命と性の日記〜日々是命、日々是性

水谷潔が書き綴るいのちと性を中心テーマとした論説・コントなどなど。
 目指すはキリスト教界の渋谷陽一+デイブ・スペクター。サブカルチャーの視点から社会事象等を論じます。
建て上げよう!健全教会(1) 救急救命教会?
好評?の健全牧師、健全信徒に続いての新シリーズです。先日の3Rの記事から思いついた教会の課題を三回にわたって記してみます。

というわけで、さっそく第一回目です。キリストの体である教会を「救急救命教会」にしてはなりません。では、「救急救命教会」とは何かと言えば、救急救命、すなわち滅び行く魂の救いを専門とする教会です。もちろん、救霊に熱心なのはよいことです。

 しかし、教会の働きはそれが専門ではありません。キリストの愛はRescue,Raise,Rebuildの”3R”であります。ですから、聖書が示すとおり、教会の働きもこの”三つのR”。端的に言えば「救霊」「教育・訓練」「御言葉に生きる証しの新生活」の三つでしょう。ところが、Rescueのみが教会の働きであるかのように伝道活動とそのためのイベントに励みながら、信徒のRaiseとRebuildについては努力しないばかりかその必要性さえ自覚していないのが、この「救急救命教会」。

 信徒の教育をしたとしても、それは「救われたのは救わんがため」という次の伝道のため。その教育は伝道のための教育に過ぎず、信徒は御言葉に生きる生活への移行は困難に。当然、教会員のRebuildは進行するはずもありません。

 Raiseされることなき信徒たちは、キリストなき以前の価値観の上に、現実の生活を建て上げていきます。それはRebuildではなくReformです。神様の御心は教会員が根本的な価値転換をして、すべての分野において御言葉に従い神を喜ばせる祝福の現実生活をすることです。建物の土台がいったん破壊され、新たな土台が据えられるからRebuildなのです。土台が代えられないなら、それはReform。教会ではクリスチャンらしい振る舞いをしながらも、世俗的あるいは日本古来の価値観の上に家庭生活や職業生活を築き上げていくなら、それは、Rebuildではありません。クリスチャンの「でき婚」「同棲」「不倫」「結婚破綻」などは最も残念な典型でありましょう。

 ところが「救急救命教会」は、信徒のRebuildに関心がないのです。関心があるのは、救霊、教会員の増大。そうした教会では、信徒同士がお互いの結婚生活や職業生活については、尋ねること、分かち合うことが暗黙のタブーとなっています。教会の交わりは「仮面舞踏会」のようで、結婚生活や育児、職業生活での失敗を話したり、葛藤を分かち合い話し合うことなど「してはいけない」というムードに支配されています。

 教会の活動に励むことが教会員のアイデンティティーであり、教会以外の生活において御言葉に従うか否かは重要ではないのです。ひどい場合などは、実生活で神に従っていない罪悪感をかきけすかのように伝道活動に励んだり、実生活での不従順の穴埋めを動機に教会の活動にコミットするクリスチャンもおられるかのように観察します。

 牧師の側も「教会に来て、熱心に奉仕し、献金してくれて、受洗者が増えれば、信徒の現実生活には触れない方がいいか?へたに触れると対立や不調和が生まれるから・・・」と信徒教育や御言葉に従う生活へのチャレンジを避けてしまう誘惑もあるとかないとか・・・。

 救急救命隊員の仕事は激務です。なにせ土曜日や日曜祝日に働いてばかりなのですから。ましてや週日は御言葉に従わぬ生活をしていれば、隊員としての力量が増大するはずもなく、限界が来るのは当然のこと。三年も経過すれば、救命隊員たちは離職するのであります。かくしてクリスチャンの平均寿命は三年。よほど巧みに信徒の目先を変えたり、イベントや行事で追い立てない限りは、救命隊員を大量生産しても、大量離職となるでしょう。

植木等さんではありませんが、「これじゃ(キリストの)体にいいわきゃないよ」です。

 「分かっちゃいるけど止められない」とおっしゃる牧師先生、信徒の皆さん。聖書的でないと分かっているなら、きっぱりと止めましょう。それが聖書信仰ですから。

救急救命教会止めますか?聖書信仰止めますか?」

 そんなラディカルな問いかけをされたら、日本の各地域教会はどう返答するのでしょう?
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 09:13 | - | - | - | - |
キリスト教仏教派?(1)「小乗キリスト教」
 よく指摘されることですが、キリスト教が宣教される前の文化や宗教の枠組みで福音が受容され、その土地に根付いた福音理解によくも悪しくも影響が与えられるようです。それは日本も例外ではないでしょう。どうも日本には「キリスト教仏教派」とも呼ぶべき教派や宗派があるように思うのです。

 その一つが「小乗キリスト教」であります。それは小乗仏教に類似した福音理解と実践に生きる一派であり、日本には普遍的に存在し、地域教会にも、一定人数存在すると思われます。

 もっとも「小乗仏教」という言葉は、大乗仏教からの蔑称であることから現在は用いられず、上座部仏教と呼ぶらしいです。今回は、記事の性質上、マイナス評価である小乗仏教なる文言をあえて使用させていただきますが、詳しくはこちらを。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99

 大雑把に言えば、小乗仏教は個人の修行により自分ひとりが救われる事を目的とする教えです。それに対して大乗仏教は一切衆生の救済を目指します。

 パウロによる同胞のためなら自らがキリストから引き離されて呪われても良いとの過激発言。ソドムとゴモラが滅ぼされぬよう必死にとりなしの祈りを捧げたアブラハム。何より一人をも滅びるのを願われない神様の思いを考えるなら、福音は、強引に仏教の枠組みで分類すれば、「大乗」と言えそうです。(ここでは神学的な深い考察は目的としません)

