなんらおかしくないでしょうに。立派なノンクリスチャンの母親に迷惑をかけているクリスチャン大学生とその両親というトホホな構造。

 社会的にも立派な地位にあり、教会の中心メンバーである両親、素直に育ち、教会に集う大学生の息子、その息子はガールフレンドと清い交際をして、教会にも誘っていると信じているクリスチャンのご両親。しかし、その裏では、女子高生を妊娠させかねず、ノンクリスチャンの母親を心配させているのです。

 まず、この時点で申し上げたいです。全国の大学生の息子さんが教会に来ており安心しているクリスチャンのご両親の皆さん!他人事ではありません。中心信徒の息子である大学生が忠実に礼拝出席をしているからと安心している全国の牧師夫妻の皆さん!御教会のあの男子学生かもしれませんよ。また、妊娠したら、このクリスチャン両親や所属教会の牧師はどうするのでしょう?

 もし、私が未信者で、この娘さんの父親だったら、ただではすみません。この男子大学生はもちろんのこと両親と牧師に向かって、訴えるでしょう。

 「ご立派なお仕事をされ、毎週教会に行って、これですか?お宅はどういう教育してらっしゃるの?こういうのってキリスト教ではじゃないんですか?そういうことしておいて、娘を教会に誘うって、お宅の息子さん、いったいどんな神経ですか?あなた方ちゃんと息子さんに聖書を教えてきたんですか?

 牧師先生、あなた信徒に教育してるんですか?これじゃあ、クリスチャンでない大学生と何が違うんですか?相手がクリスチャンだから清い交際をしていると安心していたら、何ですか?AERAで読んだんですけど、最近は牧師さんも性犯罪者多いらしいですな。キリスト教会全体がおかしいんと違いますか?神様が本当に悔改めて欲しいと願っているのは未信者でなくて、教会の方じゃないんですか?

 教会は本当の愛を教えるところじゃないんですか?うちの娘にしたことはなんですか?キリスト教は清く正しい立派な宗教だと思ってましたけど、これが教会の実態なら、うちは一生仏教徒でいきます。絶対、教会なんか行きませんから!」

 
 めちゃめちゃ痛いですが、これが教会の外側から、この相談事例を見た場合のクリスチャンホームと牧師、教会への当然の評価ではないでしょうか?私が未信者の父親なら、大声で机を叩いて鬼の形相でこう訴えるでしょう。

 イエス様はクリスチャンに「世の塩」であることを期待しておられます。当時の塩は調味料であるだけでなく防腐剤でした。クリスチャンは世の腐敗を防ぐはずの存在です。それが、世の腐敗に同調してしまうとは・・・・。

 塩気を失った塩については、イエス様はこう評価しておられます。「もう、何の役にも立たず、外に捨てられ、人々に踏みつけられるだけです」と。

 量より質です。塩の量より塩の質。1%打破よりも1%の本物化。役立たずで捨てられ踏みつけられる塩気なき塩、腐ってしまい売り物にならず捨てられる教会教育やクリスチャン家庭教育の不毛は、こうした性といのちの分野に明確に現され、なおかつ、教会の信頼を失墜させ、宣教を決定的に阻みかねません。

 クリスチャン読者の皆さん、所属教会やご家庭はいかでしょうか?塩の役目は不十分でも、せめて善良なノンクリスチャンの親御さんに多大なご心配やご迷惑をおかけすることのない家庭や教会でありたいものです。いいえ、何が何でも地の塩となるクリスチャン学生、クリスチャンホーム子弟を育てたいもの。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 19:22 | - | - | - | - |
ノンクリスチャンからの相談に学ぶ〜「腐った鯛」問題
 本ブログの読者にはノンクリスチャンも少なくありません。そして、実はクリスチャンの性や恋愛のあり方で逆にノンクリスチャンが困ったり、疑問を感じて相談をいただくというトホホなケースも時々あります。

 是非ともそうした相談を読んでクリスチャンの皆さんに現状を知っていただき、問題意識を高めていただきたいと願い、この企画を考えました。連続ではなく単発で記事として記してみたいと思います。もちろん、ノンクリスチャンの相談者に意図を説明しご理解頂き、許可を得た上での転載です。

