命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(5)
 5回目の「後ろ向き名言」は、太宰治の小説「津軽」の主人公、津島修治の言葉

「大人とは、裏切られた青年の姿である」(太宰の小説「津軽」、主人公の言葉)

 この言葉、ただ、「青年の純粋さを失ったのが大人」との否定的な意味だけではないようです。 たとえば、変ることも、裏切ることもない愛を信じて、相手にも自分にも求めるのが青年。そして、相手にも自分にも、そんな愛などない現実のゆえに、何度も裏切られて、人は大人になるという面があるのでしょう。

 「純粋で崇高、でも実現不可能な理想を追求する青年」が、自他共に裏切りを受けた時、その後の歩みは二つの大別されるでしょう。一つは、「思い知らされた現実を全面肯定し、それに自分を合わせて生きる大人」になります。つまり、「理想廃棄の現実妥協路線」です。もう一つは、「思い知らされた現実を出発点にして理想を目指す大人」になります。言い換えれば、「現実出発型理想主義」であります。作者である太宰自身はどうも、前者にも後者にもなれず、自己破綻していったのでしょうか?
 
これを教会編に応用するとこうなります。

大人のキリスト者とは裏切られた青年クリスチャンの姿である」

 「大人」も「青年」も年齢のことではありません。それは、信仰の成熟度を意味します。当然、青年期は聖書的理想に燃える未熟ながらも純粋な信仰理解や信仰姿勢です。そして、大人とは、それが裏切られる経験を通過して、成熟した(しかし、理想破棄をしない)キリスト者であります。

 真面目で熱心な青年期のクリスチャンは、神の無条件の愛、キリスト者の一致などが、ある程度は、教会の交わりやクリスチャン個々に体現されていくとの理想をいだいて、歩んでいます。しかし、残念ながら、その理想が裏切られるような現実を多々見せ付けられていきます。それは、教会の不一致や分裂、偽善的な先輩信徒、クリスチャン夫婦や家庭の破綻状態、信頼していたクリスチャンに発覚する深刻な罪、教職者の不祥事などなどであります。

 こうした理想が裏切られたかのような出来事に直面する中、やはり応答は二つに大別されます。一つは、「思い知らされた現実が信仰に影響し理想あるいは信仰自体を放棄する大人」になります。失望やショックなどの心情は、よく理解できます。教会を離れ、信仰も後退するのも分かります。しかし、極めて残念な出来事の数々は聖書が示す目標や真理自体を否定する十分な根拠でしょうか?

 青年期の信仰状態は、聖書が示す理想や目標を読んではいますが、それとは対照的に極めてトホホな信仰者や教会の罪深さや愚かさを読み取っていません。明らかに文字として記されているのにです!聖書は、教会を離れたくも、信仰を捨てたくなるような残念な信仰者と教会の現実を隠さず、あちらこちらに記しています。

 教会内の分裂、信じがたい深刻な罪、混乱などは、第一コリントに記されています。信仰者夫婦や家庭の破綻はイサク家やダビデ家、祭司エリの息子たちを見れば、聖書はとっくに折り込み済み。教職者の不祥事などは、士師記の後半を読めば、聖書的には想定内

 極めて残念な出来事や現状があったとき、ある青年クリスチャンは理想が破れたことで、自分の信仰が破綻に向かいます。しかし、聖書が示すトホホな現実を前提に持っていれば、自分の理想が一面的で、聖書的でなかったと分かれば、それを乗り越えて行けます。

 それは「えーっ、クリスチャンに、教会にこんなことが!もう嫌になりそう」という反応と「えーっ、クリスチャンに、教会にこんなことが!聖書に書いてある通りの現実だなー」という応答の違いとなるのでしょう。同じようにショックを受け、葛藤するのですが、信仰を弱めて離れそうになる反応と、現実を受け止め対処や克服に向かう応答の違いが起こるのでしょう。

 前述のように信仰の世界にあっても「理想廃棄の現実妥協路線」と「現実出発型理想主義」があるのでしょう。裏切られるような体験の中、前者は青年で成長が止まり、後者は、大人へと成熟するのだと思います。