 ところが、日本の修養主義の枠組みで福音を受け止めているからでしょうか?「小乗キリスト教徒」もちらほらお見かけします。こうした方々はキリスト教は個人主義的宗教だとお考えではないかと心配します。明らかに福音に生きるとは交わりに生きることであり、キリストと教会の交わりに生きることでありましょう。

 しかし、自己と神の関係にのみ生き、修養的発想で自らの聖書理解や霊的ステージを上昇させることに信仰生活の中心をおいている方々が。

 神との個人的関係の確立は大切。でも、他のクリスチャンとの交わりに生きようとしないなら、せっかくの神との関係確立も「信仰の自立」ではなく、「信仰の孤立」。携帯がつながらなければ「圏外孤独」であるように、天国のリハーサルであるキリストを中心としたキリスト者たちの交わりに生きないなら、それはまさに「天外孤独」、「神様と二人ぼっち状態」であります。

 そもそも主日礼拝など、私は「神とその民との交わり」と聖書は位置づけていると考えています。間違っても「私個人が神に礼拝をささげている」のではありません。民の一員として、共同体意識をもって礼拝をささげることを神は願っていると私は考えています。

 どうでしょう?お互いはどの程度、神の民としての意識もって礼拝をささげているでしょうか?使徒信条で「我ら」と告白し、礼拝の祈りの中で「愛する兄弟姉妹と共に」と言葉にしながらも、神の民としての共同体意識はどの程度でしょう?

 小乗キリスト教が先鋭化してしまうと、他者への無関心が起こります。同じ教会のメンバーが来なくても心配しない気がつかない、祈らないし、行動を起こさないなどの「小乗特有の症状?」が出てしまうことも。

 自分が恵まれ、自分が成長することが優先され、そのために他者への愛の配慮などがマイナス作用するなら、無関心で問題も感じないなどは、もう末期症状でありましょう。体の一部が痛んでも、何も感じない鈍感さは、一つの体に属する意識の著しい欠如を意味します。

 どうも修養主義や個人倫理などの枠組みで福音を受容してしまうと、「小乗キリスト教徒」になりやすいもの。実際に個人主義化し、相互不介入の交わりに終始し、神の家族と呼べる交わりを喪失している教会は少なくないでしょう。

 聖書が示す「戒めあい、罪を告白しあう」交わりを著しく失った教会は、どうしても個人の中に罪が隠蔽され、教会は聖さを喪失し世俗化しやすいものです。個人的修養などは、限界があり、そうした歩みを継続すれば必ずその信仰理解や実践には歪みが起こるものです。

 どうしても交わりに生きられない理由のある方まで、問題視しているのではありません。あくまで自己選択的にそうした信仰理解と実践をしているクリスチャンに対しての呼びかけ。

 お互い、小乗キリスト教徒になっていないか?まずはチェック。もし、そうなっていたら、悔改めて、宗旨替えを!聖書が示す神の民としての歩み、交わりに生きる信仰生活にチャレンジしたいものです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 21:05 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(7)
 今回取り上げたいのは「結論先行型クリスチャン」であります。教会は結論先行型クリスチャンを放置してはなりません。祈り励まし、結論を出す前に信仰のチャレンジ、御言葉の実行のできるクリスチャンに育てたいものです。

 以前、あるクリスチャン男性からお聞きしたお話し。工場に勤めるその男性、職場である運動がスタートしました。あることを心がけて、達成して行こうという内容。誠実な彼は、とにかくチャレンジします。全くうまく行きません。しかし、またやってみます。試行錯誤を繰り返しながらも、少しずつ前進していました。

 職場の他の部署に尋ねて見るとみんなが「難しい」「できない」と発言しています。やがて、彼は一つのことに気がつきました。それは「難しい」「できない」と発言している人たちの多くは、実際は「やってない」ということです。つまり、やる前から結論を出してしまい、トライ、チャレンジしていなかったのです。

 彼は自分の試行錯誤を振り返ってこう発言していました。「やってみると難しいとわかる。やってみると何がどう難しいのかわかってくる。では、どうすればよいかと考えてみる。そうした中で自分が成長していく。やがて、少しずつでもできるようになっていく・・・・・」

 「できない、難しいからやらない」ではなく、「でも、やってみよう」から、新たな世界、可能性が開けます。自分も成長します。信仰の世界、クリスチャンの成長の世界も同様ではないでしょうか?イエス様は弟子たちに、現実生活の中でこうした信仰の訓練をされたようですし、神様もクリスチャンたちにこうした御言葉によるチャレンジを与えて成長を願っているはずです。

 ところが、チャレンジする前から「むずかしい」「できない」と先に結論を出し、一歩も踏み出そうとしないクリスチャンたちもちらほら。私はそれを「結論先行型クリスチャン」と呼びたいです。

 「こんなに忙しいのだから、礼拝出席は無理」と、「時間がないから聖書通読はできない」「献金したら生活に困るから喜んでささげられない」「本当に神様を第一にしたら生活できずはずがない」と先に結論を出してしまい、もう、チャレンジしないことに決めてしまっているクリスチャン。