 以下はクリスチャン女性と結婚を前提に交際中のノンクリスチャン男性からの質問。太字は私が編集したものです。

「突然聞きにくいことなんですが・・・クリスチャンの性についてなのですが、やはりクリスチャンだからといって純潔のままの結婚される方は少ないのが現状なのでしょうか?なぜこの質問をするかと言うと、私自身のことなのですが(ノンクリの私とクリスチャンの彼女)結婚まではお互いのために純潔を守る努力をしているのですが、どうも彼女の行っている教会の方にはそのようなカップルは珍しいという話を聞いたので・・・

  私はそれを聞いて驚いたのと、信仰心も性欲には敵わないというか、信仰心がない私ができることをなぜ信仰を持っている方々が出来ずに、そこは一般的な流れにあわせているのか訳がわからなくなりました。
 また、自身のことを棚に上げて、彼女に「祝福されないSEXはしない方が良いよ。」と言われる方もいるみたいで・・・
ノンクリの私のほうがクリスチャンより聖書を理解しているような(笑)
 その後のことを分かっているからこその経験的なアドバイスなのか、単なるその場はクリスチャンとしての一時的な無責任な発言なのか・・・私自身には判断が付きませんでした。

 私は、自身を応援したいのですが、クリスチャンですら周りに結婚まで純潔を守られる方が少ないことを知った私が「彼女のために我慢してきたけどもういいかな?」と言ってしまったのでなにかアドバイスして頂けないかと思い、実際の現状を聞いてみたいと思い今回の質問をさせて頂きました。別にキリスト教やクリスチャンを批判・非難しているのではないので、きつめの文章になったことを許してください。」

 以上が質問です。
 これは、「聖書の言葉に従ってきたノンクリスチャンを、クリスチャンがくじいている」という構図です。「彼女の信仰を尊重してきた未信者の誠実さクリスチャンたちが台無しにしかけている」という現実です。もし、今後、このノンクリ男性の信仰決心を妨げるげるものがあるとしてたら、それはこの教会における御言葉に従わぬ信仰姿勢や性的罪の横行でしょう。

 私は、この質問に回答する前に、まず、同じクリスチャンの一人として、牧師の一人としてお詫びを申し上げました。当然のことだと思います。こともあろうに聖書の教えに従おうとするノンクリスチャンの脚をクリスチャンが引っ張っているのですから。クリスチャンたち自身が御言葉に従わないばかりか、未信者にまで、そのことで悪影響を及ぼしているのですから。これはもうお粗末過ぎます。平身低頭でお詫びするしかないでしょう。

 「信仰心がない私ができることをなぜ信仰を持っている方々が出来ずに、そこは一般的な流れにあわせているのか訳がわからなくなりました。」とはノンクリスチャンにしてみればそれはその通りでしょう。ノンクリスチャンが相手への真実な愛や誠実さの故に我慢できることを、自制の実を結ぶ聖霊をいただいているクリスチャンがこれほどできなければ、クリスチャンたちの信じている福音自体に疑問が生じるのは当然です。「この世と調子を合わせてはいけません」と聖書は明示しているのに、ここまで「一般的流れにあわせている」なら、クリスチャンたちが「自らの信仰を自らの行動で否定している」と受け取られるわけです。

 「信仰って何?」「教えはよくても従ってないじゃん」「それって意味あるの?」「ノンクリスチャンと何が違うの?」「それなら自分はクリスチャンになろうとは思わない」

 彼女の信仰を尊重し我慢してきた彼、クリスチャンにここまでの躓き与えられながら、なお、非難批判をしない彼は、何と立派なことでしょう。それに比べて、彼女の所属教会とそこに集うクリスチャンたちは何とトホホなことでしょう?

 未信者の読者の皆様には弁明をしておきますが、決して、こうした教会ばかりではありません。どうか、ご安心ください。しかし、こうした教会が少なくないのは現実かと思われます。「クリスチャンが結婚前にそんなことするなんて絶対ありえない!」、「そんなクリスチャンいるの?」と青年たちが思っている教会もあれば、「クリスチャンだって当たり前」「結婚まで我慢できるはずがない」と聖書と正反対確信を持っている若者が多数派という教会もあります。各教会や教団教派によって、実情は恐ろしく違います。私自身もビックリします。しかし、もっとビックリするのは後者のような現実があるのに、牧師や親たちが知らなかったり、知っていても放置していること、さらにその結果としてクリスチャンホームに重大な問題が起こっても自らの責任として受け止めようとしないとです。