  「トホホの出来事、ガッカリの現状=聖書が示す想定内

 これは青年期に受けた裏切りを通じてこそ、実体験を伴って悟る聖書の裏向き真理でありましょう。

 「大人のキリスト者とは裏切られた青年クリスチャンの姿である」

 残念ながら時に起こる裏切られ体験を積み重ねながら、信仰を弱め神を離れていくか?信仰を強めて神に向かっていくか?の分岐点は、「聖書をどう読んでいるか?」「教会で聖書がどう語られているか?」にあるように思えてなりません。

 「トホホとガッカリは山ほどある!打ちのめされたり、嫌になりかけもする。だけど、それらは聖書が示す想定内。故に、それらは神の真実さや聖書の真理を一ミリすら揺り動かすことなどない!信仰者の労を空しくする事は微塵もない!」

 そのように、幾多のトホホとガッカリを通過しながらも、自己感情より客観的な神の真実さと聖書の真理に立つのが、「裏切られた青年クリスチャンとしての大人のキリスト者」だと思います。でも、そこに達するまでのプロセスはキツイよなー。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 18:03 | - | - | - | - |
この記事に「いいね」をいただいております。
 一昨日の記事には、「いいね」が集中。24時間以内に「いいね」が二桁になるのは珍しいこと。タブー視されがちの牧師謝儀の問題に切り込んだこと。辛辣だとは思いつつも、背景にある非聖書的思想を信徒と牧師の両者に向けて指摘したことがご支持をいただいたのでしょうか?少なくとも、牧師の賃上げ要求とは別次元の動機での「いいね」でありましょう。 

後ろ向き名言に学ぶ裏向き真理(3)
http://blog.chiisana.org/?eid=1408308
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 09:52 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(4)

 今回の後ろ向き名言震災に際して、お笑いタレントの藤井隆が発した言葉です。

 「頑張るのは僕たちです。
  皆さん元気でいて下さい。」

 既に頑張っている人、もはや頑張りすぎている人、頑張りたくても頑張れない人に対しての「頑張ろう」は励ますべき人を逆に追い詰める残酷な言葉にもなりかねないもの。確かに、頑張るのは支援者、被災者は元気でいればいいのです。これは「がんばらないで」という意味で後ろ向きの大名言でありましょう。

 この名言の聖書バージョンは以下の通り。

 「贖ったのは、私です。
  あなたは平安でいて下さい。」

 「救いを成し遂げたのは私です。
  あなたはただ、信じて下さい。」

 「恵みを与えるのは私です。
  あなたはただ、受け止め応答して下さい。」

 聖書が記している中心は、「人が神に何をしたか」ではなく「神が人に何をされたか」でしょう。
「人が神に対してすること」はいわば、そのリアクション。最高のリアクションは神と民との交わりである礼拝でありましょう。リアクションについては聖書には「励む」「努力する」という言葉はあっても「頑張る」という言葉はありませんね。この名言は、神と人との関係をも想起させるのでは?
 

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 17:09 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(3)
 今回の 「後ろ向き名言」はちょっと長く、意味が深いので、繰り返しお読みください。

 日本には「やりたくない仕事を黙々と毎日こなす人」が一番偉い、という間違った思想があるような気がするのですよ。
 だから「好きなことをやっているんだから、対価は低くても構わないよね!だってその分ほかの人が得られないやりがいがあるんですもの」というインチキがまかりとおる。

 これは、伊藤剛という漫画評論家の言葉だそうです。この言葉の意味は、好きでクリエイティヴな職業に就いている職業人たちが、結果的に認められ高所得となるような仕事ができるようにと願わず、今の自分を合理化している姿勢を批判しているようです。

 これを教会編に応用するとこうなるでしょか?