 「チャレンジしてできなかった」は成長と可能性のある世界です。「チャレンジしないことに決めている」とは成長も可能性もありえない世界に自分を置くことです。そもそも信仰とは、御言葉の約束を信じて、結果を恐れず、御言葉に従い実行すること。結論先行は、最も信仰の世界に反することでしょう。

 性、恋愛、結婚の世界でもそうした発言は珍しくありません。「今どき、結婚まで純潔を守れるわけがない」と決め付けているクリスチャン青年、「この男女比ではクリスチャン男性と結婚できるはずがない」と信じ込んでいる結婚希望のクリスチャン女性、「キリストが教会を愛したように自分は妻を愛せない」と結論を出してしまっている夫、「こんな夫に従うのは無理」と逆決心をした妻など・・・。

すべて「むずかしい」「できない」と結論を先行させれば、それによって信仰の葛藤も従順に伴う苦しみも回避できます。そうした信仰スタイルを確立していまいその殻に閉じこもることには、ある意味での安全と快適があります。

 しかし、そこにはクリスチャンとしての本来の喜びも、信仰の世界が持つダイナミックな躍動も、いきいきとしたクリスチャンライフもないでしょう。

 もちろん、誰にでも、結論を先行させ、楽をしたい誘惑はあるものでしょう。しかし、神様は聖書を通じて、その誘惑を退けて、苦しみや葛藤を覚悟で御言葉に生きること、主に従う世界へと私たちを招いておられます。それは、私たちを愛するが故の招きであり、間違いなく愛の招きなのです。クリスチャンが願うべきは苦痛なき人生ではなく、追うべき苦しみが実り豊かであるような人生なのでしょう。

 未熟さや信仰的弱さを持ちながらも、お互いが励ましあって、こうした世界に踏み出していくのが、教会という共同体であろうと思うわけです。「難しい」「できない」と先に決めつけチャンレジしない「結論先行型クリスチャン」が「御言葉ですから」「御心ならば」とまずはやってみる「チャンレンジ先行型クリスチャン」に変えられる事を願うばかり。

 
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 08:31 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(6)
 第6回は「ニンニク醤油だれクリスチャン」であります。読者のみなさまにとっては、まったく理解不能のネーミングかと思いますので、以下に長々と説明申し上げます。

 私、以前、ラジオを聞いておりますと。一人の女子高生からの次のようなお便りが読まれたのです。(曖昧な記憶を元に再現してみます)

「先日、混雑する電車に乗っていると、どこからともなく、異様な匂いが・・・。ニンニクの混じった匂いなのです。『こんな混雑する電車の中でなんて非常識!』と腹を立てて周囲を見回しました。どうも、気がついたのは私だけでなく、車両中の人のほとんどが周囲を見回していました。もう、我慢しきれなくなった私は次の駅で、隣の車両に移りました。すると、隣の車両でも同じ強烈な匂いが!やはり、周囲の人もかなり不快な様子。『車両に移っても同じとは、いったい誰が』と怒りは増すばかり。我慢しきれなくなった私は、さらに次の駅で一旦下車をして、プラットフォームで一休みをしました。すると、プラットフォームでも同じニンニクの強烈な匂いが!そこで、あることに気がついたのです。恐る恐る自分のカバンを開けてみると、御弁当の蓋が開いており、から揚げにかけてあったニンニク醤油だれが、全部、こぼれてカバンのそこに広がっていたのです。」

 もう、お分かりだと思います。「ニンニク醤油だれクリスチャン」とは、その不快な悪臭の発生源が自分であることが自覚できず、車両を替るごとく、教会を移動するクリスチャンのことです。いいえ、教会だけではありません。職場や地域社会においても、時には家庭においてさえ、不快さの原因が自分自身であることを認めず、他者に原因があると信じて、自分ではなく、環境を変え続けるクリスチャンのことです。

 指導者と周囲の愛ある信徒たちは、受け入れながらも、愛の故にご自分の問題に気がついてもらえるよう導こうとします。しかし、なかなか手ごわいケースが多いようです。中には「なぜ、この人は自分の罪を認めて、クリスチャンになれたのだろう?」と不思議に思える人さえも。

 自らの罪深さが理解できなければ、神の愛と赦しの深さもわからず、助けようとする周囲の愛も、そんな自分を受け入れてくれた教会の交わりの豊かさもわかりません。それらへの感謝も出て来ません。出てくるのは自己憐憫や他者批判、次には自らの待遇改善や教会への改善要求、最後は教会移動の申し出。その後も当然のごとく、教会を替っても同じことの繰り返し

 こうした自己中心性は病的な場合もあるようですから、純粋に信仰の問題として通常の牧会だけでは、対処しきれないケースもある思われます。また、病的であるかどうかの判断も素人では無理でしょう。本当に困難だと思います。現実にこうした方にふりまわされて疲弊している教職や愛のある信徒の方を拝見すると心が痛みます。こうしたケースからはいよいよ近年、キリスト教会に普及してきた「バウンダリー」という概念の大切さを思わされます。

足元にこぼれているニンニク醤油だれを指差しても認めないクリスチャンたち。「どうすれば健全に育つのでしょうか?」と私に訪ねられても、正直、困ります。少なくとも即効性のある方法や特効薬などはないでしょう。私の力量不足もあり、今回の記事ではここまでに留めておくとしましょう。せめて、今回の記事がそうしたクリスチャンの存在を教会全体の課題として受け止める助けになれば感謝です。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 11:05 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(5)
 第五回としてとりあげたいのが「ムーディークリスチャン」であります。このクリスチャンの行動原則は「ムード」すなわち「外側の雰囲気」に支配され「内面の気分」ですべてを決めてしまうのです。