 教団教派に関係なく、恋愛や性をタブー視してしまい、中高生や青年期に聖書から真剣に教えていく積み上げを怠るなら、こうした教会になりやすいですし、実際になっている教会があります。

 まさに「祝福されないセックス」をして、悔改めもないまま結婚し、クリスチャン夫婦が祝福されず、信頼しあえない両親夫婦の下で子どもが犠牲になっている事例は少なくありません。実は、中高生から青年期にかけて恋愛や性の指導が、クリスチャンホーム形成と子どもの信仰継承にかなり大きな影響を及ぼすことが理解されていないようで残念です。

 時に真理を知っていると主張するクリスチャンより、教会の現実を客観視するノンクリスチャンの方が、問題の本質が見えるものです。謙虚に、ノンクリスチャンの声に耳を傾けることで、教会は自らの独りよがりや逸脱、問題直視を避ける誘惑から守られるのではないでしょうか?

 「腐っても鯛と言いますが、腐った鯛ほどやっかいなものはない」という趣旨の発言をある著名牧師がしておられます。教会は神ご自身のいのちが捧げられていますから、魚で言えば、「」です。しかし、そこに、神のいのちがなければ、それに伴うはずの性的な聖さがなければ、それは「腐った鯛」となり、その評価と商品価値は激変。むしろ「鯛でなくだったらよかったのに」という反応も。食卓に出てきたそんな鯛を食べるでしょうか?お客さんは、お金を払って買うでしょうか?魚屋の店主は生ゴミとして廃棄しないでしょうか?

 クリスチャン読者の皆さんが集う教会はいかがでしょうか?御言葉に従い、性的聖さを願い、神のいのちある「活きのいい鯛」であることを願ってやみません。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 11:12 | - | - | - | - |
「都合のいい女化情報網にひっかかるなよ!
 今週の木曜は、東京で催されたキリスト教性教育研究会に出席。発題はファミリー・フォーラム代表のコール先生。具体的な内容をお知らせすることはひかえますが、実に優れた内容で教えられることばかりでした。

 その中で、興味深いお話を一つ。コール先生が女子大で性について講演。講演後、女子大生たちからは、彼氏から性関係を求められた場合について三つの質問を受けたそうです。それは・・・・

(1)断っていいのですか
(2)男の人は結婚まで待てるのですか?
(3)コール先生は待つことができたのですか

 (1)には「断っていいのです。自分を大切にしましょう」
 (2)には「待つことできます
 (3)には「はい、待ちました」とコール先生は回答されたとか。

 これを聞いて学生たちは安心し、希望をもったようです。

 私は思います。逆に言えば次のような三つの嘘が蔓延し、若い女性たちは信じてしまっているのでしょう。

(1)男性からの性関係の求めを断ってはならない
   それは愛に応答しないことを意味する。
(2)実際に、男性が結婚まで待つことは不可能である。
(3)結婚まで待った男性など存在しない

 何と男性によって都合のよい嘘でしょう!そして何と女性にとって不利益をもたらす嘘でしょう。

 この日本にはこうした男性本意で「都合のいい女」をつくる情報がはりめぐらされているようです。私はそれを「都合のいい女化情報網」と呼びたいです。一人でも多くの女性に本当の事を知っていただき、この情報網にかかって男に都合よく扱われて泣く女性が減る事を願って止みません。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 21:02 | - | - | - | - |
VERVALの人生相談〜牧師のような芸能人と芸能人のような牧師?
 以前、テレビを観ていたら、ドン小西なる人物が登場。この方はどうも日本を代表するファッション評論家らしいですね。少し辛口なところもあるようです。このドン小西がファッションセンスのよい芸能人のトップに挙げたのが、M-floのVERBAL。(パワー・フォー・リビングのCMに登場しましたら教会外の方もクリスチャンとの認識はそれなりにあるのでは?)。

 ドン・小西氏の評価によれば「そのファッションは極めて独創的である」とのこと。その独創性は彼の信仰に根ざしているのかもしれません。ドン・小西氏に日本一と評されるファッションセンスの持ち主であるクリスチャンアーチスト、VERBALが「百万人の福音」では「人生相談」を連載しているのを今頃になって知りました。

 12月号に登場する相談者は35歳のクリスチャン女性、「教会に男性が少なく出会いがない、どうすればいいのか?」との内容。これに対してのVERBAL返答は極めて正論。聖書的でしかも現実的、なおかつ堅実。「なぜ、出会いがないのか考えてみては?」との本質を突く提案。交わりへの積極的参加、婚活中だからといって演技をしないこと。自分を磨きながら出会いの場を作る努力をしながら待ってはとの提案。素晴らしいです!
 