 日本の信徒には「やりたくない仕事を黙々と毎日こなす人」が一番偉い、という聖書的に間違った思想があるような気がするのですよ。
 だから「牧師好きなことをやっているんだから、対価は低くても構わないよね!だってその分ほかの人が得られないやりがいがあるんですもの」というインチキがまかりとおる。

 これは牧師の低収入を不当に合理化するインチキなわけです。牧師によりますが、必ずしもやりたくてやっているのではありません。神様に召されたからさせていただいているのです。やりたくてやっているなら、嫌になったら、辞めてよいことになります。多くの牧師が嫌になっても辞めないのは召しだからです。少なくない数の牧師たちは、ある意味、やりたくない仕事を黙々と毎日こなしているのです。その面では信徒と同じなのです。

 また、使命に励みながら、無力感や虚無感を覚えている牧師は少なくないようです。職業にやりがいを感じられなくなる葛藤や苦しみ信徒も牧師も違いはありません。
 
 さらには、すべての職業は、神からの召しへの応答です。職業自体に聖と俗はありません。すべて聖職です。神様は義なる方ですから、労働への正当な対価が支払われることがみこころです。

 以上のような理由により、「牧師好きなことをやっているんだから、対価は低くても構わないよね!だってその分ほかの人が得られないやりがいがあるんですもの」というのは、聖書的には全くのインチキだと私は思います。これが教会でまかり通ったら、神様もお悲しみになるに違いありません。これはあくまで、私見ですが、地方公務員並み、あるいは信徒の平均的所得に遠く及ばないとすれば、「十分ではない」と判断するのが、信徒の意識としては正常範囲だと私は思います。

 もちろん、教会の財政上、十分できないことを「インチキ」と言っているのではありません。この点は誤解のないようお願いします。逆に、牧師の給与が結果的に十分でなくても、感謝と喜びをもって信徒が捧げているれば、インチキとは正反対の真実だと思います。

 一方、牧師についての応用はこちら。

 日本の信徒には「やりたくない仕事を黙々と毎日こなす人」が一番偉い、という聖書的に間違った思想があるような気がするのですよ。
 だから「牧師である自分好きなことをやっているんだから、対価は低くても構わないよね!だってその分ほかの人が得られないやりがいがあるんですもの」というインチキがまかりとおる。

 これは牧師が、非聖書的なアマチュアイズムを合理化するインチキなのでは?もし、こういう意識の牧師がおられたら、私などは、「この先生、趣味や自己実現で牧師してるんじゃない?」と失礼ながらその召命観を疑います。それ以前に、職業人クリスチャンとして甘いです。学生気分で牧師をしていただいては困ります。これもまたインチキでありまして、これがまかり通ってしまうと教会はキリストの体ではなくなってしまいます。言うまでもなく、教会は牧師個人の趣味・同好会の場、自己実現劇場と化するわけです。 信徒は愛し仕える目的でなく、その手段となるか、拍手喝さいを求められる劇場の観衆となるのでしょう。

 同じ職業人としては、信徒も牧師も、本質的な部分では大差がないのが、現実であり、また、そう考えるのが聖書的職業観かと思うのです。私自身もそうなのですが、日本のクリスチャンたちは牧師謝礼については、結構「貧しさ=聖=牧師限定の美徳」という非聖書的思想に支配されているのではないでしょうか?また、それ故に牧師や教会の側に、聖書的なプロ意識の欠如や甘えが生じているのではないかと考える私は厳しすぎるでしょうか?

 聖書全体から、「一般の職業は俗で牧師は聖職、それ故に牧師家族清貧に甘んじるべし」との教理は果たして導き出されるのでしょうか?もし、そうでないなら、それぞれの立場で、聖書的価値観にシフトチェンジしたいもの。そしてインチキがあるならそこから脱したいものです。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 17:54 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(2)
 二回目の「後ろ向き名言」はこちら。

 「もちろん、私のことを嫌いな方もいると思います。ひとつだけお願いがあります。私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないで下さい。」

 これは前田敦子の名言らしいです。総選挙でトップになった際に、自分のアンチファンがAKBを離れることのないように願っての名言とのこと。

 これは応答が効きますね。周囲の方々をよくつまづかせているクリスチャンの場合は・・・。

 「もちろん、私のことを嫌いな方もいると思います。ひとつだけお願いがあります。私のことは嫌いでも、イエス・キリストのことは嫌いにならないで下さい。」

 これは一発逆転となるか、「おいおい」と呆れられるかのどちらかでしょう。困ったクリスチャンだけど、本質は真実と受け取られたら前者、自分の問題の合理化と解釈されたら後者になってしまうことでしょう。