 こうした「ムーディークリスチャン」たちにとっては、讃美も「ムード歌謡」ならぬ「ムード讃美」。礼拝讃美などもその音楽ジャンルに関係なく、空しいものとなります。「主よ、愛します」と歌っていても、心情的な愛だけで、実際に愛の行動をすることはありません。「主に従う」「この身をささげて」と讃美しても、その歌詞の意味を知的に理解して、自らに当てはめて、葛藤することもありません。歌っている時だけの「従ってます気分」「この身をささげて、なんちゃって献身モード」なのであります。

 音楽は雰囲気、歌詞は主観的気分を形成するだけ。このように「ムーディークリスチャン」には実質的な讃美も、讃美を通じての成長もありません。考え方によっては礼拝してないも同然なのかもしれません。

 これは聖書を読んでも同様のこと。語句の意味を理解したり、何らかの原則や教えを読み取り、生活に適用することはしません。すべては「ムード」ですから、客観性や原則という観念自体が欠如しているようです。聖書に書いてあること、それを通じて伝えられている真理より、自分が感じた印象や沸き起こった感情が、すべてなのです。当然、そこからは聖書から逸脱した独りよがりな信仰が形成されます。でも、それを「自分の信仰」などと称して、擁護します。さらに困ったことに交わりの中での矯正を受けようとしません。

 ですから、説教や学びをしていても、聖書の明らかな真理さえも、自分が御言葉の上に立って主観的に取捨選択します。まさに「右からやってきた御言葉を、僕はそれを左に受け流す」の「ムーディー勝山」状態。これでは「馬の耳に念仏」ならぬ「ムーディークリスチャンの耳に御言葉」であります。

 テレビ画面からは遠ざかり、既に忘れかけられ、思い出すのも難しい「ムーディー勝山」であります。しかし、教会には、「ムーディー鈴木」や「ムーディー山田」そして「ムーディー佐藤」などが、それが洗礼名であるかのように在籍し、礼拝や集会でお会いします。そうした信徒が指導者や周囲のクリスチャンにとっては、頭痛の種であることも。

 しかし、ムーディークリスチャンたちには、特効薬も即効性のある手立てもなさそうです。でも、見捨てず愛し、その悔改め(霊的回れ右)を祈り応援したいものです(まあ、かなり大変でしょうが)。

 同時に、大なり小なり自らの内にある「ムーディー体質」についても向き合い克服したいもの。聖書が明確に示す客観的真理より自分の主観的気分を優先してしまう、外的ムードに内的信仰を支配させてしまうなどは、私たち人間の罪深さの現われの一つに違いありませんから。もっとも、これはポストモダンの時代・社会・世代に顕著だとの指摘がされていますが・・・・。実はムーディー体質の克服が次世代キリスト教界の課題なのかも知れませんね。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 22:15 | - | - | - | - |
育てよう健全信徒(4)
 前回まで、「押尾クリスチャン」、「ゴミ屋敷クリスチャン」「子泣き爺クリスチャン」など、不健全なクリスチャン像を紹介しながらのこのシリーズ。

 四回目に登場するのは「ゆってぃ・クリスチャン」です。まずは、このクリスチャン、「アイドル目指して12年」と自己紹介するお笑い芸人のごとく、可能性のない夢を追い続け、なすべき決断を先送りしています。

 それは「いつかビッグになる」とか「いつか自分の理想ピッタリの伴侶と出会う」とか、周囲から見れば、上からのヴィジョンでなく、自己欲求に過ぎず実現不可能なのは明らかなのに、当人はそれを認めません。なぜでしょう?それを諦めないでいるうちは、現実の自分を認めなくて済むからです。

 「主からの幻の実現を待ち続けている自分」と自分に思い込ませ、人にもそう伝えることで、年齢相応の社会的責任を果たさないことを合理化してしまうのです。社会的責任、それは、本来、夢を断念して、進むべき一市民としての職業生活や結婚だったりするわけです。同時にそれは主にあって果たすべき自分の人生に対しての責任でもあるはずです。

 まあ、こうした独りよがりの夢追いをしながらの成熟拒否体質だけなら、家族以外には大きな迷惑にならないかもしれません。しかし、この体質は信仰的成熟の拒否につながってしまいます。そうすると教会の交わりにも悪い影響を及ぼしかねません。

 自分で失敗をしても、周囲に叱られても、牧師に注意されても、それを自分の罪や肉性の問題と受け取りません。ですから、悔い改めません。当然の結果として、失敗や周囲のアドバイスは成長につながりません。ゆってぃクリスチャンは心の中で、自らの失敗や他者の叱責をこう言って受け止めているようです。

 「ちっちゃなことは気にするなー、それワカチコ・ワカチコ

 本来、気にして、悔改めて成長するべき事柄を、自分が傷つかないように瞬時に変換します。何でも「ワカチコ」とは「若さ・力・根性」なのだとか。自らの若さと力と根性を根拠に、現実を受け止めず、自分の未熟さも改善点も認めず、ありもしない夢を追いながら、結果的に自分を変えようとはしないのです。

 子どもを自立に向けて育てない傾向が強い日本の家庭、「果たすべき責任」より「追い求めるべき夢」を強調するマスコミの声、あるがまま現実の自分を直視する苦しみに耐え切れぬ若者達のメンタリティー。