 極めつけは、「結婚相手に願うこと(WANT)を紙に書き出そう」という提案。意外と神様に本音を言っていない女性が多いからというもの。これは鋭い!神様にまで建前を申し上げているので、自分が見えないし、自分の課題や結婚への障害も自覚できないのでしょう。神様の前に本当の自分で出ていないからです。それで、WANTを自覚できず、最終的には本当のNEEDも分からなくさせませす。そのため、的外れな理想を追い求めて時間を浪費してしまうのでしょう。

 VERBALは言います。「WANTを知らないと、自分のNEEDに気づくこともできません」「WANTはすべて叶えられるわけではありませんが、神様はNEEDには必ずこたえてくださる方」と。

 聖句の引用はゼロ、「神様」という言葉もほとんど出てきません。なのに聖書的正論、しかも観念論に終始しません。「祈りましょう」の信仰的雰囲気で、終わりません。聖書の教えや信仰を、現実現場に適用させる具体性ある知恵に満ちた回答です。もしかしたら、私自身を含めて牧師先生方がVERBALのこの回答に学ぶ必要があるのでは?とさえ思いました。

 そこで、他誌といいますか、ライバル誌とも言える「リバイバル・ジャパン」で、同様にクリスチャン女性の婚活問題を扱い連載している自分を省みてしまいました。

「牧師である自分よりVERBALの方が牧師みたいじゃん」

 聖書を引用しながらも、受け狙い、お笑い路線。自分の方が、牧師らしくなく芸能人化しているように思えました。VERBALが牧師のような芸能人なら、自らは芸能人のような牧師

 ここは謙虚にVERBALに学ばなくては・・・・・。VERBALの回答、侮りがたし。もしかすると、信徒に恋愛結婚の相談をされた時の模範解答なのかもしれません。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 10:17 | - | - | - | - |
愛の真実度>愛の実感度
 昨日は、クリスチャンを中心とした大学生たちにお話し。クリスチャンとして歩み出したばかりの大学生たちにとって、問題になることの一つは、ノンクリの彼氏彼女との関係

 残念ながら、ノンクリの彼氏に信仰を反対されて、「イエス様を心では信じてはいるけど」と言いながら教会生活やクリスチャン学生の集いから離れてしまう女子大生たちも。
 学生に限らず、「イエス様の愛より彼の愛のほうが実感できる」という理由で、教会を離れたり、ノンクリ彼氏の求めに応じて性的過ちを犯すクリスチャン女性たちも。

 私の知る限りではこうしたパターンは男性より女性に多いように観察しています。

 そこで、昨日お話ししたのは「愛の真実度>愛の実感度

 いつものように問いかけます。
 「君の彼氏彼女は、君のために死んでくれるか?来年も再来年もずっと愛し続けてくれるか?絶対に変らない裏切らないと断言できるのか?」

 そうです。彼氏彼女の愛は、「期間限定」「犠牲も限定」「変更・裏切りの可能性込み

 他方に「死んでくれた愛」「いのちの犠牲を支払った愛」「変ることも裏切られることも絶対にない愛」があります。こうした限界だらけの不真実な愛と真実そのものの愛とは本来比較しようもないはず。少し考えてみれば、どちらの愛を優先するか?どちらの愛が自分にとってより大切かは明らかです。

 しかし、一部の女性クリスチャンはそうした理解を一定持ちつつ、彼氏の愛を優先してしまいます。なぜ、後者を捨ててまで、前者をとるのでしょう?その大きな理由の一つは、「実感度」にあります。

 肉体的感覚によって見ること、聞くこと、触れることのできる彼氏彼女の愛は、実感度が高いでしょう。そこには高まる恋愛感情や性的刺激や興奮もあるでしょう。

 確かに神様の愛は、どんなに真実でも、肉体的感覚として、同じような方法で実感することはできません。いいえ、真実な愛だからこそ、そのような方法で実感できないです。

 二つの愛を「実感度」「体感度」で測る時本末転倒がおこってしまうのでしょう?大切なのは「実感度」より「本物度」でしょうが?!