 一部信徒に嫌われているとの自覚を持つ牧師の場合の応用例・・・・。

 「もちろん、私のことを嫌いな方もいると思います。ひとつだけお願いがあります。私のことは嫌いでも、この教会のことは嫌いにならないで下さい。」

 これは前田敦子のごとく、自分のアンチファンが教会を離れることのないように願っての名言となるでしょうか?テクニックや駆け引きでなく、心からの声としてこれが言える牧師は立派だと私は思います。

 信徒を自分のファンにするのでなく、キリストのディープなファンにするのが、牧師の使命。時にはアンチファンを作ってでも、言うべき事やるべきことがあるもの。極論すれば、信徒がキリストのファンになってくれるなら、自分のアンチファンになってもいいはず。信徒に好かれたいとの誘惑、信徒に嫌われることを必要以上に恐れることは、多くの牧師が葛藤することでしょう。

 信徒の側としては、牧師は嫌いだけど、教会に留まるというのは、かなりのストレスでありましょう。牧師の著しい欠点や問題ならまだしも、牧師の好き嫌いは、本質的な判断材料ではないはずですから、「牧師のアンチファンにして所属教会のファン」「牧師嫌いで教会大好き」というのは、大人のクリスチャンなら可能なのでは?と妙なことを考えてしまいました。

 はてさて、この前田敦子の後ろ向き名言、応用できる場面は多そうです。しかし、人に嫌われた時の一発逆転となるかどうかは、やってみなけりゃわからないということでしょうか?
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 22:50 | - | - | - | - |
「後ろ向き名言」から学ぶ裏向き真理(1)
 先週、コンビニで面白そうな書物を発見。「勇気をくれる後ろ向き名言」なる書物。いわゆる普通の「名言集」は既に所有しており、説教ネタ、ブログネタ、執筆ネタとして役立てておりますが、この「後ろ向き」とのコンセプトに惹かれて、一読。「これはいける!」と思い500円程度で購入。名言と言っても偉人ではなく、日本の芸能人やスポーツ選手の言葉が多いのも、親しみやすくてよいのです。後ろ向きなので、道徳的で努力を求めるような名言ではないのも、新鮮で魅力的。さらには、それが、一定、聖書が示す真理を想起させることも。

 そんな「後ろ向き名言」が語る内容から、信仰的真理を裏向きで学ぼうというのがこのシリーズであります。一回目はこの名言!

 日本の親は「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは「おまえは人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだ。(作者不明)

 日本のクリスチャンはともすれば前者のような日本的道徳心が、「他者をつまづかせてはいけない」という聖書的責任感に姿を変えて存続しているのは?などと思ってしまいます。つまり、日本的価値観の聖書的転用であります。

 さらにはそれが「こんなことしたら、人をつまずかせるかもしれない」という消極的信仰姿勢や「つまずかせる自分はダメ」との自罰的信仰姿勢にまで、及んでしまうことも。ここまで来ると「つまづかせてならない」は強迫観念となり、信仰的前進と成長を妨げかねません。

 そして、不思議なことに人をつまずかせることを恐れるクリスチャンが、人につまづきやすいように観察します。人をつまずかせてはならないという強い規範を自分が持つと、その規範を他者にも当てはめるようです。すると他者への寛容さが失われ、自分の尺度で相手の言動を評価して、つまづいてしまうわけです。どうも聖書的価値観より、日本的修養主義が根本にあるように思えてなりません。

 こういうクリスチャンは自分にも他者にも厳しく、他者をつまづかせる自分を責め、さらには自分をつまずかせる他者をも責めたり、裁いたり。これではキリストの体の一員として一致や深く親しい交わりは困難でしょう。これは、真面目で熱心、でも狭いタイプのクリスチャンが陥りがちな落とし穴なのでは?