 ゆってぃクリスチャンを生み出しやすい環境があるのは、事実でしょう。一旦、ゆってぃ状態に陥ってしまうと固定してしまい、修正は困難なようです。しかし、希望を捨ててはなりません。きっと本物のゆっていも、アイドルの夢を捨てて等身大の社会参加をしているのでしょう。そのように、いつか、ゆってぃクリスチャンたちも夢追い状態が破綻し、自己の再構築をする時が来るでしょう。それを祈り待ち望み、その時に、力になってあげましょう。間違っても新たなありもしない夢に向かわせてはなりません。若さと力と根性を主のために用いるようシフトチェンジさせてあげましょう。そうすれば成長拒否体質も改善されるでしょう。

 ゆってぃクリスチャンが増加しつつあるこの日本社会と日本の教会。だからこそ、お互いは「自立に向ける子育てをする家庭」を目指し、「夢より主にある責任」を強調し、「罪深く汚れた自らを直視しうる」子どもや次の世代を、各家庭や教会で育てたいものです。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 10:52 | - | - | - | - |
コリント化やめますか?教会やめますか?(9)「自浄作用喪失!パウロは誰か?」
 コリント教会のように、分裂、性的罪、未熟さ、成長拒否などが容認、放置されてしまうと、末期症状に至ります。それは自浄作用の喪失です。教会内部で「罪を言い表す」「戒めあう」という機能が果たせなくなり、聖さを失ったままで、世に証しも宣教もできなくなります。

 しかし、自浄作用を失ったこんな教会でも神様は見捨てません。コリント教会は「キリストの体」で、教会員は(その人が聖なのではなく、神の所有の民という意味で)「聖徒」なのです。「腐っても鯛」なのです。腐った鯛ほど、証しにならないものはないのですが、鯛というだけで、神様は見捨てないのです。

 神様はパウロを用いて、コリント教会に回復をもたらししました。「現状はどうか?」「何が問題か?」「では、どうすればよいか?」を理念だけでなく具体論を伴って示しています。そして、実行に移させました。断行したようです。きっと、その中には人間的には「非情」「愛がない」との非難を受けかねないこともあったのかも知れません。

 そこで、考えてなくてはならないのが、パウロの権威です。「パウロは何の権威があって、ここまでの強い介入と指導を許可されていたのでしょう?」

 どうも、パウロは特定の地域教会の牧会をしていなかったようです。今日で言えば、宣教師や巡回伝道者のような働きだったのかもしれません。しかし、聖書の記述から推定されるパウロに与えられていた権威は、そうした立場から来るものではおよそないようです。

 当時、パウロは使徒としてのかなりの権限を持っていたのか?今日の教団理事長のような立場だったのか?地域の教会に対して指導的立場にあったのか?それとも一応、コリント教会が自身が、指導をいただくべき地位を与えて承認していたのでしょうか?多分、意見は多様でしょう。ただ、明らかなことはパウロの介入や指導によって、コリント教会は悔改めに導かれ、自浄作用を回復したこと。

 そこで問われるのは、今日、日本において一地域教会が自浄作用を喪失し、罪や分裂の放置が為されている場合、「誰がパウロなのでしょう?」ある教団は、理事会やそうした問題対処のための委員会が機能するのでしょう。地域の超教派の牧師たちが何かを訴えるかもしれません。各個教会主義の団体でも、一定そうした指導力を発揮する機構がある場合も。

 しかし、単立教会や各個教会主義の場合は、自浄作用を失った教会が、一切の介入や指導を拒否するという「教会自治権の乱用」とも言える態度がまかりとおってしまうことも。公同の教会という視点では、決して許可されないはずのことが、起こってしまうことも。

 「誰が今日、パウロの役割を果たすのか?」

 単立教会やカリスマ牧師の権威主義がまかりとおってきた各個教会主義の教会では、誰もパウロの役割を果たせない時に、自らを犠牲にして、その役割を果たそうとする方々がおられます。「これでダメなら教会を去っても仕方ない」との思いで、愛の忠告や健全化のアプローチをされます。

 それは純粋で正義感ある青年信徒、教会を愛し賢明な判断ができる成熟した信徒、あるいは、「イエスマン」ではなく聖書的な判断思考能力を持つ役員達です。

 しかし、残念ながら、そのような真実な努力に応答できない状態に教会が落ちっている場合は、もう、去るしかなくなります。純粋な青年信徒、成熟した信徒、賢明な役員に限って、心を痛めながら、教会を去っていくという残念なケースも時々見てきました。

 また、ある場合はコリント化してしまった教会に仕える比較的若い副牧師や伝道師進退を賭けて、パウロの役目を果たそうとする場合があります。あるいは、前任牧師が作り上げてしまったコリント体質に対して自らが自浄作用を果たそうと辞任覚悟で労していく後継牧師たちがいます。私が存じ上げている40代の牧師たちの中にはこうした方々が多くおられます。中には常に背広の内ポケットに辞表を忍ばせて、教会奉仕をしている牧師もおられるとか。

 教会を去る覚悟で自浄作用を願う信徒たちが払う犠牲も大きなものです。しかし、そうした40代の教職者たちは、さらに生活権がかかっています。子どもが与えられている場合は、子どもたちが傷ついたり、信仰継承に躓く可能性があります。それさえも覚悟して、自浄作用回復や不祥事実解明や教会健全化を願い実行するその真実さを、周囲は気がつかなくてはなりません。教会や団体や地域が、十分自浄作用を果たしえない中で、そうした牧師とその家族を犠牲者にすることは決してあってはならないでしょう。

 にもかかわらず、これまた残念なことにコリント状態継続を願う主任牧師や前任牧師、あるいは役員たちのために、辞任を余儀なくされる場合も、しばしば。こうした経緯を通じて「神が召した後任牧師」「団体の次の世代をになう期待の若手」「キリスト教会の次代のホープ」などを失った教会や団体もあるのでは?