 聖書は、真実の愛について別の方法での実感を私たちに教えます。「私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」とヨハネの手紙第一は記しています。

 つまり神の愛は、イエスキリストという見ることも聞くことも触れることのできる肉体をもって、既に示されているのです。歴史的な事実として、元祖クリスマスの夜に、神の愛は見て聞いて触れる形をとって、この地上に注がれたのです。クリスマスとは彼氏彼女と愛を体感する時ではありません。この神の真実な愛を信仰によって受け止め実感する時でしょう。

 そうです。五感のような肉体的感覚ではなく、「信仰」によって、今日、私たちは受け取るのです。信仰によって受け止めるとき、私たちは2000年前にイエス様に触れた人々と同様に神の愛を実感するのです。いいえ、2000年前にイエス様に触れた人たちでさえ、信仰がなければ、愛を実感できなかったではないですか?

 「聖書における愛の啓示を知る→その愛を信仰により受け止める→真実な愛の実感を伴う」
 ということでしょうか。愛を実感するためには、聖書を読んでいよいよ深く知ること、それを信仰によって受け止めることです。そして、愛を実感したクリスチャンは、当然のごとく神と人を愛する者としてその愛を神と他者へと転化することでしょう。

 直感や感覚が優先され信頼されるこの時代だからこそ、「読む、知る、信じる」という基本を徹底したいものです。それは、信仰の成長全体に有益なだけでなく、彼氏彼女の愛との本末転倒やそれによる教会離れから、新生し歩みだしたばかりのかけがえのない魂を救い出すこととなるでしょう。

 「実感度より本物度」、昨日の奉仕準備の中で与えられたこのフレーズが、若いクリスチャンとその親や指導者の皆さんのお役に立てば、本当にうれしいです。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 09:58 | - | - | - | - |
聖>性(2)
 以前、21世紀日本のヨセフと呼びたいようなクリスチャン男性にお会いしたことがあります。40代後半で教会の役員もしているイケメンクリスチャンです。

 彼は、会社から大変大きな期待と信頼を得ており、単身で海外に赴き、共産圏を含めた諸外国で次々と商談を成立させているのだとか。牧師の話では、以前は複数で送り出していたのですが、彼一人で大丈夫と判断し、信頼をされているということ。

 牧師も周囲も彼のために熱心に祈っています。牧師は「頭がよくてハンサムで本当に心配」と訴えます。言うまでもなく、心配とは、諸外国での交渉時に当たり前のように提供される性的接待

 彼自身の話によれば、海外での商談の際にはほとんど場合、契約相手は女性を一緒に買いにいくように誘うのだとか。断ってもなお、しつこく誘い続けるのだそうです。このことは日本の男性ビジネスマンの多くがこうした接待を受けている事を意味します。

 彼の解説によれば、こうして悪事を共にすることで、仲間意識や引け目を与えて、自分に有利な条件での交渉をしようという魂胆なのだとか。

 彼のお話しで大変、感銘を受けたことがあります。彼は何度断っても性的接待に誘い続ける場合、ある事を明言するのだそうです。するとどの国でも、8,9割は、誘うことを諦めるとのこと。その言葉はたった一言。

 「私は、クリスチャンです

 これは、ほぼ世界共通の性的接待辞退や拒否の言葉のようです。(ただし、多様なクリスチャン、名目上のクリスチャンもおり、常に有効とは限りませんが)

 彼からお聞きしたのですが、そうした性的接待の斡旋を要求する日本人男性は大変多く、現地側では職業別のランキングがあるそうです。それによれば・・・・。

 一位は議員たち。視察旅行中の議員団のセンセイたちが、一番だとか。
 二位は農協。 農協の研修や慰安旅行には、それがオプションツアーということか?
 三位は、学校の教師。よくお聞きする話しです。

 なんともトホホな日本の男性たちです。こうした世界には、地位も教養も関係ないかのよう。

 そんな日本の男性社会にあって、「私はクリスチャンです」と断固誘惑を退ける彼は「私は神に罪を犯すことができましょうか」と言ったヨセフのフォロアーですね。

 性的接待を受けて会社により不利な条件での契約をしない彼なら、単身でも大丈夫と会社も信頼しているのでしょう。彼が、絶大な信頼を得ながら、活躍し、成功を収めているのは、彼の優れた知性や巧みな交渉術だけではありません。

 きっとヨセフ同様「主が共におられる」からでしょう。彼が主の目の前に生きているクリスチャン男性だからでしょう。残念ながら多くの日本人ビジネスマンは、女性の接待を受けて、会社により不利な契約をしているのが現実なのでしょう。