 そこで今回の「後ろ向き名言」のパロディーであります。

 こちらの教会は「人をつまずかせちゃダメですよ」と教えるが、あちらの教会では「おまえは人をつまずかせて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそうだ。(作者不明)

 どちらも聖書的な教えでしょう。前者が自分への責任を求めているのに対して後者は他者への寛容を求めております。ただ、明らかに言える事は、つまずかせないという自分への責任とつまづきを許すという他者への寛容は相反するものではなく、クリスチャンが成熟すれば、両者ともが同時進行的に実現されていくということでしょう。成熟すれば「他者をつまづかせない私」兼「他者につまづかない私」になっていくのが、聖書的かと思います。
 
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 16:29 | - | - | - | - |
「見た、食べた、答えた」のイースター
 カエサル(シーザー)が友人に戦勝を報告する手紙にたった三語を記したのは有名なお話し。それが「来た、見た、勝った」(古典ラテン語では、ウェーニー、ウィーデー、ウィーキーと韻を踏んでるらしいです)。

 復活のイエス様と弟子達が三度目に出会ったヨハネ21章を繰り返し読んでいて、思いついたのが、「来た、見た、勝った」ならぬ「見た、食べた、答えた」であります。これは、ペテロがよみがえりの主から受けた恵みの応答としての三つの動作。そこで、また今年のイースターも、マンネリのスリーポイントメッセージであります。

 見た」は、失望落胆の中で出会ってくださるよみがえりの主の恵みへの応答。
 漁に行く前から失望で、漁をしてなおかつ失望のペテロ。そんな失望落胆の真ん中で、主は出会ってくださる方。夜明けに岸辺に立つ人を見たペテロ。指示通りに右側に網をおろしての大漁。それは、従順に伴う祝福という聖なる成功体験を、想起させたのでは?もしかするとこの時点から既にイエス様は、ペテロに励ましを与えておられたのでは?うーん、それは楽観的過ぎる推測か?
 それにしても,失敗者に対して過去の成功体験を想起させつつ、出会ってくださるなんて、ありがたくて涙が出るわー。ホンマ。

食べた」は、現実的必要を満たしてくださる復活の主の恵みへの応答。
 腹が減っては戦はできぬ。腹ペコ状態で「愛するか?」と問われるのもねー。やっぱり、こういう時は食べなくては。というわけでイエス様は、既に炭火焼のパンと魚を準備。弟子たちの大漁による魚は、補足、おかわりに過ぎなかったようです。超リアルな主のご配慮には脱帽であります。こちらはただ、備えられたものをいただくだけ

答えた」は、愛を確認し、使命を与える生けるキリストからの問い掛けへの応答。
 空腹に必要なのは、食物。挫折した失望者に必要なのは、新たなる使命。その使命スタートの初動エネルギーだったのでは?復活のキリストが確認し、求めるのは、能力や所有、根性でなく、愛。三度問われ、三度答える中で、三度主を否定した心の傷は癒されたのでしょうか。主の言葉に従って大漁を経験したペテロは、今度は、主の言葉に従って行きたくないところへいく使命へとスタート。

 「見た、食べた、答えた」、それは「出会った下さった、備えてくださった、問いかけてくださった」主の恵みへの単純な応答に過ぎません。私が思うに、ペテロの美徳の一つは、こうした「主の恵みに対するおバカなまでの正直な応答」ではないでしょうか?今日も、よみがえりの主が与えてくださる同じ恵みに、お互いは、率直に応答したいと願うわけです。

 今年は、こんな概要の説教を、ただ、論理的にではなく、みずみずしい感動を伴って、臨場感いっぱいに伝えられたらと願っています。とか言いながらも、今年もイースター説教が何とかなりそうで、一安心の私です。

 
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 22:45 | - | - | - | - |
タイタニック、水戸黄門、聖書から考える再臨信仰
 あの人気映画「タイタニック」が3Dとなって上映されるのだとか。今朝のテレビ番組では、監督がインタビューを受けておりました。印象に残ったのは、映画制作が発表されてから起こった周囲の酷評のこと。それは、タイタニック号の映画製作に巨額を投じることの愚かさを指摘するハリウッド関係者からの圧倒的な声。つまり「タイタニック号は沈没するという結末は誰でも知っているのだから、そんな映画・・・」という事前の評価が多かったのだそうです。

 「結末が分かっているストーリーなど誰が観るか?」との事前評価はある意味、当然でしょう。しかし、予想に反してこの映画は世界的に大ヒット。日本では洋画として過去最高の興行成績を上げた映画なのだとか。