私の観察では、こうしたケースはもちろん一部の教会のことですが、その危険性は決して一部のことではないでしょうし、また比較的大規模な教会や著名牧師が建て上げた教会にそうした傾向が強いようにお見受けします。同様の事例があるたびにキリスト教界の噂や情報になるばかりで、教団教派を超えた共通の課題とされることがあまりないことは、キリスト教界にとっての不幸のように思えてなりません。

 私の尊敬する某牧師も、自浄作用を果たすため、辞任をかけて教会のために労してこられたようです。詳細な経緯は分かりませんが、辞任が近そうなことをブログに記しておられます。詳細不明につき安易な判断はできませんが、結果だけを見れば残念でなりません。そうした教会の内部事情を牧師がブログで一定公けにすることには、私自身も心配をしますし、その是非については意見が分かれるでしょう。

 ただ、「密室ですべてが終結し、将来ある有能な教職者と家族が犠牲になる」(逆に本当の問題は未解決)という構造や事例はもうこれ以上、起こらないで欲しいと願ってやみません。

 この牧師は切迫感や不条理の中で自らの痛みの故に叫んでいるのではなく、きっと日本の諸教会のために、同様の事例が繰り返されないため、あるいは今、その渦中にある教会のために、いいえ、もしかしたら、さらに本質的な問題提起を願ってブログで発信しておられるのだろうと予想しています。

 「今日、誰がパウロなのか?

 お互いの関係する教会において、コリント化し自浄作用を失った教会がある場合、誰が、あるいはどんな組織がコリント教会を再生させたパウロの役割をするのでしょうか?

 コリント教会で起こった問題のすべては今日の日本の教会でも起こりうる問題です。そうした問題があることは残念ですが、避けられません。大切はことは問題の有無ではありません。自浄作用の有無なのです。

 病気になることは避けられません。それは致命的でもありません。しかし、自然治癒力を喪失した肉体は、極めて危険です。

 その教会の生命を救わんとする若き教職とその家族を生贄にしながら、コリント状態を継続する教会が、この日本に一つたりともなくなることを願って止みません。長く続いたコリントシリーズですが、私なりの真摯な願いを込めて完結させていただきます。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 16:10 | - | - | - | - |
コリント化やめますか?教会やめますか?(8)「自覚なきゴミ屋敷状態」
コリント教会が持っていた問題はたくさんあります。キリストより人につく体質、不倫も婚前交渉も当たり前、近親相姦までありの世の中同様の性倫理、すぐ裁判したがる体質、さらには世の身分や格差を教会にまで持ち込み貧しい人を省みない交わり。

 要は、教会の外側の価値観とライフスタイルをそのまま持ち込んでいるのです。新生してからの価値転換がなっていないのでしょう。「心情的クリスチャン」、「観念的信仰姿勢」と呼べるでしょうか。しかも、初歩の教えを後にできないのですから、成長不全でしょう。

 きっと栄養剤のCM的に言えば「救われた恵み一発クリスチャン、ファイト、オー!」で、三年未満で離脱。「救われた喜び初期衝動クリスチャン」で、救いの喜びも三年の賞味期限で終わり。価値転換や聖書的ライフスタイルへの移行を経ながら、キリストの身丈に向けて成長するという展望がきっとなかったのでしょう。ちょっと日本の現状とも共通するのでは?

 とにかく、コリントの問題の多くは、キリストを知る前の価値観やライフスタイルを捨てなかったことにあります。ピリピ3章の中で、パウロはこうしたキリストを知る前にと思えたことをキリストを知った後ではと思うような明確な価値転換を経験しました。パウロは自分の血筋、エリート性、宗教的実績などを「ちりあくた」と表現しました。つまり、「ゴミ」「排泄物」との評価です。ですから、当然、それらを捨てたのです。このことは以下の記事で以前、取り扱いました。

http://blog.chiisana.org/?day=20090821

 捨てるべきゴミを捨てずに、大切にしながら、教会に持ち込んだのが、コリント教会の悲劇。きっと、ゴミだという自覚がなかったのでしょう。おかげで教会は見事にゴミ屋敷と化し、地域には証しにならず、パウロも頭を抱える状態に。コリント教会、それは「自覚なきゴミ屋敷」と呼んでもよかったのでしょう。

 キリストに出会ってゴミと思えるはずのものが、キリストに出会って以降も大切に思えていまうこの悲劇。それは、日本の教会でも起こりうる悲劇。むしろ、ゴミを多く持ち込んだ人が評価され、役員に選出されるケースもあるとかないとか・・・。
 
 お互い気をつけましょう。教会にごみを持ち込んでいないかを。お互いが遣わされている教会をゴミ屋敷に、してはいけません。自覚なしにゴミを持ち込んでいる兄弟姉妹がいたら、祈って導かれた時に愛と柔和な心をもって、お知らせできたら最高ですね。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 08:03 | - | - | - | - |
コリント化やめますか?教会やめますか?(7)「信仰的仮想優越感」
 一般の社会でも最近の若者の気質として「仮想優越感」が話題となりました。具体的な根拠もなく「オレ様以外は全部バカ」「いつか大きなことができる」と考え、現実の自分を認めて社会参加できない若者のメンタリティーを見事に説明した言葉です。