 性的誘惑に打ち勝ち、対等な立場で商談ができる誠実なビジネスマン。21世紀日本のヨセフの「聖>性」に接して、主の御名を心から讃美しました。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 09:27 | - | - | - | - |
聖>性(1)
 シリーズ「性>聖」が好評でしたので、調子に乗って、その反対の企画。聖書を代表する「性>聖」の事例は創世記39章でヨセフがポティファルの妻の性的誘惑を退け続けたケースでしょう。

 私が映画監督なら、ポティファルの妻を演じさせるのは、藤原紀香さんでしょうか?エジプトの侍従長ですから、政府高官。妻は大変な美女と勝手な想像。年上、セレブ、セクシーの三種混合ということで、この配役。

 この強烈な誘惑を退けたヨセフの発言が素晴らしいですね。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」(9節)。

 ヨセフは信頼してくれる主人を裏切る罪深さを語りながらも結論は神に対しての罪だったのです。まだ、旧約聖書も、律法も、モーセ五書すらないのに、結婚の破壊は神に対しての罪と認識していたようです。

 ヨセフ物語のキーワードは「主がヨセフと共におられた」です。「主が共におられる」「自分は主と共に日常を生きている」「自分は主の前に一瞬の例外もなく歩んでいる」そんな自覚が、ヨセフに「聖>性」を実現させたのでしょう。

 ポティファルの妻の要求に応じないという正しい行為によってヨセフは無実の罪で投獄されます。この日本の男性社会、「聖>性」で歩むこ時、不当人事や不当な扱いもあるでしょう。しかし、それさえも主の摂理の御手の中で、やがて益に転じていったことは、多くのクリスチャン男性にとって何と大きな励まし、そして模範であることか!

 クリスチャン男性たるもの、戦いに遭遇し、誘惑に襲われながらも、21世紀日本のヨセフでありたいもの。その場限り、目前の不利益でなく、共に歩んでくださる神に目を向け、不当な扱いさえ最善に転ずる主の摂理の御手を信じて「聖>性」で歩みたいものです。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 10:27 | - | - | - | - |
「性>聖」(3)
 このテーマを考えながら思い浮かんだんのが、20年以上前に読んだ「十字架ととびだしナイフ」。著者であるデヴィッド・ウィルカーソンは、ニューヨークの貧民街で宣教を開始し、暴力団に所属する少年少女たちなどをキリストに導いたアッセンブリーの牧師。彼が始めた麻薬中毒患者に対しての社会回復の働き「ティーンチャレンジ」は大きな実を結び、日本を含めて世界に広がっています。この書物もアメリカではミリオンセラーになり、パットブーンが主演した映画も大ヒットであったとか。

 この著書の中、ウィルカーソン牧師が開いた青年伝道会の中には対立しあう暴力団たちがいくつも出席。ある暴力団のリーダーを含めた数十人がキリストを受け入れるという劇的な実話が登場します。

 その劇的な回心があり、招きに応じて前に出る暴力団の少年たちを妨害したのが一人の少女。本著には以下のような記述が。

 「少女の中の一人が、ブラウスを広げ、裸の胸を見せびらかしながら、近くにいる少年たちにあたりかまわず呼びかけているではないか。『もし、あんたがそこに行ってしまったら、もうこれとお遊びすることはできないわよ』」

 主催者が制止する前に彼女は幾人かの少年を引っ張っていってしまったとか。ウィルカーソン牧師は少女たちは、少年たちが神の愛であっても自分たちの愛から離れるのに嫉妬したのだろうと解釈しています。

 この少女は自分の性を誇示して「性>聖」で数人の少年たちの信仰決心を阻んだということでしょう。

 クリスチャンになる若い魂の中には、性体験がなく、聖さを求め、性的な汚れを嫌悪し、同時に深い内面では葛藤しつつ、キリストを信じる決心をしていく者たちがします。

 しかし、その反対に、空しい性体験を重ねながら、本当の愛を求めて、神の愛に応答する決心をする魂もいます。

 いずれにせよ、男性たちの多くは、本著における「裸の胸」のような誘惑を退けて、キリストの愛に応答する決断をしているのだと思います。きっと女性には別の形での同様な誘惑を退ける必要があるのでしょう。