 日本でも、あの「水戸黄門」は毎週結末が分かっているのに、大人気長寿番組であったわけです。結末が分かっていても観る価値はあるし、水戸黄門の場合は、分かっているその結末だからこそ観たいという面もあるのでしょう。

 そこで考えたのが聖書のこと。この書物、結末が分かっているのに、毎年ベストセラーであります。(多様な教理があるでしょうが)キリストの再臨と支配、その後の新天新地というプロセスによって被造物すべての救いが完成されて、壮大なストーリー、いいえ、救いの歴史は完結するのです。

 そこで沸き起こる疑問があるのです。それは・・・

クリスチャンは、結末が分かって聖書を読んでいるのか?」

 というもの。

 聖書読者とりわけクリスチャンはこうした、最終的なゴール、人類の歴史の結末、救いの完成を意識して、自らと聖書全体がそこへ向かっているという意識で聖書を読んでいるだろうか?と疑問を持つわけです。映画タイタニックが3Dになってもタイタニックは沈みます。沈没に向かうという前提で観客は映画を見るでしょう。あの印籠シーンに向かうストーリーとして水戸黄門ファンは番組を観ているのです。そのようにクリスチャンは、聖書が描く救いの歴史とその恵みにあずかった自らを「終末=完成」に向かうものとして読んでいるだろうか?

 あたかも現世で自分が充実した人生を送ること、「あの世保険」のごとく「天国行きの切符」を手に安心して暮すことが、信仰生活の中心になっていないでしょうか?タイタニック号が沈没するように、この世界がやがて滅びることを当然の前提として聖書を読み、日々を生きているでしょうか?

 キリストの再臨、それは確かに聖書が示す歴史観です。救いの完成です。しかし、それは観念的な教理ではないはず。100%訪れる現実なのです。「だとしたら、自分はどう今を生きるか?」が問われるのは必然でしょう。

 あのシュバイツァーは、聖書の福音書を研究し、その内容がいかに終末的かを悟った時、医師、オルガニストとしての地位も名声も捨てて、アフリカへ渡ったそうです。彼を偉大な人生に導いたのは、「キリストがやがて来る」という事実でありました。実際に、福音書の中で、再臨は二番目に多く扱われている教理だと組織神学か何かの書物で読んだ記憶があります。

 聖書が再臨を描く理由は、ゴールとしての救いの完成を示し、それを希望の根拠として励ましを与えるため、また、信仰者が持つべき正しい歴史観を提示するためでしょう。しかし、それだけではありません。聖書が再臨を記す理由の一つはこの地上での生きかたを規定するためです。「現世が滅び去るなら、あなたはこの現世をどう生きるか?」を私たちに問いかけるためです。

 次の聖句は、明確に、再臨という事実を、聖く敬虔な者となるモチベーションとして提示しています。

「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(競撻謄3:11)

 ここでの論理はこうなるでしょう。

 「主は再び来られ、被造物は一旦崩壊との前提聖く敬虔なる人生」

 将来に確実に起こる一つの事実が、私たちの地上での生き方全体を変えるはずなのです。聖書の結末を知って、意識していたら、そのような聖書の読み方をして、生き様が変えられるはずなのです。映画タイタニックの観客のように、水戸黄門の視聴者のように、聖書を読めば、そうなるはず。しかし、私などはそうなっていないトホホな自分を反省するばかりです。

 「タイタニック号が沈むなら乗客たちはどう過ごすか?」は「現世という船の沈没が決定しているなら、乗客であるあなたはどう生きるか」に似ています。

 監督はインタビューの最後に語りました。「タイタニックのテーマは、だが、それだけではなく、もテーマなのだ」と。

 このインタビューを聞きながら、キリストの初臨愛の業なら、再臨は私たちの死に関する業であることを改めて覚えさせられました。

 そして、思いました。

「クリスチャンとは、天国行きの汽車の乗客というよりは、沈み行くタイタニック号に乗りながら、いのちが保証されている乗客なのではないか?」と。
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 23:02 | - | - | - | - |
「学校でできることを甲子園でできるかどうか」を考える