 これは信仰の世界でも起こりうることです。そして、そこに信仰がからむとこの「仮想優越感」はさらにやっかいになります。パウロも随分、苦労したのでしょう。かなりの辛らつな皮肉を込めて、コリント教会員たちの「仮想優越感」を指摘しています。それは、4章前半の以下のような言葉の数々。

 「いったい誰が、あなたを優れた者と認めるのですか?」と、その優越感に、何の客観的根拠もないことを示します。でも、彼らは聖霊の賜物や特別な知識や体験を根拠にしていたのでしょう。しかし、それらは全部神様からの「もらいもの」です。そこで、パウロはその考えを「なぜ、もらっていないかのように誇るのですか?」と正します。

 それでも足りないと思ったのか、パウロはかなり攻撃的、過激なまでに辛らつな皮肉を続けます。
「あなたがたはもう満ち足りている」
「もう、豊かになっている」
「私たち抜きで王様になっている」
「あなたがたは賢い
「あなたがは強い
「あなたがたは栄誉を持っている」

 しかし、ここまで痛烈な皮肉書いておいてパウロはその目的を示します。
「あなた方をはずかしめるためではなく、愛する私の子どもとして、さとすためです」と。

 私はここにパウロの「熱い心と冷めた頭」があるのだと思います。愛する子どもであるコリントの信徒、その末期症状さえ見捨てずに回復を願う熱い愛、しかし、辛らつな皮肉まで言わなくてはならない程、自らを見失っているという冷静な現状分析。一見矛盾するようなパウロの言葉はむしろ、熱い愛と冷めた知性という両者の両立故だったのでしょう。知性を尽くして愛するとは、時にこういう形をとるのかも知れません。

 キリストより人についての分裂分派、初歩教えも後にできない未熟さ、性的罪を放置しているお粗末さ、教会内部で問題解決できない愚かさ。などなど、未熟さ、弱さ、愚かさは明白な現象として現われているにもかかわらず、誇っていたコリントの教会員たち。仮想優越感はここまで、自分を見えなくしてしまうのでしょう。

 多分、仮想優越感の根拠は、神様が下さった賜物、霊的知恵や体験、そして教会の量的成長であったのでしょう。つまり、所有、能力、行動、実績なのです。

 聖霊の賜物を重んずる教会の多くでは、こうした聖霊の賜物に伴う高ぶりの危険性が自覚され警告されているようです。過去の仮想優越感が引き起こした過去の失敗や過ちの反省が活かされているのだと私は思っています。

 では、非聖霊派の教会なら大丈夫かと言えば、やはり別の形で「仮想優越感」は起こります。そして、決まって所有、能力、行動、実績なのです。

 自分が続けきた熱心な奉仕、豊富な聖書知識、忠実な教会生活、多額の献金、一部の教会が持つブランド力、教会の規模の大きさ、そこで仕えて来た著名牧師というレッテル、高学歴でハイソな教会員たち。立派なパイプオルガン、美しく大きな会堂、歴史ある名門教会との外部評価

 私たちの多くは、そうした要素を、まるで「神様からいただいたものでないかのように誇り」やすい、愚かさを持ってはいないでしょうか?

 一方で、教会員個々は神様と御言葉に従う生活をしているか?初歩の教えを後にして成長しているか?兄弟姉妹が愛し合っているか?教会に一致があるか?教会内部で問題を処理できているか?社会的信仰的弱者に愛の配慮はあるか?そうした「コリント基準」は、無意識にも問うことをやめてしまっている、そんな愚かさはないでしょうか?

 こうしたことを見抜いているのは、意外にもベテランクリスチャンやベテラン牧師ではなく、若くて賢明なクリスチャンたちです。彼ら彼女らは心の中でこうつぶやいているかもしれません。

「うちの教会、本質的にコリント教会と同じじゃん」

 逆に「コリント基準」を満たしていながら、規模が小さい、立派な会堂がない、若く無名の牧師だからと、劣等感や低い自己評価を持っている教会も多く残念に思います。既に主が与えておられる素晴らしい教会をもっと喜び、感謝し、主にあって誇っていただきたいもの。

 所有、能力、行動、実績によって、仮想優越感を持ちやすい私たち、同時にパウロが示す「コリント基準」には目を背けやすい私たちです。そして、驚くほど容易に「信仰的仮想優越感」に浸りやすいのが私たち罪人の現実ではないでしょうか?

 「いったい誰が、あなたを優れた者と認めるのですか?」
なぜ、もらっていないかのように誇るのですか?
「あなたがたはもう満ち足りている、豊かになっている、王様になっている」
「あなたがたは賢い強い栄誉を持っている」

 パウロにそこまで言わせないお互いでありたいものです。そこまで言われないと自覚もできないほどの末期症状に教会を陥れてはならない!そのことを切に願います。
| ヤンキー牧師 | 健全信徒・教会・コリント化シリーズ | 11:34 | - | - | - | - |
コリント化やめますか?教会やめますか?(6)「信仰のオタク化」
 コリント教会を大いに混乱させていた要因の一つは、聖霊の賜物の問題でした。とりわけ異言の問題でした。もちろん、聖霊の賜物自体が悪いものというわけではありません。パウロはコリント教会に異言を話す事を勧めていますし、彼自身も異言を語っていると思われる記述があります。