 20年ぶりに読んでみた「十字架ととびだしナイフ」。
 人が「聖」に応答することを妨げる最大の要因の一つは確かに「性」であろうと深く納得しました。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 11:55 | - | - | - | - |
「性>聖」(2)
 「性>聖」のパターンは聖書にも実例は多々あります。サムソンは「性」が「聖」に先行した代表者。エサウは食欲が長子の権利に優先し、異邦人とさっさと結婚してしまった人物。どうも「食欲」と「性欲」が「神の祝福」に優先してしまう信仰者だったのでしょう。聖書は彼の事を「俗悪な者」と評価しております。
 さて、こうした分かりやすい事例ではなく、今日の記事で取り上げたいのはヘロデ・アンティパス。そうそう、あのバプテスマのヨハネの首をはねさせた権力者であります。

 マルコ6:14以下は、マタイ14章とは異なるニュアンスでヘロデ・アンティパスのヨハネに対する思いが描かれています。ヘロデが兄弟の妻と結婚した不法性を権力も死をも恐れず訴えるヨハネ。きっとヘロデヤの要求なのでしょう、ヨハネを牢獄に入れてしまうヘロデ。しかし、ヘロデヤがヨハネを憎み殺したいと願っていたにもかかわらず、ヘロデはヨハネを保護していました。6章20節によれば、ヘロデは「ヨハネを正しい聖なる人と知って」おり、「ヨハネの話を当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた」からです。

 掟破り、人の道に、神の法に反して、生きている兄弟の妻を娶ったヘロデは、まさに「性」と「聖」の間で葛藤し、いかにもの中途半端状態。しかし、ヘロデヤと娘サロメの策略で、ヘロデは、ヨハネの処刑命令を下さざるを得ないことに。

 その決定打となったのがサロメの踊り。大方の推測ではそれはセクシー系ダンスと言われています。つまり「少女」による「エロダンス」なのです。児童福祉法違反です!何という下品なセレブ母娘であることよ!さらにトホホなのが、義理の娘のエロダンスが受けたからといって上機嫌で「褒美に何でも与えよう」と誓ってしまうヘロデの軽薄さ。

 この瞬間、ヘロデの中で彼の「性」はヨハネの「聖」を大きく上回ってしまったのかも。この件には彼の見栄や体裁、さらには自己保身もあったのでしょうが、「性」という要素も大きなファクターだったのでは?

 聖書は「」に仕えるか「」に仕えるか?「富と神、一字違いで大違い」のように私たちに迫ります。同様に「性を優先するか?」「聖を優先すか?」と迫っているようです。「性と聖、同音異義語で大違い」と言わんばかりです。

 性と聖、いずれを優先させるか?私たちの葛藤であり、弱さであり、同時に神様が最も介入を願う分野でもあるのでしょう。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 22:42 | - | - | - | - |
「性>聖」(1)
 大阪では、何組かの牧師夫妻と大変有意義なお交わりをいただきました。一人の牧師からお聞きしたのですが、イギリスの女性神学者は、人々が福音を信じない最大の要因は「性」であるとの見解を著書にされているとか。その牧師のお話では、それは決して男性だけではないとのこと。女性も同様だとその書物は主張しているそうです。

 「クリスチャンになったら、いろんな女の子とエッチできないんだろ?それなら俺、絶対教会行かない!」

 そんなストレートな言葉はめったに聞きません。しかし、多くの男性はそうした一定の葛藤を経て、あるいはそのことを覚悟の上で信仰決心をするのでしょう。

 「結婚相手だけ」「生涯一人」そうした相互独占的性関係は、そのことのもたらす自由や幸福そして安全を悟らない限りは、時代遅れの極めて不自由な監獄生活のように思えてしまうのでしょう。そして、今日、それは、男性に限らず、性的自由を享受し得る社会の女性には当てはまってしまうのでしょう。

 イエス様の素晴らしさを、かなり知らなければ、真理を大切と考えなければ、「聖>性」とはなかなかならないでしょう。

 現代の世俗化した社会は、性が偶像です。「性が喜びと解放を与え、性によって愛を実感しうる!欲望の正直であれ!我慢したら体にも心にも悪い!」もう、これは立派な宗教ですね。

 もし、この女性の主張が正しいなら、「性>聖」である社会にあっては、「聖>性」であることを伝え、実証し、証しすることが、時代精神の本質を突いた宣教なのかもしれません。
| ヤンキー牧師 | キリスト者としての性を考える | 13:10 | - | - | - | - |
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