 自分のことばかり記していてもつまらないでしょうから、これまでどおりの記事です。

 高校野球をテレビで視聴。勝利監督インタビューで強豪高校の監督が「次の試合は?」と尋ねられ「学校でしていることを甲子園でできるかどうか、それだけです」と即答。

 これは学校での普段の練習とその積み上げによる実力に自信があることの裏返しなのでしょう。逆に言えば、普段学校でできないことを甲子園で期待などしていないということ。

 少年ダビデによる対ゴリアテ戦勝利もこれと同様でしょう。サウル王のインタビューに対するダビデの返答は「職場でしていることを戦場できるかどうか、それだけです」と言っているようなもの。日常での忠実さや訓練の積み上げ、それが「天下分け目の勝負」の勝敗を決めるのでしょう。普段の練習でできないことが、試合でできるはずがないわけです。

 勝利監督インタビューやダビデの大金星から、考え付いたのは、次のような勝利牧師インタビューであります。

 「教会でしていることを証しの場でできるかどうか、それだけです

 これを言えたら、教会教育は大成功なのでは。「カッコえーなー!こんな言葉、一度でいいから言ってみたい」と願っておられる牧師、「そんなの理想論、ありえないでしょー」と突っ込む牧師もおられることでしょう。

 教会生活で訓練された忠実さ、愛の配慮、正直な交わり、キリストに似せられた品性などが、家庭、職場、学校、地域社会でも活かされたら、それは教育としても宣教としても大成功なのでは?礼拝や集会に誘うこと、ツールを用いてのストレートな個人伝道も大切、しかし、最も確実な伝道は「教会内での養いが教会外で活かされること」かと思うのです。

 とは言え、「教会でしていること・証しの場・別世界信徒」、「仕事と信仰は家庭に持ち込まない信徒」「教会教育不要論信徒」「成長拒否症信徒」などの現状に、無力感や敗北感を持っている牧師も多いのがきっと現状でありましょう。

 「教会でしていることを証しの場でする以前にまず、職場、学校でしていることを教会でしてくれ!」と切望する牧師もおられるのでは?「職場学校で遅刻しないのに、なんで礼拝は毎週遅刻なの?」「教会の外では、授業や研修などの教育を受けているのに、なぜ、教会内では受けてくれないの?」「飲み会や合コンは行くのに教会の交わりを避けるというのはどうか」と信徒の現状に葛藤しておられる牧師は少なくないのでしょう。

 「高校球児:学校での練習:甲子園での試合」=「キリスト者:教会生活:教会外での証しの生活」

 そもそも、この前提自体が、成立していないのだと思われます。いいえ、この前提すら伝えられていないこと、あるいは理解できる言葉で伝えられていないこと、さらには分かるように伝えられていても、聴衆に受け止める気がないことが、教会教育と宣教の乏しさや不毛につながってる場合もあるのでしょう。

 神様とその言葉に従いたいと願う読者の皆様は、一度、高校野球を観戦しながら、「高校のグランドは我が教会、甲子園球場は、我が証しの場、家庭、職場、学校、地域社会」と心の中で自らに言い聞かせてみてはどうでしょう?

| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 22:32 | - | - | - | - |
アメリカがジョンレノンなら、日本は?
 野田首相がTPPをビートルズに喩えられたそうな。日本がポールマッカートニーで、アメリカがジョンレノンなのだとか。TPP参加の必然性という趣旨のたとえとしては理解できるのですが・・・。

 そもそも日米関係はポールとジョンほど、対等なパートナーシップや互角のライバル関係であるかどうか?その前提が怪しいように思うのです。

日本はオノ・ヨーコほどのパートナーシップと影響力もないだろうし・・・。 
アメリカがジョンレノンなら、日本はその製品を売る東芝EMIかも。

アメリカがジョン・レノンなら、日本はミックジャガーという程の対抗的存在でもなさそうだし・・・。
まあ、アメリカから牛肉とじゃがいもを輸入するから、「ミック・ジャガー」ならぬ「肉じゃが」でしょう。などというオヤジギャグでオチにしよう。

 今回の野田首相の発言、つっこみどころはどこなんだろう?ビートルズの人間関係についての認識違いなのか?それとも、日米関係についての認識の間違いなのか?
 
| ヤンキー牧師 | 信仰エッセイ | 15:46 | - | - | - | - |
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