 要は、その使用動機、使用目的に問題があったわけです。愛によって教会の徳を建てるために用いられるべき賜物が、それとは異なる個人的自己実現や自己顕示などの動機で用いられていたようです。

 聖霊の賜物の取得と使用>使用動機としての愛の追求、使用目的としての教会形成

 コリント第一12−14章はこうした本末転倒したコリント教会の現状指摘と共に、あるべき姿を示し、それに向けての方向転換を勧めているのでしょう。

 かつて、アメリカのカルバリーチャペルの創始者であるチャック・スミス師は、カリスマ派の教会に見られるコリント教会同様の本末転倒を悲しみ、それを「カリスマニア」という言葉で表現しました。つまり「カリスマ(聖霊の賜物)」の「マニア」なのです。教会生活の目的が、「神と人を愛し、教会を建て上げる一員として成長すること」ではなく、「自分がいかに多くの賜物を取得し、巧みに用いるか?」となっているわけです。
 
 1970年代に、一部のカリスマ派教会に対して用いられた「カリスマニア」なる用語。これを21世紀の日本のキリスト教会全体に当てはめるなら、「信仰のオタク化」となるのではないでしょうか?

 それは、聖霊の賜物を重んずるいわゆる聖霊派の教会だけではなく、福音派にもリベラル派にも別の形で、日本のキリスト教会全体に見られる傾向です。図式化するとこうなるでしょうか?

 自己充足と個人的自己実現>動機としての愛の追求、目的としての教会形成

 つまり、「クリスチャンである自分が満足すること」や「自分のなりたいような自分になること」が、「神と人を愛すること」や「教会を建て上げる一員として生きること」に優先してしまっているのです。極論すれば、「神より他者より教会より自分を優先していながら、なんの違和感も問題も感じない」のが「オタク化クリスチャン」であります。

 こうした「信仰オタク化クリスチャン」の存在は、本人だけの問題では終わりません。他のクリスチャンと教会全体に、大きな悪影響を及ぼします。多数派の信徒が「カリスマニア」と化し、「信仰オタク化教会」となったコリント教会では以下の様な三つの具体的問題が発生していました。

(1)貧しい人、弱い人への無関心
11章22節によれば、愛餐の際の持ちよりでは、富んでいる者は貧しい兄弟姉妹と分かち合わず、自分たちだけ食べて満足していたという「ありえんだろー!」の「教会内格差社会状態」。
 12章を読むと、「弱い器官」がなくてはならない。「劣った器官」を尊ぶべきとあります。どうも、コリント教会は弱い人や劣った人を、軽視し、感心の対象外においていた可能性が見受けられます。
 また、偶像に備えた肉については、「信仰の弱い人への配慮」が語られていますが、そうした「信仰弱者」への配慮にも欠けていたのでしょう。
 「カリスマニア」の最大の犠牲者は、社会的弱者と信仰的弱者でした。なんと、証しにならない教会であったことでしょう。

(2)新来者・未信者への無関心
 14章23節によれば、どうも公けの集会での異言が新来会者や未信者を躓かせている自覚がなかったようです。伝道対象の立場に身をおく「愛による想像力」「愛の配慮」が恐ろしく欠けていたようです。きっと賜物に熱中して、教会の未信者に無関心だったのでしょう。

(3)教会への無関心
 どうも、コリントの信徒たちには、「教会の徳を建てる」という発想がなかったようです。未熟な信仰者の典型的特長です。「異言」は聖霊の賜物の中でも、個人の徳を建てる性質のものでした。正しく用いないと「オタク系賜物」になりかねないものでした。

 異言という賜物は他者にとっては意味不明なのですから、解き明かしがない限りは他者と教会の徳を建てることはできません。ですから14章では、愛を追求することと、異言より預言を求めることをパウロは勧めています。それは他者に益を与え、教会の徳を建てるからです。そのような成熟したあり方をパウロは願っていたのです。

 この三つの無関心は現在の「信仰オタク化」クリスチャンにも、見られる傾向ではないでしょうか?

 平日に教会で見かけた不登校の子どもに「今日は?学校は?」と問うてしまう大人たち。大人の男性に「お仕事は」と無神経に尋ねる方々。リストラにあった方、ニートの方もいるでしょうに。貧しい方や弱い立場の方の存在すら、頭の中にないのは「オタク的発想」による場合も。

 新来会者の立場を考慮せず、孤立感、疎外感を与えるような、言葉、表現、態度ばかりの配慮のなさ。そうした現状にあるという自覚を持てないのも、躓いた初心者のフォローの必要も覚えないとしたら、それも「オタク的発想」によるのかも。

 自分の快適さ、自分個人の成長にだけ感心があり、助けや支えを必要としてる兄弟姉妹の存在など眼中にないとしたら、それも、「オタク的発想」でしょう。教会に仕え、教会形成に役立ち、教会の交わりを通じて神の栄光を現し、宣教を進めることに関心がないとしたら、それも、「オタク的発想」の現われなのかも?

 不健全なまでに異言にハマり、「カリスマニア」となっていたコリント教会の信徒たち。それを現代日本教会に置き換えるなら、自己実現と自己充足にハマり、「信仰オタク化」しているクリスチャンたちとなるでしょうか。

 コリントも現代日本も「神なき物質的繁栄」の社会でした。そうした社会は似たタイプのクリスチャンを生み出し、そうした構成員での教会にならざるをえません。

 改めて、日本の教会は、コリント教会の社会的背景、問題の本質、パウロが示した回復への指針を聖書に学び、実行にチャレンジする必要があるのではないかと思えてなりません。
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